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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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 バプテスマは聖餐式と共にイエス様が教会に制定された大切な聖礼典です。イエス様はこの世を去って天に戻られる時、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを授け、またわたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われました。したがって、教会はイエス様を信じる者にバプテスマを授ける責任があるのです。

 まず、最初に理解すべきことは、神が契約に基づいて働かれるということです。新約聖書と旧約聖書は、新しい契約と古い契約ということで、聖書は契約の書であると言えます。ですから、もし契約のことが解からなければ、バプテスマは契約のしるしなので、このバプテスマの問題を十分に理解することはできません。

 へブル書13:20の「永遠の契約の血による羊の大牧者」という言葉からも、神が契約に基づいて働かれることが解かります。永遠の契約は、天地創造の前からある父なる神と子なる神の間における契約で、父が選ばれた者を子に与えるというものです。

 ですから、もし神が、契約に基づいて働かれること、またご自身の契約(虹、割礼、聖餐など)の顕現としてしるしを用いられるということを理解していなければ、バプテスマが、神の契約のシステムのどこに当てはまるかが解かりません。

 次に私たちは、バプテスマが何であるかを知る必要があります。それは内なる現実の外における表現です。たとえば、バプテスマはキリストの血によって魂が洗い清められた内なる現実を表します。そこで、この事が様々な異なる方法で表現されるのです。

 つまり、バプテスマは、人の死(ローマ6:3-5)、キリストと人との一体(ガラテヤ3:27)、罪のきよめ(使徒22:16)、イスラエルがモーセにつくバプテスマを受けた時のように誰かにつくという証し(Iコリント10:2)、また一つの教会に結ばれる(Iコリント12:13)という様々な象徴的意味があるのです。

 バプテスマは父、子、聖霊の御名によって行われます。人がキリストの体なる教会の交わりに加えられるのは、この聖礼典を通してです。またクリスチャンのバプテスマは、人がその信仰とキリストの弟子になることを公に告白する方法でもあります。さらに、バプテスマは、救いの後の、主に対する従順の行為です。バプテスマは救いと密接に関係していますが、救われるための条件ではありません。聖書は多くの箇所で、事の順番を示しています。①人が主イエスを信じる。②その人はバプテズマを受ける。この順序は使徒行伝2:41などに見られます。

 ですから、イエス・キリストを信じた人はできるだけ早いうちにバプテスマを受けたいと願うべきです(使徒行伝8:35-36)。またバプテスマは、信じる者がキリストの死と埋葬と復活と一つにされていることを描くもので、福音が伝えられるあらゆるところで、人々はバプテスマを受けるべきなのです。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2018.02.26 14:46 | キリスト教 Q & A

牧師室より#374「神の絶対主権」 

『神の絶対主権』



 世の中には、神と自分とを同等の立場に置いている人がたくさんいます。クリスチャンと呼ばれる人の中にもそういう人が少なくありません。そういう人は、主に聴くことをしないで自分の思いのままに行動する人たちです。それは、神の絶対主権を無視する行為です。 


 南ユダ王国のウジヤ王は、もとは素晴らしい王でした。16歳で南ユダの王になり、52年間も王位を守った偉大な王です。外国と戦って勝ち、金、銀が豊富で、とても豊かな国を建て上げました。すると彼の心に高ぶりが入ってきました。


 そこでウジヤは、王の役割だけでは満足できず、祭司長の役割も手に入れようと、神殿に入って神に捧げ物をしようとしました。本来ならば、神が決められた役割を果たすべきであるのに、神が願われない役割を行ったのです。


 神殿に入って香をたこうとした時、祭司長が驚いて、若い祭司たちと共にウジヤ王を連れ出し、「これは王のすべきことではありません。祭司長たちがすべきことです。あなたは不信の罪を犯したのです」と言いました。


 すると、ウジヤ王は激しく怒り、なおも愚かな行為を続けようとしたとき、突然、彼の額にライ病が現われました。ライ病になると、絶対に神の御前に立つことができません。それ以来、ウジヤ王はライ病に冒されたまま、隔ての家で一生を過ごすことになりました。神は高ぶる者を嫌われ、取り除かれるのです。 


 箴言16:18を見ると、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」とあります。 


 また箴言14:29には、「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」とあります。


 ウジヤ王は、まず主に聴くということをしなかったので、神の絶対主権を無視し、愚かな最後を迎えることになったのです。 この出来事から与えられる教訓は、私たちは常に主に聴くことを忘れず、神の絶対主権に従うことが祝福の道であるということです。 


 アメリカの有名なリバイバリストであったDL・ムーディーの話ですが、彼の教会の教会員の一人が、ある日、お酒を造る大きな醸造工場を作って、それを神様に捧げるからと、多くの牧師たち、長老たち、ならびに周辺の人々を呼んで、奉献式をしました。


 集まった牧師たちは、この工場を祝福し、このビジネスが大いに栄えるように祈りました。そして最後の祝祷をムーディー牧師がすることになり、ムーディー牧師は、そこでこう祈ったのです。


「神様、この新しい工場が、この礼拝を捧げ、明日からオープンすることになっていますが、この工場がオープンできないようにして下さい。ここをオープンすれば、膨大な酒が造られ、多くの青少年たちがお酒を飲んで堕落することになります。また、多くの大人たちもお酒を飲んで酔っぱらい、まともな状態ではなくなります。ですから神様、今夜、この工場の持ち主の心に神様の感動を与えて下さり、明日の朝、この工場をオープンしないようにしてください。」


 ムーディー牧師がこのように祈ると、人々は祝賀パーティーに出るのを止めて帰ってしまいました。お祝いの席で冷水を浴びせてしまったわけです。多くの人々がムーディー牧師を非難しました。


 その日の夜、工場の主人は、一晩中悩んで一睡もできませんでした。彼は夜明けになって静かに祈り、神の御心を知るために、心を開いて神の導きを待ち望みました。すると、突然、神の感動が彼に波を打つように近づいてきました。そして「工場をオープンしてはいけない。工場をオープンしてはいけない」という神の言葉が彼の心の中に聞こえてきました。


 そこで、彼は神の絶対主権に従うことを決心し、その工場をオープンせず、その建物を教会に捧げることにしました。ムーディーは、この工場でムーディー聖書学院を創設し、数多くの牧師と伝道師を世に送り出し、キリスト教のリバイバルが起こされることになったのです。神の御心を待ち望む時、神の絶対主権に従う心が与えられ、そこに大きな夢が実現していくのです。 


 箴言16章9節には「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」 と書いてあります。


私たちの運命を決めるのは神がなさることで、まず神の御言葉を聴くことが最も賢明な方法です。神の御言葉を聴かずに先走るならば、大きな傷と損害を被ることになります。


神の御旨は、人間の考えとはあまりにも違います。私たちは、神が絶対主権者であることを忘れてはなりません。そのためにも、私たちは、自分の思いで先走るのではなく、まず主の御心を聴く者であることが重要なのです。



今日の一言: 常に主に聴くことを忘れてはならない



鶴田健次


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2018.02.23 21:46 | お知らせ
初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。

ヨハネの福音書11

皆様、こんにちは。TKです!最近、教会の兄弟姉妹とみことばを紙にしたためる、ということを始めました。私は、小さい頃から4年前にアメリカに来る直前まで、書道を習っていたので、「いざという時」(いつなのでしょう?)のために、習字道具を日本から持ってきていたのです。一回も使わない中月日が流れ、ふと、「みことばを書いて部屋に飾ろう!」と思いたちました。こんな突拍子もない私の考えに付き合ってくださった、兄弟姉妹に感謝です(*^^*)ちなみにこちらが作品です。

私の作品。力強め!
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几帳面できれいな字の姉妹の作品。
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他にも、色々と書いたのですが、ここまでにしておきます。一緒に書いた姉妹が「ふと見ると、みことばが目に入ってくるっていいね」とおっしゃていました。みことばに触れるということは大事なことです。聖書がみことばについて言っているのは。。。

マタイの福音書4章4節
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」
こちらは文語体ですが、姉妹が書かれました。
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確かに、私たち人間は食べ物があれば体は生きていけますが、みことばに触れない生活を続けると、霊的に死んでしまいます。私は生活の中で起こる色々なことに振り回され、みことばから離れてしまうことがあります。そんな時、聖書を開きみことばに触れる時間を割くと、霊的に満たされ、より集中できたり、時間を上手く使えたりできるのです。体は疲れていても、霊的な食糧が神様から与えられるのです。

なぜかというと。。。
へブル人への手紙4章12節
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

みことばは神様から与えられたものなので、もちろんそれは生きているんですね。そして、“心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます”。色々なことが起こる私たちの人生の中で、神様のことばを食べることによって、神様の知恵や恵みが与えられるのではないでしょうか。

私もこのブログを書きながら、みことばを私たちが毎日必要な食べ物として、もっと考えるようになりました。勉強や宿題を始める前に、神様に「よし!神様、私にみことばを食べさせてください!」と祈りながら、聖書を読みました。

私と兄弟姉妹は、毎月1回のペースでみことば習字をしていますので、参加したいという方々はぜひTKまで!道具は全部ありますので、よかったらどうぞ(^_-)-☆


(TK)

2018.02.22 04:28 | その他

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