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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#345「若者は幻を見、老人は夢を見る」_convert_20170729045946 


今日は、"若者は幻を見、老人は夢を見る"という聖書の言葉を考えてみました。


東京に聖路加国際病院という病院があります。この病院に『聖ルカ病院』という名前がついているのは、『ルカの福音書』を書いたルカが医者であったからだそうですが、この病院は、医師であり宣教師であったルドルフ・トイスラーによって開設されました。


ドクター・トイスラーは、この病院にこういう夢を託しました。「この病院は、クリスチャンの愛が人の苦しみを救うために働くとき、人を変える力となるということを誰もが確信するようになるための生きた器官である。」


この創立の精神は今もしっかり引き継がれ、日本で最も進んだ病院として脚光をあびています。この病院をさらに有名にしたのは、日野原重明という人です。日野原先生は1911年生まれで、今年の7月18日に105歳で召天されましたが、生涯、現役を貫かれた方です。


クリスチャンであった日野原先生は、『人生は75歳から』という持論を持ちながら、この病院に掲げられた夢の実現のために頑張って来られました。この『人生は75歳から』というのは、おそらく旧約聖書のアブラハムから来ているのではないかと思いますが、信仰の父と言われるアブラハムは75歳になってから、人類を救う神の計画の担い手として新しい出発を始めました。


モーセが、エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために立ち上がったのは、彼が80歳の時です。それから彼は、120歳で死ぬまでの40年間、イスラエルを約束の地に導くという夢の実現のために力強く生きました。


ヨシュアがモーセの後継者となって、カナンの地を征服するために歩み出したのは、彼が95歳の時です。それから彼は110歳で死ぬまでの15年間、カナン征服の夢を持ち続けながら、夢の実現に向かって進んで行ったのです。


十数年前、世界で大成功を収めた200人の人々に関する研究発表がなされました。その中で、この200人全員に共通するものがありました。それは、彼ら全員が大きな夢を持ち、明確な目標を定め、その目標達成のために歩むことを止めなかったということです。


使徒パウロにとって、すべての人がイエス・キリストの福音を聞くようになることが、何としてでも実現させたい夢でした。ですから、彼は、どんな迫害を受けても、むちで打たれ、石で打たれ、牢獄に入れられても、その夢を追い求めることを止めませんでした。それによって、全世界にキリストの福音が広がる足がかりが出来たのです。


私たちも夢を見る必要があります。教会としても、個人としても、私たちは夢を見なければなりません。しかも小さな夢ではなく、神様が持たせて下さる大きな夢を見なければなりません。小さな夢は小さな働きにしかつながりません。しかし、大きな夢は大きな働き、永遠に関わる結果につながります。


人は年を重ねるにつれて過去を見、うしろを向きがちになります。しかし聖書は、人は聖霊を受けると『若者は幻を見、老人は夢を見る』と言います。皆さんも聖霊を受けて下さい。そして、もっと幻を見、もっと夢を見、祝福の運び手となって価値のある人生を生きていきましょう。



今日の一言:若者は幻を見、老人は夢を見る



鶴田健次  


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2017.07.29 05:00 | 牧師室より
2017年7月24日 (月)のBlogに続き、2017年7月16日、メシアニックジューの教会、Richard Hill 牧師が執り継いでくださった聖書のメッセージの日本語翻訳(第2回)をお届け致します。

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8-9節で、主の使いはハガルに彼女がサラの奴隷であり、彼女はサラの主人としての権威に服するべきであったことを思い起こさせています。これは、この両者の間で確認される第二の問題です。ハガルは最初にサラを見下し、今度は自分にうぬぼれて、サラの権威に服さなかったのです。

このような問題は、神様の導きの中で解決しなければ、侮りと憎しみを産んでしまいます。一族または家庭の中で軽蔑された女性と一緒に暮らすことほど苦しい事はありません。

家庭円満の邪魔になるこれらすべての肉的な問題にもかかわらず、主の使いは、彼女の子孫を増やすという大いなる約束をもってハガルを祝福します(10節)。主の使いは、その数は数えきれないほどになるとさえ言います。世界中のイスラム教徒は、ハガルの息子イシマエルを、イスラム教の重要な予言者また創始者と見なしています。

イスラム教徒たちは、イシマエルを幾つかの傑出したアラブ種族の先祖として認めています。彼らはまた、彼らの予言者モハメッドを偉大な国家と世界支配の構築のための手助けをするイシマエルの子孫と信じています。

世界中のほぼ20億人のイスラム教徒たちのほとんどは、彼らの血縁的また霊的ルーツをイシマエルと彼の父アブラハムまでたどります。ですからハガルは世界中のイスラム信仰の女家長になるのです。

11節で、主の使いは、ハガルが男の子をみごもり、彼の名を「神は聞かれる」という意味の「イシマエル」と名づけなければならないと宣言します。主は彼女が泣くのを聞かれ、彼女の苦しみを心に留められました。また12節では、主の使いは、私が「4つの争いの預言」と呼ぶものをもって宣言し続けます。

最初の争いの預言は、イシマエルが「野生のロバのような人となる」というものです。この比喩は、イシマエルの気が狂ったような態度と混ぜ合わせられた彼の荒々しい無骨な性格を表わしています。野生のロバは、あるいは飼い慣らされたロバでさえ、はっきりした理由もなく自制心を失うことがあるのです。

ある瞬間、彼らは大人しくても、次の瞬間、彼らはまるで彼らの命がそれに依存しているかのように、制御できないほど蹴ったりわめいたりします。これは、イシマエルの性格の特性で、彼は荒々しく自分を制御できなくなるのです。 またこれはイシマエルの性格の特性であるだけでなく、彼の子孫にまで受け継がれている彼らの性格の特性だと私は思っています。

第二の争いの預言は、「イシマエルの手は、すべての人に逆らい」と言っています。彼はすべての人に対して攻撃的で、敵意に満ち、ふるまいにおいて好戦的です。この種のふるまいは、その人の人生に常に混乱をもたらします。

第三の争いの預言は、「すべての人の手も彼に逆らう」と宣言しています。人が好戦的で彼らの同胞に対して攻撃的である場合、彼らの同胞は通常、攻撃的また挑戦的な態度で対応してきます。昔の格言に「自業自得」とある通りです。戦いが好きな人は、そのうち戦う相手を見つけるものです。

第四の争いの預言は、イシマエルが「彼はすべての兄弟から離れて住む」と述べています。「離れて」というのは、二つのヘブル語「al panim」から成っています。「Al」とは「~に、~の上に、~に関する、~に対して」という意味で、「Panim」は「顔、表情、存在」を意味します。

この対立の文脈において、この句は、イシマエルが「すべての兄弟に敵対して住むであろう」と訳すのがより良いと思います。イシマエルはすべての人に対して攻撃的で好戦的であると既に預言されているので、彼は明らかに兄弟たちに対しても敵対的なはずです。

歴史はイシマエルが最終的に今日のサウジアラビアに当たるアラビア半島の東部に住みついたことを支持します。彼の兄弟は、すべてのイスラム教徒、アラブ民族とペルシャ民族、そしてユダヤ民族(忘れてはなりません)を含んでいます。

イシマエルとイサクは血を分けた兄弟で、彼らと彼らの子孫の間には愛がなければなりません。 ところが、兄弟としてお互いに愛し合う代わりに、たくさんの怒りと憎しみが敵同士となった彼らの間にはありました。

エゼキエル35:1-5、15にこうあります。

次のような主のことばが私にあった。 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。(35:1-5)

おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。(35:15)

エゼキエルは、イスラエルに対する他国の大きな憎しみが一体どれほどのものだったのかを私たちに教えています(特にここではエドムのことだけが言われていますが)。1-4節では、セイル山に対する主の宣言です。主は、セイル山とその町々を荒れ果てた廃墟にされるのです。

主がセイル山を破壊される理由のひとつは、彼らがイスラエルの神が主であることを知るようになるためです。神は不可解な方法で、また時々、破壊的な裁きを通して、人々や国家を悔い改めに至らせようとされます。私は、これがまさに神がここでしておられることだと信じています。

それは破壊がもたらされれば自動的にこの国民がイエス様を信じるようになるという意味ではなく、少なくともイスラエルの神が彼らを裁いておられることを理解するという意味です。

そこで、「セイル山とは誰のことか?」という疑問が湧いてきます。15節はその答えを私たちに語っています。セイル山はエドムの全国民を表わしているのです。思い出してください。今日、エドムはヨルダンの南西に位置しています。

この地域は今日、多くの都市と合計200,000人以上の人口を抱え、繁栄しています。15節の終わりに、神は、彼らがこの恐ろしい破壊を通してイスラエルの神が主であることを知るようになると二度目の宣言をしておられます。

多くの信者は私に、「エドムは既に裁かれているのではありませんか?」と質問します。はい、裁かれています。しかし、聖書のこの部分に述べられている範囲においてではありません。主は7節において、エドムは荒れ果て、廃墟となると再び宣言しておられます。

8-9節は、これが真実であることを知る鍵です。8節では、エドム人の死者が彼らの山々を満たし、丘や、谷や、渓谷をさえ満たすと言われています。これは、死者が国中に散らばっていることを意味します。

9節は、彼らの都市は誰も住まず、エドムは永遠の廃墟となると深刻に述べています。これらの特定のさばきは、イエス様の再臨の出来事に似ています。


リチャード・ヒル牧師

次回(3回目)は、7月31日(月)掲載予定です


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2017.07.27 00:56 | 礼拝
2017年7月16日、メシアニックジューの教会からRichard Hill 牧師をお迎えし、聖書のメッセージを執り継いでいただきました。日本語に翻訳したメッセージを4回に分けてここに掲載致します。
本日はその1回目。生きた「今日のイスラエル」を、お届け致します。

Rev Hill p2 

シャローム! 私の名前はリチャード・ヒルです。私の家族と私は、この17年間、CJF Ministriesの宣教師として働いています。主は私たちをラスベガス・バレーにいる8万人のユダヤ人たちにイエス様の福音のメッセージを宣べ伝えるために召して下さいました。

この17年間、主は私たちの働きを祝福して下さり、私たちは1100人以上の人々を主に導いてきました。そしてその中の63人がユダヤ人です。私たちは主が私たちを主の栄光のために用いて下さることに興奮を覚えます。

また私たちは、ラスベガス日本人教会の皆さんが祈りと献金で私たちを支えて下さることを心から感謝します。本当にありがとうございます。ユダヤ人への私たちの働きを祝福して下さる皆さんを主が豊かに祝福されますように。

イスラエルはひどい苦境の中にあります。まるで全世界がイスラエルとユダヤ人に対する憎しみを増し加えているようです。イスラム教がヨーロッパの国々で増加する中、ますます多くのヨーロッパ諸国がイスラエルに対抗する国連のレトリックに加わっています。

反ユダヤ的な険悪さが、世界中のユダヤ人たちに対して増えています。イスラエルに対するBDS運動(ボイコット、投資の引き揚げ、制裁)は、世界の至る所に、さらには大学のキャンパスにまで広がっています。このBDS運動はイスラエルの会社をボイコットし、イスラエルから金融資産を引き揚げ、国連には常にイスラエルに対する制裁を求めています。

アメリカ合衆国(イスラエルの最後の真の友であり兄のような)でさえ、オバマ政権のもとでイスラエルからその支持を他に転換するようになりました。しかし、トランプ政権のもとで、私たちはイスラエルとの関係がより強まるのではないかと見ています。

私たちの今の大統領はイスラエルを祝福したいと願っています。これは素晴らしいことです。なぜなら、聖書に、私たちがイスラエルを祝福するなら神が私たちを祝福される、とあるからです。ですから私は、米国と一般の教会は今、神の執行猶予のもとにあると信じます。きっと裁きは回避されています。ではなぜ、このような対立と敵意がこの小さな国イスラエルの上にあるのでしょうか?

イスラエルは、わずか263マイルの長さで、幅は一番広いところが71マイル、一番狭いところが9マイルです。それは7百万人弱のユダヤ人の家です。そこでまた思います。「なぜこのすべての憎悪がイスラエルとユダヤ民族に向けられたのか?」

聖書的に言えば、少なくとも二つの答えがあります。一番目は、イエスを信じる多くの者がしばしば忘れることですが、サタンが神に対して戦いを挑んでいる、という大きな図式です。サタンは神の選びの民であるユダヤ人を強奪することによって神の王座を奪おうとしているのです。サタンは神が愛しておられるすべてを憎んでいます。そして、神はユダヤ民族を愛しておられるのです。

神は、ユダヤ民族をご自分の契約を通し、彼らに素晴らしい約束を与えられたほどに愛しておられます。それらの約束の一つは、最終的に彼らの救い主イエスによって贖われた国家イスラエルを私たちが千年王国と呼ぶメシヤの王国に導くことです。

もしサタンがユダヤ民族に対する神の約束の一つでも邪魔することができるなら、サタンは神に対する勝利を宣言し、宇宙における最高の存在であると主張できるのです。もちろん私たちはそんな事は決して起こらないということを知っています。しかし、サタンはそれを試み続けるのです。

サタンの計画は、ユダヤ民族に対する憎悪で世界にエネルギーを与え、ゆくゆくはイスラエルを破壊し、すべてのユダヤ民族を完全に一掃することなのです。聖書は、イスラエルの過去の歴史を通して、そして特に将来の患難時代の中で、イスラエルに対抗するこの悪を明らかにしています。

世界がイスラエルを憎む二番目の理由は、世界がいつもイスラエルを憎んできたからです。聖書のイスラエル史は、その初めからイスラエルに対する騒ぎや憎悪があったことを明らかに示しています。ユダヤ民族に対する憎悪はまさに今日に至るまで代々引き継がれて来たのです(出エジプト20:5)。

ユダヤ人に対する憎悪は、イエス様が再臨の時に戻って来られるまで続きます。世界におけるイスラエルの現在の問題を理解するためには、ユダヤ民族の歴史の始まりまで遡らなければなりません。私たちはイスラエルの過去に戻らなければならないのです。

イスラエルの歴史は、世界史のミステリーとして描写されています。哲学者や歴史家は、世界の歴史を理解する中で、ユダヤ民族の歴史は解くことのできない謎であると告白しています。それは彼らが聖書を読まず、また信じないからです。

聖書は、イスラエルの歴史を記しています。それはイスラエルの歴史の全てを含むわけではありませんが、主が、個人的にどのようにイスラエルと共に働かれたかを知り、かつ理解するために、すべての信者に必要だと思われるものを含んでいます。

創世記16章1-6節はイシマエルがどのようにして生まれたかという物語です。それは、アブラハムとサラとハガル、そして彼らと彼らの子孫の間における憎悪の始まりに関する興味深い記録です。サラは子供を生むことができなくて、彼女の奴隷であったハガルを第二の妻としてアブラハムに与えました。

ハガルはみごもり、やがてサラを見下すようになりました。それでサラはハガルに辛く当たるようになり、ハガルはすぐにサラと一族から逃げて行きました。これは7節にある物語から拾ったものです。

創世記16:7-12をお読みしたいと思います。

主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」  また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」(創世記16:7-12)

ハガルは明らかにサラの扱いが好きではありませんでした。だから逃げ出す決心をしたのです。主の使いはシュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけました(7節)。シュルへの道は、エジプトに戻る道です。ハガルはもともとエジプトから来ていて、またそこに戻ったのかも知れません。

リチャード・ヒル牧師

次回(2回目)は、7月26日(水)掲載予定です。


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2017.07.25 05:19 | 礼拝

牧師室より#344「互いに愛し合う」_convert_20170722051033 


今日は、"互いに愛し合う"ということについて考えてみました。


イエス・キリストは十字架にかかる前夜、弟子たちに告別の説教(お別れの説教)を語られましたが、その中で、こう命じられました。 

「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)

主イエスは、今を生きる私たちにも同じことを命じておられます。これは勧めではなく、私たちに対する主の命令です。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。この互いに愛し合うとは、「互いに赦し合う」こと、また「互いに受け入れ合う」こと、と言い換えることもできます。 

主イエスは私たちに「間違いをしないように、失敗をしないように」と注意しておられるのではありません。私たちは誰もが不完全であり、欠点を持っています。やがて栄光の体を与えられるまでは、この問題は持ち続けるのです。ですから、どうしても私たちは間違いを犯したり、失敗をしたりすることがあるのです。


そんな問題を抱えた私たちが、平和な人間関係を保ちながら、喜びのある、幸せな人生を生きるための鍵は、まさに主イエスが言われたように、互いに愛し合い、互いに赦し合い、ありのままを受け入れ合うことなのです。 そして、この愛し合う、赦し合う、受け入れ合うということは、相手に要求するものではなく、自分自身に求められている能動的な行為であることを理解することは大変重要なことです。


聖書は決して、誰かに愛されることを求めなさい、赦されることを求めなさい、とは教えていません。「互いに愛し合いなさい」とは、相手が自分を愛することを要求するのではなく、自分が相手を愛することを実行することなのです。

そして、この事を可能にするのは、「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、主イエスに愛された経験がその重要な鍵です。その経験なしに、あるいは、その経験が不足していては、「互いに愛し合う」ことは難しいのです。 

あなたはいかがですか? あなたは教会のすべての仲間たちを愛することができていますか? 赦すことができていますか? すべての仲間たちをありのままで受け入れることができていますか?

人の批判をする人にならないで下さい。人の批判はサタンに惑わされている人の行為です。そこには神様の祝福も喜びもありません。聖霊に導かれている人は、人の徳を高める言葉を語り、決して人を批判したりはしません。いっさいの悪意を捨て去り、互いに情深く、憐れみ深くあり、心を一つにして愛の共同体を建て上げていきましょう。

今日の一言: 互いに愛し合うことを実行しよう

鶴田健次
  

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2017.07.21 11:20 | 牧師室より
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若いころは、体の健康維持など気にもしなかったのですが、そろそろメディケアが手の届くところに来て、数年前から身を案ずるような方向へと徐々に変化している自分に気付きました。これは大きなターニングポイントだと思いました! 人生の前半と後半に分けられる “区切り” 的な境目を意識した始まりです!

 

さて、ならばどのように人生の後半戦に望んだら良いかが問題です。考えられる事として、バランスのとれた食生活、適度の運動、さらに、思考の質やマインドコントロールなども良い歳のとり方や健康維持に必要不可欠な要素として考えました。

とりあえず今回は、運動で健康な体を維持することに目を向けることにします。


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昨夜早めに寝て、目覚めたのは朝5時半。ちょうど朝日が昇ったころでした。着替えて隣の公園に向かいました。駐車場に車を止めて芝生のフィールドに降り、その外周トラックを歩き始めました。こんなに早くても、既に運動に来ている人たちが何人もいました。

 

ここはCharlie Frias Park チャーリー・フリアス公園です。ドッグパークや子供の水遊び場、テニスコート、バスケットボールコート、また広大な芝生にはサッカー場が3面できる広さがあり、その外周トラックは早歩きで約10分ほどかかります。そこを3周か4周するのが常です。

 

トラックを歩きながら朝のお祈りをします。加えて、公園で出会った人々のことを祈ります。

もし、目の前を歩いている人が神様を信じる人なら、祝福の上に更なる祝福が与えられますように。もし、まだ神様を知らないなら、その機会が与えられ、主の愛に触れ、滅びに行く魂が救われますように、という風に出会う人毎に祈ります。そして心に浮かんだ賛美を歌います。

 

この歩きながらの祈りは、以前何かで読んだか聞いたかしたもので、私もやってみようと思い立ち、それ以来続いています。いつでもどこでも誰にでも、こうして勝手に祈ります。

その利点はといえば、習慣化することで、主がいつも身近にいることが感じられ、心に平安が与えられることです。


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朝のウォーキングはさわやかで気持ちが良いし、その日のモチベーションが上がるだけでなく、考え方もポジティブになり、力がみなぎって来るような気がします。

良い種を蒔けば良い実がなる、と聖書は教えています。これこそが、良い実を得るための基礎。健康な体を維持することも、この延長線上にある事がわかります。

 

聖書では、人生を健康のまま全うした人がいます。その代表的な人がモーセでしょう。

申命記347節に、「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」とあります。人は誰でも、健康のまま命を全うしたいものです。モーセのように。

 

私たち人間を造られた神様は、人間を健康なうちに人生を全うできるように造られたと、私は思っています。

老いるに従って体の機能が低下し、自分が何者であるかもわからず、人の介護によって生きることが「老後の人生」だ、などとは思いたくありません。

なぜなら、この大宇宙を創造され、驚異的な緻密さで人間を造られた神が「はなはだ良し」と言われた対象、それが人間だからです。神は完璧な生涯を全うできるだけの要素を、私たちの体に既に与えておられると信じています。

ただ、自由意志という名の選択を通して、良い種を蒔くという選びの行為に至れば、良い実の刈り取りができる、ということです。

箴言423節でこう言われています。

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」

人生後半の健康を考えた時、この御言葉が輝き出し、目指す方向を確認した思いです。

 

MU

 

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2017.07.19 19:04 | その他

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