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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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宇宙に浮かぶ美しい地球


 真っ暗な宇宙空間に浮かぶ青い地球。人類初の宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と言いました。宇宙飛行士が撮った地球の写真を見れば、地球が青い球体であること、また、その地球が宇宙空間に浮かんでいることが誰にでも分ります。ところが、現代人にとっては当たり前のこの事実が、古代人にとっては考えられもしないことでした。


 古代人が宇宙を意識し始めた初期の頃は、彼らにとっての宇宙は、自分たちが住んでいる地球上のそのまた限られた地域に限られていて、宇宙の果ては海であったり、山であったりというものでした。


 たとえば、古代メソポタミア人は、大地の周りを高い山々が取り囲んでいて、天空はその山の上にのっているという風に考えていました。彼らの考えによると、太陽は天空を横切って、地下のトンネルをくぐった後に、再び東からの昇ってくるのだということでした。また、それ以外にも、古代バビロニアの宇宙観、古代エジプトの宇宙観、古代インドの宇宙観、古代中国の宇宙観など、古代の人々は、それぞれに独自の宇宙観を持っていましたが、そのどれもが今の私たちから見れば非常に幼稚なものでした。


 ところが、神の言葉とされている聖書は、今から3000年も昔に、すでに地球を宇宙空間に浮いている存在として描いています。


「彼(神)は・・・・地を何もない上に掛けられる」(ヨブ記26:7)


 当時は、もちろん人工衛星もないわけで、地球の外から地球を見ることなど不可能な時代でした。しかし、そのような時代に、聖書は既に、地球が宇宙空間に浮かんでいるという事実を明らかにしているのです。すべての人々が幼稚な宇宙観しか持ち得なかった時代に、現代人にしか知り得ないことを聖書が明らかにしているという事実は、まさに驚くべきことです。それは、時間を超越して存在する神が、その存在を示すために、後の時代にならなければ分からないことを、こうして明らかにしておられるのです。


 聖書の中の天地創造に関する記述(創世記1章)は、多くの人々に非科学的であると言われ、嘲笑の的にされてきたものです。人々は、長い間、地球、海洋、大気、大陸などの起源に関して、それが全くの空想的なものであるにもかかわらず、科学者(?)と称される人々の学説を根拠もなく支持してきました。しかし時代が進み、自然科学者たちの目覚しい研究成果によって、彼らの学説は空想的なものから科学的根拠に基づくものに変えられてきました。ところが何と、その彼らの研究成果は、聖書の記述内容を否定する方向よりも、それを裏づける方向に向いているのです。


 そこで聖書を神の言葉と信じる科学者たちは、自然科学の学問が完成に近づけば近づくほど、その学説は聖書の記述内容をさらに証明するものになると信じています。なぜなら、自然科学の学問は、神によって創造された自然界に見られる普遍的な法則性を探求するもので、神が創造された自然と、神が記された創造に関する記述は一致する筈のものなのだからです。


今日の一言: 聖書は最大の科学の書


鶴田健次


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2017.09.30 08:34 | 牧師室より

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少し前のことですが、今年の夏は、ユースのマウントハーモンキャンプの引率のために、カリフォルニアに向かう機会が与えられました。行きの引率任務を終えて、数日で帰路に着く予定であった私でしたが、実は神様はこの私に、まったく違う計画を用意してくださっていました。


まずは、せっかくカリフォルニアに行くので旅先では別のアジェンダを用意していたはずなのに、それらがことごとく変更となり、マウントハーモンのキャンプ施設に留まり、結局並行して開催されていた大人の修養会に部分参加させていただく流れとなったことです。


そしてそれに伴い、宿泊施設もキャンプ場から歩いて5分ほどのところにある、Bed & Breakfastのお家の一部屋に空きができたから、使わないかというオファーをある方からいただたので、事前に手配していた宿をキャンセルして、シアトルからいらした中国人のカップルと数日お家を共有することになったのです。今になって思うのは、まさに神様の必然的なご計画としか思えない出会いを実現させるために、神様がいろいろ配慮してくださったのだと知りました。このカップルとの出会いから、神様は私にとても大切なことを伝えてくださいました。


ある夜、奥様のM姉は、2人の息子さんが思春期を通った時のことをこのように話してくれました。


「子供達が思春期の時は、気がついたことを子供に話せば話すほどぶつかり合って、討論が絶えず、お互い疲れ果てた状態が続いた時があったの。それで、ある時から、私は子供たちに直接話すことをやめて、ただ神様に子供達のことを祈ることにしたの。神様、このことをXXに伝えてくれませんか?とか、神様、あの子のこういうところに苛立ちを覚えるのですが、なんとかしてくれませんか?。。と言うように。。。子供達に、神様を通して間接的に話すみたいに、ただただ祈ることだけに専念したのよね。」


それからと言うもの、子供達に変化が見え出したそうです。自分たちに一切苦言を言わなくなった母親に対して、優しさや思いやりも見え隠れし出したそうです。そして祈る母の姿を見て、自分が祈られていると体感するようになっただけでなく、さらには、今度は子供たちも祈るようになったと言うのです。


このように祈りの大きな力について、証ししてくださいました。


なるほど納得のいくお話を聞いた私も、早速神様に子供のことを話すことを始めてみました。時には、子供に対する愚痴セッションに発展してしまいそうな祈りの時もありますが、直接子供に伝えるよりは、いつも忍耐をもって私の話を聞いてくださる神様に話す方が断然話しやすいし、効果的です。そんな愚痴セッションの終わりには、神様は子供にではなく、私自身に気づきを与えてくださることがほとんどです。


またM姉は、Moms in Prayer Internationalというミニストリを紹介してくれました。


このミニストリーは、同じ学校に通う子供たちのママたちが集まって、生徒、教員、学校関係者、学校施設などなど、子供達に関わるすべてについてグループで祈ることを実践しているミニストリーで、各学校ですでに結成された祈りのグループに参加するか、まだその学校にグループがない場合は、発足するためのリーダー育成など世界的に幅広く活動し、祈るママたちを支援しています。


特に霊的仮死状態とも言われる今の時代を生きる子供たちには、「祈り」がとても必要だといままで以上に実感じています。また私たちの目では見ることのできない霊の戦いに勝利する最も大切な鍵となるのも、「祈り」です。そして、何よりも自分が祈る親にならなければいけないと気づかされました。


この大切なことを教えてくださるために、必然的な出会いを実現してくださった神様に感謝です。


私たちの教会では、毎週、月、水、金朝6時半からの早天祈祷会、水曜夜6時半からの祈祷会に加え、先週から水曜昼10時からの祈祷会が始まりました。ここ数年ずっと参加できておらず、まだまだ祈りの生活が確立できていない私ですが、久しぶりに昼の祈祷会に参加できるようになり、この祈りの力を体験できました。これからもますます、一緒に祈るたくさんの兄弟、姉妹、そしてママたちに励まされ、一緒に祈る機会が起こされていくことを楽しみにしています。


何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 第一ヨハネ5:14


YK



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2017.09.28 06:32 | 牧師室より
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 聖書は神の霊感によって書かれた神のことばですが、それはBC1500年から1600年もの歳月をかけて書かれたこともあり、聖書の著者と私たちとの間には、時間的にも文化的にも地理的にもいろいろな隔たりがあります。

 したがって、著者の意味するところ、また神ご自身が意図されたことを正しく理解するためには、そこに書かれている事柄の歴史的背景を知り、当時の風俗、習慣を知り、さまざまな地理的要素を知る必要などが生じてきます。そこに聖書解釈学の必要性があります。

 確かに、そういう事を知らなくても理解できる聖書箇所もあります。しかし、ではなぜ私的解釈や異端的解釈が生まれるのかというと、それはすべて聖書解釈の原則を無視しているからです。ですから、聖書を正しく読み、正しく理解するためには、聖書解釈の原則を知る必要があるのです。

 聖書は、それ自体に、聖書を理解する手がかりが含まれています。従って、聖書は聖書によって解釈すべきであり、他のいかなる解釈の枠組にも依存してはならないのです。そこで新約聖書によって旧約聖書を、旧約聖書によって新約聖書を解釈する中で、以下のような原則を知っておく必要があります。

文脈を読む
 まず聖書を解釈する最初の原則は、文脈を読むという原則です。聖書の中のどのような記述も、文脈から切り離して解釈してはなりません。この原則によってこそ、新約聖書と旧約聖書は互いを解釈し合うことができるのです。(例)ヘブル書2章6-9節は詩篇8篇4-6節を解釈しています。

普遍性の原則
 聖書の記述は普遍的なものであり、啓示された真理は、いつの時代にも適用されるものです。また聖書はすべて、神の霊感によるものなので、ただ普遍的であるだけでなく、常に私たちの必要を満たしてくれるものです。ですから私たちは、置かれた状況に神の御言葉を合わせようとするのではなく、いつも御言葉の教えに従って行動するよう努めなければなりません。

聖書の記述に基づくこと
 聖書を正しく理解するためには、聖書が語っていないことに基づいて論じるべきではありません。新約聖書には、神の計画の完全な青写真があります。ですから、それに基づき、それに従うことが大切なことです。聖書に書かれていないことを主張すれば、聖書がすべての点で十分であることを否定することになります。

最初に記された記述の重要性
 私たちは最初に記された記述の重要性を軽く見てはなりません。一つの真理に関する最初の記述には、その真理の重要な要素が含まれており、聖書の他の部分で神の啓示が示されていくにつれて、それがさらに詳しく説明されています。(例)アブラハム契約

文法の原則
 言葉が意味を持っている以上、言葉の文法を理解することにも注意を払わなければなりません。聖霊は、文法も注意深く用いられました。たとえば、ガラテヤ書3章16-18節においてパウロは、「子孫」という名詞が創世記17章7節では複数形ではなく単数形であるという事実から、正しい解釈と誤った解釈との区別をつけることができました。

時間的隔たりの原則
 聖書が記された当時と私たちの間には、時間的な隔たりがあります。したがって、当時の人々にとっては普通の事が、今を生きる私たちには理解できないということがたびたび起こります。ですから、そこに書かれていることの歴史的背景を知る必要があります。

文化的隔たりの原則
 聖書の多くは、ユダヤ文化という文脈の中で書かれています。ですから、当時のユダヤ人たちの習慣や言語を知ることも、そこに記されていることを正しく理解するためには重要なことです。

地理的隔たりの原則
 聖書の中には、パレスチナの地形や気候を前提に語られたものが多く見られます。特にイエス様のたとえ話などは、その前提で語られていることが多いので、当時のパレスチナの地形、気候などを理解する必要があります。

記述の量が重要性の目安
 あるテーマが神と神の民について重要である場合、聖書の多くの部分がそれに費やされています。信仰、義認、十字架、宣教などについての記述が多いことは、これらのテーマが重要であることの証明であり、この原則が正しいことは、聖書が重要な霊的事項については多くの部分を割いていることから明らかです。

区別の原則
 この原則は、文脈の原則と密接な関係を持っていますが、律法と恵みを区別することが必要であるだけでなく、教理的な真理と実際的な真理、救いと報い、イスラエルと集会、二回の来臨、キリストのからだなる教会と信者の地域的な集いである教会との区別なども必要です。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.09.26 06:59 | キリスト教 Q & A

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今日は、”一歩を踏み出す”ことの大切さについて考えてみました。



道は近くても行かねば到達せず、事は小さくとも行わなければ成就しない。


これは中国のことわざですが、まさに、その通りですね。ああでもない、こうでもないと言うだけで、何もせず、いたずらに思い悩んでいても何の役にも立ちません。大事なことは、まず行動を起すことです。


明日こそ、明日こそと考え、ああしたらこうする、こうしたらああすると、いくら胸をふくらませ、夢を広げても仕方がありません。‘こそ話’、‘たら話’はいつまで経っても何も起こらないのが世の常。どんなに小さな一歩でも、まず歩き出すことが大切です。一歩を踏み出せば、必ず先へ進むもの。そして、一歩が千回繰り返されれば、千歩の距離になります。とにかく、どんな目標も、そこに向かって進み続けさえすれば、必ず目標に近づくのです。


旧約聖書の箴言6:6を見ると、「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」とあります。

イソップの「蟻とキリギリス」の寓話は、この聖書の言葉に題材を得て作られたと言われています。この言葉に続いて、
「蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める」とあります。今は勤勉に頑張ることが、ダサいと思われる時代かも知れませんが、蟻を見習いなさい、と箴言は教えています。

生きていることの証しは、人生の目標を掲げ、そこに向かって一歩一歩と近づいていくことではないでしょうか。たとえその目標がどんなものであれ、目標に近づく唯一の方法は一歩ずつの繰り返しであることを心に留めましょう。


もし一日でも動き出すのが遅れると、それだけ後悔する量が増え、それが人生の重荷になるかも知れません。日々、神を認め、神の知恵の言葉に耳を傾け、その御心のうちを歩む、ゆるぎない人生を築いていきましょう。



今日の一言: 神の知恵に耳を傾け、次の一歩を踏み出そう



鶴田健次


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2017.09.22 21:37 | 牧師室より
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「安全と水はタダ」が昔話になった日本』という見出しのニュースが目に入り、「確かに、最近でこそ外出時の水以外でも買った水で調理をしたりする家庭もあるけど、日本の水は安心して飲めてたし、実家の水はとてもおいしかったなぁ~」「最近では安全でおいしい水を求めて中国人投資家が森林を買いあさってるっていうニュースもあるしなぁ~」「確かに確かに、犯罪率ゼロ!とまでは言わなくても、何処に旅行に行くのにも危険度を確認して旅行に行ったり、通常生活で危険を感じたことはなかったなぁ~」「日本も殺人や窃盗のニュースが多くなって来たなぁ~」等と大好きな故郷日本が恋しくなりその記事を読むことにしました。

読んでみると・・・想像していた視点とは全く違う核シェルターに関する記事でした。
LVJCCのBlogでも過去核シェルターを購入する人達を取り扱った記事が過去にありましたが、日本にもその波が来ているとは!

確かに今の状況の下、日本に住んでいたら安全性に不安を感じ始めるだろうなぁ~。私だったらどうするだろう? 当たり前(=タダ)だった安全な生活が当たり前ではなくなってきているのは寂しいなぁ~。 昔の人は防空壕や防空頭巾作ってたなぁ~。生活の安全性という面で見るとアメリカは別の意味で良くないなぁ~ 等一人で色々な事を考え(妄想(?))ました。

妄想は結局「私は救われているから死んでも大丈夫。しかも、この救い・心の平安はタダでいただいたものなんだよなぁ~ 」という所に落ち着きました。

妄想は結局「私は救われているから死んでも大丈夫。しかも、生きている間も神の御手と言う最強のシェルターに護られているし!」という所に落ち着きました。

そうなのです。私はタダで罪を赦していただいているだけでなく、神の御手で守られているのです。更には、私が望むならば御言葉もタダでいただけ、祈ることも、導いていただいていることも、全てタダなのです!

このタダでいただいている全ての事が、安全や水の様にタダでなくなったらどうなるのでしょう?
「日々罪を犯しているから審判される時間を待つだけで一日を終えてしまいそうだし、大小全ての罪を償うだけのお金は払えない・・・」「神の護りが無かったら…行く道が分からない・・・」「祈りを与えていただいた今、祈りの無い生活は・・・不安で不安であり得ないし、お金を払ってお祈りをし始めたら・・・それは買収に当たるよな・・・」「御言葉にお金払うようになったら、おみくじかなぁ~」等と低次元な事を考えていたのですが、こんな低次元な妄想でさえも、今私が受けている恵みの大きさ、そしてこの大きな恵みは、罪深い事に加え自身で罪を贖えない私に対する神の愛のゆえに、主イエスキリストの命と言う尊い代価によっていただいている、という事実を改めて思い起こさせてくれました。

実はここ数か月難題続きで、最初の1か月半は主にすがりながら生きていたのですが、ここ3週間程、毎日聖書に向かったり、改めてちゃんと祈ったりすることができない自分がいます。それによって、生活のバランスが崩れているのも実感しますし、思考も変わってきています。どうにか御言葉と祈りのある生活に戻したいと思いながらも、出来ない自分が居ます。3-4日に一度は詩篇だけとか、箴言、ヨハネの福音書の1章を読んだり数節を読んだり、静まって祈ったりはするのですが、どうしても毎日それを繰り返すことができない生活になっています。
タダでいただけるこの大きな恵みをどうして喜んで受け取れないのか・・・
サタンが大活躍しているのでしょうか?
私は、シェルターは買いませんが、タダでいただける御言葉と祈りの生活を取り戻し、サタンからの攻撃に負けない神の武具を補強すると共に、神の御手に自分を委ねる時期に来ているのでしょう。

私たちに「タダ」与えられている特権として、罪の赦し、祈りや御言葉、そしてもちろん永遠の命がタダではなくなったら、本当に恐ろしくなりますが、これらは実は、神の御子である、イエス様の尊い命という、とてつもなく大きな代価によって実現し、私たちにはとてもじゃないけど支払うことができない高価なものであり、神は愛であるお方なので、到底支払えないものだからこそ、タダで受け取れるようにしてくださったんだという、ここでも神様の愛を感じずにいられません。

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(KS)

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2017.09.21 07:22 | その他

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

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