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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#383「喜びの処方箋」_convert_20180428032220 


『喜びの処方箋』 



「喜べば 喜び事が 喜んで 喜びつれて 喜びに来る」という格言がありますが、いつも喜んでいる人の所には、喜びが他の喜びを連れてやって来るものです。


しかし、それとは反対に、いつも愚痴を言う人の所には、不平不満が他の不平不満を連れてやって来ます。皆さんは、そんな法則があることをご存知でしょうか。


喜びと愚痴というのは、決して同時にその人の中にとどまることはありません。喜びのある人の心に愚痴がとどまることはできず、愚痴を言う人の心に喜びがとどまることはできません。


喜びのある人生はますます喜びに満たされ、愚痴の多い人生は不平不満から開放されることがありません。ですから、幸せな人生には、喜ぶということが不可欠な要素なのです。


ところが、『喜び』と一言で言っても、喜びにも色んな喜びがあります。オリンピックで金メダルを貰うことも大きな喜びです。学生なら優秀な大学に入ること、また卒業して一流企業に就職することも大きな喜びです。 


しかし、こういう喜びは、自分だけの喜び、また限定された喜びで、同時に、メダルを取れなければ悔しい、入りたい大学に入れなければ、また気に入った会社に就職できなければ悲しいという、条件付きの喜びに過ぎません。


それに対して、聖書は、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と言っています。この「いつも喜ぶ」ということは決して簡単なことではなく、「主にあって喜ぶ」ということが「いつも喜ぶ」ことの鍵です。 


この「主にあって」という言葉は、別の言い方をすれば「主を信じて」ということです。 つまり、どういう現実の中にあっても、神の導きは最善であるという神の約束を信じて、喜びなさいということです。


この喜びが、本物の喜びであり、いつまでも変わることのない普遍的な喜びなのです。それは、自分だけの喜び、また条件付きの喜びではありません。それは、メダルを取れない中にも存在する喜び、希望する大学に入れなくても、希望する会社に就職できなくても失われない喜び、つまり涙の中にも、苦難の中にも、どんな状況の中でも変わらない普遍的な喜びなのです。


讃美歌作者として有名なファニー・クロスビーは、95歳で天に召されるまでに9000もの賛美歌の詩を書いた偉大な讃美歌作者です。彼女は一歳のとき父親を亡くし、母親に育てられるのですが、彼女がまだ生まれて6週間にしかならない時、医者の不注意な過失によって目が完全に見えなくなってしまいます。 


こんな悲劇は、誰にとっても、人生に行き詰まりを覚えさせる辛い出来事ですが、驚いたことに、彼女にとっては別でした。彼女は、後になって、自伝の中にこう書いています。「私が、一生涯、盲目であるという事は、祝福に満ちた神様の摂理であり、私はその事を天からの贈り物として神様に感謝します。」


彼女を盲目にさせた医者は自分を赦すことができず、また自分のした事と向き合う事も出来ず、その町からいなくなってしまいました。しかし彼女はその自伝の中で、こう書いています。 


「もし今、私が彼に会うことが出来たら伝えたいのです。私の目を見えなくしたことで自分を責めないで下さいと。あなたにとっては失敗だったかもしれません。でも神様にとって失敗はありません。私が肉体的に暗やみの中で生涯を暮らすことは神の御旨だと私は信じています。見えない事を通して多くのものを見ることができ、神様への讃美を歌い、他の人々を励ますことが出来る者とされたのですから。私は世界中で一番幸せな者だと思います。ですから、私はあなたに、私の目が見えなくなるようにして下さって有難うと、心から言いたいのです。」

 

この盲目を多くの人は“呪い”と考えるかも知れません。しかし本人はそれを神からの贈り物と考え、神に感謝しました。だからこそ彼女は、これだけの賛美歌を書いて、世界中の人々を励ますことが出来たのです。感謝をして喜べば、喜び事がやって来るのです。



今日の一言: 喜べば 喜び事が 喜んで 喜びつれて 喜びに来る



鶴田健次



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2018.04.28 03:26 | お知らせ

去る4月22日(日)に、ラスベガス日本人教会バーベキュー(Las Vegas Japanese Community Church BBQ) がParadise Recreation Centerにて開催されました。


午前11時に通常通り、礼拝が礼拝堂で始まり、賛美、主の祈りを捧げた後、日語部は礼拝堂に残り、英語部は公園で礼拝を捧げるため、教会を出発しました。


11時40分頃、英語部の方々が公園に到着し、初めてお会いする方もいましたので、お互いの自己紹介から始まりました。自然に真ん中のベンチに集まり、英語部をリードするジョシュア兄の祈りからメッセージに移りました。

 

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(メッセージの様子。緑に囲まれ、とても平安な時でした)


メッセージの後、時間は午後12時45分。

教会から日語部が到着し、さぁ、いよいよバーベキューの始まりです。

 

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 (串焼き)

 

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(プルドポーク)


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 (バーベキューの列)


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(ポットラックの列)


4・5種類の野菜が入った焼き鳥串に、野菜愛好者さん🧡専用串、少ししか食べれない方用のベイビー串の串盛り。

アメリカ南部料理・プルドポーク、そしてホットドッグが焼きあがりました。バーベキューから美味しそうな匂いが漂っています。


日語部婦人会からは、巻き寿司、いなり寿司、おにぎり、スパムむすび、炒飯、シュウマイ、きゅうりの漬物、野菜スティック、ビーンズ、コールスロー、おでん、葡萄、林檎、スイカなどなど、愛のこもった豪華なポットラックが届きました。

 

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(盛りだくさんのお皿)

 

お腹いっぱいになり、交わりも進んできた頃、やってまいりました、この時間!

 

水風船ゲーム!

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 二人一組になり、最初は近い距離から水風船を投げ、パートナーが上手にキャッチできたら、互いに一歩下がり距離を開く、という事を繰り返し、水風船を割らずに最後まで残ったチームが優勝です。


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(最初の位置)

 

2メートル以上離れても数組が残っており(素晴らしい!)なかなか勝敗が決まりませんでしたが、やはり強い男性陣!アレックスとショーンのペアが優勝しました。景品は、ブーブークッションです。

 

次にやってきました、二人三脚。

親子参加からティーングループ、仲良しグループの合計6組が参加しました。

鶴田先生、きみこさんチームも早かったのですが、若者グループが勝ち抜き、決勝戦では 見事善くんとヒロシくんチームの優勝となりました!

動画の様子は予選と決勝戦の様子です。

 





ラスベガスではもう初夏の季節の今、緑の中で開かれた交わりの時、バーベキュー。

合計60名以上の方がこのLVJCC BBQにお集まりくださいました。ありがとうございました。

 

この日が交わりの日として立てられ、主の力強い後ろ盾とたくさんの方のご協力のおかげで、BBQを成功することができました。主の御名により集まり、交れたこの機会に心から感謝いたします。

 

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118:24


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交わり委員会さおり


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2018.04.26 05:49 | 教会イベント
最後の審判  *1

 最後の審判は、黙示録20:11-15において次のように記されています。この言葉はいい加減に聞くべきものではなく、ここで語られていることの真偽を誰もが一度は真剣になって考えなければならない重要なことです。

 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。・・・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11-15)

 この御言葉を読めば判るように、最後の審判を免れる者は誰一人としていません。おのおのすべての人が、そのしわざに応じて、さばきを受けることが定まっているのです。

 ヘブル人への手紙9章27節には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たち人間にとって、これ以上、確かなことはありません。人はみな例外なく百パーセント死にます。それと同時に、百パーセント確かなことは「最後の審判」を受けるということです。

 ここで重要なことは、ここでの審判は「救われているか、救われていないか」の審判ではありません。救いは人が死んだその時に決定されています。ですから、ここでの審判は人が生前行った行いを通して、さばきの程度を決定するためのさばきなのです。

 その審判についてヨハネが見たことを私たちも見てみたいと思います。12-15節にはどのような基準によってさばきがなされると言われているでしょうか。白い御座の前には幾つかの書物が開かれており、死者たちは一人一人その書物に記されているところに従って裁かれます。いのちの書に登録されていない者はみな火の池に投げ込まれます。

 いのちの書に記されている者はこの審判を免れます。御座の前に立つ者たちは、死とハデスから出されて来た人々です。彼らはそれぞれの行いに従い、書物に記された基準によって裁かれます。死者の牢獄となっていた「死とハデス」も火の池の中に投げ込まれます。そしていのちの書に記されていない者も火の池に投げ込まれます。この火の池に入ることを聖書は「第二の死」と呼んでいますが、人間の最後の敵である「死」はここにおいて完全に葬り去られるのです。

 この黙示録では、最後の審判がなされる神の座を「大きな白い御座」という言葉で表していますが、この審判の御座には「大きな御座」「白い御座」というイメージがあります。つまり、その御座はこれまでにあった如何なる御座よりも決定的に大きく、天地万物の創造者である神の絶対的権威に基づいてなされる裁きであるということです。そして、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。

 また「白い御座」のイメージは、他の如何なる裁きの座よりも聖く、一点の曇りもない全き正義の御座だということです。そして、この御座の裁判官は、王の王、主の主であられるイエス・キリストです。「数々の書物が開かれ」ると、そこにはすべての人の行い、また人の目には隠されていたこと、あるいは心の中で犯した罪の秘密までもが完全な形で記録されており、誰もこの裁判官を欺くことは出来ないのです。そして、それらの完全な証拠をもとに、すべての人の魂の運命を定める最終判決が下されるのです。

 LVJCC牧師:鶴田健次

*1 :John Martin - The Last Judgement - Google Art Projectより


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2018.04.23 15:34 | キリスト教 Q & A

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