『キリストの再臨に備える』
今年もあと二日で終わり、2018年を迎えようとしています。2017年も激動の一年でしたが、2018年の世界情勢はさらに混迷を極めつつあります。皆さんは、どんな思いで新しい年を迎えようとしておられるでしょうか。
人は常に何かを期待し、何かを待ちながら生きています。そして、その期待するもの、待ち望むものによって、その人の人生が決まると言えるかも知れません。では、今を生きる私たちクリスチャンが一番に期待し、一番に待ち望むべきものは何でしょう?
それは何と言ってもキリストの再臨です。なぜなら、キリストの再臨において、私たちに栄光の体が与えられ、私たちの救いが完成するからです。ですから、このキリ ストの再臨がもたらす恵みは、私たちの地上の生涯における栄光のゴールだと言えます。
そこで、私たちは新しい年を迎えるに当たって、『キリストの再臨に備える』ということを心がけていきたいと願います。
① キリストは必ず再臨される
初代教会の時代から、古今東西のクリスチャンたちは、祈りつつキリストの再臨を待ち望んできました。クリスチャンがキリストの再臨を信じているのは、それが聖書に預言されている出来事だからです。聖書預言で実現しなかったものは一つもなく、必ず百パーセント実現するので、キリストの再臨は間違いなくこの世界が経験する大事件なのです。
キリストの再臨については、旧約聖書には1500の預言が、また新約聖書にも、全体の25分の1に当たる、319節に渡って記録されています。
キリストの再臨は二段構えでやってきます。まず最初は「空中再臨」と呼ばれるものです。主が教会(クリスチャン)を空中に迎えに来られるのです。
その時、まずキリストにあって死んだ者がよみがえり、天に携え挙げられます。これを携挙と言います。その直後、生きている信者が死を経験しないで栄光の体に変えられ、携挙されます。
次に、「地上再臨」があります。主イエスが地上に再臨されるのです。キリストは間もなく来られます。
② 主の再臨の時は誰にも分からない
いつの時代にも、キリストはいつ再臨されるのかということが世界中の大きな関心事でした。しかし、まず私たちがはっきりとさせておかなければならないことは、キリストの再臨がいつであるかは誰にも分からないということです。
確かに聖書には、この世の終わりやキリストの再臨の前兆として起こる出来事について、多くの事が記されています。ですから、再臨が近いかどうかをある程度予測することは可能です。しかし、だからと言って、それが何年何月であるとは誰にも分かりません。なぜなら、それは分からないほうがいいからです。
再臨の日は「ノアの日」のように、人々が、ただ毎日を刹那的に食べたり、飲んだり、楽しん生活している時に突然来るのです。
では、なぜキリストの再臨の時は誰にも分からないように定められたのでしょうか。神の権威によってそうされたからには、それが私達にとって最善なのです。では知らされない事の意味は何でしょう。
まず第一の意味は、信仰の真価が問われるためです。いつ来るか分からない事によって、キリストが来られた時に私たちの信仰の真価が問われるのです。
また第二の意味は、私たちが目を覚ましているためです。主の再臨が、いつか分からない事が私たちの霊的な目を覚まさせてくれるのです。明日の命も判らない私たちは、いつ主が再臨されてもいいように備えておく必要があるのです。
③ キリストの再臨に備える生き方
もし、あなたが求道中であるならば、あなたの求道の思いを明確にするべきです。真の神を信じ、従うということは、あなたのどんな問題にも勝って重要な問題です。ヘブル4:7にあるように、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくな にしてはならない」のです。
もし、あなたがクリスチャンであるならば、目を覚まして心がける事は何でしょうか。私はまずクリスチャンの方に、ご自分の救いの確かさを確認することをお勧めします。
次に、本当に救われた者として、霊的に目を覚ましていることです。その秘訣は デボーションが生活の土台になっていることです。イエス様との交わりこそが主の再臨をお迎えする最も大事な備えの基礎です。その上で、聖霊の助けをいただきながら救霊の働きに励むべきです。
今日の一言:キリストの再臨に備えよう
鶴田健次
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これは聖書を読んだことのある人なら誰もが抱く疑問ですね。特にその奇蹟が世の中の常識とかけ離れていればいるほど、そういう疑問を持つのは自然だと思います。しかし、そもそも奇蹟というのは、ある目的のために自然の法則を越えてなされた神の業ですから、それを考えれば奇蹟が常識とかけ離れているのは当然といえば当然です。
聖書に記されている奇蹟は、すべて本当に起こった歴史上の出来事です。まず最初の奇蹟は、天地創造の奇蹟です。神は言葉だけで何もないところに地球を創り、宇宙とすべての天体、地上の植物と生き物を創られました。また神は地のちりから人間を創り、すべての被造物を支配するようにされました。
また、出エジプト記を見ると、神がエジプトに下された十の災いの奇蹟が記されています。ナイル川の水を血に変える奇蹟から始まって、エジプト中の初子の死で終わる災いは、文字通り起こった歴史上の出来事です。その結果、絶対にイスラエルの民を手放そうとしないパロの頑なな心が変わり、イスラエルの民を奴隷状態から解放することになったわけで本当の事なのです。
ですから、もしこれらの十の災いが実際の出来事でなければ、エジプト中の初子が死ぬこともなかったでしょうし、エジプトに住むすべてのイスラエルの民が子羊の血を家の鴨居に塗る理由もなかったでしょう。
旧約聖書を代表する奇蹟として有名なのは、紅海の水が二つに分かれる出来事です。紅海とエジプトの軍隊に挟まれ、絶体絶命の危機にあったイスラエルの民のために、神は紅海の水を分け、彼らがそこを通って逃げられるようにし、その後を追ったエジプトの軍隊は、イスラエルの民が渡り終えた途端に海の水に飲まれて全滅してしまうのです。そして、その時にエジプトの軍隊が使った二輪の戦車が数多く紅海の海底で発見されていることを考えれば、その出来事が本当にあったことであることが分かります。しかも、この出来事がなければ、イスラエルの民の荒野の旅、カナン侵略、イスラエル王国の設立なども説明できなくなります。
新約聖書にも、イエス様がなされた数々の奇蹟が記されています。たとえば、カナの結婚式で水をぶどう酒に変え、二匹の魚と五つのパンで五千人を養い、言葉だけで嵐を静め、海の上を歩き、盲人の目を開き、足なえを立たせ、死人を生き返らせることさえして、ご自分が神であることを証明されました。そして何よりも、十字架で死なれたイエス様の復活の奇蹟は、イエス様が神である何よりの証拠であり、臆病な弟子たちの劇的な変化を説明する唯一の論理的な根拠だと言えます。
つまり三位一体の神、父・子・聖霊は全能の神なのです。神にとって、このような奇蹟は全く難しいことではありません。神はまた私たちの人生にも生きて働いて下さり、私たちのために、必要であれば、どんな奇蹟も行うことがお出来になるのです。実際のところ、神は、罪のために永遠の裁きを余儀なくされていた私たちに、イエス様の十字架の御業を通して、罪の赦しと永遠の命の恵みを与えて下さいました。これもまた驚くべき奇蹟です。
このように、生ける神を信じ、その奇蹟の御業を額面通りに信じることは、クリスチャン生活においてとても重要なことです。なぜなら、神に対するこのような信頼があれば、人生の如何なる苦難も乗り越えられるからです。
LVJCC牧師:鶴田健次
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『クリスマスの心』
今年ももうじきクリスマスです。クリスマスは、世界中が大騒ぎをして祝うイベントですが、このクリスマスほど、その本当の意味が失われているものもないかも知れません。
クリスマス、クリスマスと言いながら、クリスマスの主人公を忘れて、自分たちだけが楽しんでいる、そんな現実がないでしょうか。
クリスマスとは、御子イエス・キリストのご降誕を祝う日です。それはキリストの降誕が、絶望の世界に希望をもたらしたからです。つまり、罪のために永遠の滅びが定められているすべての人間に永遠の命への道が開かれたからです。
しかし、人間にとっては有難すぎるこの恵みが与えられるために、神の子キリストはご自身の命を身代わりとして捧げなければなりませんでした。つまり、イエス・キリストはご自分の命を失うためにこの世に来られたのです。
ですから、クリスマスのメッセージは、失うことがもたらす恵みと言えるでしょう。だからこそ、イエス様は、愛する私たちが救われるという喜びのゆえに、ご自分から進んで十字架の道を歩まれたのです。
新約聖書にたくさんの教会が登場しますが、中でもマケドニヤの二つの教会が輝いています。その理由は、その二つの教会が失うことの喜びを知っていたからです。その二つの教会とは、ピリピ、そしてテサロニケの教会です。
彼らは、迫害と貧しさの中に置かれていましたが、否定的に思えるそれらの環境は、教会がめげてしまう要因にはならず、逆に教会に力を与える結果になりました。パウロがコリントの教会に出した手紙にこう書いてあります。
「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2コリント8:1-2)
実に彼らは失うことを恐れるどころか喜んだのです。それは、キリストにあって失うことがもたらす計り知れない恵みを知っていたからです。世界中で働く宣教師、伝道者、そして彼らを派遣する教会も、それをよく知っています。
アライアンス教団にメーベル・フランシスという女性宣教師がおられました。1880年、ニューハンプシャー州の牧師の家庭に生まれました。彼女が幼いとき、毎朝祈る母の言葉が彼女の耳に刻まれました。
「主よ、どうか極東の島国、日本という国に宣教師を遣わし、その国民を救ってください。」
ある朝、彼女は母に告げました。「お母さん、私が日本に参ります。」そして彼女は成長し、宣教師として、日本を選んだのです。彼女は、四国において、キリストの器として素晴らしい足跡を残しました。
多くの教会を生み出し、牧師を育て、戦争中も帰国せずに日本に留まり、日本人のために働きました。戦後、孤児達を助けた功績により、日本政府から表彰されました。その際、昭和皇后の前に招かれた彼女は、皇后に向かってこう言われたそうです。
「あなたは、救われていますか?」
彼女は自分の人生を神に捧げ、日本人のために時間と労力を捧げつくしました。彼女の問いは、キリストからのあなたへの問いです。
「あなたは、救われていますか?」
クリスマスの心をどう位置づければよいでしょうか。贈り物? 家族愛? 施し? 人間愛でしょうか? いや、そうではなく、クリスマスの心は「失うこと」ではないでしょうか。
神は人間のために、最も大切な独り子を失ってくださいました。キリストは天にある神の座と栄光を捨てて、この世に降りて下さいました。
新約聖書は、失うことこそ愛だと言っています。与え、捧げ、ゆだね、託す。そしてイエス様は言われました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
私たちの苦手は、失うことです。人間ならば誰でもそうだろうと思います。得ることを望みます。受けることを求めます。与えられることに喜びを感じます。そのためには日夜祈ります。しかし、失うために祈ったことがあるでしょうか?
考えてみると、いつも得ることを求めていたように思います。「祝福をください。癒してください。覚えてください。恵み給えてください」とばかり祈ってきたような気がします。
イエス様がお生まれになった理由は、与えること、失うことを抜きに語ることはできません。私たち人間の救いためにご自分の命をも捧げられました。クリスマスの真の意味はここにあります。
すべてを人類に与えつくして、主イエスは生涯を終えられました。家畜小屋に生まれ、飼い葉おけに寝かされ、ひっそりと眠る御子イエスを拝んだ羊飼いたちと博士たちは、どんな印象を持ったことでしょう。
もうじきクリスマスが来ます。失うためにお生まれになったキリストに出会うために、静かな心で、その日を待ちたいと思います。
今日の一言:クリスマスの心は「失うこと」
鶴田健次
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私達の日々の糧(パン)が沢山入った籠、神からのラブレター集等とも言える、聖書。
この中の約25%は預言で占めていると言われています。
クリスマスを前に、多くの預言の中から「イエス様のご降誕に関する預言」を、記したいと思います。
イザヤには、
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名つ”ける。」(7:14)
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(9:6)
と書かれています。
では、
『インマヌエル』・『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』は
1. 「どこで」
2. 「どの様な家系に」
3. 「いつ頃」
お生まれになられると書いてあり、実際にはどうだったのでしょう?。
1. 「どこで」
預言:
ベツレヘム
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)
預言の成就:
ベツレヘム
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:4-7)
2. 「どの様な家系に」
預言:
アブラハム(イスラエル民族)→ユダ(ユダ族)→ダビデ王の子孫
・ アブラハム
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。(創世記22:15-18)
・ ユダ(ユダ部族)
王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10)
・ ダビデ
わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。(第一歴代誌17:14)
わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。(詩篇89:29-36)
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ11:1-2)
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。(エレミヤ23:25-26)
預言の成就:
マタイの福音書1章は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」と言う出だしで始まり、アブラハムからイエス様に至るまでの家系図が記されている。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。
ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。(マタイ1:1-17)
これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:2-7)
預言:
バビロンからの帰還後、エルサレムを立て直せと言う命令が出てから油そそがれた者、君主の来るまでが7+62週(483年)
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主(キリスト)の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(新改訳)
あなたの民と、あなたの聖なる町については、七〇週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君(キリスト)が来るまで、七週と六二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。(口語訳)
(ダニエル9:24-25)
預言の成就:
エルサレム再建命令が出て483年後の紀元26年にイエス様が宣教を開始された。
何パターンかの計算式があるようですが、その内の1つを。
・ ユダ王国崩壊、バビロン帝国に捕囚
:紀元前606年(70年間)
・ ユダヤ人帰還
:紀元前536年、457年、444年
・ エルサレム再建命令発布/祭司エズラによる復興
:紀元前457年(9+62週:483年(69x7))
・ イエスが公生涯に入り、宣教を開始された年
:紀元26年
預言:
バプテスマのヨハネの後
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。(イザヤ40:3)
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3:1)
預言の成就:
バプテスマのヨハネの後
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)
私たちの救い主、イエス様のご降誕に関する預言だけを見ても、預言は成就しています。
そして、イエス様は、神の御心を行うために、実際に来た、そして、全ての預言は必ず全部成就するとおっしゃっています。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」(ヘブル10:5-10)
わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する(ルカ24:44)
イエス様がこの世に来てくださり、私達の罪の為に十字架の上で死んでくださった事は、本当に起こった歴史上の事実です。イエス様は私たちに永遠の命を得させるために、私たちの身代わりとして代わりに死んでくださったのです。
「クリスマス(イエス様のご降誕を祝う日)」の意味を多くの人に伝えませんか?
一人でも多くの人が永遠の命を得る為に!
神はひとり子をお与えになったほどに世を愛されています。
Merry Christmas!
(KS)
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