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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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日本人の死亡原因のトップを独走しているのは “がん” ですが、その新しい治療法として、今世界で最も注目されている「光免疫療法(ひかりめんえきりょうほ)」を今回は取り上げてみました。

 

光免疫療法がなぜ注目されているのか? それは、がん細胞だけを狙い撃ちし、短時間で破壊することができる点にあります。この治療法は体の他の部分を損傷すること無く、副作用も認められず、ターゲットとなるがん細胞のみを破壊し、また転移したがんをも治せる治療法です。現在がん闘病中の方々にとって光免疫療法は、救世主と言えそうです。

 

この光免疫療法は、米国国立がん研究所の小林久隆・主任研究員が中心となって開発した治療法で、小林氏は、がん細胞にだけくっ付く抗体に着目しました。

がんの表面にある抗原に対してくっ付く抗体は現在40数種類が判明しており、その中で最も多くのがん細胞にくっ付く抗体を選び、IR700を結合させたものが今回臨床試験で使う薬剤となります。IR700(色素の一種)は赤外線を当てると細胞の表面に傷をつける性質があります。その結合物質を静脈注射で体内に入れ近赤外線の光を照射するとIR700が細胞膜の表面に傷をつけます。すると細胞膜の機能が失われ、中に水が入り膨張し1~2分で破裂してしまいます。その様子を顕微鏡で見ると、近赤外線の当たったがん細胞だけが、風船がはじけるようにポンポンと破裂していく感じだそうです。

近赤外線の照射は、がんの部位に応じて体の外から照射することもあれば、内視鏡を使ってすることもあります。近赤外線はテレビのリモコンや果物の糖度測定などに使われる光です。可視光と違って人体をある程度深くまで透過しますが、全く無害だということです。

 

更に、がん細胞を破壊するだけではありません。破壊されたがん細胞からはいろいろながんの抗原(壊れたタンパク質)が一斉に露出し、それを近くにいる免疫細胞が食べてリンパ球に伝え、リンパ球は分裂してその抗原を持つ他の場所にあるがん(転移がん)を攻撃しに行きます。こうして免疫が活性化します。

 

実は、もう一つ移転がんに有効な方法があります。がん細胞を攻撃することを邪魔している免疫抑制細胞の中で主要な細胞である制御性T細胞を、免疫細胞が叩く方法です。

IR700を付けた抗体を制御性T細胞に結合させ、近赤外線を当てて壊します。するとがん細胞の近くにいる免疫細胞は邪魔者がいなくなるので直ちに行動に移り、数十分のうちに活性化してがん細胞を壊します。さらに血流に乗って全身を巡り、わずか数時間のうちに転移がんを攻撃し始めます。がん腫瘍内にいる免疫細胞はほとんどすべて、がん細胞のみを攻撃するように教育されていて、免疫の効きすぎが原因になる自己免疫疾患のような従来の免疫治療で起こる副作用は起きないので、安心で効果的な方法です。

 

 

さて、光免疫療法はまだ実用化されていませんが、アメリカでは現在どの辺まで進んでいるのかというと、臨床試験の最終段階に来ています。

1段階は“毒性・安全性”に対する臨床試験、第2段階は“治療の効果”に対する臨床試験、今年2018年からは、最終段階である既存の治療法との“比較検討”に進んでいます。

 

そして、ここにきて遂に、日本やシンガポール、ヨーロッパなどでも治験・治療の臨床試験を行うことになりました。

日本での臨床試験は今年3月から国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)で始まり、対象は頭頸(とうけい)部がんの患者で実施されるということです。

そうなると、もしアメリカと足並みがそろった状況での治験ができるとすれば、臨床試験の人数を全部足せるため、第3段階の終了はうまく行けば今年いっぱいか或いは来年の途中ぐらいで終われるのではないか、と小林氏は予想しています。その後は承認のためのデータ整理をし承認申請する、という流れになります。

承認されるまでの期間は3カ月から半年、東京オリンピックまでには・・・という感じだそうです。

 

小林氏がこの治療法を開発する中で目指してきた大きなポイントの1つは、患者さんが恐れることなく受けられる治療にする事だったそうです。まさにそれが現実のものとなろうとしています。日帰りの外来治療、入院してもせいぜい1日で済みます。これまで臨床治験で治療を受けたある患者さんは、「この程度の体の負担で済む治療なら、是非またやってください」という人もいたそうです。

「がんはもう怖い病気じゃない」と言える日が、もうそこまで来ています。

 

 

イザヤ534-5

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

 

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

 

彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。 

  

(MU)

 

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2018.01.31 19:50 | その他
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毎年1月の第3月曜は「私には夢がある (I Have a Dream)」の演説でも有名な、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの功績をたたえると共に、国民に地域の奉仕活動にかかわるよう勧める「マーティン・ルーサー・キング牧師の日(Martin Luther King Jr. Day)」という祝日です。

今年は、1月15日がその祝日だったのですが、その2日前まで私は全くその事を覚えていませんでした。
私にそれを知らせたのが「宗教はいや!」と公言するアメリカ在住3年目の親戚からの親戚グループメールでしたので、 「おーーー。” I have a Dream” で有名なキング牧師の!!??」 と返信しました。
アメリカという国が、暴力以外の方法で人種の平等を求める取り組みに生涯を捧げたキング牧師を覚える祝日を持っているという事を、知らせたかったからです。

その後、「”I have a Dream” で有名なキング牧師」と言ったはいいけど、そのこと以外はキング牧師について私は何も知らない!という事に気付きました。
責任(?)もあり、キング牧師について調べ、彼の行動力とその地盤にある信仰に心が打たれました。


少し話が変わるのですが、私は2年ぶりの日本滞在から、1月13日にアメリカに戻って来ました。その機上で「All Saints」という映画を見ました。
それは、実話をもとに製作された映画で、舞台はテネシー州の小さな町の教会でした。
現実問題として、今アメリカ中でも問題になっている、教会の倒産・封鎖がこの町でも現実味を帯びてきた時に、ある1人の牧師とその妻、息子が教会を閉じるためにこの教会に来たところから話は始まりました。
教会を閉じる重い任務をもって来た牧師ですが、それでも望みを持ち主に仕えていました。
その中で、牧師が抱える問題に対し、主からあるメッセージを受け、肩を叩かれ、妻からもそのメッセージをバックアップするようなことを言われ、彼は教会の人達とあることを始めるました。
結果として、彼や教会の人達は、持っていた望みとは違う現実を受け入れなければならなりませんでしたが、私たちの神は、彼らの思っていた方法ではなく、神の方法=最善の方法で、彼らの願いを聞かれたのです!


このAll Saintsの牧師とキング牧師に通じるものは、目の前にある問題に対して神からのメッセージに応答したことです。

私たちのラスベガス日本教会も召命を受けた鶴田牧師により、開拓され今に至っていますが、神は呼びかけに対して応答する人を祝福し、大きな恵みを与えられることを改めて思いました。

私は、何のために主に召されて、神の子という身分をいただいたのだろう?

私は神からのメッセージに耳を傾けているだろうか?聞こうとしているだろうか?

私は最後の日に「神の栄光の為に勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した!」と言えるだろうか?


キング牧師は、39歳と言う若さで暗殺されましたが、最後の演説の中で「 "I've been to the mountaintop"(私は頂上に達した)」と言ったそうです。
申命記32章46節~ のモーセの境地にも似たキング牧師の演説は、「前に一歩進みなさい。」とおっしゃっているようで、励ましと勇気をいただきました。

私たちの前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上にに達したから。

皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。

神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。

今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

公演の映像(特に1:20~)も是非ご覧ください。


参考:
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/

(KS)

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2018.01.30 02:38 | その他

牧師室より#370「神の国の割り算」_convert_20180127003006 


『神の国の割り算』


神の国には、この世とは違う計算方式があります。たとえば、私たちが経験する「悲しみ」や「喜び」は、神の国の割り算の公式を用いると、「悲しみを二つに割れば半分に減り、喜びを二つに割れば二倍に増える」ということになります。割り算は、何をどのように割るかによって、その結果も変わります。

   

聖書の神は素晴らしい神です。ご自身の御子をさえも惜しまずに私たちの罪のために死に渡された神は、神の国の割り算を用いて、私たちにとって益となるものは増やし、無益なものは減らそうとして下さるのです。


 ①神が分離されたもの


神は、天地創造の時から今日に至るまで、様々なものを分離して来られました。それは神に属するものと属さないものとの分離であり、また神の創造の御業と秩序を示すための分離でした。


まず天地創造の際になされた分離ですが、創世記1章4節は光とやみとの分離です。また6-7節は大空の下の水と上の水との分離です。さらに14節は、昼と夜との分離です。


次に、ノアの時代には、神は洪水を用いて全世界の人々をさばき、彼ら自身の選択を用いて、さばかれる者と救われる者とを分離されました。アブラハムの時代には、アブラハムをカルデヤ人の中から分離し、彼と彼の子孫を神の聖なる民とされました。モーセの時代にも、神は何度も神に属するものと、そうでないものとを分離されました。


それから新約時代に入っても、神は様々な分離をなさいました。信じる者と信じない者との分離。また教会にいる人を、羊と山羊に分け、右と左に分け、賢い娘たちと愚かな娘たちに分け、最後には天国と地獄との分離です。


このように神は、天地創造のとき以来、この世の終わりに至るまで、神に属する者と世に属する者を分離させながら、救いの計画を実現して来られたのです。


 ②分離できないもの


 この世には神が定められた分離の法則があり、あるものは分離できません。たとえば、どんな数字も、どこまでも割ることが出来ますが、ゼロは割ることができません。そのように、あるものは分離できないという基本原則があります。


 まず、分離できない一つのものは、神が結び合わせた夫婦です。神は、結婚の神聖な法則を立て、一夫一妻主義、一心同体思想を明らかにされました。そして、この神聖な夫婦の関係は、霊的な意味では、キリストと教会の関係を表します。ですから、この関係は絶対に分離できないのです。


 次に、分離できないものはキリストの体である教会です。パウロはコリント教会の分派の問題を厳しく戒め、またエペソ書では、教会全体が一致の心を持つよう求めました。

  

 さらに分離できないものは心です。つまり、神様に仕える心と、この世に仕える心を同時に分離して持つことはできません(マタイ6:24)。また疑いの心を持つ祈り、二心を持った祈りは聞かれません(ヤコブ1:5-8)。あるいは、同じ口から賛美と呪いの言葉を言うべきではありません(ヤコブ3:8-12)。


 ③私たちから分離されるべきもの


 この世の数学では、持っているものを与えればなくなりますが、神の国の数学では、持っているものを与えればさらに豊かになります。


 まず私たちが分け与えるべきものは、キリストにある救いの福音です。福音宣教の働きは分け与えなければならないクリスチャンの義務です。福音は分け与えても減らないばかりか、与えれば与えるほど豊かにされます。福音を分け与えなければ、間接的殺人になるとさえ聖書は教えています(エゼキエル3:17-19)。

 

 信仰は与えれば成長します。希望も人に分け与えれば更に大きな希望に膨らみます。私たちの愛を他人に与えれば、私たちの愛は増し加わります。私たちの喜びを分け与えるなら、喜びが増し加わり、私たちの平安を分け与えるなら、平安が増し加わり、受けた恵みを分け与えるなら、神はその恵みをさらに私たちの内に増し加えて下さるのです。



今日の一言:神の国の割り算を生活に取り入れよう


鶴田健次


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2018.01.27 01:05 | お知らせ
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  Happy New Year!と言っても、もうすでに1月も半分、終わってしまいました。毎年、一年の長さが短くなっているのを感じる今日この頃です。

LVJCCでは新年最初の礼拝後に新年ポットラックが行われ、その際に一人、一人、新年の御言葉を発表します。私は残念ながら今年はお仕事のために新年の御言葉の発表までは参加できませんでしたが、去年は参加させていただきました。参加さていただいた際にはまだクリスチャンではなく、そして聖書のことも全く知らない中、聖書の中から御言葉を選ばせていただきました。

私は新年に御言葉を選ぶということを知りませんでした。どうやらその前の週の礼拝後に「新年の御言葉を選ぶように」とアナウンスメントがあったようですが、その日は下の子が体調が悪く、アクティビティールームで横になっていたので、下の子を様子を見に礼拝堂とアクティビティールームを行ったり来たりしていました。その為、そのアナウンスメントをミスしてしまったようです。丁度、その発表の前々日ぐらいに仲良くしてくださっているM姉から連絡をいただき、新年の御言葉を選んだかと聞かれ、私には何のことかがさっぱりわからず、逆に聞き返すと新年にクリスチャンの人達は新年の御言葉を選ぶのだと教えていただきました。

クリスチャンではない私がそんな御言葉を選んでよいのかという気持ちに駆られながらも、M姉に勧めらた聖書の中の箴言を読むことにしました。読む前にちゃんと神様にお導き頂けるようにお祈りしてから読み始めるように、とアドバイスをいただいたので、それもしっかりと実践してから読み始めました。読み始めてしばらくたっても、「ここだ!」という言葉には当たらず、ネット上で読んでいたので、そのうち「本当に見つかるのだろうか」という気持ちになりながら、流す感じで読み流していくとポツン、ポツンと何か少し心に響く言葉があったので、それをメモしながら読み進めていき、確か20章ぐらいで読むことをあきらめてしまいました。

それでも5つぐらいだったか、御言葉をメモできたので、当日にM姉に相談して決めようと思い、その礼拝の当日に少し早めに行き、M姉に相談させていただきました。「これもいいけど、これもいいね」と結局、一つに絞ることができず礼拝が始まりました。牧師先生のその日の説教を聞きながらも、「早く一つに決めないと」という焦りがあり、説教を聞きながらも、時々メモを見つめていました。お話が終わりに近づくと、ふとメモの中のある御言葉がひときわ濃く見えたような気がしました。その御言葉が:

柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす」(箴言15:1)

でした。この日の説教がどのようなお話だったのかは詳しくは思い出せませんが、お話の中で牧師先生が言われた言葉に何か「あ!」と思ったことを覚えています。そして、そのあとにメモに目をやると、同じ鉛筆で書いたのにもかかわらず、この御言葉が他の御言葉よりも濃く見えたような気がしたのです。

今思うと、この御言葉はその時の自分には必要な御言葉でした。というのも、思春期を迎えた上の子とぶつかることが多く、しかも一番必要とされる父親がおらず、お互いに理解しあうことができず、それがフラストレーションとなり、毎日のようにお互いを怒鳴りあっていたのです。そんな時に神様に与えていただいたこの御言葉。これを去年の御言葉として発表させていただきました。

それからしばらくは御言葉を覚えていたので、怒鳴りそうになると、その御言葉を思い出し、なるべく怒鳴らないようにしていたのですが、やはり忙しさなどがその御言葉を忘れさせ、ある時にはやはり怒鳴りあいに戻っていた時期もしばらくありました。そんなある日、上の子が学校のことで相談してきました。それは勉強のことで、いつもであれば「ちゃんと勉強しないから」と一喝し、そこからまた怒鳴りあいというパターンだったのですが、その日はなぜかこの御言葉を思い出し、「ちゃんと普通に最後まで聞いて、とことん話そう」という思いになり、途中怒鳴りそうになりながらも、何とか上の子の言い分もしっかりと聞くことができ、2人で「じゃあ、こうしよう。」と最後まで話し合うことができました。

よく牧師先生が「聖書に書かれていることは真実である」とおっしゃっていますが、私は実は少し半信半疑でした。しかし、この御言葉は半信半疑だった私に「聖書に書かれていることは真実である」ということを実証してくれたと思います。いまだにこの御言葉を忘れて、子供たちに一喝してしまうこともやはりありますが、その後に必ずと言っていいほどこの御言葉を思い出し、自分がしたことを反省させられます。

ちなみに今年の御言葉はというと… まだ決まっていません。時間があるときに少しずつ、聖書を読んでいるのですが、またしても「これだ!」というものが出てこない状態です。下の子も思春期に入りましたので、もしかしたらこの御言葉をもう一年、新年の御言葉として頑張りなさいと言われているのかもしれませんね。

(ML)

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2018.01.25 03:10 | その他

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祈っても答えられないという経験は、クリスチャンなら誰にでもあることです。聞かれる祈り、聞かれない祈り、すぐに聞かれる祈り、長い時間をかけて聞かれる祈りなど、祈りに関しては様々な経験をさせられます。

しかし、よく考えてみると、祈りはすべて聞かれているとも言うこともできます。つまり、長いあいだ聞かれない祈りでも、それが「もっと祈りなさい」という答えであったり、「祈る心に問題があるよ」という答えであったり、「神の御心にかなわない祈りだ」という答えであったり、いずれにしても何らかの答えが示されている、そう考えることができます。ただ祈る人の願い通りになることが祈りが聞かれることではありません。それは神の御心を無視した自己中心の祈りです。なぜなら、主権は神にあるからです。

さて、祈りについて、聖書には多くの教えがありますが、その幾つかを取り上げてみますと、聞かれる祈りの条件は、まずそれが神の御心にかなう祈りであるということです。御心にかなう祈りというのは、御言葉に裏付けされた祈りです。一生のうち、5万回の祈りを聞かれたと言われるジョージ・ミューラーは、いつも祈るとき、その祈りを裏付ける御言葉を聖書の中から探し、その御言葉と共に祈りをささげたそうです。

次に、聞かれる祈りの条件は、悔い改めていない罪がない状態で祈ることです。罪は神と私たちとの間に垣根を作ってしまうので、悔い改めていない罪があれば、私たちの祈りは神のもとに届きません。悔い改めとは、ただ単に悔い改めの祈りをすればいいというのではありません。その罪に対する生き方の方向転換が伴わなければなりません。

また、聞かれる祈りの条件は、真剣に、また執拗なまでに神に迫る思いで祈ることです。主イエスは、あの不正な裁判官のたとえ話を通して、執拗なまでに真剣に求めることの大切さを教えておられます。真剣な祈りは人の本当の必要を明らかにし、神が働きやすい状況を整えるのです。

最後に、聞かれる祈りの条件は、御霊による祈りです。御霊によって祈るとは、聖霊の臨在に入って祈ることです。ですから、まず聖霊に臨んでいただくように祈り、それから聖霊の臨在の中で祈るのです。ぜひあなたも聞かれる祈りの生活を築き上げてみて下さい。

LVJCC牧師:鶴田健次


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2018.01.22 15:54 | キリスト教 Q & A

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

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