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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#367「キリストの再臨に備える」_convert_20171230043143 

『キリストの再臨に備える』


 今年もあと二日で終わり、2018年を迎えようとしています。2017年も激動の一年でしたが、2018年の世界情勢はさらに混迷を極めつつあります。皆さんは、どんな思いで新しい年を迎えようとしておられるでしょうか。


 人は常に何かを期待し、何かを待ちながら生きています。そして、その期待するもの、待ち望むものによって、その人の人生が決まると言えるかも知れません。では、今を生きる私たちクリスチャンが一番に期待し、一番に待ち望むべきものは何でしょう?


 それは何と言ってもキリストの再臨です。なぜなら、キリストの再臨において、私たちに栄光の体が与えられ、私たちの救いが完成するからです。ですから、このキリ ストの再臨がもたらす恵みは、私たちの地上の生涯における栄光のゴールだと言えます。


 そこで、私たちは新しい年を迎えるに当たって、『キリストの再臨に備える』ということを心がけていきたいと願います。


 ① キリストは必ず再臨される 


 初代教会の時代から、古今東西のクリスチャンたちは、祈りつつキリストの再臨を待ち望んできました。クリスチャンがキリストの再臨を信じているのは、それが聖書に預言されている出来事だからです。聖書預言で実現しなかったものは一つもなく、必ず百パーセント実現するので、キリストの再臨は間違いなくこの世界が経験する大事件なのです。


 キリストの再臨については、旧約聖書には1500の預言が、また新約聖書にも、全体の25分の1に当たる、319節に渡って記録されています。 


 キリストの再臨は二段構えでやってきます。まず最初は「空中再臨」と呼ばれるものです。主が教会(クリスチャン)を空中に迎えに来られるのです。


 その時、まずキリストにあって死んだ者がよみがえり、天に携え挙げられます。これを携挙と言います。その直後、生きている信者が死を経験しないで栄光の体に変えられ、携挙されます。


 次に、「地上再臨」があります。主イエスが地上に再臨されるのです。キリストは間もなく来られます。 


 ② 主の再臨の時は誰にも分からない 


 いつの時代にも、キリストはいつ再臨されるのかということが世界中の大きな関心事でした。しかし、まず私たちがはっきりとさせておかなければならないことは、キリストの再臨がいつであるかは誰にも分からないということです。 


 確かに聖書には、この世の終わりやキリストの再臨の前兆として起こる出来事について、多くの事が記されています。ですから、再臨が近いかどうかをある程度予測することは可能です。しかし、だからと言って、それが何年何月であるとは誰にも分かりません。なぜなら、それは分からないほうがいいからです。


 再臨の日は「ノアの日」のように、人々が、ただ毎日を刹那的に食べたり、飲んだり、楽しん生活している時に突然来るのです。  


 では、なぜキリストの再臨の時は誰にも分からないように定められたのでしょうか。神の権威によってそうされたからには、それが私達にとって最善なのです。では知らされない事の意味は何でしょう。


 まず第一の意味は、信仰の真価が問われるためです。いつ来るか分からない事によって、キリストが来られた時に私たちの信仰の真価が問われるのです。


 また第二の意味は、私たちが目を覚ましているためです。主の再臨が、いつか分からない事が私たちの霊的な目を覚まさせてくれるのです。明日の命も判らない私たちは、いつ主が再臨されてもいいように備えておく必要があるのです。   


 ③ キリストの再臨に備える生き方  


 もし、あなたが求道中であるならば、あなたの求道の思いを明確にするべきです。真の神を信じ、従うということは、あなたのどんな問題にも勝って重要な問題です。ヘブル4:7にあるように、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくな にしてはならない」のです。


 もし、あなたがクリスチャンであるならば、目を覚まして心がける事は何でしょうか。私はまずクリスチャンの方に、ご自分の救いの確かさを確認することをお勧めします。


 次に、本当に救われた者として、霊的に目を覚ましていることです。その秘訣は デボーションが生活の土台になっていることです。イエス様との交わりこそが主の再臨をお迎えする最も大事な備えの基礎です。その上で、聖霊の助けをいただきながら救霊の働きに励むべきです。 


今日の一言:キリストの再臨に備えよう

 

鶴田健次


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2017.12.30 04:33 | お知らせ
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それは2年ほど前のことだったと思いますが、突然目が見えなくなったことがあました。その時、ある事を心に決めました。今回はその時のことをお話したいと思います。

その頃は、長時間コンピューターの前で仕事をする毎日でしたので、かなり目を酷使し、夜にはいつも目が痛くなっていました。そんなある朝、目に異変が起きました。目が覚めると、目が見えなくなっていたのです。視界一面が雲に覆われて何も見えず、恐怖に襲われました!
ぎゅっと目をつぶったり、目をこすったりしても何の変化もなく、どうしよう!目医者に行かなきゃ!手術かな!どこの目医者に良いドクターがいるの?どうやって探すの? などが瞬時に頭に浮かびました。

そして、「落ち着いて、落ち着いて・・・」と、自分に言って、陽の当たるベランダに出ました。暗雲に覆われた視力でも、太陽の光を感じることに安堵し、有難いと思いました。そして、主に祈りました。
「神様、目が突然見えなくなってしまいました。どうか元通りに治してください。」
「今まで、目が見える事に感謝してなかった事に気が付きました。申し訳ありません。」
「目が見えない人のことも考えていませんでした。目が見えない怖さと不自由がどのようなものかを体験しています。これも私に必要な事だと思って・・・」、等々。
しかし、どんなお祈りも自分の都合にあったお祈りと、治りたい一心の付け焼刃的な心だと自分で暴露し、主の深いところにある思いを今一度吟味してみるようにと主が言われているように感じました。

私は静まり、目を閉じ、私を作られた主に心を向け、このことを通して主が私に何を求めておられるのかを知りたいと祈りました。言葉で祈り、マインドで祈り、感覚で祈り、体全体の毛穴を開いて神様を感じ、応答をいただく用意をし、心をそそぎ出し祈り求めました。

この祈りの時間の中で、私は大切なことを教えられました。
主が私を創りこの世に送り出したのはご自身の御用をさせるため。私は主の僕としての役目を担い、主を証し導くことが私の務めであること。そして最後に、私の目を治すのは主ご自身である、という事でした。

主に仕える事の大切さは頭で知ってはいても、実際自分のこととして本気で受け止めてなかったので、意識の甘さに天から放たれた矢が命中したような痛烈な衝撃でした。

「私の目を治すのは主ご自身である」、という意味は、私自身がわかっていました。つまり、肉体で生きている私は医学を信頼していた為、主は私を戒め、永遠に変わることのない主に従うことを要求され、その上で、我が神にできないことは無いのだと私に自信を与え、使命の遂行をご計画されたのではないかと思いました。
目に見える事より見えないことの確かさ、それを学んだ時でした。

私は主に祈り、言いました。「私はあなたのもの、あなた無くして私の存在はありません。大宇宙を創り、目に見えるもの見えざるものをお創りになった主、あなたに従います。どうぞ私をお使いください。心身霊とも、あなたのために用いられますように。」 このような祈りを本気で、本心から主に捧げました。

主は私の祈りに応えてくださいました。二日後、段階的に目は開かれ、目の前に現れた世界は見慣れた景色ではあっても、光輝いた別天地に見えました。そして私の心に、神様がともにいるという自覚と自信が静かに確実に存在していることを感じました。私は、この世にいながら、神様とともにいることを心から感謝します。主がご計画されたこの人生を、ただ主のために歩んで行きたいと思います。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:28〜31)

(MU)

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2017.12.27 16:31 | 証し

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 これは聖書を読んだことのある人なら誰もが抱く疑問ですね。特にその奇蹟が世の中の常識とかけ離れていればいるほど、そういう疑問を持つのは自然だと思います。しかし、そもそも奇蹟というのは、ある目的のために自然の法則を越えてなされた神の業ですから、それを考えれば奇蹟が常識とかけ離れているのは当然といえば当然です。

 

 聖書に記されている奇蹟は、すべて本当に起こった歴史上の出来事です。まず最初の奇蹟は、天地創造の奇蹟です。神は言葉だけで何もないところに地球を創り、宇宙とすべての天体、地上の植物と生き物を創られました。また神は地のちりから人間を創り、すべての被造物を支配するようにされました。

 

 また、出エジプト記を見ると、神がエジプトに下された十の災いの奇蹟が記されています。ナイル川の水を血に変える奇蹟から始まって、エジプト中の初子の死で終わる災いは、文字通り起こった歴史上の出来事です。その結果、絶対にイスラエルの民を手放そうとしないパロの頑なな心が変わり、イスラエルの民を奴隷状態から解放することになったわけで本当の事なのです。

 

 ですから、もしこれらの十の災いが実際の出来事でなければ、エジプト中の初子が死ぬこともなかったでしょうし、エジプトに住むすべてのイスラエルの民が子羊の血を家の鴨居に塗る理由もなかったでしょう。

 

 旧約聖書を代表する奇蹟として有名なのは、紅海の水が二つに分かれる出来事です。紅海とエジプトの軍隊に挟まれ、絶体絶命の危機にあったイスラエルの民のために、神は紅海の水を分け、彼らがそこを通って逃げられるようにし、その後を追ったエジプトの軍隊は、イスラエルの民が渡り終えた途端に海の水に飲まれて全滅してしまうのです。そして、その時にエジプトの軍隊が使った二輪の戦車が数多く紅海の海底で発見されていることを考えれば、その出来事が本当にあったことであることが分かります。しかも、この出来事がなければ、イスラエルの民の荒野の旅、カナン侵略、イスラエル王国の設立なども説明できなくなります。

 

 新約聖書にも、イエス様がなされた数々の奇蹟が記されています。たとえば、カナの結婚式で水をぶどう酒に変え、二匹の魚と五つのパンで五千人を養い、言葉だけで嵐を静め、海の上を歩き、盲人の目を開き、足なえを立たせ、死人を生き返らせることさえして、ご自分が神であることを証明されました。そして何よりも、十字架で死なれたイエス様の復活の奇蹟は、イエス様が神である何よりの証拠であり、臆病な弟子たちの劇的な変化を説明する唯一の論理的な根拠だと言えます。 

 

 つまり三位一体の神、父・子・聖霊は全能の神なのです。神にとって、このような奇蹟は全く難しいことではありません。神はまた私たちの人生にも生きて働いて下さり、私たちのために、必要であれば、どんな奇蹟も行うことがお出来になるのです。実際のところ、神は、罪のために永遠の裁きを余儀なくされていた私たちに、イエス様の十字架の御業を通して、罪の赦しと永遠の命の恵みを与えて下さいました。これもまた驚くべき奇蹟です。

 

 このように、生ける神を信じ、その奇蹟の御業を額面通りに信じることは、クリスチャン生活においてとても重要なことです。なぜなら、神に対するこのような信頼があれば、人生の如何なる苦難も乗り越えられるからです


LVJCC牧師:鶴田健次



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2017.12.26 01:11 | キリスト教 Q & A

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