今日は、'試練は本物の人生を見出すための機会'ということを考えてみました。
『病床は人間最大の学校である』という言葉を聞いたことがあります。また、『寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る』とは、アメリカの詩人ホイットマンの言葉です。
辛い病床生活の背後に神様の摂理があるということは確かですが、だからと言って、その状況を受け入れるというのは簡単ではありません。重い病気にかかったりすると、人生が暗いものに思われてきて、何かにつけ悲観的になりやすいものです。
人間は、元気で調子がいい時には、何でも自分の力で出来るような気がするものですが、病気になると、別人のように弱気になってしまいます。それが人間の正直な姿だと思います。
ところが、絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことが出来るというのもまた事実です。それは、私たちの困難の中に神様がおられるからです。
イ・チソンという方がいらっしゃいます。17年ほど前、彼女は女子大生でした。きれいで笑顔の絶えない、子供好きな彼女は、将来は子供に関わる仕事をすることが夢でした。
ある日のこと、学校が遅くなった彼女は、妹思いのお兄さんに車で迎えに来てもらうことにしました。ところが、その帰り道、二人が乗った車は酔っ払い運転の車に追突され、チソンさんは体中に大火傷を負うことになります。
病院にかつぎ込まれ、手術を受けた彼女は、火傷の中でも一番重い第三度の火傷、つまり内部の組織が破壊され皮膚が黒く焦げる状態、その第三度の火傷が体の55%に及んでいました。医者は一週間の命と診断しましたが、チソンさんは奇跡的に一命を取り留めます。
しかし、指先は焼けただれてしまい、親指を除く8本の指が切断されてしまいます。落胆に泣き叫ぶチソンさんに、医者は、「言いにくいが顔の火傷はもっと深刻だ」と伝えます。誰もが彼女の人生は終わりだと言いました。彼女も、「神様、私を長生きさせないでください」と泣きながら祈りました。
退院が許されても、毎日が苦しみと悲しみの連続でした。外出をする時も、小さな子供たちに心ない言葉を投げかけられ、涙を流すこともありました。子供が大好きで、子供のカウンセラーになることを夢見ていた彼女にとって、それはとても残酷な現実でした。
しかしある時、神様は牧師を通して彼女にこう語り掛けられたのです。「チソン、私がお前をこの世界の真ん中に立たせてあげよう。苦しみ病んだ者たちへの希望のメッセージにしてあげよう」。彼女は、その言葉を信じ、神様に感謝できることを数えることにしました。
顔は焼けただれたけれども、目には異常がなかったこと、切断するのは指先だけで、腕や足は大丈夫だったことなどを感謝しました。すると彼女は、「神様は、この体に奇跡を見せて、愛をお示しになる理由があるはずだ」という考えに満たされ、思わず神様を讃える賛美歌が口から出てきました。
そして事故から5年後の秋、チソンさんはリハビリテーション・カウンセリングを勉強するために、ボストン大学の大学院に入学しました。リハビリテーション・カウンセリングとは、障害者となった人たちの心を癒すことを目的とするものです。
彼女は、火傷で自分の顔が変わり果てた時の思いがどんなものかを理解できます。人から興味本位で見られることの辛さも分かります。その心の傷をイエス・キリストの十字架の苦しみによって癒されるという経験を彼女はしました。ですから今度は、彼女自身が、心の痛みに耐えている人を理解し、受け入れ、その癒しの手助けをするようになったのです。
人生のほとんどの試練は、本物の人生を見出すための良い機会だというのが聖書の考えです。多くの場合、試練というのは、自分が望まないものです。しかし裏を返せば、神様の完璧な計画を見出すチャンスがそこにあるということです。
今日の一言:試練は本物の人生を見出すための機会
鶴田健次
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「父の涙」という曲が初めて教会の賛美で歌われたのは、いつのことだったのだろう。とても印象的で衝撃的だった、という記憶だけが残っています。
静かなしみじみとした曲に、ひとり子を亡くした父親の、言い尽くせない悲しみが込められている歌。実はそのひとり子が死んだ理由、それは、人間を救うために身代わりになって死んでくださったイエス様の愛だった、というものです。
涙がとめどなく流れ、教会中が涙しながら歌いました。
♪ 心に迫る 父の悲しみ 愛する一人子を十字架に付けた
人の罪は 燃える火のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく
十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙
十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛
父が静かに見つめていたのは 愛する一人子の傷ついた姿
人の罪を その身に背負い 父よ彼らを赦してほしいと
十字架から 溢れ流れる泉 それは 父の涙
十字架から 溢れ流れる泉 それは イエスの愛
「父の涙」の作詞・作曲者は岩淵まことさんです。
この「父の涙」は、1987年に長女を天に送る経験から生まれた歌だそうです。多くの方々に愛聴され、歌われている曲です。
岩淵まことさんは1977年にシンガーソングライターとしてデビューし、演奏活動以外にも、CMソングやアニメのテーマソングも歌っており、ラジオのDJや、スタジオミュージシャンの経験もお持ちです。岩淵さんは、現在牧師の小坂忠氏との出会いを通して、1980年にクリスチャンになりました。
岩淵さんの3つのエピソードを、ご紹介します。
岩淵さんがまだクリスチャンになる前のこと、小坂忠氏から「今度自分のコンサートを手伝ってくれない?」と声をかけられ、岩淵さんがOKしたところ、向かった先が何と青森県弘前市にある教会。教会だなんて聞いてなかったので、心細い心境になったそうですが、もう帰るに帰れません。1時間ほど忠さんの隣でギターを弾いたり、コーラスをしたりしてコンサートが無事終了しました。
実は、このコンサートの後に、「歌を歌ってはじめて良いことをした」と思ったのだそうです。その時に感じた心のうれしさが、今自分がクリスチャンであることの入口になりました、と仰っています。
次のエピソードは、クリスチャン・レーベルのミクタムレコードの第2回「出会いのコンサート」の時です。子供達が賛美歌を歌って始まったのですが、会場全体が歌い出し、教会が賛美歌で揺れるようだったといいます。そんな中、こわばっていた体が解きほぐされ、子供の頃に感じたような安堵感の中で涙が止めどなく流れ、やがてイエス・キリストが目の前に立っているような感じがして、「もう私のことはわかっているだろう、これからどうする?」と、声をかけられているような不思議な体験をされました。
翌日のコンサートの前、関根一夫牧師(*)に昨晩のことを話すと、「じゃ今、イエスキリストを信じない?」と言われ、そして「はい」と答えていたそうです。「では、イエス様を信じるお祈りをしよう」と促され、牧師の言葉について初めて祈りを捧げました。「イエス様、今あなたを私の救い主として信じます」、と祈った後、長いトンネルを抜けたような眩しさを感じ、「こんな俺も生きてていいんだ」と思ったそうです。
最後のエピソードは、イエス・キリストを信じた次の日、北九州から大阪経由仙台行きの航空券が見当たらなくなった時のことです。教会コンサートが終わって疲れているにもかかわらず、周りのクリスチャンの人達は一緒に探してくれました。その姿を見ながら、その教会の力丸牧師が、「今、岩渕さんがチケットを探しているように、イ工ス様が岩渕さんのことを探していたんだね」という言葉をかけてくれました。ですがその時は、失くした航空券のことで頭がいっぱいだったそうです。
結局航空券は見つかりませんでしたが、当日の余席があるとのことで搭乗することができました。窓の外を見ると、なんと、海を背景にした真ん丸い虹がかかっているではありませんか。聖書の中のノアの箱舟で有名な大洪水の後に出た虹を、神様は約束のしるしだと言いました。その丸い虹を見ながら、「自分も神様と約束したんだ」と、ぼんやり思ったそうです。
やがて、ご自分の聖書を買い求められ、その中の、ルカによる福音書19章10節で、「人の子は失なわれた人を探して救うために来たのです」という御言葉を見つけ、その瞬間、北九州・門司の教会で聞いたカ丸牧師の言葉が思い出されたのです。確かに私は「失なわれた者」。私がキりストを選んだのではなく、キリストに、私が、探し出されたのです、と仰っています。
神様は、このようにして岩淵まことさんを救い出されました。だからこそ私たちは、「♪ 心に迫る 父の悲しみ・・・」と、心を注ぎ出して歌うことができます。なんと感謝なことでしょう。
(*)また、前出の関根一夫牧師が作詩、岩淵さんが作曲して、お二人で「1000曲の賛美歌」をご一緒に作る働きをしておられます。おなじみの「God Bless You」は、その中で作られた歌の一つです。これからもますます主に用いられるに違いありません。「1000曲の賛美歌」作りのためにも、お祈り致します。
(MU)
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LVJCC初の集合写真2002年9月28日
砂漠の街ラスベガスに、今年も厳しい夏がやって来ました。
今日の最高気温は摂氏47度、明日の予想最高気温も47度、湿度は10%前後なのでカラッとしていますが、強烈な直射日光がチクチク肌に刺さるように痛く感じます。
そんなラスベガスの暑い夏が来ると、教会の設立記念日が近いことを思い出します。
LVJCC/ラスベガス日本人教会が正式に誕生したのは2002年8月22日ですから、今年2017年は15周年に当たります。その15周年記念礼拝は、来月7月16日に予定されています。
教会にゆかりのある方々、様々な事情で足が遠のいておられる方々、一度行ってみたいと思っておられる方々等、どなたでもご一緒にお祝いしていただけますと大変感謝です。歓迎いたします。
ご存知のように、本教会の牧師・鶴田先生と潤子夫人は2001年12月1日から、ラスベガスの開拓伝道を始められました。
ロサンゼルスの郊外からラスベガス間片道500Km の道のりを毎週車で通って来られ、ラスベガスへ居を移された2003年7月26日まで続けられました。
それは20ヶ月、85回、走行距離8万5千Km、地球を2周以上するほどの距離だそうです。
それを可能にしたのは、鶴田牧師ご夫妻の確信に満ちたビジョンと強い信仰、また、主の大いなるご計画と守りがあって成し得たことと受け止め、感謝を持って主の御名を褒め称えます。
鶴田牧師ご夫妻がラスベガスの開拓伝道を始められる前は、安藤英世牧師が、定期的にロサンゼルスからラスベガスを訪れて福音の種を蒔いておられたとお聞きしています。
時が経ち安藤牧師のロサンゼルスでのお働きが忙しくなり、ラスベガス訪問が難しくなって来られた頃、主はラスベガス伝道のバトンを鶴田牧師ご夫妻に託されました。
ラスベガス伝道での最初の日(2001年12月1日)は、安藤牧師から紹介された夕紀子姉と基江姉の2人との聖書の学びでスタートしました。
以降、鶴田牧師ご夫妻は、日本人人口の少ないラスベガスで日本人を尋ね歩き、本当にご苦労を積み重ねられました。
2002年 3月10日の日曜日、当時、ハワードジョンソン・ホテルのジェネラル・マネージャーをしておられた呉服豊兄のご好意で、ホテルの会議室を無料で使わせてもらい、最初の礼拝を持つことができました。本当に感謝なことです。
更に主は、教会に何人もの働き人を送ってくださいました。Norman兄&美佐子姉ご夫妻、Omar兄&みつこ姉ご夫妻、Vivian姉 & Family、Greg兄、また、栄子姉のお宅で長年行われていた聖書勉強会の数人も加わりました。その他にも何人もの兄弟姉妹が主に呼び集められました。
そして、提出していた非営利団体としての教会登録が受理された2002年8月22日が、教会が正式に設立された日となりました。
こうして主が、「わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる」(イザヤ43:19)と言われた通り、この荒野に囲まれた街ラスベガスに初めての日本人教会を立上げ、イエス・キリストに繋がる道を設けてくださり、乾ききった心に聖霊の川を流れさせてくださいました。まさに、「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい。」
教会設立から15年の間、祝福に満たされたことも、試練の中を歩んだこともありました。ですが、どんな場合でも、それは神様からの愛と恵みの機会でした。
これからの教会の歩みがどのように導かれるかわかりませんが、「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私たちはわざわいを恐れません、あなたが共におられるからです。」と言ったダビデのような心を持って、生涯、主に従っていけたら何と幸いでしょう。
そして、私たち教会が、ラスベガスの失われた日本人の魂を、一人でも多く救うことができますように祈ります。
(MU)
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