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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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早いもので感謝祭も終わり、2017年の大きなイベントもクリスマスを残すのみ!皆さん、クリスマスを迎える準備はいかがですか?

年々、アメリカのクリスマス商戦の開始時期は始まり、夏にはクリスマスグッズが店に並び始めるのを見ます。知り合いの中には、その頃からクリスマスギフトのお買い物を始める人達もいます。

ラジオでも10月末ころからクリスマスソングを耳にしはじめます。教会では、11月に入ったころからキャンドルライトサービスに向けたクワイヤーの練習が始まったり、感謝祭後あたりからクリスマスソング=イエス様ご降誕を喜ぶ賛美が増え始めるような気がします。

個人的にはここ数年は、クリスマスソングを耳にし始めるころから、聖書のどの箇所を読み進めてクリスマスを迎えようか?考え始め、12月頃からその聖書箇所を読み進めているような気がします。

今年は、約1週間程前から4福音書のイエス様ご降誕に関する箇所をマタイの福音書から順に読み始めました。固有名詞、特に人の名前にメッキリ弱い私は、今まではマタイの福音書の1章はさーーーっと目を通す箇所だったのですが、今回始めて、1章2節~17節のアブラハムからダビデ王までの14代
ダビデ王からバビロン移住までの14代、バビロン移住からイエス様のご降誕までの14代
という系図に目が留まりました。そこで、その系図や背景、そして旧約聖書にあるイエス様ご降誕に関する預言箇所を来週あたりから読み始め、賛美と共にクリスマスに備えたいと思います!

1年の中でも一番華やかなイベント、クリスマス☆
私達の救いの為にこの世に来てくださったイエス様のご降誕を、大いに喜び、お祝いしましょう!♪

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」  このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。  「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) (マタイの福音書1:21-23)

(KS)

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2017.11.29 14:21 | その他
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  神が不変であるというのは、神の性質は永遠に変わらないという教えです。神の人格、属性、存在は変わることがありません。神は常に愛であり、聖であり、義であり、全知・全能であり、また遍在される方です。これらは神の性質なので決して変わることはありません。では、私たちは"言の受肉"と神の不変性の教義をどのように調和させることができるでしょうか。その答えは、三位一体と受肉、そしてキリストの二性に関する教義を理解する必要があります。
  三位一体の教義は、唯一の神が父・子・聖霊という三つの人格において存在するというものです。子(イエス)は言が肉体となられた方です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。・・・・・(ヨハネ1:1、14)」。 
  聖書はまた、イエスが二つの性質を持っておられることを教えています。つまりイエスは神であると同時に人であるということで、これは"位各的結合"の教義として知られています。イエスは、今なお神であり人でもあるということです。イエスは一人の人として二つの性質を持っておられ、一人の内に神性と人性が結び合わされているのです。この結びつきによっても神性は全く変わらないのです。
  そこで注意すべきことは、神性が人性と結合し、神人間とも言うべき新しい性質の存在になったというのではないのです。それはキリスト単性論(monophysitism)として知られるもので間違った考えです。この二つの性質は、互いに関わり合い、それぞれの属性が一人の方のものとされているのです。これはラテン語でcommunicatio idiomatumと呼ばれていますが、このラテン語の熟語は"特性の伝達"を意味する言葉で、言い換えれば、キリストのうちに神と人とのそれぞれの属性があるということです。
  たとえばその証拠として、ヨハネ17:5で、イエスは「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」と言っておられますが、人間イエスは、世が造られる前に父のそばで持っておられた先在と栄光を所有する権利を主張しておられるのです。これはイエスが神と人との二つの性質を持ち、神性の特質が一人の人キリストのうちにあるからです。
  言(ロゴス)は、他のものがその性質に加えられても変わりませんでした。受肉に関して言えば、それは神であるキリストの位格の中に人性が加えられることによって二つの異なる性質がイエスの内に同時に存在するようになったということです。
  ですからパウロは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており(コロサイ2:9)」と言っているわけです。ここでは神の不変性が問題となっていますが、言は人性と混合することによって新しい第三のものに変わらなければなりませんでした。これは、それがもはや"言"ではなくなったことを意味します。それは"言が人となった"性質であり、神であると同時に人間であるという、新しい第三のものです。
  さらに受肉の教義は"神の言"のいかなる変化も否定します。それは単に"言"が肉体となった(その性質が変わったという意味ではない)のであり、"言"が人性と共にキリストの位格の内に宿り、そのためにイエスは二つの異なる性質を持っておられるのです。
  したがって、私たちは神格がキリストの受肉を通して人間の属性にあずかったと結論付けることができます。しかし、神格は全く変わってはいないのです。

LVJCC牧師:鶴田健次


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2017.11.27 01:00 | キリスト教 Q & A

牧師室より#362「天の故郷を目指そう」_convert_20171125034554 


『天の故郷を目指そう』(へブル11:1-16)

 

 松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年もまた旅人なり」という有名な言葉があります。これは、月日というのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、また来ては去り、去っては来る年も、同じように旅人であるという意味です。  


 このように、人生が旅であり、私たちは旅人であるという考え方は、日本人には馴染み深いものです。しかし、日本の思想では、人生の旅の行き着く先が見えません。それに対し、聖書は、はっきりと行き先を示しています。それは「天の故郷」です。


 パウロは「わたしたちの国籍は天にある」と書いていますが、クリスチャンの人生は常に天国を目指して進む旅であるということができます。そして、その旅を最も幸いな旅にするために必要なものが信仰なのです。 


 ①信仰とは、見えないものを信じること

   

 ヘブル11章1節にあるように、信仰とは、まだ見えていない将来のものを、もうそこにあるかのように見ることです。すべての偉大な働きは、誰かが前もって、まだ見えていない将来のものを見るというところから始まっています。


 たとえば、もしジョン・ F・ケネディが、『人間を月に立たせよう』と言わなければ、誰も 月面に立てなかったでしょう。クリストファー・コロンブスは、地球が丸いと信じ、航海を続けていれば、いずれ地図に載っていない国を発見できると疑いませんでした。だから、その考えを信じない船員たちがどれだけ反対しても、彼は航海を続け、ついにアメリカ大陸を発見できたのです。  


 信仰とは、まだ見ていないものを信じることです。しかも何も見えないところで、それを信じることです。聖書の世界は、『信じれば見える』という世界です。信じなければ見えない世 界があります。また、信じなければ、目標に向かい続けることもできないのです。

    

 ②信仰とは、惜しみなく捧げること

  

 11章4節を見ると、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」とあります。


 ここで解かることは、捧げることと信仰は切り離せない関係にあるということです。献金は信仰のバロメーターと言われます。それは神を第一にしているかどうかを見る具体的な方法だからです。私たち創られた者にとって、創り主なる神を第一にすることは何よりも大切なこと で、それが祝福の道であり、創造の秩序です。  


 また、私たちはその秩序に従って生きるときに祝福されます。ですから、神は私たちが祝福された人生を生きるように、私たちが神を第一にすることを導かれるのです。神は、私たちのために命を捨てて下さった主イエス・キリストに心からの感謝と献身の心で捧げる者に霊的祝福と経済的祝福を約束しておら れるのです。   


 ③天を待ち望む信仰

   

   ピリピ 3章20節に、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」とあります。


 死後の事について、私たちはしばしば希望的観測として天国に行きたいと言 いますが、ここで言われているのは、そういう意味ではなく、もっと確かなものとして、「私たちの国籍は天にある」と語られています。なんという希望に満ちた約束でしょうか。 


 9節を見ると、「アブラハムは約束された地に他国人のように住み、また天幕生活をした」とありますが、なぜ神はアブラハムを召された時、住み慣れた土地から導き出して、旅人、また寄留者としての生活をさせられたのでしょうか。それは信仰によって、彼が神を仰いで生きるということに目が開かれるためでした。


 旅人や寄留者は、普通ならば、必らず元の場所に戻るのですが、アブラハムや信仰に生きた人たちは戻ることもできたのですが、戻ることをせず、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故 郷にあこがれたのです。


今日の一言:天の故郷を目指そう


鶴田健次 



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2017.11.25 03:46 | 牧師室より

Tanks Goda


私はクリスチャンになるまで、感謝は、感謝できる時だけしかしていませんでした。

だから、うまく行かなかった時や問題が起きた時には、「厄介なことになったな!」とガックリし、後始末や、やり直しや、他の方法を考えたりすることが負の時間のように感じたりしていました。そんな時に感謝するなんて、考えることがありませんでした。「ま、いい勉強だったのかな、次はうまくやろう」と思うのがせいぜいでした。

 

その後、聖書を知り、宇宙とこの地球と人間を創り、人々を愛してやまない真の神様の存在を知ってからは、価値観が天地を逆にした程変りました。

朝眠りから目覚めた時や一日が終わって休む時、健康に食事ができる時、何不自由なく生きているいことなど、当たり前に繰り返される中に神様の守りがあることを知り、感謝する日々となりました。

 

創り主が私たち人間を大切に思っていることは聖書の随所から知ることができますが、その創り主なる神様に感謝する事で、私たちの体にもたらす健康効果は、実は計り知れないほど良い影響を及ぼしていると、なにかで読んだことがあります。

感謝することは内面を穏やかにし、健やかにし、体内の臓器や細胞に至るまでその効果が行き渡るのだそうです。内面の効果は外見にも現れ、更に健康で優しい感じになることが上げられていました。

 

私たち人間は、創造主である神様がご自身に似た者として創られました。そして、「はなはだ良かった」と仰いました。ということは、神様はその出来栄えに満足しておられる、という事でしょうか。

そして、海と空と地にいる生き物とを治めよ、と言われ、人間に大きな使命が与えられました。神様が仰ったのですから、私たち人類はそれができる術も与えられているはずです。

そして今、神様から任された私たちが住む地球はどうでしょう。海と空と地にいる生き物は、人間に守られるどころか住むところを追われ、人間が作り出した有毒で危険なものに命が奪われ絶滅したり、危機状態にある生き物ばかりです。

 

そのような時代に生きる罪びとの私達ですが、それでも神様は親が子を思うように、私たちを愛し、私たちを尊い存在だと仰ってくださいます。

どんなことがあっても、神様は決して変わることがありません。それを信じるなら、状況に左右されることなく、神様のゆえに全ては益に変えられるとの確信が与えられ、感謝できる心を失うことがありません。

 

聖書は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と教えています。

 

(MU)

 

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2017.11.22 17:35 | 証し
relaxGod is in control 
このBlogの執筆を通して、色々な写真素材を見るチャンスが与えられています。
その中で、私が一番好きであり、大切にしている(していた?)写真が、冒頭の写真です。

現代に生きる私たちは、日々様々なTo Doに振り回され、神の臨在を常に感じて生活をするのがとても難しい環境にあると思います。

忙しい→目の前にある事に振り回される→大切な事に気づかず、遠回りの多い生活をする→自分でどうにかしようとする。
そんなネガティブスパイラルが私の生活の様な気がします。

数年前の私は、主に私の心を明け渡したい!と思ていたのに、いつの間にか自力でシャカリキ!に生活をしています。

久しぶりに、プリントアウトしたこの写真が山のような書類の中から出てきたので、もう一度、デスクの前の一番目に付く所にこの写真を貼り、主に私の心を明け渡し、平安の中で生活ができるようにしたいと思います。

イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。(ルカの福音書5:3-6)

… relax … God is in control    

(KS)

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2017.11.21 04:44 | その他

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