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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  これはよく聞かれる質問ですね。なぜ神はサタンがアダムとエバを誘惑するのを許容されたのか。この質問の裏には、神はサタンよりも力ある方なので、サタンの誘惑を阻止することができたはずだ、という思いがあるかも知れません。
 
  しかし、神がサタンの誘惑を許容されたのは、神とサタンのどちらが強いか、という力の問題だったのでしょうか。もし力の問題ならば、神はサタンの誘惑を決して許さず、直ちに退けてしまわれたでしょう。ところが、これは力の問題ではなかったのです。聖書によれば、サタンは二つの倫理的な異議を申し立てました。その一つは、人間の側の倫理的問題に関する異議であり、もう一つは、神の支配や導きの妥当性に関するものでした。

  まず、人間の側の倫理的な問題に関してサタンが提出した異議について見てみます。旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブの信仰を自慢する神に対し、サタンは、「ヨブは理由なしに神を信仰するでしょうか。彼は理由あってそうしているだけです。あなたが彼の財産を増し加え、物質的に富んだ者とされたからです。試しにヨブを貧乏のどん底に突き落としてご覧なさい。彼はきっとあなたを呪うでしょう」と異議を唱えました。そこで神はサタンに、一定の枠内で、ヨブに災いが下ることを許されたのです。
 
  次に、神の支配や導きの妥当性についてサタンが提出した異議について見てみます。サタンは、人間の命や幸福が神の支配と導きに依存していることに対して異議を唱えました。まずサタンは、「それを食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことにより、神を偽り者として、神の命令や助言や導きなど不用であるとしたのです。言い替えれば、人間は神の命令や導きに従わなくてもちゃんと生きることができると異議を唱えたのです。
 
  さらにサタンは、禁断の実を食べるなら、「あなたがたは神のようになる」と誘惑しました。「神のようになる」とは、主権者のようになるという意味です。それは、他に依存せず、自らの意志を貫く主権者のことです。つまりサタンは、「あなたがたは神のようになれるのだ」と言ったことにより、「あなたがたは、神の支配なしでも幸福になれます。私の言う通りにすれば、神の支配など受けずに、独立して自分が神のようになれるのです。そうすれば、自分の思うように、主権者としてふるまうことができますよ」と言おうとしたのです。
 
  サタンはこうして、真の神の支配や導きを拒み、神から独立するように人を誘惑しました。サタンは、神中心ではなく自己中心な生き方こそ幸福への道だとしたのです。神の支配や導きのもとにある必要はない。自分で自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ幸福になれるのだ、と人間の幸福が神の支配や導きに依存することに異議を唱えたのです。
 
  したがって、これは神とサタンのどちらが強いかという、力の問題ではなかったのです。そしてこの重要な倫理的問題は、全被造物を証人として、その前で決着がつけられる必要があり、神はこのとき、「女のすえ」と呼ばれるキリスト者たちのことを心に留めておられました。
 
  つまり、神は彼らが、神に従うことがたとえ苦難を意味する場合でも、なおも神を愛することを知っておられたのです。また彼らが打算からでなく、神を神であるがゆえに拝し、愛するようになることを知っておられたのです。さらに神は、神なしの世界では、結局は悪と不幸は無くならず、真に平和で幸福な社会とはなり得ないことを全被造物の前に実証できることを知っておられたのです。
 
  こうした理由から、神はサタンの誘惑を許容されましたが、それによって、天と地の最大の問題に決着がつけられ、この事が必ず神の栄光を現わすものとなることを、神は知っておられたのです。
  
鶴田牧師


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2016.11.29 03:33 | キリスト教 Q & A

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今日は、”失敗に学ぶ人生”ということを考えてみました。


人生には、失敗はつきものです。何かをやろうとしたら、最後までスムーズにやり遂げることなど滅多にありません。ほとんどの場合、人は途中でくじけそうになったり、諦めかけたりするものです。


しかしながら、自分の経験だけでなく多くの人々の経験から分かることは、失敗を通して色んなことを学ぶことができるということです。


そもそも英語のSUCCESS(成功)という言葉は、「後から来る」という意味のラテン語に由来しています。それが何の後から来るのかというと「失敗」の後からなのです。つまり、成功とは失敗の後から来るものである、ということです。特に、大きな失敗は、一時的には大きな痛手にはなりますが、その度合いが大きいほど、めざましい変化につながります。なぜなら自分を真剣に変革しようという気持ちが生まれるからです。

大失敗したり、大病を患ったりした人は、その中で多くのことを考え、学び、人間的にも大きく成長して、以前よりずっと魅力的な人間になることができます。最悪の失敗が最良の結果をもたらすこともあるのです。


世界最高峰に7度の登頂を果たした米国の登山家ピート・アサンズは、「エベレストに挑んだ最初の4回の遠征では、どうやったら登れないかを学びました。失敗は、アプローチに磨きをかけるチャンスを与えてくれるものです」と言っています。


その意味では、中途半端な失敗よりも、大きな失敗の方が良いくらいです。人間というのは、どうも成功からはあまり学ばず、失敗して初めて真剣に物事を考え、大切なことを学び取っていくようです。


聖書の中にも、多くの失敗をした人々の人生が記されています。信仰の父と呼ばれる、あの偉大なアブラハムでさえも大きな失敗を経験しました。それは創世記の16章に出てくる出来事ですが、彼の生涯において最も大きな失敗でした。


アブラハムはこの失敗によって、13年間も神からの呼びかけを聞くこともなく、神からの導きも一切ないという、神の不在経験を余儀なくされたのです。逆に、その失敗は家庭内にいろいろな問題を引き起こし、そればかりか、4000年以上たった今日においても、世界はその問題を引きずっているのです。


神を信じるクリスチャンにとっても、失敗のない人生、失敗のない信仰生活はありません。創世記16章のような出来事は信仰者の誰もが必ず引き起こす間違いです。つまり、それは神から与えられた約束を、私たちの力で実現しなければならないと考えてしまうことからもたらされる失敗です。


「失敗は成功のもと」という格言があるように、神を信じる人生においても、私たちは多くの失敗の痛みを通して、多くのことに気づかされ、成長していくものです。やがてイスラエルの民も自分たちの国を失うという痛みを経験しながら、はじめて神の教えを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむというライフスタイルを形成していきます。


「苦しみに会ったことは、私にとって幸いでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)という詩篇の記者の告白も、自らの失敗を通して学んだ結実でした。


創世記に記されたアブラハムの全生涯を見渡すとき、彼に対する神の導きの中に失敗の経験が無駄なく組み込まれているように見えます。失敗それ自体は、辛く、痛みを伴うものですが、それがやがて益となり、アブラハムをして「信仰の父」と呼ばれる者に導かれた神の恵みと真実に絶えず心を留めていきたいものです。


今日の一言: 成功は失敗の後から来る



鶴田健次


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2016.11.26 04:04 | お知らせ

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ここラスベガスの主な交通手段は、車。あちらこちらへと車で移動する時に私にとって欠かせないのが、クリスチャンラジオです。スピーカーから流れる曲に耳を傾け、時には歌詞があやふやでも思いっきり声を出して歌ったり、またある時は、車を駐車してプログラムに聞き入ったりしています。

以前このブログでもイベントを紹介しましたが、ラスベガスでは、こちらのステーションを楽しむことができます。


多くのクリスチャンラジオの特徴は、聴者の皆さんによって支えられているというところで、通常のラジオステーションの収入源であるコマーシャルが一切ないということです。曲やプログラムの合間には、コマーシャルの代わりに、貴重なプチメッセージが入るところが、逃せないポイントです。そこで今日は、先日考えさせられたプチメッセージを皆さんにご紹介します。


ある大学の卒業生に送られた元コカコーラのCEOであるBrian Dysonさんのスピーチです。



[…] Imagine life as a game in which you are juggling some five balls in the air. You name them work, family, health, friends and spirit. And you’re keeping all of these in the air.


You will soon understand that work is a rubber ball. If you drop it, it will bounce back. But the other four balls – family, health, friends and spirit – are made of glass. If you drop one of these, they will be irrevocably scuffed, marked, nicked, damaged or even shattered. They will never be the same. You must understand that and strive for balance in your life.

-BRIAN DYSON



YK流訳:


「あなたの人生を、5つのボールを空中でジャグリングするゲームだと想像してみてください。あなたは、それらのボールを、「仕事」、「家族」、「健康」、「友達」、「心」と名付け、これらのボールを落とさないようにジャッグルします。


やがてあなたは、「仕事」のボールが、軟式(ゴム)ボールであるとすぐに気がつくでしょう。落としても、すぐに跳ね返ってきます。しかし他の4つのボールは、ガラスでできています。もしこのうちの一つを落としたら、元の状態から磨り減ったり、傷がついたり、一部が欠けたり、破損したり、割れてしまうことだってあるでしょう。もう二度と同じ状態に戻ることはありません。このことをしっかり理解し、人生のバランスに取り組んでください。」

                        ブライアン ダイソン




このスピーチを聞いて、改めて大切なものを大切に扱うことがどういうことなのかを模索し、車を駐車しました。。


感謝祭を目の前に、私たちクリスチャンは、365日の1を感謝する日として設けるだけでなく、毎日どんな時でも、感謝できることがたくさんあることに気がつきます。そして、それが私たちの人生に重要な「バランス」の鍵なり、優先順位を決める助けにもなるんだなと思いました。


みなさんは今幾つのボールをジャグリングされていますか?またそれらのボールはどんな素材でできていますか?



「ですから、自分の行動によくよく注意しなさい。今は困難な時代です。愚か者にならないで、賢くなりなさい。あらゆる機会を十分に生かして、正しい行いをしなさい。 軽率に行動せず、主が望んでおられることを実行しなさい。 酒を飲みすぎてはいけません。そこには多くの悪が潜んでいるからです。むしろ、御霊に満たされ、支配していただきなさい。 聖なる歌をうたい、心の中で主に向かって賛美しながら、互いに主について語り合いなさい。 いつも、あらゆることを、主イエス・キリストの名によって、父なる神に感謝しなさい。」


エペソ5:15−20(JLB)


(YK)


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2016.11.24 03:34 | お知らせ
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私は、2013年6月に洗礼を受けた頃から、鶴田先生が導いてくださる聖書の学び(聖書クラス)に育てていただいていますし、聖書の学びをとても楽しみにしています。

なぜならば、私たちの日々の糧、パンであり、力、胸当て、剣、知恵となる神の御言葉を少しでも多く、正しく学びたいと言う思いと、兄弟・姉妹と共に神の言葉を学べる何とも言えない楽しさが好きなのです。また、自分だけでは学べ得ない多くの学びがあり、必要な時に、必要な御言葉を深く学ぶ機会が多く与えられます。

ただ・・・私たち夫婦は、夏の間はラスベガスに居ないため「夏の間、聖書の学びに参加できない・・・どうしよう・・・?」と言う状況になりました。 その時、鶴田先生がSkypeを使って、ソルトレイク日本人教会の日語部の方々に聖書クラスを設けていらっしゃると聞き、ソルトレイクの皆さんの聖書の学びに加えていたくことになりました。
それ以来、2013年、2014年は夏の間だけ、2015年、2016年は一年を通して、できるだけソルトレイクの皆さんの聖書の学びにご一緒させていただいています。

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ソルトレイク日本人教会の方々も高齢化が進んだり、生活の変化で、現在常時聖書の学びにご出席されるのは、KさんとSさんのお二人、そしてたまに90歳になられるEさんが参加されます(ご自分で運転していらっしゃいます!)。
私もここ半年程、スケジュールがタイトでなかなかご一緒出来ない時が多いのですが、KさんとSさんがこの会をまとめ、鶴田先生が導びき続けてくださっていることは、私にとって掛け替えの無いことですし、頼みの綱でもあります。また、ご自分で運転して聖書の学びに参加される90歳のEさんは私の目標です!

そんな聖書の学びの友、主にある姉妹と「いつの日か、ソルトレイク日本人教会で一緒に礼拝を奉げたい!」と数年前から願っていましたところ、ソルトレイクから車で約3時間南東にある小さな町への出張が入りました。突然の出張ではあったのですが、時間ができそうだったので、Kさんに連絡せていただき、その3日後に、Kさんとの念願の対面が現実になったのです!
(突然でしたので、残念ながらKさん以外とはお会いできなかったのですが・・・)

神の御言葉を通して知り合った、主にある姉妹。
この様な関係を与えてくださる主に、そしてその機会を保ってくださっている鶴田先生、ソルトレイク日本人教会の姉妹に感謝です!

聖書を学びたい、聖書の学びの友に会いたいという小さな者の思いを、かなえてくださった主は、いつか、ソルトレイク日本人教会で共に礼拝を奉げる機会を与えてくださると信じ、楽しみにしています!

そして、最後に。
折角このように、贅沢な聖書の学びの時間を与えられているのですから、無駄にしないよう、御言葉を行える人間になれるよう祈ります。


マタイの福音書 7章7~8節
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ヤコブの手紙1章22
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

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今日は、”隣人に対する責任”ということを考えてみました。


「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。また聖書は、「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきである」と教えています。


世の中には、人知れず負いきれない重荷を背負って生きている人々がいるものです。そういう現実の中で、もし私たちクリスチャンが、自分のように隣人を愛し、強くない人たちの弱さを担うことを心掛けるなら、多くの人を救うことができるかも知れません。


先日、こんな記事が目に留まりました。


2006年2月1日、京都市の桂川河川敷で、冷たい雨の降りしきる中、2人の血まみれの男女が発見された。女性の方はすでに死亡していたが、男性の方はまだ息があった。無職片桐康晴被告(当時54歳)と、その母親小ふじ(86歳)さんで、無理心中を図ったのだ。

片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、結婚していなかった片桐被告は、一身で母親の世話を引き受け、夜中も母のトイレに1時間おきに付き添い、睡眠不足のまま出勤する生活が5年続いた。

昼夜を問わない必死の介護にも拘わらず母親の症状はますます進み、片桐被告が仕事してる間にも、徘徊して警察に保護されるなどの症状が2回も起きた。デイケアを利用したが介護負担は軽減しなかった。仕事を休職して介護に当たるが、05年9月に「いつまでも迷惑をかけられない」ということで、休職中の工場を退職。


生活保護を申請するが、失業給付金などを理由に認められなかった。ハローワークに通い、介護と両立できるような仕事を探したものの、時間的に都合の良い、思うような仕事は見つからなかったという。

そして05年12月、失業保険の給付が終わり、カードの借り入れも限度額に達した。年が明けて06年1月、翌月分のアパートの家賃やデイケア代も払えなくなり、経済的に行き詰まってしまった。職人の父から「人様に迷惑をかけるな」と厳しくしつけられた被告は「命をそぐしかない」と、1月31日、心中を決意した。

その日の朝、自宅をきれいに清掃し、昼頃、出刃包丁とナイフを持ち、母親を殺して自分も死ぬ覚悟で家賃の払えなくなったアパートを出た。車椅子の母親を押し、最寄りの京阪淀駅から三条駅へ向かい、「最後の親孝行に」と、京都市内を散策した。お腹がすいた2人は、コンビニで残りわずかなお金でパンを買って、2人で分けて食べた。

その後、三条駅から淀駅に戻ってきたが、アパートには帰らず、ついに夜が明け、翌2月1日早朝、アパート近くの桂川に架かる宮前橋付近の遊歩道にたどり着いた。前日の昼過ぎに家を出てから、真冬の底冷えする京都の街を一晩中、家にも帰らず、佇んでいたのだ。

片桐被告は、眠っている母の殺害をずっと躊躇していた。自分が一生懸命介護してきた母親を殺害するのが、あまりにも忍びなかったのだ。

やがて目を覚ました母親に、片桐被告は言った。

片桐被告: 「もう生きられへんのやで、ここで終わりやで」
母親: 「そうかあかんか。康晴、一緒やで、お前と一緒やで」
片桐被告: 「すまんな、すまんな」
母親: 「こっち、来い康晴、こっち来い」


(片桐被告が母親の顔に額を密着させる)

母親: 「康晴はわしの子や。わしがやったる」

この言葉を聞いて、片桐被告は、殺害の決意を固めた。母親の首をタオルで絞め付けて殺害しようとしたが、果たすことができず、手で首を締めた。そして自らも包丁で首を切って自殺を図ったが、母の遺体の横に倒れているのを発見され、一命を取りとめた。

検察の取調べに片桐被告は、

「母の介護はつらくはなかった。老いていく母がかわいかった。自分は母親を殺害してしまったけど、もし、もう一度、生まれ変わっても、母の子に生まれたい...」と言った。

片桐被告は、決して、母が憎くて殺害したのではない。また母も、息子に殺害されることを恨んでなどいなかった。最愛の母を自分の手で殺さなければならない、息子の片桐被告の無念さは、いかばかりであったことか。彼にとって、「最後の親孝行」になった母との思い出、額を寄せ合った、母のぬくもりは生涯忘れることのできないものだろう。

検察側は、「死を前にした親子がお互いの額をすり寄せるなど、固いきずなで結ばれていた」と指摘。情状酌量の余地ありとして異例の求刑・懲役3年を求めた。

目を真っ赤にしていた東尾龍一裁判官は片桐被告に対し、「尊い命を奪ったという結果は重大だが、経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し 自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当」として懲役2年6ヵ月、執行猶予3年という、殺人(承諾殺人)では異例の執行猶予つきの判決を言い渡した。


そして被害者(お母さん)の心情に対し、「被害者は被告人に感謝こそすれ、決して恨みなど抱いておらず、今後は幸せな人生を歩んでいける事を望んでいるであろうと推察される」と付け加えた。

 

判決の後、片桐被告に裁判長が「絶対に自分で自分をあやめる事のないようにお母さんのためにも、幸せに生きてほしい」と言われ、片桐被告は深々と頭を下げ「ありがとうございました」と言った。

 

片桐被告に判決を言い渡した後、東尾裁判官はこう言葉を残した。

「本件で裁かれるのは被告人だけではなく、 介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。 こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを 行政の関係者は考え直す余地がある。」

 


確かに行政の責任は大きいものがあるかも知れません。しかし、一人一人の生活状況、またそれぞれの精神状態を把握しながら適切な判断をすることには限界があります。そんな中、私たちクリスチャンがもっと隣人愛に生きるなら、こうした気の毒な人たちを救うことができるような気がしてなりません。


今日の一言: 弱い人の弱さを担おう!


鶴田健次


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2016.11.19 01:34 | お知らせ

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