LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

jesus-praying.jpg 

 これはよくある質問ですが、この答えは三位一体の神とイエスの受肉についての正しい理解があれば解かることです。三位一体は、すべてのものの存在の中で神は唯一であることを教えています。また、この唯一の神は父と子と聖霊の三つの人格を持っておられます。この三つの人格は、三つの神ではなく、一つの神です。それぞれが別の人格ですが、その本質において、それぞれが神の性質を持っておられます。

 たとえば時間の概念を見ることによって、三位一体の概念を類推することができます。時間には過去・現在・未来があります。そこには時間に関する三つの側面がありますが、これは三つの時間があるのではなく、ひとつの時間です。それぞれが別のものですが、ある意味では、それぞれが同じ性質、また本質を共有しています。同様に、三位一体は、同じ本質を共有する三つの人格なのです。

 あるいは、H2Oは水の化学式ですが、氷も水蒸気もその化学式はH2Oです。つまり、液体の水と個体の氷と気体の水蒸気は同じものではありませんが、その本質は全く同じでH2Oなのです。そのように、父と子と聖霊は別の人格ですが、その本質は同じで神ご自身なのです。

 次に神の子の受肉について考えてみたいと思いますが、キリスト教の教えにおける「受肉」の教義は、イエスを三位一体の第二位格の子なる神が人間になられた方であるとします。聖書は、イエスは人となった神である言うのです。

 つまり、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(ヨハネ1:1、14)」とあるように、イエスには、完全な神、また完全な人間という二つの性質があるのです。これを「キリストの二性」と言います。その聖書的根拠は以下のとおりです。

イエスは神である:
① イエスは礼拝される方(マタイ2:2、11、14:33)
② イエスは祈られる(使徒7:59)
③ イエスは神と呼ばれた(ヨハネ20:28)
④ イエスは罪がない(1ペテロ2:22、へブル4:15)
⑤ イエスはすべてを知っておられる(ヨハネ21:17)
⑥ イエスは永遠の命を与えられる(ヨハネ20:31)

イエスは人である:
① イエスは父なる神を礼拝した(ヨハネ17章)
② イエスは父なる神に祈った(ヨハネ17:1)
③ イエスは人だと言われた(ヨハネ19:5)
④ イエスは誘惑された(マタイ4:1)
⑤ イエスは死んだ(ローマ5:8)
⑥ イエスには肉体を持っていた(ルカ24:39)

 したがって、人間として、イエスは祈る必要がありました。そしてイエスが祈られたとき、それはご自分に対して祈られたのではなく父なる神に祈られたのです。人間イエスの地上での生活はキリスト者の完全な模範です。

 つまり、イエスが祈りを通して父なる神との生きた交わりを持ち、知恵と力を得ておられたように、私たちキリスト者も祈りを通して神との生きた交わりを持つことができ、知恵と力をいただくのです。


LVJCC牧師:鶴田健次

ブログランキングに参加しています。
「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただけますと幸いです。
FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」「シェア」のクリックもお願いします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨


2017.10.30 11:00 | キリスト教 Q & A

牧師室より#358「クロノスとカイロス」_convert_20171028011533 


『クロノスとカイロス』

 

 

 現代はスピードの時代、また競争の社会ですから、何でも急かされるビジネスマンにとって、いかに時間を有効に使うかは重要な課題です。たとえ能力が同じでも、時間の使い方が上手な人は、より多くの仕事をすることができます。もちろん、ビジネスマンだけでなく、時間を大事にすることは誰にとっても必要なことです。


 昔から、時間にまつわる諺がたくさんあることを思えば、時間の大切さというものを多くの人々が認識していたことがよく分かります。私たちに与えられている人生という時間は無限ではありません。時間を大切にするということは、生きるということを大切にすることであり、時間を無駄にするということは、生きるということを無駄にしていることです。


 ではご一緒に、時間、また時ということについて考えてみましょう。   


 ①二種類の時間   


   新約聖書の原語であるギリシャ語には、クロノスとカイロスという二種類の時間を表す言葉があります。クロノスというのは、時計などで計ることのできる時間のことです。つまり、今日は何年何月何日であるとか、今は何時何分であるとか、そういう時間をクロノスと言います。現代人の多くは、このクロノスという時間に縛られています。 


 ところが、農村や漁村の人々は、今日は雲行きが怪しいから漁は休みだとか、今年は暖かいから早めに収穫の時期が来たとか、必ずしもクロノスに縛られているわけではありません。そもそもクロノスというのは人間が時計を発明して作った人間の時間であり、もともと自然界には時計は存在しません。あるのはカイロスという時間で、それは人間が作ったり、管理したりできない時間です。


 つまり、管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間が作った時間であるのに対して、カイロスは神が備えられた時間であり、人生という時間を大切にするためには、このカイロスを大切にして生きることが大切なのです。   


 ②キリストは初めであり、終わりである   


   ヨハネの黙示録1章17-18節に「恐れるな、わたしは初めであり、終わりであり、また生きている者である」というキリストの言葉があります。キリストは初めであり、終わりです。つまり、キリストによってすべてが始まり、キリストによってすべてが終わるという時間の流れがあるのです。それが神の時、カイロスです。


 ですから、この世界も、また私たちも、そのカイロスの中に存在しているということが分からなければ、自分の人生がどこに向かって進んでいるのかが見えて来ないのです。 


 ヘブル書1章2節では、「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」と言われています。


 キリストが万物の相続者であるということは、すべての物の目的がキリストにあるということ、またキリストが世界の創造者であるということは、この世界の起源がキリストにあるということです。つまり、世界とその中のすべてのものはキリストに始まり、キリストに帰するのであり、そういう神の時の流れの中に、この世界は存在し、また私たちは生きているのです。   


 ③神のなさることの美しさ

   

   伝道の書3章11節で、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と言われていますが、私たちの人生は、その定められた時に、定められた事をなすかどうかで大きく変わってきます。


 3章2節に、「植えるに時があり、植えた物を抜くに時があり」とあるように、農作物を植える場合、いつ植えてもいい訳ではなく、定められた時期に植えなければなりません。また植えたものをいつでも収穫できるのではなく、定められた時期に収穫しなければなりません。


 つまり、自分たちの思い通りの時(クロノス)にではなく、定められた時(カイロス)に、定められた種を蒔けば、良い収穫が保証されるのです。なぜなら、その定められた時に基いて神が美しい業をなさるからです。


今日の一言:カイロスを大切にして生きよう


鶴田健次



下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。


✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2017.10.28 01:18 | お知らせ
kříž-modlitba 

はじめまして、新しくBlogの御奉仕を与えられたKMです。最初のBlogは、1.救われる前の自分について 2.どのようにしてイエス様を信じるに至ったか 3.これからどのように生きていきたいか という観点から自己紹介も含め書かせていただこうと思います。

「救われる前の自分について」
これは私がこのラスベガス日本人教会に来る少し前の話になります。

2014年12月に勤めていた旅行会社から解雇通知が言い渡されたため、その会社を去ることが決まりました。仕事上でのミスの連続、学校と仕事のバランス調整不足、その上、英語の能力不足などが重なった事が原因でした。
解雇されたその日、妻に報告したところ、彼女を怒らせてしまいました。。さらに、その頃は、プライベートでも、学校の成績の事や経済的な事で妻と衝突しあっていました。そこに、私が仕事を解雇されたので、まさに火に油を注いだ状態になってしまいました。そのため、一時的に仕事を見つけるように妻から指令が出たため、仕事探しを始めました。しかし、行く先々でうまくいくことはありませんでした。

仕事探しにプライオリティを置いていましたが、後日、このラスベガス日本人教会に行く事にしました。
その日の鶴田先生の説教は「赦し」についてでした。その時に初めて、キリスト教の事や聖書のことを知りましたが、先生の説教内容を聞いた時に、心の底から納得し、その後教会に毎週行くようになりました。
そして、教会に行きだしたある日、ある会社で自分が勘違いをしたために、会社の所有物であったジュース1本を盗んでしまいました。たった1本のジュースでも、人の物を盗ってしまった事に変わりはありませんでした。
なぜ、その場で謝らなかったのか?とみなさんは思われるかもしれません。ただ単にその時は自分が盗った事実を隠したかったからというのが本音です。
後日、その会社の方は自分を問いただしましたが、私はすぐに真実を打ち明ける事が出来ず、わかりやすい嘘をついてしまいました。
私は、今でもその事を思い出しては、何と愚かな事をしてしまったんだろうと後悔しています。大変申し訳ない事をしてしまいました。その後、その会社の方から、辞表を書いて辞めるように促されました。
私は、この会社の業務内容が当時の自分のスキルよりも、高い物を求められていると感じていたこともあって、辞表を書く事にしました。その時、もうこんな状況に二度となりたくないと思いました。
それと同時に、「正しく生きたい」という思いが芽生えました。この正しさというのは、道徳的に言う正しさではなく、人間が決めるのではない別次元の絶対的な正しさを意味します。もし、人間の道徳的な正しさを求めてしまうのであれば、また同じことが起こる可能性があるからです。救われる前の私は、これらの出来事のように、世間的に言われている良い事、悪い事をしてきただけでした。

その出来事などが神様と私を永遠にへだてる十分な理由、つまり罪になります。罪とは、神様に反して生きる事です。なぜなら、神様は聖なる方なので、罪を全く受け付ける事ができず、その罪を絶対にさばかれるお方だからです。聖書にこうあります。「そして人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル人への手紙9:27)」ですから、私は神様から有罪判決を言い渡され、永遠の苦しみに至ることが確定していました。

このBlogを通して皆さんの前で自分の過去の罪の告白をした理由は、2つあります。
1つは「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(ヨハネの手紙 第一 1:8-10)

もう1つは、私も聖書の中に登場している人物達と何1つ変わらないという事を皆さんに伝えたかったからです。なぜなら、私がある方達から、信仰深い人と思われる事があるようで、全くそんな事はない、と伝える必要があると思ったからです。
ただ私が救いに導かれたのは、神様のあわれみによります。ここまでが「救われる前の自分について」です。

次回は、「どのようにしてイエス様を信じるに至ったか?」について11月1日のBlogでお伝えいたします。

(MK)

下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。

✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
2017.10.26 04:50 | 証し

FC2Ad

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.