LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

AbbeyDAgostino_convert_20170427003556.jpg 


数多くの忘れられない感動的なストーリーが続々と繰り広げられるオリンピックゲームから、早八ヶ月ほどが経ちました。私は4年に一度開催される夏のオリンピックが特に大好きで、次回2020年はなんと母国日本で開催されることがとても楽しみで仕方ありません。


何よりも、参加するアスリートの背景や生き様に興味をそそられます。特に選手を支える信仰が明らかにされる場面に出会う時、素晴らしい感動を覚えます。そして神の御介入を疑う余地がない、そのような出来事から、多大なる励ましを受けます。


今日は、すでにご覧になられた方も多くいらっしゃると思いますが、2016年リオ・オリンピックで起きた感動のエピソードをご紹介します。


女子5000メートル予選で、米国のアビィー ダゴスティーノ選手とニュージラントのニッキー ハンブリン選手がおよそ2000メートル地点で接触し、転倒してしまいます。


致命的な状況下でアビィー選手は、先に転倒したニッキー選手が倒れたままであるのを見て、真っ先にニッキー選手の肩に手を差し伸べ「立って、立って、最後まで走らないと!」と励ましました。


母国の代表として晴れて参加の切符を手に入れた選手たちは、この晴れ舞台のために、一生をかけて想像を絶するほどのトレーニングを積み重ね、万全に備えた上で挑むのが当然であり、たとえ転倒してしまったとしても、即座に立ち上がり振り向くことなく先頭群に追いつけるよう走行を再開するのが普通でしょう。


でもアビィー選手は、違いました。実際に負傷したのは彼女自身であったのに、まず先にニッキー選手を励まし、2人でレースを走り続けるのでした。膝に大怪我を負ったアビィー選手は、棄権をも止むを得ない状況にもかかわらず、最後までレースを走り抜けたのです。そして先にゴールしたニッキー選手は、最下位のアビィー選手をゴールで待ち続け、二人は感動の抱擁を交わすのでした。この時まで、二人はお互い全く知らない存在でした。


最後まで諦めずにゴールを目指した二人の姿に称賛が集まり、大会側も特例で2人の決勝出場を認めたのでした。(アビー選手は怪我のため決勝出場ならず)


クリスチャンであるアビィー選手は、これまでにもSNSなどで普段から自分の信仰をシェアしており、陸上を通して神に栄光を帰することへの喜びを綴っています。


そんな彼女は、この場面を自身で振り返り、このように語っています。


「きっと瞬時に本能からあのような行動をとったのかもしれませんが、今思うと神様があのように応答するようあらかじめ私の心を備えてくださったのだと確信しています。」


さらには、「神から来る平安と喜びと満たしを経験するには、自身を神に明け渡す事の他にはないと頭ではわかっていましたが、自分の信仰が公に表される状況下に置かれる経験をすることができたことはとても新鮮でした。」と語りました。


感動のシーンを何度も見ながら、自分もまた神に全てを明け渡し、イエス様から目を離すことなく「信仰」のレースを走り抜きたい、そう切に思いました。と同時に、目に見えるスコア上の勝利ではなく、「本当の勝利」って、なんだろう?と改めて考えさせられるのでした。


その時のシーンはこちらから


こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。


信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。


ヘブル書12:1−2



YK



下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。


✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨




2017.04.27 00:37 | お知らせ
Romans-8-23.jpg 
  「贖い」という言葉はクリスチャンがよく使う言葉ですが、意味の説明を求められるとクリスチャンの中にもちゃんと説明できない方が結構たくさんおられるようです。「贖い」というのは、もともとは「代価を払って買い戻すこと」を意味します。

  人間はアダムの堕落以来、サタンの支配下に陥り、罪の奴隷として罪に縛られながら生きる者となりました。そのために人間は初めから罪人として生まれ、その罪の性質を持っているがゆえに当然のように罪を犯してしまう存在なのです。またさらに、サタンがさまざまな誘惑と惑わしによって人間に罪を犯させようとするため、その誘惑に応じてしまうのが罪人である人間の実態なのです。

  そこで神はこの世に「律法」を与え、人間が神の御心に従って生きる規範を示されました。しかし、神がこの世に律法を与えられたのは、人間がそれを守るように意図されたからではありません。神は人間が律法を守れないことを最初からご存知でした。では何のために律法が与えられたのでしょう。それは、人間に、自分が律法を守ることのできない罪人であることを気づかせるためだったのです。

  人間は、自分で善をなそうとすればするほど、自分がそれをなし得ないことを意識し、葛藤を覚えます。この律法は人の罪を暴き、人の無力を知らしめ、人を絶望させるかのように感じられますが、実は人が自分の罪と無力さを知れば、神に救いを求めるように誘導する役割を持っていたのです。自力の救いから、神による他力の救いへと人を促す役割がもともと神の意図された律法の機能なのです。人が自分の努力において絶望に至るとき、実はそれは幸いな瞬間なのです。

  さて前置きが長くなりましたが、古代社会においては、奴隷が解放されるためには誰かがその人のために代価を払う必要がありました。それが「贖い」です。そして私たちが罪の奴隷から解放されるために、神は御子イエス・キリストの尊い命を代価として払って下さったのです。したがって、御子イエスを信じる者は、その代価によって神に買い戻され、サタンの奴隷という立場から、神に属する自由人としての新しい立場を与えられるのです。

  このようにサタンによる罪の支配から神の恵の支配へと移された私たちは、もはや自分で律法を守る努力は不要となります。律法を完全に守られたイエス様の義の衣を着せていただけるからです。これが人間を罪の奴隷状態に束縛する律法に対して、神が授けてくださる恵みの効力です。

  したがって、「贖い」とは、律法による罪の奴隷状態から、恵みによる自由へイエス・キリストの命という代価が支払われることによって移し変えられることです。そして、信じる者は死んでいた霊が生き返り、失われていた神との交わりが回復されます。また聖霊の働きによって、その魂が聖化の恵みにあずかり、そして最後にキリストの再臨とともに、永遠に朽ちない栄光の体が与えられるのです。

  クリスチャンの贖いは、①霊、②魂、③体という順番でなされていきますが、最後の「体の贖い」こそが神の贖いの計画の完成であり、私たちの栄光の望み(ローマ8:23)なのです。

LVJCC牧師:鶴田健次

ブログランキングに参加しています。
「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただけますと幸いです。
FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」「シェア」のクリックもお願いします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2017.04.25 02:05 | キリスト教 Q & A


牧師室より#331「復活」_convert_20170422034807 


今日は、”復活”について考えてみました。


去る4月16日の日曜日はイースターでしたが、イエス・キリストの復活を世界中が祝ったことでしょう。日本人にとってイースターはクリスマスのように馴染みのあるものではありませんが、キリスト教におけるイースターの意義はクリスマス以上のものがあると言っても過言ではありません。


ところで、”復活”と一言で言っても、それはイエス・キリストの復活だけではなく、聖書には幾つもの復活に関する言及があります。そのうちの幾つかは既に起こったものですが、他のものはこれから起こることになっている復活です。


つまり、聖書はすべての人が、それぞれの立場に基づいて、幾つかの定められた時と場所で死から復活し、その存在は永遠に続いていくことを教えているのです。


それでは、いったいどういう復活の記述が聖書にはあるのでしょうか?


1.イエス・キリストの復活


聖書に記されている最初の復活は、イエス・キリストの復活であり、旧約聖書では預言として書かれ、新約聖書では歴史的事実として(福音書)記録されたり、神学的観点から(使徒行伝、書簡)扱われています。キリストの復活は、キリスト教を支える大黒柱であり、コリント人への第一の手紙15 章に示されているように、キリスト教の信仰と希望のすべてがそれにかかっています。


2.エルサレムの聖徒たちの復活


マタイの福音書27:52-53によれば、キリストの復活の際に、「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った」と記録されています。これは死に対するイエス・キリストの復活の偉大な勝利を証明する出来事であり、またそのしるしであったと言えます。


53節を見れば明らかですが、この人たちは、キリストの死の際に墓は開かれましたが、キリストご自身が復活されるまでは復活しませんでした。なぜなら、聖書はキリストの復活を初穂としているからです。また、この復活は明らかにラザロたちの復活とは違ったものです。彼らは死から生き返りましたが、また死んで墓に葬られました。しかし、ここで復活した人たちは二度と墓には戻ることはありませんでした。


3.教会の復活


キリストにあって死んだ人々は、キリストの空中再臨の際に死からよみがえり、生きているクリスチャンたちと共に一挙に引き上げられ(携挙)、空中で主とお会いし、天に行くことになっています(第一テサロニケ4:13-18)。この時、携挙された人々はみな永遠に朽ちない栄光の体(復活の体)を与えられ、肉体の贖いが完成し、もはや自分の中に罪の性質がないことを自覚的に知るのです。


4.旧約聖書の聖徒たちの復活


ダニエル書12:1-2によれば、患難時代の後、つまり千年王国設立の前に旧約聖書の聖徒たちの復活があるように記されています。また、イザヤ書26:19-21では、彼らの復活はキリストが世をさばくために来られる時、つまりキリストの地上再臨と関連して記されています。


5.患難時代の聖徒の復活


黙示録20:4-5によれば、患難時代に殉教者として死んだ人たちが千年王国設立の前に死から生き返り、キリストと共に千年王国を治めることになっています。


6.不信者の復活


黙示録20:4-15によれば、キリストによる救いを拒否した人々が白い御座のさばき(最後の審判)の前に立つために死から復活することが記されています。彼らは、この厳粛なさばきを受けるために復活し、肉体をもって永遠のさばき(地獄)に入れられるのです。


このように、復活は信者と不信者に関係なく、すべての人が経験する重大な出来事です。信者にとっては永遠の希望であり、輝かしい復活も、不信者にとっては永遠の滅びに至る恐ろしい出来事です。人は誰でもこの厳粛な事実を軽く受け止めず、もっと真剣に耳を傾けるべきです。


かつて英国の首相であったグラッドストンは、「私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っているが、その中の87人は聖書を奉ずる人であった」と言っています。


たとえ非現実的なものに思えても、自分を知者だと思わず、世界の三分の一の人々が信じ、世界の多くの優秀な人々が信じている復活の事実に、あなたも一度、向き合ってみませんか?


今日の一言: 多くを知れば知るほど、イエス・キリストの復活を疑う余地がなくなる。



鶴田健次



下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。


✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2017.04.22 03:48 | お知らせ

FC2Ad

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.