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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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私たち夫婦は、2007年にアイダホからラスベガスに引っ越しして以来、毎年仕事のあるアイダホ、及び家族の居るオレゴンで夏の3-4カ月を過ごしています。その間、ここ4-5年はRV(Recreational Vehicle)で生活しています。

この様な生活は、アメリカでは特に珍しいことでもなく、実際夫は、高速道路の工事夫であった彼の父親、電線工事夫だった自身の都合で幼少の頃そして自身の子供が学校に入る前までの各5-6年程RV生活をしていたようです。

また、ここ数年は定年後全米・世界をRVで旅しながら生活する人々が明らかに増えています。勿論、若い世代も週末を家族と自然の中で過ごすためにRVを所有する人達も多くいます。

この様なRV生活の事、RV生活中に出会った方との事を少しずつこのBlogでお伝えさせていただこうと思います。

Wikipediaによると、北米においてのRVは約1745年頃から始まった白人移民によって使われていた「ほろ馬車」が始まりのようです。

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東海岸経由で入ったヨーロッパからの移民はこれを使い、必要な物を積み、移動する生活をしながらアメリカを開拓していったのでしょう。良い季節もあったでしょうが、アメリカの自然は時に厳しくもあります。その時代にこの様な生活をしていた人々の環境を思うと、しっかりしたRVの中に電気・水道・ベッド等必要な物すべてが備えられている与えられている現代のRV生活、そしてそれが当たり前になり感謝する事も忘れている私を思います。

更に歴史を遡ると、イスラエルは、荒野で40年間生活しました。エジプトを出て直ぐにエジプトでの食生活を恋しく思い、つぶやきました。そんなイスラエルに神はマナを降らせ日々の糧を与え続けてくださっていましたが(出エジプト記16章)、異邦人の生活を見て欲が出たイスラエルは、再度、エジプトで食べていた食べ物を思い出し「マナしかない」とつぶやきました(民数記11章)。

今後ご紹介するRV生活は、素晴らしいことも多くあるのですが、ついつい・・・ベガスでの生活を恋しく思い、つぶやくことも多々あります。そんな私は、日々主に守られ必要な物を与えられているのに、つぶやいてしまったあの時のイスラエルと全く変わらない「つぶやくのに早く、感謝するのに遅い者」であることを改めて思います。そして「神は、私たちの必要を満たされますが、私たちの欲は満たされません。」という、ある牧師の言葉が思い出されました。
哀れみ深い主が、恵みにより朝毎に私たちの必要を満たしてくださっていることに感謝いたします。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。哀歌3:22-23a

(KS)


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2017.07.18 01:06 | 各地紹介

牧師室より#343「あなたの価値はどれくらい?」_convert_20170715045043 


今日は、"人間の価値"について考えてみました。


あなたは、ご自分の価値をどれ位だと思いますか? あなたの財産のことではありません。あなたご自身の価値のことです。あなたの持ち物とあなた自身の人間としての価値を混同しないで下さい。あなたは金持ちかも知れないし貧乏かも知れません。しかし、あなたの人間としての価値はそれとは何の関係もないのです。


では何が人の価値を決定するのでしょうか? 

物の価値は二つのものによって決定されると言えます。


1.その価値は、そのために人がどれだけのものを支払いたいと思うかによって決まります。


あなたの家はいくらの価値がありますか。それはあなたが思うほどではないかも知れません。あなたの家の価値は、人がいくら払うかで決まるのであって、それ以上のものではないのです。


では、記念切手の価値はどうでしょう? ある人には何の価値もありませんが、人によっては、それは非常に価値のあるものです。収集家は、ある切手に100万ドルを払うこともあるのです。一枚の絵はいくらの価値があるでしょう? それは人がその絵にいくら払うかによって決まるのです。


2.その価値は、それを誰が持っていたかによって決まります。


しばしば、物の価値は、それを誰が所有していたかによって大きく違ってきます。たとえば、エルビス・プレスリーが所有していた車なら、あなたが所有していた同じモデルの車より価値があるでしょう。あるいは、ジョン・レノンが持っていたギターであれば、あなたが持っていた同じモデルのギターより遥かに高い値段で売れる筈です。マイケル・ジョーダンの使い古しのバスケット・シューズがオークションで7000ドルで落札されたそうです。


この二つをもとに考えると、あなたの価値はどれ位でしょう? 

自分自身に問うてみて下さい。

 

「私は誰のものか?」

「私のために何が支払われたのか?」 

 

聖書は、「あなたはキリストの命という代価をもって買い取られたのだから、あなたはキリストのものだ」と教えています。つまり、あなたの価値は神の子キリストの命に匹敵するということです。あなたは、そんなに価値のある人なのです。


また、こう自分に問いかけてみて下さい。「私は誰のもの?」 聖書は、あなたは神のものだと教えています。神は、尊い独り子キリストの命と引き換えに、永遠に死ぬべき定めにあったあなたを買い取り、永遠に生きる者として下さったのです。だから、あなたは神のものなのです。

 

キリストの十字架は、あなたの価値がどんなに大きなものであるかを物語るものです。神の子キリストは無価値な者のために死んだりはなさいません。あなたが測り知れない価値のある人なので、キリストはご自分の命を犠牲にされたのです。あなたの価値を、これ程までに高く評価した人がいますか? 神の目には、あなたはこんなにも尊いのです。


今日の一言: あなたは神の目に尊い



鶴田牧師


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2017.07.15 04:53 | 牧師室より
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あの暑い独立記念日の7月4日、友達と一緒に久しぶりにMt. Charleston (マウント・チャールストン) のトレイルを歩きました。今回は初めて、Cathedral Rock Trail(カテドラルロック・トレイル)に行ってみました。


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ラスベガスの街から、Mt. Charlestonの車で行ける高さまでの標高差は約1600メートルあるそうです。そのため、山の気温は街と比べて10度ぐらい低いといわれています。

この日、街では独立記念日のパレードが行われ、午前9時で摂氏41度あったそうです。私たちはその時間、富士山の5合目以上に当たるMt. Charlestonの山中をトレッキングしていました。

それでも30度は超えていましたから、涼しいとは言い難い気温ですが、針葉樹の木陰がだいぶ日焼けを防いでくれたことは有難かったです。長い道のりの途中に、時折冒頭のような写真の遠景が見えると、何となく小さな達成感のようなものを感じて嬉しくなります。

 

トレイルはこんな感じです。


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駐車場からトレイルの終点までの距離は1.5マイルぐらいでした。

慣れた人なら、たぶん片道1時間ぐらいで終点の山頂まで行けるのでしょう。私たちの場合は、軽くその倍ぐらいの時間がかかりました。何せ、人生の後半を、主の憐れみにより生かされている私たちですから、安全第一、健康第一と思い、疲れたら休み、喉が渇いたら休み、楽しくおしゃべりをしながら、同じ位のペースで進むハイカー達に抜きつ抜かれつしながら登って行きました。


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途中、見たこともないような花と出会ったり、かわいらしい葉っぱの植物があったり、山の頂上に近づくとバッタに似た昆虫が多くなって来ました。その昆虫は移動の度に飛ぶのですが、“カッカッカッカッ” と大きな羽音を出すので、近くから飛び立ったりした時にはビックリしました。


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トレッキングの道々で、「上に行くと “スプリング” があるよ」と聞いていたので、イメージとして泉や湧水だと思い込んでいましたけれど、そうでは無く・・・、上の写真がその “スプリング” の実体でした!

聞けばこの水は、更に高い山から太いパイプで引いている水で、混ぜ物無しの天然のスプリングウォーター、ということでした。飲んでみると、冷たくてとてもおいしい水でした。もちろん水筒の水も入れ替えました。

 

“スプリング” から更に20分ぐらい坂道を登ると、視界が開けて頂上に出ました。眼下の一方にはMt. Charlestonの別荘群が見え、一方には車で走って来たKyle Canyon Rd. が見えました。そして別の一方にはカテドラルロックが少し低い位置で間近にそびえ立っていました。


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こうしてほぼ1年ぶりにMt. Charlestonに来て、山の空気を吸い、山の水を飲み、山歩きをエンジョイしながら数時間山で過ごしました。その中で、自分と向き合う時が持てました。

そこで感じたことは、創造主が造られた大自然の中に身を置くことで、知らず知らずの内に失っていた何かが回復していくような充足感がある、と気付きました。

 

帰宅後読んだ詩篇37511節が、その時の私への神様からのメッセージのように思えました。

あなたの道を主にゆだねよ。

主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。

おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

怒りをやめ、憤りを捨てよ。

心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。

悪しき者はただしばらくで、うせ去る。

あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。

しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

 

主の御腕に心を委ねると、平安と喜びが身を包みました。この御言葉を感謝致します。

 

MU

 

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2017.07.12 15:44 | 各地紹介

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今年は4年ぶりに息子と一緒に日本に帰る機会が与えられました。アメリカでの忙しい毎日からちょとだけ離れ、今回は両親が移り住んでいる新潟を訪れました。


都心で数日過ごしてから新幹線で移動したということもあり、越後湯沢の駅に到着した瞬間、人口や速度の違いに、ホッとする自分がいました。あたかも時間が過ぎる速度が急激に減速したかのように、瞬時に自分もその環境に順応できていることに気がつきました。


都会の訪問とは打って変わって、あえて今回はアジェンダなしで、両親との時間を最優先し、意図的にゆっくりした時間を過ごせました。


コシヒカリで有名な南魚沼の地は、青々とした緑に包まれた自然の中で、田植えを終えて稲の成長を見守る季節にあるようでした。朝の散歩はもちろん田んぼのあぜ道を歩き、規則正しく稲が植えられた田んぼとそうでないものや、稲の成長を見比べたり、耳をすませば至る所で聞こえる澄んだ水が流れる音、カエルの鳴き声、空を飛ぶ鳥たちの鳴き声に癒されました。時には狭いあぜ道をギリギリで通る軽トラックが田んぼに落っこちてしまうのではないかとハラハラしたものです。帰りの道は、大人気なく息子と一緒に全速力でかけっこをして帰ったりしました。


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近くにあるフィッシングパークでは、ニジマスを釣って、初の魚さばきに挑戦したり、初の川遊びをしたりと、普段経験できない田舎の貴重な体験をさせていただくことができました。


そして散歩途中でよく目にしたものが、お寺です。各地に小さな墓地があり、その側にはお寺がありました。散歩しながら息子と会話を進めるうちに、日本にはお寺が多くあり、それぞれに神と呼ばれる存在があることが息子にとって不思議だと感じていることを知りました。「本当にそこにいるの?神様?」と問われて、回答に戸惑った自分がいました。。。


一方テレビでは、お寺と神社の違いや、開運、ご利益といった内容の番組が多くあり、参拝時に鈴を鳴らしたり手を叩くときと、手を合わせて拝するときの違いがスクープされていました。その中では、どちらの行為もともに、神と呼ばれる存在を呼ぶためだそうで、我々に与えられている祈りによって、いつでも主と会話を持てることが、なんという特権であるのかを思うのでした。


その他にも、「開運そば」と呼ばれる場所が紹介され、希望のご利益(健康、長生き、恋愛、お金などなど)を得られるテーブルでお蕎麦を食べにわざわざ遠くから旅をする人々がいるとか、より早くご利益を得る秘訣として、急いで80近くのお地蔵さん巡りをすることなどを伝えていました。


テレビを見ながら、これがノーマルである日本を忘れていた自分と、正直これらの概念がこんなにも普及していることへの抵抗を感じる自分に気がつきました。


よく考えれば、困った時の神頼みとはよく言ったもので、まるで神が私の家来のように願い事を聞き届けてくれる対象として見ており、崇める対象とは到底言えない態度でいた、かつての自分のことを思い出しました。そして、「とりあえず、これをすれば、願い事叶えてくれるんでしょ、もし願い事を聞いてくれないなら、もう来ない!」くらいの思いで、神と呼ばれる存在に、なんとも都合よくすがっていたのでした。


全てを大切にする、対立を好まない日本人にとって、歴史の中でこういった神道と仏教の背景があるがゆえに、排他的な宗教として見られるキリスト教は、特に日本人には受け入れがたいのだとふと思いました。


こんな思いにふけっているとちょうどその時に、日本で教会開拓の働きをしているある宣教師から一通のメールが届いていることに気がつきました。そのメールには、一つのビデオリンクが含まれていました。(ビデオはこちらから)


Mustard Seed Networkによると、現在日本では、人口1億2千6百万のうち、わずか0.2%の人々が毎週キリスト教の礼拝を守っているのだそうです。そして、ほとんどの人が、生まれてから死ぬまで一度も福音を耳にする機会がないまま、神の愛を知ることなくこの世を去っていくと言います。これが現実です。これは人ごとではありません。


家族の救いを切に祈りつつも、その家族が置かれた周りの環境に盲目になっていた自分に、神様がなんとタイムリーにメッセージを届けてくださったのでしょう。私の人生は、全てをご存知の神様の御手にあることを覚え、感謝を捧げるとともに、神のご計画のために用いていただける駒となれるよう祈りに導かれたのでした。


皆さんも是非、このビデオをご覧ください。そしてこの恵みの時代に我々の愛する日本でリバイバルが起こるよう、改めて祈っていこうではありませんか!



神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

伝道の書3:11


(YK)

2017.07.11 02:25 | 証し

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今日は、『敵への愛』ということを考えてみました。


自分の子供にはたっぷりの愛情を注ぐけれど、他人の子供にはそうすることを惜しむお母さんがいます。なぜなら、その愛は注げば注ぐほど減るからです。だから他人の子供には使えないのです。しかし、本当の愛は使えば使うほど、その人の中で育って増えていくものです。


たとえば素敵な人が現れたら、自分はその人を愛することができる、と考えている人がいます。それはちょうど素晴らしいピアノが目の前にあれば、自分は上手に弾けるのにと言うのと同じです。立派なコンピュータを手にしたら自分は上手な文章が書ける、と言うのと同じです。


一度もピアノの練習をしたことがない人が、どうして上手に弾けるでしょうか。毎日練習をしていればこそ、上手に弾けるのです。だから、いつでも、この人は肌が合わない。この人は苦手だ。この人には関心がない。そう思っている人は、愛が育つことはないのです。


むしろ肌の合わない人、苦手な人、平凡な人、つまらない人と思う人を、自分にとって意味のある人、大切な人、愛すべき人としていくときに、その人の心に愛が育っていくのです。なぜなら本物の愛は感情ではなく、意志的なものだからです。


イエス・キリストは、愛は愛でも、自分を愛してくれる者以外には、妬みや、恨み、無視、反感、意地悪となって現れる愛があることを、敵を愛する愛で教えようとされました。そして、そこに留まる限り、人はイエス様が語られる愛に出会うことはないのです。


皆さんは、キムデジュン(金大中)という方を覚えておられるでしょうか。1970年代から80年代にかけて何回も投獄され、裁判では繰り返し死刑判決を受けながら、その後、韓国の大統領になられた方です。


この方が獄中から家族や友人に出した手紙が「金大中獄中書簡」という書名で出版されています。その中に、三男の金弘傑(キムホンゴル)氏に当てた手紙があります。その一部をご紹介します。


「愛するホンゴルよ。お父さんは誰も恨まず、誰も憎まない。お父さんがこうした心の変化を得るようになったのは、以前の3年間の獄中生活の時、神の教えについてたくさんの本を読み、イエス様の言葉と行動を思い、自分のこととして受け入れる中で、わたしが本当にイエス様の弟子になろうとするなら、この道しかないとハッキリ思い知ったからだ。


そればかりか、お父さんは自分のこれまで犯してきた罪と過ち、そして、人知れず抱いた邪悪な思いを知っている。そうした私の罪をスクリーンに映し出すように、主の前でひとつひとつ挙げていく時、果たして私が誰を裁き、誰を断罪することができるのかと痛切に感じるのである。


私たちは自分が罪人であるがゆえに、他者を、敵さえも赦さなければならない。赦しは神の前にあって最も強い愛だけがなし得る。赦しはあらゆる人々との平和と和解の道だ。それだから、赦しは喜ぴの心をもってしなければならない。私たちはイエス様が十字架で釘打たれながら、ご自身を処刑した人々をお赦しになったことを無駄にしてはならない。


一生の間、他者を理解し、赦し、愛する生活をしようと努力するなら、必ずやお前の将来は、物質的あるいは杜会的地位や名声がどうであっても、決して悔いのない平和と喜びの生涯を送ることができると確信する。お父さんはこうしたことに気づくのが、あまりにも遅かったと残念に思っている。」


いかがでしょう。イエス様が「敵を愛しなさい」と言われる時、それは敵のためではありませんでした。それは憎しみに囚われ、人生を間違えてしまう自分のためでした。


イエス様が金持ちに「施しなさい」と言われる時も、それは貧しい人たちのためではありませんでした。金持ちが金銭に囚われ、人生を大切でもないもので一杯にしないようにするためだったのです。



今日の一言:敵を愛することは自分のため



鶴田健次



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2017.07.08 04:09 | 牧師室より

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