
『クロノスとカイロス』
現代はスピードの時代、また競争の社会ですから、何でも急かされるビジネスマンにとって、いかに時間を有効に使うかは重要な課題です。たとえ能力が同じでも、時間の使い方が上手な人は、より多くの仕事をすることができます。もちろん、ビジネスマンだけでなく、時間を大事にすることは誰にとっても必要なことです。
昔から、時間にまつわる諺がたくさんあることを思えば、時間の大切さというものを多くの人々が認識していたことがよく分かります。私たちに与えられている人生という時間は無限ではありません。時間を大切にするということは、生きるということを大切にすることであり、時間を無駄にするということは、生きるということを無駄にしていることです。
ではご一緒に、時間、また時ということについて考えてみましょう。
①二種類の時間
新約聖書の原語であるギリシャ語には、クロノスとカイロスという二種類の時間を表す言葉があります。クロノスというのは、時計などで計ることのできる時間のことです。つまり、今日は何年何月何日であるとか、今は何時何分であるとか、そういう時間をクロノスと言います。現代人の多くは、このクロノスという時間に縛られています。
ところが、農村や漁村の人々は、今日は雲行きが怪しいから漁は休みだとか、今年は暖かいから早めに収穫の時期が来たとか、必ずしもクロノスに縛られているわけではありません。そもそもクロノスというのは人間が時計を発明して作った人間の時間であり、もともと自然界には時計は存在しません。あるのはカイロスという時間で、それは人間が作ったり、管理したりできない時間です。
つまり、管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間が作った時間であるのに対して、カイロスは神が備えられた時間であり、人生という時間を大切にするためには、このカイロスを大切にして生きることが大切なのです。
②キリストは初めであり、終わりである
ヨハネの黙示録1章17-18節に、「恐れるな、わたしは初めであり、終わりであり、また生きている者である」というキリストの言葉があります。キリストは初めであり、終わりです。つまり、キリストによってすべてが始まり、キリストによってすべてが終わるという時間の流れがあるのです。それが神の時、カイロスです。
ですから、この世界も、また私たちも、そのカイロスの中に存在しているということが分からなければ、自分の人生がどこに向かって進んでいるのかが見えて来ないのです。
ヘブル書1章2節では、「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」と言われています。
キリストが万物の相続者であるということは、すべての物の目的がキリストにあるということ、またキリストが世界の創造者であるということは、この世界の起源がキリストにあるということです。つまり、世界とその中のすべてのものはキリストに始まり、キリストに帰するのであり、そういう神の時の流れの中に、この世界は存在し、また私たちは生きているのです。
③神のなさることの美しさ
伝道の書3章11節で、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と言われていますが、私たちの人生は、その定められた時に、定められた事をなすかどうかで大きく変わってきます。
3章2節に、「植えるに時があり、植えた物を抜くに時があり」とあるように、農作物を植える場合、いつ植えてもいい訳ではなく、定められた時期に植えなければなりません。また植えたものをいつでも収穫できるのではなく、定められた時期に収穫しなければなりません。
つまり、自分たちの思い通りの時(クロノス)にではなく、定められた時(カイロス)に、定められた種を蒔けば、良い収穫が保証されるのです。なぜなら、その定められた時に基いて神が美しい業をなさるからです。
今日の一言:カイロスを大切にして生きよう
鶴田健次
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『十字架のことば』
以前から、多くのアメリカの教会を巻き込んでいる非常に困った動きがあります。それはシーカーズ・フレンドリーと呼ばれるもので、人々に直ぐに福音を語らずに、先ず友達になり、愛をもって受け入れてから福音を語ろうという考えです。
もちろん、この方法は、ほとんどの教会が昔からやってきたことですが、シーカーズ・フレンドリーというのは、それとは違うのです。彼らの主張はノンクリスチャンが嫌う罪の話や、地獄の話、悔い改め、などの話を一切しないで、ただ神の愛だけを語ろうということで、その結果は、今まで健全であった多くの教会が世俗化し、霊的な力を失わせています。
使徒パウロは、十字架に付けられたキリストだけを語り続けました。それは十字架のことばこそが神の力であり、聖霊が人々の心を悔い改めに導くために用いられるものだからです。
①神の知恵で知る十字架の奥義
コリント人への手紙には知恵という言葉が頻繁に出てきますが、これらの知恵は二つの種類に分けることができます。それは、『この世の知恵』と『神の知恵』です。
ギリシャ人に代 表されるこの世の知恵は、偉大な神の存在を自分の頭で理 解しようとしました。そこで神は、誰にでも認められる人間の姿をとって人々の前に来て下さり、神が人となられたという愚かな“たわごと”にしか聞こえない、謙遜の限りを尽くした愛のメッセ ージによって信じる者を救うこととされたのです。
しかし、この愛のメッセージが心に響くには、私たちが罪人としての自分に気付かなければなりません。もちろん、自分の頭で罪を理解しても、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、それではこの愛のメッセージは心に響きません。聖霊の働きによって心から自分の罪に目覚める時に、私たちはこの愛のメッセージに言い知れぬ感動を覚えるのです。これが私たちを救う神の知恵です。
②十字架のことばは神の力
使徒パウロはヨーロッパに福音を宣べ伝えましたが、そこで彼の働きを阻止しようとして彼の前に立ちはだかるものがありました。それはギリシヤ哲学でした。ギリシャ哲学に傾いた人々は弁論が得意で、『知恵のことば』を求めました。
しかしパウロは、「私は知恵のことばではなく、十字架のことばを語る」と言いました。なぜパウロがそう言ったかというと、『十字架のことば』にしか人を救う力がないからです。
第一コリント1章18 節に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」とあります。
さらに24節には、「しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」とあります。
これは、『十字架のことば』こそが人を救う『神の力』だということです。いくら『知恵のことば』を用いて人を感動させても、それでは人は救われません。人間の『知恵のことば』には人を救う力がないからです。
③天国と地獄
神の言葉である聖書は、死んだ後に永遠の世界があることを明らかにしています。それは人間がどんなに考えても知り得ない世界であり、人間を造り、死後の世界を支配しておられる神だけが知る世界です。
その聖書によれば、死はすべてのものの終わりではなく、死んだ後に永遠の世界があることが分かります。そして、その永遠の世界には二つの世界があり、義人(罪のない人)は天国に行き、罪人(神の戒めを破った人)は地獄に行くことが定められているのです。
そこで問題は、あなたは義人であるか、それとも罪人であるか、ということです。それに対して、聖書は、「すべての人が罪を犯した」と宣言します。つまり、生まれながらのすべての人は、その罪のために永遠のさばき(地獄)が定められているのです。
そこで愛の神は、人間の罪をさばくために、御子イエス・キリストを身代わりとして十字架につけ、信じるすべての者の罪を赦し、救いの道(天国への道)を開かれたのです。
今日の一言:十字架のことばだけが人を救う
鶴田健次
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