
神が不変であるというのは、神の性質は永遠に変わらないという教えです。神の人格、属性、存在は変わることがありません。神は常に愛であり、聖であり、義であり、全知・全能であり、また遍在される方です。これらは神の性質なので決して変わることはありません。では、私たちは"言の受肉"と神の不変性の教義をどのように調和させることができるでしょうか。その答えは、三位一体と受肉、そしてキリストの二性に関する教義を理解する必要があります。
LVJCC牧師:鶴田健次
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『天の故郷を目指そう』(へブル11:1-16)
松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年もまた旅人なり」という有名な言葉があります。これは、月日というのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、また来ては去り、去っては来る年も、同じように旅人であるという意味です。
このように、人生が旅であり、私たちは旅人であるという考え方は、日本人には馴染み深いものです。しかし、日本の思想では、人生の旅の行き着く先が見えません。それに対し、聖書は、はっきりと行き先を示しています。それは「天の故郷」です。
パウロは「わたしたちの国籍は天にある」と書いていますが、クリスチャンの人生は常に天国を目指して進む旅であるということができます。そして、その旅を最も幸いな旅にするために必要なものが信仰なのです。
①信仰とは、見えないものを信じること
ヘブル11章1節にあるように、信仰とは、まだ見えていない将来のものを、もうそこにあるかのように見ることです。すべての偉大な働きは、誰かが前もって、まだ見えていない将来のものを見るというところから始まっています。
たとえば、もしジョン・ F・ケネディが、『人間を月に立たせよう』と言わなければ、誰も 月面に立てなかったでしょう。クリストファー・コロンブスは、地球が丸いと信じ、航海を続けていれば、いずれ地図に載っていない国を発見できると疑いませんでした。だから、その考えを信じない船員たちがどれだけ反対しても、彼は航海を続け、ついにアメリカ大陸を発見できたのです。
信仰とは、まだ見ていないものを信じることです。しかも何も見えないところで、それを信じることです。聖書の世界は、『信じれば見える』という世界です。信じなければ見えない世 界があります。また、信じなければ、目標に向かい続けることもできないのです。
②信仰とは、惜しみなく捧げること
11章4節を見ると、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」とあります。
ここで解かることは、捧げることと信仰は切り離せない関係にあるということです。献金は信仰のバロメーターと言われます。それは神を第一にしているかどうかを見る具体的な方法だからです。私たち創られた者にとって、創り主なる神を第一にすることは何よりも大切なこと で、それが祝福の道であり、創造の秩序です。
また、私たちはその秩序に従って生きるときに祝福されます。ですから、神は私たちが祝福された人生を生きるように、私たちが神を第一にすることを導かれるのです。神は、私たちのために命を捨てて下さった主イエス・キリストに心からの感謝と献身の心で捧げる者に霊的祝福と経済的祝福を約束しておら れるのです。
③天を待ち望む信仰
ピリピ 3章20節に、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」とあります。
死後の事について、私たちはしばしば希望的観測として天国に行きたいと言 いますが、ここで言われているのは、そういう意味ではなく、もっと確かなものとして、「私たちの国籍は天にある」と語られています。なんという希望に満ちた約束でしょうか。
9節を見ると、「アブラハムは約束された地に他国人のように住み、また天幕生活をした」とありますが、なぜ神はアブラハムを召された時、住み慣れた土地から導き出して、旅人、また寄留者としての生活をさせられたのでしょうか。それは信仰によって、彼が神を仰いで生きるということに目が開かれるためでした。
旅人や寄留者は、普通ならば、必らず元の場所に戻るのですが、アブラハムや信仰に生きた人たちは戻ることもできたのですが、戻ることをせず、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故 郷にあこがれたのです。
今日の一言:天の故郷を目指そう
鶴田健次
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私はクリスチャンになるまで、感謝は、感謝できる時だけしかしていませんでした。
だから、うまく行かなかった時や問題が起きた時には、「厄介なことになったな!」とガックリし、後始末や、やり直しや、他の方法を考えたりすることが負の時間のように感じたりしていました。そんな時に感謝するなんて、考えることがありませんでした。「ま、いい勉強だったのかな、次はうまくやろう」と思うのがせいぜいでした。
その後、聖書を知り、宇宙とこの地球と人間を創り、人々を愛してやまない真の神様の存在を知ってからは、価値観が天地を逆にした程変りました。
朝眠りから目覚めた時や一日が終わって休む時、健康に食事ができる時、何不自由なく生きているいことなど、当たり前に繰り返される中に神様の守りがあることを知り、感謝する日々となりました。
創り主が私たち人間を大切に思っていることは聖書の随所から知ることができますが、その創り主なる神様に感謝する事で、私たちの体にもたらす健康効果は、実は計り知れないほど良い影響を及ぼしていると、なにかで読んだことがあります。
感謝することは内面を穏やかにし、健やかにし、体内の臓器や細胞に至るまでその効果が行き渡るのだそうです。内面の効果は外見にも現れ、更に健康で優しい感じになることが上げられていました。
私たち人間は、創造主である神様がご自身に似た者として創られました。そして、「はなはだ良かった」と仰いました。ということは、神様はその出来栄えに満足しておられる、という事でしょうか。
そして、海と空と地にいる生き物とを治めよ、と言われ、人間に大きな使命が与えられました。神様が仰ったのですから、私たち人類はそれができる術も与えられているはずです。
そして今、神様から任された私たちが住む地球はどうでしょう。海と空と地にいる生き物は、人間に守られるどころか住むところを追われ、人間が作り出した有毒で危険なものに命が奪われ絶滅したり、危機状態にある生き物ばかりです。
そのような時代に生きる罪びとの私達ですが、それでも神様は親が子を思うように、私たちを愛し、私たちを尊い存在だと仰ってくださいます。
どんなことがあっても、神様は決して変わることがありません。それを信じるなら、状況に左右されることなく、神様のゆえに全ては益に変えられるとの確信が与えられ、感謝できる心を失うことがありません。
聖書は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と教えています。
(MU)
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