fc2ブログ

LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

20170329_1a.jpg

振り返ってみると、生き方を変える程の大きな要因が人生の途上にいくつかあります。その最も大きなものは、2324歳のころに始まりました。それは、想像できないほどの変化を私にもたらしました。

 

ある海外旅行ツアーに友達と参加した時のことです。ほとんどの参加者はカップルや友人同士でしたけれど、中に一人参加の方がいて、その方はちょっと年上の女性でYさんといいました。きれいな聡明な女性という印象でした。

あるきっかけから、Yさんと私の住まいが数駅違いということがわかって、ローカルな話等に花が咲き、急に親しい友人になった感じがしました。

 

その旅行以来、お互いの家を行き来し、とても仲良くなりました。Yさんはテキスタイルのデザイナーで、素敵なマンションに一人で住んでいました。その2年後に、Yさんは故郷に帰りご結婚されました。

その間の短いお付き合いでしたが、博学なYさんからいろいろなことを学び、たくさんの興味深い話を聞きました。Yさんの話題は多岐にわたり、話が上手で、私はどんな話題でも引き込まれてしまいました。 

 

ある日Yさんは私に、「死後、何もかも無くなると思って生きるのと、次の世があると思って生きるのでは、人生の生き方が完全に違ってしまうって、思わない?」と言いました。

当時の私は、漠然とですが、死んだら無になると思っていたので、どう違うのか尋ねました。Yさんの答えは、「死後は無になると考えている人の生き方は、ズルしても、それを人に知られずに死んだ場合、その人の罪は無いも同然。裁かれない。なので人を欺き、窮地に陥れても、自分は大金を稼いで面白おかしく生きようとするんじゃい?」というものでした。

 

一方、次の世があると思って生きている人は、「今を正しく、良い事をして生き、学ぶべきことを学び、人の役に立つ人になって、次の世のためにできるだけ徳を積むような生き方を心がけるんじゃないの?」と、話してくれました。

 

私はこの話を聞いても “何となくそうかな” としか分かりませんでしたが、ひとつだけ確実にわかったことは、このテーマこそ私に必要なものだ、ということでした。

以来、絶えず調べたり考えたりしていましたが、考えが進めば進むほど疑問が出てくるのです。

 

まず、死後、次の世があると信じて生きるとすれば、世界各国の人々の価値基準の違いや、時代を超えても通用する正しさの基準は何か、せめてそれが分からない限り、真に正しく今の世を生きることは不可能じゃないかと思いました。

 

それを探るヒントがないものかと思っていると、宇宙の全体像が心に浮かび、天体が規則正しく動いている様は、真に正しいルールの下で行われていることに気付きました。それは想像を絶する年月の営みが、既にその正確さを証明しているものです。

この天体の運行を誤差なく正しいバランスで正確に動かすことのできる秩序こそが、宇宙全体の正しさの基準ではないかと思ったのです。 

そして、地球もそこに住む人間も宇宙の構成要因なので、その正しい秩序の影響下に入っています。ですから私たち人間は、真に正しいものを既に知っているに違いない。ただ、分からない、見分けられないのだと思いました。

 

ではなぜ、本物が分からず、見分けられないのかが次の問題でした。心が汚れ鈍くなっているのだろうか? 騙されないように扉を開けない人になってしまったのだろうか?

だとしたら、今から何でもトライして、どんなチャンスでも逃さずに、知ってみよう、行ってみよう、やってみようというふうに捉えることにしようと思いました。それは、どんな誘いでも可能な限り、好き嫌いを問わず、宗教の誘いでも、少なくとも初回は参加することにしました。

間違った宗教もあるので、実は、危険かもしれないとは思いましたが、私にも影響している宇宙を規則正しく動かしている秩序なるものが、私を正しく導く、と本気で信じてみて、実行しました。

 

実際、惑わされたり、入会のサインをさせられたことや、講演会と偽った何かの勧誘だったりとか、いろいろな負の経験もしましたが、全てそれらは、正しいものを見る目の肥やしになったのではないかと後で気付きました。

 

新しい場所に引っ越したばかりの33歳のある日、2つ先の駅近くの教会へ行ってみることにしました。友達がそこへ行くように勧めていたからです。

平日に行ったにもかかわらず、牧師さんが笑顔で迎えてくださり、教会の椅子に座って話していたところ、私は自分の異変に気付きました。

 

それは、霊体離脱というのでしょうか。私の意識が天井の方にいて、椅子で話している自分と牧師さんを見下ろしていたのです。その状態は、霊の私にとってとても気持ちが良いものでした。

結局、上の方にいる霊の私が、下で座っている肉体の私を通して、牧師さんに洗礼したい旨を伝えました。肉体の私はギョッとしましたが、牧師さんは了承していました。私は洗礼するつもりなど無く、ただ教会って何なのか知りたかったのです。


実は、洗礼の辺りの記憶があいまいで、洗礼がその日だったのか、教会に通い始めてからだったのか、記憶が飛んだようになって思い出せません。ですが、私の霊は洗礼をしたかったようで、洗礼をした日には心が宙を舞うぐらい嬉しかったことを覚えています。

 

そしてクリスチャンになって聖書を知り、長年探していた答えが全て聖書にあったことをやっと知ったのでした。

国による違いや、時代による違いにかかわらず、神から発せられた正しさの基準、秩序、神の正義、また神の愛は、宇宙の果てから地球の全ての生き物や、目に見えるものと見えないものにまで及んで存在していることに大いなる感動を覚えました。それは万物の創造主にしかできないことです。

 

素晴らしいことは、神の言葉である聖書がわかればわかるほど、恐れる心が消えていくことでした。

もっと素晴らしいことは、キリストを信じる者はこの世の肉体が滅んだ後、魂は、神の永遠の世界で朽ちない体が与えられて永遠に生きる、というのですから、死ぬことさえ恐怖の対象ではなくなりました。そのことを知ってから、本当の自由を得た気がしました。

信じるものは救われる今の恵みの時代に生きている幸いを、感謝します。

 

また、十字架で私のために死んでくださったイエス様の愛が、自分に罪があるとも知らずに平然と生きていた私に見えなかった罪を見せてくださり、悔い改めへと導き、傲慢な心を打ち砕き、主に仕える僕として新しく生きるようにしてくださいました。

主の代弁者、そして永遠の命に至る道を示す福音の使者として生きる、という使命が、私のこの世でのミッションになりました。主は言われました、恐れるな、私はあなたとともにいると。言われた方は万物の創造主、神です。神の言葉に偽りは無く、神が責任を持つといわれるのです。

私は主のもの、御心どおりに私を用いてください、と祈るだけです。

 

エペソ人への手紙1:11に、「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」という御言葉があります。

 

小学校低学年の時、大人と子供達が賛美歌を歌いながら歩く行列についていった先が、民家の庭で行っていた青空子供礼拝でした。それが人生初めての礼拝体験でした。

長い道のりではありましたが、その神様の下へ私は戻って来たのでした。

エペソ1:11の通り、キリストにあってあらかじめ神の民として選ばれていたのでしょうか。何と感謝な事でしょう。 

 

MU

 

ブログランキングに参加しています。「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただけますと幸いです。

FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」「シェア」のクリックもお願いします。

✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2017.03.29 16:11 | 証し
2Ti4.jpg 
 
私には93歳になる祖父と94歳になる祖母がいます。二人は昨年の3月まで私の両親が住む家から車で3時間程にある、山川海が美しい熊本県天草にある田舎の温泉町に住んでいました。

ちなみに、どれくらい田舎かと申しますと、祖父母にイエス様の事を少しでも伝えたいとアマゾンを使ってキリスト教に関する本を何冊か送りました。送り主がアマゾンで、(二人にとっては)「宗教本」が突然送られてきたので、驚いた祖父母は近くの駐在所に連絡をしたらしく、駐在所から直ぐにお巡りさんが来てくださり、この「事件」について調べが始まったようです。そのお巡りさんの助けにより「事件」は孫娘である私からの「贈り物」であることがわかり・・・祖父母から大笑いで ありがとう と連絡がはいりました。

そんな田舎に住む祖父母を思い、両親は20年程前に自分達の家を建て増し、二人がいつでも引っ越して良いように準備をしていたのですが、美味しい山の幸、海の幸、川の幸と町民は100円程で毎日入れる温泉(家から約20歩!)、自分たちの趣味の仲間達との時間、何よりも自立した生活が好きで、なかなか両親宅に引っ越しして来ませんでした。さすがに緊急時の事を考え始めた様で、やっと・・・昨年の3月住み慣れた地を離れ、両親と共に暮らし始めてくれました。

引っ越したのは良いのですが、近くにお友達がいるわけでもなく、寂しい思いをしていました。

そんな中、親元を離れ私の両親宅に住んでルーテル高校に通う私の姪と、先月ラスガスを訪れ、ラスベガス日本人教会の礼拝についてきた、彼女の母親(私の姉)が、両親宅の近くにある教会の日曜礼拝に先週行ったそうです。しかも、二人が準備をしていると、祖母が「教会には誰でも行けるの?」と聞いてきたそうで、祖母、姉、姪の3人で一緒に教会に行ったそうです!!!  ハレルヤ!

礼拝が終わった後、姉が「天草から昨年の3月に引っ越してきた祖母です。よろしくお願いします。」と皆さんに紹介した所、「天草はどちらですか?私も天草の〇〇から最近引っ越してきたのです」と一人の年配女性が祖母たちに話かけに来てくださったそうです。
色々話をしている内に 旦那様は第二次世界大戦後、シベリヤ(現ロシア)に二年間抑留されていた事をお話になったそうです。それを聞いた姉が「祖父もです!祖父もシベリヤに抑留されていました!」と喜びの声をあげたそうです!
シベリヤ抑留の話はあまりしたがらない祖父ですが、私たちの為に当時の話をしてくれたことがあります。聞いているだけでも恐ろしく、悲しい体験談でした。
祖父母が60歳代後半の頃までは、日本全国に住む共にシベリヤ抑留時代を過ごした人たちと各地を訪れ、慰労会をしていました。それ程、シベリヤ抑留経験者は同じ経験を通した人たちを近く思うようで、早速それぞれ(祖父とその女性の旦那様)に連絡をし、連絡先を交換し合い会う約束をしたそうです。

祖父母は、天草四郎、島原の乱でも有名な地、天草に住んで居ましたし、その時代に建てられた教会も近くにありますので、比較的「キリシタン」の環境は身近にありました。
姉も、カトリック系の高校に通っていましたし、姪も自分が希望してルーテル学院に通学しているので、それなりに環境はあります。
今回は用事があって一緒に教会に行かなかった母も、クリスチャンの人々とのかかわりもありましたし、通常は母が姪を教会に連れて行ってくれています。
夫々、環境はある(あった)のですが、自分の事として考えていなかった家族がこのように礼拝に「行く」ことをはじめました。

「イエス様大好き~♡」と言いながら まだ口で告白して洗礼を受けるまでではない姪。
イエス様の事を知っていはいるものの、信じてはいない姉。
そんな二人が、「祖母が教会に行ったこと」「教会に行く道のりでの祖母との会話と教会で声をかけてくださった方とのチョットした関係」「教会に来なかったけど、祖父にも教会に繋がる方との繋がりができたこと」等等の不思議な出来事を喜び、主の御業である!と口にだして、連絡してくれた事実に微笑まずにはいられませんでした。

私自身、「伝道熱心か?」と聞かれると、胸を張って「はい!」と言えることができないのが事実です・・・
そんな私に、主は「ほらね。この人たちの心には種が蒔かれて、小さな芽がでそうだよ。水をあげなさい。草取りをしなさい。」と励ましてくださったのだと信じます。

本当に嬉しかったニュース。この事を感謝し、希望をもってその芽を枯らすことなく水やり、草取り、コミュニケーションを続けます。


御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
(Ⅱテモテ4:2)

(KS)

ブログランキングに参加しています。
「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただけますと幸いです。
FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」「シェア」のクリックもお願いします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2017.03.27 13:17 | その他

blog_327_convert_20170325010601.jpg 


今日は、”人間は羊に似ている”ということを考えてみました。


聖書は人間を羊に例えていますが、人間と羊とは多くの共通点があります。たとえば、羊は生まれつき道に迷う傾向がありますが、人間もそうです。預言者イザヤはこう言っています。

「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。」(イザヤ53:6) 

これは、私たちが神の御心を知らない理由です。実際のところ、ほとんどの場合において、私たちは神や他の人の言う事に従いたくないのです。私たちはみな自分の思う道を行きたがります。私たちは、自分に指示が必要であるとか、導きが必要であるなどとは認めたくないのです。 

羊に関するもう一つの特徴は、視力が弱いことです。彼らは遠い前方を見ることができません。彼らは崖に向かって歩いていても、それが分かりません。だから彼らには羊飼いが必要なのです。それは私たち人間も同じです。


私たちも将来を見ることができません。私たちは明日何が起こるかを知りません。ましてや来年、あるいは10年後に何が起こるか知りません。私たちは今日の午後に起こることすら知らないのです。 

神は、どんなに頑張っても将来を見ることができないようにあなたを造られました。たとえ将来を予測するためのあらゆる情報を持っていたとしても、あなたは将来何が起こるかを知ることはできないのです。では、なぜ神はそうされたのでしょうか。それは、あなたが神に頼るようになるためです。 

私たちは、将来を見ることができないので、しばしば躓きます。箴言14:12には
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」と記されています。


私たちは皆、その時は正しいと思えたものが後になって間違いであったと分かるような決断をすることがあります。自分の知識と経験だけに頼ると、その道が行き詰まりになり、そこで私たちは困り果ててしまうのです。だからこそ私たちは、「私には神の導きが必要である」という大切な事実を認め、神の助けを祈り求めると同時に、聖書から神の知恵をいただく必要があるのです。

今日の 一言: 私には神の導きが必要である

 


鶴田健次


下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。


✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨


2017.03.25 01:06 | 牧師室より

child-love-languages_convert_20170323014449.jpg 


アメリカに住む私たちは、少なからず日本語と英語といったように、多言語に触れながら生活する機会に恵まれています。3つ以上の言語を巧みに使いこなす人も稀ではなく、改めてすごいな〜っと感じます。


とりわけ言語は、話す相手が理解できる方法でコミュニケーションをとって初めて、意思疎通が可能になります。20年前に渡米した当初は、言語はもちろん、文化も何もかもが異なる異郷の地で、どうしても自分が伝えたいことがうまく伝わらないといった経験を幾度となくしました。


私たちの愛の表現にも、同じような経験をすることはないでしょうか?大切な人に愛情を伝えているつもりでも、相手には伝わっていないということがありませんか? それはもしかすると、愛を伝える言語に違いがあるからかもしれません。


そんなことを考えながら、以前出会ったオーディオブックから、子供向けのバージョンを見つけ、子育てにもたくさんの気づきを与えてくれた「Five Love Languages( 愛を伝える5つの方法)」(Gary Chapman 著)をご紹介します。 


                 love-languages-book_convert_20170323014424.jpg 


この本の中には「どんな人間関係にも役立つ5つの愛を伝える方法」として


① Words of affirmation= 肯定的な言葉

Quality time= クオリティータイム

 Gifts= ギフトを贈る/受け取る

Acts of service= サービス行為

Physical touch= 身体的なタッチ 


があるとあります。


私たちは大切な人に愛を示す時、自分が愛を感じる方法、つまり自分の愛の言語を使って伝えますが、必ずしも相手の言語が同じではないため、うまく伝わらず、すれ違いが生じることがあります。


子育て真っ最中の私も、この本を読みながら、自分と子供のLove Languageの違いに気づかされました。


子供のLove Languageが②クオリティータイムなのに、親である私が、自分のLove Languageである④サービス行為で愛情を表現すればするほど、子供は、いつも忙しさのあまり一緒に過ごす時間がなくなってしまう私に苛立ちを覚え、「いつも何かしてて、一緒に時間を過ごしてくれない」と言います。一方私は、「こんなにたくさんのことをあなたのために行なっているのに、、、、なぜそれが伝わらないんだろう。。。」と感じることがよくあります。まさにこれが、愛を伝える言語の違いによる、すれ違いだと思います。相手に最も響く愛の伝え方を学んでいくこと、それが大切なんだと知らされました。


あなたの愛を感じる言語はなんですか。またあなたの周りにいる大切な人の愛の言語はいかがでしょうか? 愛である神様はどうでしょうか?


神様は、聖書を通して数え切れない肯定的な言葉で、私たちへの愛を示してくださっています①。クリスマスには、この地上で最高の贈り物である、ひとり子イエス キリストをこの世に送ってくださいました③。私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちへの愛の行為を示してくださいました④。イエス様の公生涯では、たくさんの身体的なタッチを持って愛を表現される場面がありました⑤。そして、神様は求めるものには、いつもクオリティータイムを用意し、愛を示してくださいます②。


今日もこの愛の神様は全ての方法で私たち一人一人に愛を伝え続けてくださっています。私も周りにいる大切な人に、その人が愛されていると感じる方法を使って、愛を伝えていきたいと願うばかりです。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

マタイの福音書3:16


(YK)


参考:http://www.5lovelanguages.com


下記のアイコンのクリックで応援を願いいたします!またFacebookをご利用の方は、「いいね」と「シェア」のクリックをしていただくと、多くの方々にも、教会ブログをお楽しみいただける機会になるかと思いますので、よろしければ、ご協力をお願いいたします。


✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨


2017.03.23 01:52 | 牧師室より
Gods.jpg 
  まず結論から言いますと、主イエスの十字架のためにユダの裏切りは”必要”ではありませんでした。多くの人は、ユダの裏切りがなければ、主イエスの十字架もなかったと誤解していますが、ユダの裏切りは、必ずしも”必要”なものではありませんでした。たとえユダの裏切りがなくても、主イエスは遅かれ早かれ、捕らえられたことでしょう。

  また、ユダの裏切りは、本来、神の意志ではなく、ユダ自身の意志でした。神は彼の意志を予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されたのです(ゼカリヤ11:11-12)。つまり、初めにユダの意志があり、次に神の予知があり、それから神の予定があるのです。これを予定論と言います。多くの人が誤解しているように、予定論というのは”神が予定をして予知される”ことではないのです。

  第一ペテロ1:2に、「父なる神の予知に従い・・・・選ばれた人々へ」という言葉があります。まず予知があり、その予知に従って選ばれ、救いに予定された人々がクリスチャンなのです。ユダの行動についても、まずあったのは、ユダ自身の意志であり、また神の予知です。神は、ユダが裏切ることを予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されました。そしてその予知通りに、ユダは裏切ったのです。

  では、ユダの裏切りが予知されていたのなら、もはや彼に救われる機会はなかったのでしょうか。いいえ、他のすべての人と同様、彼にも救われる機会はありました。彼が主イエスの弟子として生きる機会は、裏切り後も変わらずありました。なぜなら、裏切りが彼を滅ぼすのではないからです。

  もし人が天国に入れないとすれば、それはその人が何かを「した」からではなく、むしろ、あることを「しなかった」からなのです。人は悔い改めるなら、どんな罪も赦されます。キリストを裏切った罪も赦されます。キリストの十字架の横でキリストを罵ったあの強盗も、悔い改めて信仰を表明すると、即座に天国を約束されたのです(ルカ23:43)。

  ですから、ユダには、裏切りという罪を犯したあとにも、救われる機会はありました。しかし、彼は悔い改めることをしなかったので、悲惨な最期を遂げてしまったのです。このように、ユダが裏切ることは神に予知されていたものの、それによって彼が滅びに定められていたわけではありません。彼を滅びに定めたのは、神の意志ではなく、ユダ自身の意志です。ユダに限らず、私たちすべての行動は、神によって予知されています。しかしその予知が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのではありません。私たちの意志が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのです。

  ユダの出来事は、私たちすべての者に重要な警告を与えています。ユダは特に罪深い人間だったわけではありません。彼以上に罪深い人間は大勢います。しかし、誰であれ「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。もし人の人生が、滅びに終わるとすれば、その人は生きた価値があるでしょうか。いいえ、その人はむしろ「生まれなかったほうがよかった」と言わざるを得ません。なぜなら、滅びは、その人の人生を無価値にしてしまうからです。

  主イエスがこの言葉をユダに関して言われたとき、主はそれを「残酷な」宣言として言われたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この悲しい厳粛な事実を、ありのままに、ご自身の嘆きの言葉として言われたのです。

  歴史を支配しておられる神は、ユダの不信仰と裏切りすらも、ご自身の計画達成のためにお用いになるのです。こういう神を知ることは、歴史の変動期に生きている私たちにとっては、大きな慰めです。ヨハネの黙示録を学べばよく分かる事ですが、これから歴史は大きく変わります。しかし、聖書を通して、私たちはその対処の仕方を知ることができるのです。

  アメリカの著名な作家、フィリップ・ヤンシーはこの事に関して、次のように書いています。

「高校時代、私はチェスの腕前には自信があった。チェスクラブに入り、勝負ではほとんど負けたことはなかった。しかしその後の二十年は、チェスとは無縁の生活であった。ところがある時シカゴで、本当に強いチェス・プレーヤーに出会った。彼と数ゲームをした私は、名人と勝負するということがどんなものかを思い知らされることになった。こちらが古典的な攻撃法で迫ると、彼は古典的な防御で打ち返してきた。危険をおかして奇抜な手で仕掛けると、彼はそれをもうまく取り込んで自分の勝ちパターンにもっていってしまう。彼の腕にかかっては、私のもくろみは、全て彼に有利に働くだけだった。おそらく神も、ご自分の被造物である人類には、このように対処されるのだろう。神は私たちに、神が作られた計画に反抗する自由さえもお与えになった。しかし、私たちがいくら反抗を企てても、神はそれを、『人類救済計画』の実現のためにお用いになるのだ。」


LVJCC牧師:鶴田健次

ブログランキングに参加しています。
「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただけますと幸いです。
FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」「シェア」のクリックもお願いします。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
2017.03.21 03:54 | キリスト教 Q & A

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.