Good Friday
今日はGood Fridayです。Good Fridayとはイエス・キリストが十字架で処刑された日です。Good Fridayは春分の日のあとの最初の満月の次の金曜日で、年によって日付が変わる移動祝祭日です。今年は3月30日になります。
さて、イエス・キリストは約2000年前の今日、人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架に架かられました。それによって、イエス・キリストを信じるすべての者に、罪の赦しと永遠の命が与えられることとなったのです。これがキリストの十字架が意味するところです。
以下の聖句は、ヨハネの福音書10:17、18にあるイエス・キリストの言葉です。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。・・・・・・」(ヨハネ10:17、18)
この聖句を読むと、イエス・キリストは、人の手によって無理やり十字架に架けられて殺されたのではなく、むしろご自分から進んで十字架に架かり、その命を捨てられたのだと言われていることが解ります。
イエス様は、神が人となられた方なので、正真正銘の人間であると同時に正真正銘の神でもあられます。その証拠にイエス様は、天的な権威をもって、誰も知らない神の国の真理を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。
また、神にしかできない数々の不思議な業(奇跡)を行われました。盲人の目を開き、生まれつきの足なえを立たせ、人々のあらゆる病を癒されました。また悪霊を追い出し、水の上を歩き、言葉だけで嵐を静め、死人を生き返らせることさえなさいました。
その結果、ユダヤ教一色の社会において、多くの群衆がイエス様のところに押し寄せて来るようになったのです。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、その由々しき事態に恐れをなし、またイエス様に対する妬みから、イエス様を葬り去ろうと企むようになるのです。
そこで神は、このような人間の悪しき企みによって御子イエス・キリストが十字架に架けられることを良しとされ、その事を通して、全人類の救いという大事業を成し遂げられるのです。
だからこそ、イエス様は神であられるにもかかわらず、人々のなすがままにされ、何の抵抗もされず、されるがままに十字架に渡されたのです。
群衆も、十字架のイエス様に向かって、「もし、神の子なら自分を救ってみろ」と罵声を浴びせました。ユダヤ教の指導者たちも、「いま十字架から降りてみろ。そうすれば信じよう」と侮辱しました。また、イエス様の両脇の十字架につけられていた犯罪人の一人も、イエス様を罵りました。それ程までに、イエス様は無力に見えました。
しかし、イエス・キリストは決して無力ではなかったのです。イエス様が、ご自分が十字架に架かることを知っていながら何の抵抗もされなかったのは、ご自分から進んで十字架に向かって歩んでおられたからなのです。
「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と言われたとおりです。
その証拠が、イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉の中の6番目の言葉にありました。それが「完了した」(ヨハネ19:30)という言葉です。
これは不思議な言葉です。客観的に見れば、されるがままに十字架に釘付けられた、無力なイエス様のように見えました。しかし実は、そのようにしてイエス・キリストは、父なる神から授かった定めである『人類の罪の贖い』を十字架の上で完了されたのです。
今日の一言:キリストは私のために命を捨てて下さった。
鶴田健次
下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨



『二つのものの比較』
皆さんはミズスマシという昆虫をご存知ですか? 池とか沼の静かな水面を素早く泳ぎ回る黒い豆粒のような昆虫です。このミズスマシの目は人間と同じ二つの目が一対になっていますが、ミズスマシは二対の目を持っているので、合計四つの目があることになります。しかし、なぜミズスマシには目が二対も必要なのでしょうか。
ミズスマシはいつも水面に浮かんでいて、水の上の空間と水の中の空間の境目に住んでいます。ですから、ミズスマシは二対の目をもって、一対の目で水の上の世界を見、もう一対の目で水の中の世界を見るのです。
同じように、クリスチャンも実は二対の目を持っています。一対は外なる世界を見るため、そしてもう一対は内なる世界を見るための目です。つまり、クリスチャンも、二つの世界に住んでいるのです。
- 「外なる人」と「内なる人」との比較
コリント人への第二の手紙4章16節に、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とありますが、聖書によれば、クリスチャンの中には「外なる人」と「内なる人」という二人の自分がいるということです。
この「外なる人」とは、年と共に体力も能力も衰えていく生まれながらの自分のことです。それに対して、「内なる人」とは、キリストを信じる信仰によって霊的に新しく生まれ、神の子とされた自分、また永遠の命を約束された自分のことです。
そして、生まれながらの「外なる人」は、時間と共に衰え、死に向かって進んでいきますが、この「内なる人」は、聖霊によって日ごとに新しくされ、清められ、永遠の恵みに向かって、日ごとに成長していくのです。そのために、クリスチャンは日々、聖霊に満たされ、魂の呼吸である祈りと、魂の糧である聖書の学びを忘れてはならないのです。
- 「今の時の軽い患難」と「重い永遠の栄光」との比較
4章17節で、「今の時の軽い患難」ということと「重い永遠の栄光」という対比がなされていますが、聖書は、私たちが人生において経験する様々な患難は、やがて私たちが神からいただく永遠の栄光に比べれば一時的であり軽いものだと言っています。この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。
人は誰でも、人生において色んな患難を経験します。人によってその患難や試練の種類は違いますが、どんな試練もその人にとっては大変な問題であり大きな重荷です。しかし、聖書は、私たちが経験する地上での患難は永遠から見れば一時的で、天国における恵みに比べれば取るに足りないものだと言っているのです。
たとえ一生涯、何かの重荷を負い続けなければならない役割を神にいただいたとしても、その苦労とは比較にならないほどの永遠の栄光を、神様はやがてあなたに与えて下さるのです。その事実が解かれば、患難の只中にありながらも、今までとは全く違う天国の視点から現実を解釈することができ、感謝と喜びと希望の中で生きることができるのです。
- 「見えるもの」と「見えないもの」との比較
4章18節に「見えるもの」と「見えないもの」という表現があり、「見えるもの」は一時的であり「見えないもの」はいつまでも続くとあります。この「見えるもの」とは、私たちの周りにある五感で感じ取ることのできるものです。しかし、それらは時間と共に過ぎていくものです。
ところが聖書は、「見えるもの」がすべてではなく「見えないもの」があり、その「見えないもの」こそ永遠に続くもので、そこに私たちの心の目を向けなければならないと教えるのです。
この「見えないもの」とは、神の国、永遠の命、神の導き、また神ご自身です。見えないものは見る対象ではなく、信じる対象であり、信じることによって心の目で見えるようになるという実に不思議な信仰の世界です。
この世界が解かると、たとえ私たちの目に見える状況がどんなに困ったように見えるものであっても、神が意図しておられる見えない神の計画をもう一対の目で見ることができるのです。
今日の一言: 見えないものに目を注ごう
鶴田健次
下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
