『爆発する命の力』
エジプトのピラミッドの中で一つの壺が発見され、それがロンドンの博物館に納められました。ところが、ある時、係りの人がその壺を落とし壊してしまいました。すると壊れた壺の中から何か小さなものが出てきたので鑑定に回したところ、なんとそれは何千年も前の小麦の種でした。それからしばらくして、壺の落ちた辺りから小麦が芽を出し大変な話題になりました。その種は何千年も前のものですっかり干からびていましたが、まだ命があったのです。
さて、マタイの福音書の13章31、32節は有名な「からし種の譬え話」ですが、このたとえ話の中には祝福された人生の秘訣があります。イエス様は、福音書の中で神の国の真理を語られるのに、種を何度もたとえに用いておられますが、それは、種には命があるからです。そして、この種とは神の言葉であり、キリストの福音のことです。そこで今回は、このからし種の譬えから、『爆発する命の力』と題して三つのことを考えてみたいと思います。
まず第一は、小さな始まりにも無限の可能性があるのが命の特長だということです。このからし種はクロガラシという種類で、やがて3~4メートルの木に成長します。イエス様は、このからし種の性質を念頭に置きながら、たとえそれがどんなに小さな始まりであっても、そこに神の介入があれば、無限の可能性が広がるのだと教えておられるのです。
神はギデオンの300人の兵隊を用いて13万5000人のミデアン人を倒されました。また神は、250万人のイスラエルの民をエジプトから連れ出すのに、どもりのモーセを用いられました。イエス様は、二匹の魚と五つのパンで5000人を食べさせられました。
一滴の水の中には、嵐があり、波があり、宇宙大の広がりがあります。一人の人の勇気ある言葉が世界を変えます。マッチ一本の火が山を燃やしてしまいます。一粒のからし種にも、無限の可能性がプログラムされています。そのように、神の言葉には命があり、無限の可能性があるのです。
第二は、内に秘められた命の力は引き出される必要があるということです。イエス様は、「ある人がそれを取って畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなる」とおっしゃいました。からし種の中には神から与えられた生命力があるので、その種を畑に蒔けば、芽を出し、成長し、やがて実を結ぶのです。
私たちは誰でも、自分の人生の中で影響を及ぼすことの出来る場所を持っています。たとえば、家族、友人、同僚たちは私たちの影響を及ぼすことの出来る場所です。この人々と接するたびに、私たちは彼らの人生に、聖書の言葉に基づいた言動と行動をもって種を蒔く必要があるのです。そうすれば、その蒔かれた種は、やがて必ず人々の心に大きな影響を与えることになるのです。
第三に、内に秘められた命の力には目的があるということです。32節の最後で、イエス様は「空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」とおっしゃいました。つまり成長するからし種の木は、空の鳥に住家を与え、安息を与え、さらに、その鳥があちこちに種を持ち運び、拡大再生産をするための手伝いをします。
人生は、自分のためだけに生きると空しいものです。イエス様が「受けるよりは与えるほうが幸いである」とおっしゃったように、人間は他者の祝福のために生きるときが一番幸せです。そのためには、私たちは成長しなければなりません。しかし、この類の成長は私たちの努力によってなされるものではないというのが、この譬えから学ぶ教訓です。
この世の原理では、私たちの成長は私たちの努力次第です。ところが神の国の原理は、私たちが御言葉の種を心の畑に植え、水をまくことです。そうすれば、神様が私たちを愛のうちに成長させて下さり、愛を基として、他者のために生きる者とさせて下さるのです。
今日の一言: 御言葉の種には爆発する命の力がる
鶴田健次
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『多くを赦された者は多くを愛する』
ルカの福音書7章36-50節には『罪の女の赦し』と呼ばれる物語が記されています。ルカの福音書の一つの特徴は『愛』です。この世から疎外され、人から相手にもされない人間がキリストの愛によって神のもとに招かれている、そういう愛についてルカは語っています。
まず、この話から教えられる第一のことは、イエス・キリストは人の心を受け止められる方であるということです。乞食、犯罪人、売春婦、収税人など、聖書には、このような世の中では落ちこぼれと言われる人々が登場します。
彼らは苦しんでいました。ところがユダヤ教の指導者であったパリサイ人たちは決して彼らを憐れんだり、彼らに救いの手を差し伸べたりしませんでした。それどころか彼らを『罪人』と呼んでさげすみ、彼らの心の傷に塩をすり込むようなことをしていたのです。
そんなパリサイ人のひとりであったシモンとイエス様が食卓についておられると、突然、ある札付きの売春婦がイエス様に会いにやって来ました。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、泣きながら足下にひざまずきます。そして、涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけをし、その上に高価な香油を塗りました。
この女性は、以前にイエス様との出会いがあったのでしょう。ありのままの自分を受け入れてもらい、また醜い自分の罪を赦してもらい、心から湧き上がる感謝と喜びが力となって、それまでの罪の生活から立ち直ることができたのです。イエス様に愛され、赦され、受け入れられるという経験は人の人生を変えるのです。
次に、ここから学ぶ第二のことは、人には誰でも霊的な負債があるということです。ここでイエス様は、短くて簡単なたとえ話をされます。500デナリと50デナリの借金を帳消しにして貰った人の話です。今で言えば、5万ドルの借金と5千ドルの借金ということです。
当然、5千ドルよりも、5万ドルの借金を帳消しにしてもらった人の方が、金貸しに対する感謝の気持ちも大きいでしょう。イエス様からその事を聞かれると、シモンもそう答えました。しかし、彼は、その事が自分にとってどんな意味を持つのかを解っていませんでした。
ここで言われている5百デナリと50デナリの借金が象徴するのは、自分の罪に対する自覚の大きさです。またここに登場する金貸しは、どんなに大きな罪をも帳消しにして下さる神様のことです。つまり、人は誰でも神様に対して罪という負債を負うており、その罪の負債に本当に気付き、赦しを願うなら、神様はその負債を帳消しにして下さるのです。
しかし、その負債は、本来すべての人が同額であるのに、人によってその額に対する自覚が違うのです。自分の罪の大きさに気付き、その罪を赦して下さる神様の愛を知ることが出来たのは、パリサイ人のシモンではなく、売春婦でした。
この話から学ぶ第三のことは、多くを赦された者は多くを愛するという原理です。イエス様にとって、この女は売春婦というよりも、神の救いに感謝する人でした。イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、パリサイ人だろうが、神様の前に罪という負債を持った者であることに変わりありません。
もし神様がその償いを要求されれば、売春婦も、パリサイ人も裁きを免れることはできないのです。しかし、気前のいい金貸しに象徴される神様は、その途方もない愛と憐れみをもって二人の罪を赦して下さるのですが、その赦された罪の大きさに対する二人の自覚が全く違っていました。そして、その違いがイエス様に対する二人の態度に現われているのです。
イエス様を食事に招いたシモンの態度は冷淡でした。一方、この女はイエス様を愛して止まない行動を取りました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていましたが、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠けることをしていたのです。
この違いは何を表しているのでしょうか。イエス様はこう言われます。
「この女は多くを愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない。」
今日の一言: 多くを赦された者は多くを愛する
鶴田健次
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『土の器の中にある宝』
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである」(IIコリント4:7)
聖書は、私たち人間を『土の器』と呼んでいます。これは、私たちのもろくて壊れやすい性質を表わしている言葉です。誰かが言った一言に、また誰かが取った何気ない態度に一喜一憂してしまう、そんな弱さを人間は持っているものです。
また、『人は土の器である』という人間理解は、自分という土の器の中に何を入れるかで私たちの人生が決まるということを示唆しています。良い考えを入れるか、悪い考えを入れるかで人生は大きく分かれます。どういう人生観、世界観、価値観を入れるかで、人生の進路が決まります。
パウロは、私たちはこの宝を土の器の中に持っていると言いましたが、この『宝』とはイエス・キリストのことです。そして、この宝は、私たちにさまざまな祝福をもたらします。
まず、第一の祝福は永遠の命です。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされ、永遠の天国を相続する特権が与えられます。ですから、生きている間にイエス・キリストという宝をこの土の器の中に持つことは、人生の最重要課題です。もしこの宝によって永遠の命を持つなら、たとえこの世の人生が10年であろうが、30年、60年、100年であろうが、究極的には同じであるという世界がそこに開かれていくのです。
次に、この宝がもたらす第二の祝福は、倒れても立ち上がる人生が与えられるということです。「病床は人間最大の学校である」と言われます。また、「寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る」とはホイットマンの言葉です。
重い病気にかかったりすると、人生が暗いものに思われてきて、何かにつけ悲観的になりやすいものです。私たちは、元気で調子のいい時は、何でも自分の力で出来るような気がしますが、病気になると、別人のように弱気になってしまいます。それが人間の正直な姿です。
ところが、イエス・キリストという宝をこの私という土の器の中に持つとき、絶望と逆境と孤独の中にでも人生の真実を見出し、誰の目にも再起不能としか映らなかった試練の中で立ち上がり、人生の行き詰まりを新しい人生の幕開けとすることができるのです。
最後に、この宝がもたらす第三の祝福は、私たちに人生に対する新しい解釈が与えられるということです。この宝を土の器の中に持つ人生、つまりキリストと共に生きる人生は、問題だらけの世界に住みながら、同時に神の支配に生きる人生です。
ですから、私たちは、四方から患難を受けても窮せず、途方に暮れる事があっても行き詰ることがありません。なぜなら、そこには物事に対する新しい解釈、永遠の視点から見た神の国の解釈が与えられるからです。
星野富弘さんの詩に「つばき」という、こんな詩があります。
木は自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で
精一杯枝を張り、許された高さまで、
一生懸命伸びようとしている
そんな木を、私は友達のように思っている
首から下が全く動かなくなり、自分にではなく神様に望みを置くようになって初めて見えてきた人生に対する新しい解釈です。そして、それを詩に表わすことで、何百万人もの人々に力と勇気と励ましを与える生き方を得たのです。
将棋に勝つのは、将棋の駒が立派だからではなく、差し手が強いからです。たとえ紙でできた将棋の駒でも、将棋の名人は、その駒を使って、誰とどんな勝負をしても必ず勝つのです。
私たちはいわば将棋の駒です。大切なことは、名人である神様の言われるとおりに生きることです。そうすれば必ず勝利が与えられるのです。
今日の一言:この土の器の中に宝がある
鶴田健次
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『主に感謝せよ』
日本が生んだ偉大なキリスト教思想家・内村鑑三は、「いくら理解心が豊かで、熱心な行動をしたとしても、神様に向かって熱い感謝を捧げない人には命のある信仰生活はない」と言いました。
感謝は、神様に信頼することであり、神様を喜ばせ、神様との関係を正しくします。ですから、私たちは神様に感謝をする生活をしなければならないのです。私たちが感謝する時、私たちの心は肯定的になり、心が嬉しく、幸せな思いに浸ることができます。
もし私たちが、“ありがとう”と心から言えれば、私たちの心は温かくなり、気持ちのいいものです。そして、温かい気持ちになれた時は幸せを感じます。ですから、感謝をする機会が増えれば心が温かくなる機会も増えるので、感謝できる事柄を探すことによって幸せを感じる時を増やすことができます。
そこで、感謝の機会を増やすには、感謝をする機会を減らしてしまう要素を知っておくことも大変重要です。なぜなら、それらの要素を知らないために、多くの感謝すべきことを感謝せず、幸せな気分になる機会を逃してしまうからです。
では、感謝をする機会を減らしている要素とは何でしょう。それは、当たり前という捉え方です。「○○して当たり前」、「○○するのが当然」という心があれば、感謝する機会がなくなります。というよりもむしろ、すぐに不平不満を口にするようになります。
例えば、親子関係であれば、「ご飯を作ってくれて当たり前」、「めんどうをみてくれて当たり前」というものがあります。そういう状態は赤ちゃんの時から当たり前のようにあったことなので、その有難さに気付かないのです。
また、私たちの人間関係においても、「連絡をくれて当たり前」、「話を聞いてくれて当たり前」、「私の為にしてくれて当たり前」などと思っていると、人は自分の願いどおりにしてくれるとは限らないので、すぐに不平不満を言うようになります。
職場の人に対しても、友人に対しても、また教会の中でも、このような決して当たり前でない事を当たり前と思っていると、せっかくの感謝の機会を失い、幸せを感じる機会を自分から捨てていることになるのです。
皆さんは如何でしょうか。以前から当たり前のようにあるものが、決して当たり前ではないのだという心で周りを見直してはいかがでしょう。どんな事に関しても、この当たり前という捉え方をしなくなれば、感謝の思いが湧いてきます。
あるクリスチャンの中年のご婦人が、毎朝、「神様、私にこの夫を与えて下さって感謝します」という祈りをするようになってから、自分の心が感謝と喜びに満たされるようになったという証をしておられました。
新婚当初ならばともかく、長年連れ添うと、私たちはそういう感謝の祈りをしなくなります。それどころか、「神様、この妻をもう少し何とかして下さい」とか、「神様、私の夫が、ちゃんと心を入れ替えるようにして下さい」とか、そういう祈りは時どき聞きます。
しかし、「神様、私にこの夫を与えて下さってありがとうございます」「神様、私にこの妻を与えて下さって感謝します」という祈りができれば、それだけで、その人の人生は変わるのではないでしょうか。
クリスチャンの中には、神の子キリストの命が犠牲になって与えられている救いの恵みにすら、あまり感謝をしていない人がおられます。それは明らかに大きな問題です。
私たちの周りには、ちゃんとした心で見さえすれば感謝すべきもので溢れています。感謝すべきものを感謝すべきものとして見れなくなると、喜びのない人生を送ることになります。末期癌の宣告を受けている人が感謝と喜びの生活を送っていて、五体満足な人が不平不満ばかりを言っているとしたら、それは一体どこに問題があるのでしょうか。
生まれつき目の見えない小学生の子供が、こんな作文を書きました。
「もし僕が24時間だけ目が見えるようになったら、まず朝からお昼まで、お母さんのそばにいて、僕にいつも優しくしてくれるお母さんの顔をずっと見ていたい。それから、僕は、家にいる犬と猫を見て、空を飛ぶ鳥を見たい。そして、自動車や飛行機を見て、出来ればきれいな虹を見たい。夜になったら星空をずっと見ていたい。24時間が過ぎたら、また元のように目が見えなくなってもいいから、一日だけでも目が見えるようになりたい。」
この子供のように、ある人にとっては、一日だけ目が見えるようになるということが、残りの生涯をすべて犠牲にしてでもいいからそうありたいと願うほどに重要なことである場合があります。
しかし、その人がそれほどまでに切望することを、私たちは当たり前のように思って生きています。いや、当たり前どころか、しばしば不満さえ口にすることがあります。私たちは一体どこを見ているのでしょうか。
私たちは、もう一度、神様が与えておられるすべてのものに対する認識を新たにし、そのすべてを感謝できるように、心のアジャストメントをしたいと思います。
今日の一言: 私の周りは感謝すべきもので満ちている
鶴田健次
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『多くを赦された者は多くを愛する』
今回はルカの福音書7章に出てくる『罪の女の赦し』の物語を通して考えてみたいと思います。この物語はルカの福音書にだけ出てくるイエス様のお話ですが、ルカの福音書の一つの特徴は『愛』です。
もちろん、どの福音書も『愛』を語りますが、ルカは、特に、この世から疎外され、人から相手にもされない人間が、イエス様の愛によって神のもとに招かれている、そういう愛について語っています。
まず、この物語から教えられる第一のことは、イエス・キリストは人の心を受け取られる方であるということです。乞食、犯罪人、売春婦、収税人・・・、聖書には、このような世の中では落ちこぼれと言われる人々が登場します。
彼らは苦しんでいましたが、ユダヤ教の指導者的な立場にあったパリサイ人たちは決して彼らを憐れんだり、彼らに救いの手を差し伸べたりしませんでした。それどころか彼らを『罪人』と呼んでさげすみ、彼らの心の傷に塩をすり込むようなことをしていました。
そんなパリサイ人シモンとイエス様が食卓についておられると、突然、ある札付きの売春婦がイエス様に会うためにやって来ました。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、泣きながら足下にひざまずきます。そして、その涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけをし、その上に高価な香油を塗りました。
この女性は、以前にイエス様との出会いがあったのでしょう。イエス様からありのままの自分を受け入れてもらい、また醜い自分の罪を赦してもらい、心から湧き上がる感謝と喜びが力となって、その罪の生活から立ち直ることができたのです。イエス様に愛され、赦され、受け入れられるという経験は、人の人生を変えます。
次に、ここから学ぶ第二のことは、人には誰でも霊的な負債があるということです。ここでイエス様は、短くて、簡単なたとえ話をされます。500デナリと50デナリの借金を帳消しにして貰った人の話です。今で言えば、5万ドルの借金と5千ドルの借金ということです。当然、5千ドルよりも、5万ドルの借金を帳消しにしてもらった人の方が、金貸しに対する感謝の気持ちも大きいでしょう。イエス様から聞かれると、シモンもそのように答えました。しかし彼は、そのことが自分にとってどんな意味を持つのかを知りませんでした。
ここで言われている5百デナリと50デナリの借金が象徴するのは、自分の中にある罪の自覚の大きさです。またここに登場する金貸しは、どんなに多額の借金も帳消しにして下さる神様のことです。つまり、人は誰でも神様に対して罪という負債を負うており、その負債に本当に気付くなら、神様はその負債を帳消しにして下さるということです。
しかし、その負債は、本来すべての人が同額であるのに、人によってその額に対する自覚が違うのです。自分の罪の大きさに気付き、その罪を赦して下さる神様の愛を知ることが出来たのは、パリサイ人のシモンではなく、売春婦でした。
この物語から学ぶ第三のことは、多くを赦された者は多くを愛するという法則です。イエス様にとって、この女は売春婦というよりも、神の救いに感謝する人でした。イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、パリサイ人だろうが、神様の前に罪という負債を持った者であることに変わりありません。
もし、神様がその償いを要求されれば、売春婦も、パリサイ人も、永遠の滅びを免れることはできないのです。しかし、気前のいい金貸しに象徴される神様は、その途方もない愛と憐れみをもって二人の罪を赦して下さるのですが、赦された二人の赦された罪に対する自覚が大きく違っていました。そして、その違いがイエス様に対する二人の態度に現われています。
イエス様を食事に招いたシモンの態度は冷淡でした。一方、この女は、イエス様を愛して止まない行動を取りました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていましたが、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠けることをしていたのです。この違いは何を表しているのでしょうか。
イエス様はこう言われます。『この女は多くを愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない』と。 あなたは、どれだけイエス様を愛しておられますか?
今日の一言:多くを赦された者は多くを愛する
鶴田健次
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