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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#379「Good_Friday」_convert_20180330214321 

Good Friday



 今日はGood Fridayです。Good Fridayとはイエス・キリストが十字架で処刑された日です。Good Fridayは春分の日のあとの最初の満月の次の金曜日で、年によって日付が変わる移動祝祭日です。今年は3月30日になります。


 さて、イエス・キリストは約2000年前の今日、人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架に架かられました。それによって、イエス・キリストを信じるすべての者に、罪の赦しと永遠の命が与えられることとなったのです。これがキリストの十字架が意味するところです。


 以下の聖句は、ヨハネの福音書10:17、18にあるイエス・キリストの言葉です。


「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。・・・・・・」(ヨハネ10:17、18)


 この聖句を読むと、イエス・キリストは、人の手によって無理やり十字架に架けられて殺されたのではなく、むしろご自分から進んで十字架に架かり、その命を捨てられたのだと言われていることが解ります。


 イエス様は、神が人となられた方なので、正真正銘の人間であると同時に正真正銘の神でもあられます。その証拠にイエス様は、天的な権威をもって、誰も知らない神の国の真理を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。


 また、神にしかできない数々の不思議な業(奇跡)を行われました。盲人の目を開き、生まれつきの足なえを立たせ、人々のあらゆる病を癒されました。また悪霊を追い出し、水の上を歩き、言葉だけで嵐を静め、死人を生き返らせることさえなさいました。


 その結果、ユダヤ教一色の社会において、多くの群衆がイエス様のところに押し寄せて来るようになったのです。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、その由々しき事態に恐れをなし、またイエス様に対する妬みから、イエス様を葬り去ろうと企むようになるのです。


 そこで神は、このような人間の悪しき企みによって御子イエス・キリストが十字架に架けられることを良しとされ、その事を通して、全人類の救いという大事業を成し遂げられるのです。


 だからこそ、イエス様は神であられるにもかかわらず、人々のなすがままにされ、何の抵抗もされず、されるがままに十字架に渡されたのです。


 群衆も、十字架のイエス様に向かって、「もし、神の子なら自分を救ってみろ」と罵声を浴びせました。ユダヤ教の指導者たちも、「いま十字架から降りてみろ。そうすれば信じよう」と侮辱しました。また、イエス様の両脇の十字架につけられていた犯罪人の一人も、イエス様を罵りました。それ程までに、イエス様は無力に見えました。

 しかし、イエス・キリストは決して無力ではなかったのです。イエス様が、ご自分が十字架に架かることを知っていながら何の抵抗もされなかったのは、ご自分から進んで十字架に向かって歩んでおられたからなのです。


「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と言われたとおりです。


 その証拠が、イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉の中の6番目の言葉にありました。それが「完了した」(ヨハネ19:30)という言葉です。

 これは不思議な言葉です。客観的に見れば、されるがままに十字架に釘付けられた、無力なイエス様のように見えました。しかし実は、そのようにしてイエス・キリストは、父なる神から授かった定めである『人類の罪の贖い』を十字架の上で完了されたのです。



今日の一言:キリストは私のために命を捨てて下さった。



鶴田健次 



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2018.03.30 21:44 | 牧師室より
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今日(3月26日)からアメリカではイースターブレイク、日本でいう春休みに当たるお休みが始まりました。今日から来週の月曜日まで1週間のお休みです。今年のイースターは4月1日で、キリスト教の人達にとっては特別な日の一つです。我がLVJCC でもイースターの特別礼拝が行われます。お時間がある方はぜひお越しください。

Youthグループのアウティングが行われました。去年はマウントチャールストンへハイキングへ行きましたが、2018年第一回目のアウティングは Flip n Out Extreme という場所へ行ってきました。この場所は大きなトランポリン場に加えて、ウォールクライミング、ゲームセンターやレイザータグなどあり、小さい子供から大人まで幅広い年代が遊べるので人気の場所で、みんなで楽しんできました。

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今回のアウティングではウォールクライミングをした子が2人いました。ウォールクライミングは4種類ありましたが、その中でも一番難しいウォールクライミングは写真を見ていただくとわかりますが、赤い丸の部分が3つあり、この部分が回転するようになっているので、ただ登ればいいわけではなく、バランスや足の位置などを考えながら登らなければなりません。2人とも2つ目までは何とか行くことができるのですが、最後の3つ目のところまでなかなか到達することができず、苦戦を強いられていました。何度も挑戦して、腕も疲れてきているのにもかかわらず、彼らは最後まであきらめずに頑張っていました。そしてラスト1回となった時にやっと1人が3つ目まで到達しました。こんな彼らの姿を見ながら思い出したのは:

あなたがたが遭った試練は、人として耐えられないものではありません。神は真実な方で、あなたがたを耐えられない試練に合わせることはされません。耐えることができるように、試練と共に解決の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙10:13)”

Youthグループの子供たちが楽しい交わりの時を持つために与えられたこのアウティングという機会は、楽しい時間の中にもちゃんと学びの時を与えてくださいました。このことに感謝です。次のYouthグループのアウティングはまだ未定ですが、今から次回のアウティングが楽しみです。

(ML)

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2018.03.29 08:39 | 教会イベント

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こんにちは、MUです。
いよいよイースターも近づいて来て、当時のイエス様の御心境はいかばかりかと思われます。

イエス様はあのゲッセマネの園で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。「ここの杯」とは、十字架で死ぬことです。この部分は、“そうさせないで下さい” と言っているように聞こえるので、オヤっと思いました。イエス様は神の御子で、十字架につくことはこの世にお生まれになる前から分かっておられることでしたのに、今さらいったいなぜこのような祈りをしたのでしょう。2回目の祈りは、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」と、血の汗をしたたらせながらも、杯を回避したい旨を現しています。やはりイエス様は、人間に生まれて来たので人間としての反応をしているのかな、という思いにもなりました。
 
実は、ここには大きな意味が隠されていることが後で分かりました。イエス様は死ぬほど悲しかったのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」という言葉を弟子たちに言っていますが、その悲しみの訳は死ぬ恐怖ではなく、敵の手に渡され死のうとしている今、神から見捨てられてしまうのではないかという思いで、もだえ悲しんでいるのでした。本当に父の御心なのですか? 十字架で殺されることを望んでおられるのですか? と苦しみの中で祈り問うているのです。そして、それが父なる神の御心と知ったならば、死んでも父は必ず救ってくださる、見捨てることは決して無いと確信できるため、安心して死ぬことができると思ったのでしょう。
・・・しかし、父なる神は沈黙しておられました。

十字架につけられてから息を引き取るまで、肉体の苦痛と精神的な辛さで、イエスは心底悲しく惨めだったに違いありません。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉、それは父なる神から切り離されてしまうという絶望の叫びだったのでしょう。イエスにとって死とは神と離れる事であり、それが死ぬほど悲し、くたまらなく恐ろしいことだったのです。誰がそのようなイエスの心の中を知り得たでしょう。

ルカの福音書23章44節から46節に、こう書いてあります。「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。』こう言ってついに息を引きとられた。

このことから、沈黙していた父なる神は、イエスの極限までの悲しみ、辛さをご存知だったことがうかがい知れます。「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた」、という節がそれです。これは日食ではありません。イエスが十字架につかれたのは過ぎ越しの祭りの14日で、ユダヤの宗教的な暦が月齢に基づくため、月の初めが新月なら十四日の夜は満月となり日食にはならないのです。日食が起こり得るのは新月の時だからです。とするなら、説明のつかないこの怪現象は、ひとり子イエスを愛してやまない父なる神の御心の現れとみて良いのではないでしょうか。創造主の他、誰が気象を変えられましょう。

こうして御子なるイエスは、愛の神・父の御旨を知り、安心して死の谷をも行ける安堵感を得たに違いありません。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との言葉を発した時には、恐れ悲しむ姿は微塵も無く、全信頼を父なる神に置き、堂々と前進されたことでしょう。

そして葬られたのち、預言通り3日目に墓からよみがえりました。そのよみがえりは、罪深い私たち人類全ての罪を清算し、死を征服された証しとなりました。そしてイエス・キリストを信じる私たちは、その信仰により罪が赦され、神と共に永遠に生きる希望が与えられ、私たちもまた、よみがえることが証明されたのです。

私たちが信じる神は父と子と聖霊の三位一体の神、その神は宇宙を創造され命を創造され、全てを支配しておられる神です。無から有を創り出す事ができるお方、その方は愛と正義の神。その神は、全ての人をイエス・キリストを通して永遠の命へと導きたいと願っておられます。それは愛のゆえにです。

(MU)


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2018.03.27 09:28 | その他

牧師室より#378「二つのものの比較」_convert_20180323220323 

『二つのものの比較』

  

皆さんはミズスマシという昆虫をご存知ですか? 池とか沼の静かな水面を素早く泳ぎ回る黒い豆粒のような昆虫です。このミズスマシの目は人間と同じ二つの目が一対になっていますが、ミズスマシは二対の目を持っているので、合計四つの目があることになります。しかし、なぜミズスマシには目が二対も必要なのでしょうか。


ミズスマシはいつも水面に浮かんでいて、水の上の空間と水の中の空間の境目に住んでいます。ですから、ミズスマシは二対の目をもって、一対の目で水の上の世界を見、もう一対の目で水の中の世界を見るのです。  


同じように、クリスチャンも実は二対の目を持っています。一対は外なる世界を見るため、そしてもう一対は内なる世界を見るための目です。つまり、クリスチャンも、二つの世界に住んでいるのです。  


  1. 「外なる人」と「内なる人」との比較


コリント人への第二の手紙4章16節に、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とありますが、聖書によれば、クリスチャンの中には「外なる人」「内なる人」という二人の自分がいるということです。


この「外なる人」とは、年と共に体力も能力も衰えていく生まれながらの自分のことです。それに対して、「内なる人」とは、キリストを信じる信仰によって霊的に新しく生まれ、神の子とされた自分、また永遠の命を約束された自分のことです。


そして、生まれながらの「外なる人」は、時間と共に衰え、死に向かって進んでいきますが、この「内なる人」は、聖霊によって日ごとに新しくされ、清められ、永遠の恵みに向かって、日ごとに成長していくのです。そのために、クリスチャンは日々、聖霊に満たされ、魂の呼吸である祈りと、魂の糧である聖書の学びを忘れてはならないのです。 


  1. 「今の時の軽い患難」と「重い永遠の栄光」との比較


 4章17節で、「今の時の軽い患難」ということと「重い永遠の栄光」という対比がなされていますが、聖書は、私たちが人生において経験する様々な患難は、やがて私たちが神からいただく永遠の栄光に比べれば一時的であり軽いものだと言っています。この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。


人は誰でも、人生において色んな患難を経験します。人によってその患難や試練の種類は違いますが、どんな試練もその人にとっては大変な問題であり大きな重荷です。しかし、聖書は、私たちが経験する地上での患難は永遠から見れば一時的で、天国における恵みに比べれば取るに足りないものだと言っているのです。


たとえ一生涯、何かの重荷を負い続けなければならない役割を神にいただいたとしても、その苦労とは比較にならないほどの永遠の栄光を、神様はやがてあなたに与えて下さるのです。その事実が解かれば、患難の只中にありながらも、今までとは全く違う天国の視点から現実を解釈することができ、感謝と喜びと希望の中で生きることができるのです。  


  1. 「見えるもの」と「見えないもの」との比較


4章18節に「見えるもの」「見えないもの」という表現があり、「見えるもの」は一時的であり「見えないもの」はいつまでも続くとあります。この「見えるもの」とは、私たちの周りにある五感で感じ取ることのできるものです。しかし、それらは時間と共に過ぎていくものです。


ところが聖書は、「見えるもの」がすべてではなく「見えないもの」があり、その「見えないもの」こそ永遠に続くもので、そこに私たちの心の目を向けなければならないと教えるのです。


この「見えないもの」とは、神の国、永遠の命、神の導き、また神ご自身です。見えないものは見る対象ではなく、信じる対象であり、信じることによって心の目で見えるようになるという実に不思議な信仰の世界です。


この世界が解かると、たとえ私たちの目に見える状況がどんなに困ったように見えるものであっても、神が意図しておられる見えない神の計画をもう一対の目で見ることができるのです。    



今日の一言: 見えないものに目を注ごう



鶴田健次                          


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2018.03.23 22:05 | 牧師室より
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  基本的に、イエスが私たちの罪のために死ななければならなかった理由は、私たちの罪が赦されて主と共にいることができるようになるためでした。イエスは人となられた神であり、神だけが律法の要求を満たし、私たちを罪からきよめるための完全な犠牲となることができるからです。

 すべての人が神の前に罪を犯しました。しかし、神は無限に聖く義なる方なので。律法違反の罪人を罰しなければなりません。もし神がそうされないなら、罰のない法律は法律ではないのと同様に、罰のない神の律法は律法ではありません。神の律法を破ることに対する罰は死、つまり神との断絶(分離)です。したがって、私たち罪人は神の義の裁きから逃れる道が必要になるのです。

私たちは罪に汚れ、神の律法を守ることができませんが、それができる唯一の方が神ご自身です。そういうわけで、イエスは人間となられた神なのです。イエスは神と人間の両方の性質を持ち、律法のもとに生まれ、その二つの性質を完全に全うされました。したがって、私たちのために父なる神に捧げられたイエスの犠牲は無限の価値を持ち、すべての人の罪をきよめ、神に対する違反を取り消すのに十分なものなのです。

 以下の要点は、聖書と論理を用いながら、これを分類したものです。神がなぜ私たちの救い主であり、造られたものではないかを理解する助けになればと願います。また、皆さんが罪の赦しのためにはキリストだけを信頼しなければならず、救われるに値する事など何もできないことを理解する助けになればと思います。

1.神は存在する。(創世記1:1)

2.神は無限である。(詩篇90:2)

3.神は聖である。(イザヤ6:3)

4.神は義である。(ネヘミヤ9:32-33)

5.したがって神は無限にきよく正しい方である。

6.さらに神はご自身の性質に基づいて語られる。(マタイ12:34)

7.神は律法を語られた。(出エジプト20:1-17)

8.神は聖であり善なので、律法は神の心にあるものであり、神のご性質の反映である。(ローマ7:12)

9.さらに、私たちが破るのは神の律法なので、その律法を破ることは神に背くことである。また神が無限であるがゆえに、この罪は無限の背きである。

10.さらにまた、神が律法違反者を罰することは正しいことである。律法違反者(罪人)を罰しないことは神の聖さに背き、その聖さを無視することを許すことになる。(ローマ4:15)

11.神は罪を犯した者は死ななければならない(罰される)と言われる。罪の報酬は死である。(ローマ6:23)

12.罪人は神の義のさばきを逃れる必要がある。でなければ彼らは地獄に行くことになる。(マタイ25:46)

13.しかし、どんな罪人も、無限の背きの罪を消し去ることなどできない。神を喜ばせ、物事を正しくするためには、彼は神の義の性質の標準である律法を守らなければならない。(ガラテヤ2:16、2:21)

14.しかし罪人は肉において罪深いので律法を全うできない。(ローマ8:3)

15.罪人は律法を守れず、神を満足させることができないので、神だけができることに従わなければならない。

16.イエスは人となられた神である。(ヨハネ1:1、14)

17.イエスは律法の下にある人でもあった。(ガラテヤ4:4-5)

18.イエスは私たちのために罪とされ、十字架の上でご自分の身に私たちの罪を負われた。それによって律法の要求が満たされた。(2コリント5:21、1ペテロ2:24)

19.したがって、救いは恵みにより、信仰による。それは私たちが律法を守ることによってではなく、私たちに代わって律法を全うし、死んで下さった、人となられたイエス・キリストによるのである。(エペソ2:8-9)

 
 LVJCC牧師:鶴田健次

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2018.03.22 02:15 | キリスト教 Q & A

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