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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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「運転すると人が変わる」若しくは「運転があらい」人をご存知の方も多いのでははないのでしょうか? 私も以前4回程事故を起こしたくらい「運転があらい」タイプでした(です)。

ラスベガスの人達、いや訪れる町々の多くのドライバーには、その様なタイプの方々が多いように思います。特に最近は運転する事に恐怖感すら覚えるばかりか、恐怖感を越えて、滑稽に見える程アグレッシブな運転をする人が多くなっているのも事実です。

- 目の前や横のレーンの車よりトニカク先に行きたいから、ジグザグ運転を繰り返す。
- メイン通り、大きな通りに出る際、他の人の迷惑になろうとも、トニカク早く出たいから後続車の危険を考えず入り込んで、ブレーキを踏ませてしまう。
- 渋滞していて、どんなに前の車に近づいてもそれ以上進めないのに、前の車にピッタリくっついたり、プレッシャーをかけながら運転をする
等等

「安全運転」「譲り合い」と言う考えで運転している人より、「予定の時間に遅れている!」「A地点からB地点までとにかく早く移動したい!」と言う本能で運転している人、心や時間に余裕が無い運転をしている人が多いのではないでしょうか?
この様な運転で、目的地に早く着いたとしても、ラスベガスValley内の移動では、実はほんの数分なのです。 

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ほんの数分の為に、他の人を危険にさらしたり、事故の可能性を高めるだけでなく、運転している本人の心の平安も失います。最悪の場合、人の命を奪う事にもなります。

聖書の中に「イエス様は走って(大急ぎで)〇〇に行かれた」と言う記述はないように、イエス様は一歩一歩大切にこの地を歩かれました。
歩きながら町々で神の国について教え、愛を伝えてくださいました。

私たちも心に平安をもって、愛をもって運転すれば、綺麗な空や、木々・花が見えてきたり、道を譲った事で相手から「Thank you !」と言う笑顔付のジェスチャーをいただくことができ、喜びから大きな声で賛美を歌いたい気分にもなります!!!

私自身、未だに急いでいたり心がざわついている時は、余裕の無い運転をしてひやっとする事もありますし、忙しい時の数分はとても貴重な時間ではありますが、エンジンをかける時や家を出て直ぐに、安全と心の平安のために「運転中に心を主にあけ渡せるよう」お祈りすると、多くの場合とても穏やかに安全に運転ができ、賛美が口から出てくることを体験しています。

みなさんも一緒に、「イエス様の心で運転を!」を標語に 10-20分の通勤・運転時間を、賛美やイエス様との会話の時間に変えてみませんか!?

箴言第4章23節 
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。

KS

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2016.10.31 17:10 | その他

          blog 308 


今日は、”人には負うべき重荷がある”ということを考えてみました。


新約聖書のガラテヤ書6章5節に、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」という一節があります。


この「重荷」と訳されている聖書原文のギリシャ語は、兵士が背負っている背嚢(はいのう)を意味しています。その背嚢には、食料や衣類、その他、兵士が生きていくために必要なものが入っています。ですから、それは確かに重い荷物なのですが、それ無しには兵士は生きていけないのです。


人が人生において背負っている重荷は、実は、この兵士の背嚢と同じようなところがあり、それは人が生きるためになくてはならない糧であると言えるかも知れません。誰でも自分から進んで重荷を背負いたいとは思いません。背負わされた重荷があれば、それから出来るだけ早く開放されたいと思うのが普通です。重荷などないほうがいいに決まっている、と誰もが言うはずです。


ある牧師に寝たきりの重病の妻がいました。その牧師は、はっきり口には出さないものの、重病の妻は自分にとって大きな重荷であっとことは間違いなく、正直言って、出来ればそれから解放されたいという思いがいつも心の片隅に、いや心の中心にあったそうです。


しかし、一方で、この重荷はどうしても自分が背負わなければならないという覚悟が揺らいだことはなかったそうです。できることならこの重荷から解放されたい、しかし、自分が背負わなければ、いったい誰がこの重荷を背負うことができるか、誰も出来ないに違いない、そう思ったそうです。


自分が背負わなければ、いったい誰がこの重荷を背負うことができるか、そういう重荷を人は誰でも人生において背負わなければならないことがあるのかも知れません。もしそうであれば、そういう重荷こそ、自分自身が生きていくうえで欠くことのできない背嚢だと言えるのではないでしょうか。


その牧師の人生の大半は重病の妻と共に過ごしてきた人生でした。人間は健康なときもあれば、病に臥すときもあります。重病になったからと言って、その伴侶を重荷と感じるのは身勝手と言えば身勝手です。場合によっては立場が逆転していたかも知れないのです。そうであれば、その重病の妻はその牧師にとって、重荷は重荷でも、それ無しには生きていけない兵士の背嚢という意味での「重荷」に他ならないと言えるでしょう。


夫婦の間に限らず、親子の間にも、兄弟の間にも、親しい友との間にも、この背嚢という意味での「重荷」が存在するかも知れません。それが聖書で言われている「おのおのが負うべき自分自身の重荷」なのではないでしょうか。


今日の一言: 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある



鶴田健次


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2016.10.29 02:51 | 鶴田健次牧師より

   大洋の一滴a  

食欲の秋、運動の秋、読書の秋がやってきましたね。冬の寒さに向けて、心も体も蓄えの準備に入るこの時期、ふと我が家にある本の整理整頓をした際に、本棚で眠っていた一冊の本に再会しました。それは、「マザー・テレサ 100の言葉」という本です。 

今回は、偉大なるマザー・テレサが語る「100の言葉」の最初のページから与えられた思いを、皆さんにシェアしたいと思います。 

「わたしたちのしていることが、大洋の中の一滴にすぎないことを知っています。でもこのひとしずくがなければ、この大洋に、ひとしずくの水が足りないことになるのです。」 

今に始まったことではありませんが、日常生活の様々な場面で、しなければいけないことが次々に押し迫ってくる経験を繰り返しながら、必死で過ごしているように感じることがよくあります。そして、いくら頑張っても、その努力は所詮、微々たるものに過ぎないと思うと、頑張るのを一時停止したいと思うことだってたまにはあります。皆さんに中にも、状況は異なるものの、同じように感じられるときがあるのではないでしょうか。 
子供を持つ親として、日々繰り返されるルティーンや、目前のTo Do Listに紛れて、「Doing」に重きをおくようになり、まるで神様にあっての自分の存在「Being」さえも忘れがちになっているときもあります。
 

しかし日常生活で発揮される私たちの、小さな思いやり、小さな行動、小さな働き、小さな配慮、小さな優しさ、小さな寛容、小さな憐れみは、関わる周りの人にとっては、なくてはならないものなのだと、マザーの言葉が気づかせてくれました。 

神様のお働きに携わる時も同じなのではないかと思います。たとえどんなに小さな働きに見えたとしても、神様にとっては、神様のご計画にはなくてはならない存在であり、欠かすことができない重要な存在です。さらには私たちに何ができるから、また何をしないからといって、私たちに対する神の愛が変わるようなことは、決してありません。 

まるでパズルのピーズを一つでもなくしてしまうと、もうそのパズルは完成できないように、私は小さなピースではありますが、神様の偉大なるご計画の中にあるピースとして、神の御心を求め続け、従っていく者でありたい、そう心を新たにしました。
 

わたしたちという「大洋のひとしずく」を、神様はなくてはならない存在として、今日も、これからも、ずっと必要としておられます。そう思うと、この世でたった一人の自分という存在の尊さを感じずにいられません。そのように私たち一人一人を見ていてくださる神様に、今日も感謝の思いでいっぱいになりながら、私の霊が満腹になったと同時に、親として、子供の「Doing」ではなく、「Being」に注意深く居られる力が与え続けらるよう、祈りに導かれたのでした。 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ43:4

 (YK)





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2016.10.25 19:26 | 証し

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使徒パウロは、神の霊感を受けて、エペソ書61112でこのように語っています。

 

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 

つまり、霊の戦いというのは、神を信じ、神の側に属する者と神に敵対する、天上にいる悪の霊との戦いのことです。

 

私たちクリスチャンは罪が贖われたことで霊的に生きる者とされ、今まで感じなかった霊的な存在、つまり神の臨在と同時に悪魔や悪霊の影響を受けている現実に徐々に目が開かれていくようになります。ですから、私たちが霊的な世界に心を向ける際には特別な注意が必要で、神の武具を身に付けていなければ簡単に悪魔の策略に惑わされてしまい、その事にも気づいてない場合がしばしばなのです。

 

悪魔は私たちの心に、不安な思い、疑いの思い、恐れの思い、高慢な思い、裁く思い、嫉妬の思い、憎悪の思いなどを投影することができます。私たちは自分の頭に思い浮かぶものは、すべて自分の思いだと思い込んでいますが、実は悪魔や悪霊が蒔いた思いである場合もあります。悪魔は私たちの思いの中に囁きかけることができるのです。


悪魔が私たちを誘惑するときは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りという三つのチャネルを巧妙に使い分けます。たとえば、最初の人アダムは、この三つのチャネルからの誘惑に屈して罪を犯しました。それに対し、第二のアダムであるイエス様は同じように誘惑を受けられたにも関わらず、決して罪を犯すことなく、悪魔に勝利されました。

 

イエス様は、荒野で悪魔からの誘惑を受けられたとき、すべて「聖書に・・・と書いてある」と宣言し、悪魔に対抗されました。ここで注意すべき点は、イエス様が御父から独立した形で、イエス様の意志で自らの行為をなすように悪魔が仕向けたのに対して、イエス様はそれを御言葉によって拒否し、あくまでも御父に対する信仰と従順を選ばれたということです。

 

またイエス様は、聖書の御言葉を説明されたのではなく、御言葉そのものを宣言されました。なぜなら、悪魔が最も恐れるものは御言葉そのものだからです。

 

そのように、悪魔は私たちの御父に対する信頼を揺るがし、私たちが自らの方法で必要を満たし、結果としてすべての功績を自分に帰することを企てるように誘導するのです。もし私たちがそのような誘導に乗るならば、それは御父に対する信仰を放棄したことになり、御父の私たちに対する愛、祝福、憐れみ、励まし、必要の満たしなどを否定することになってしまいます。これによって私たちと神との関係は壊れてしまうのです。


悪魔はこのことを実現するためには手段を選びません。神と人の間の麗しい関係を破壊するためには、悪魔は何でもします。特に、悪魔は私たちの最も弱い部分を狙い撃ちし、私たちの思いの中に彼自身の思いを投影させることで巧妙な誘惑を仕掛けてきます。

 

したがって、私たちの思いこそが戦いの最前線であり、私たちは油断することなく自分の心に浮かぶ思いを監視しなければなりません。一体その思いが誰からのものか、神からか、自分からか、悪魔からか、十分に監視すべきです。そしてすべての思いをキリストの思いに従わせる事が大切です。そのためにキリストの言葉を心に豊かに住まわせる必要があるのです。なぜなら、すべての善悪の確かな判断の基準は御言葉にあるからです。


もし、自分の心にある思いが悪魔からのものである場合、私たちの意志力や知識や心掛けは何の役にも立ちません。イエス様ご自身がなさったように、御言葉をもって悪魔の思いに対抗しなければなりません。悪魔はただ語られる御言葉を恐れるのです。悪魔の誘惑を受けた時には、ただちに適切な御言葉を用いて、「聖書に・・・と書いてある」と大胆に宣言しましょう。そのためには日頃から御言葉を豊かに蓄える必要があります。


基本的に、悪魔からの思い、あるいは自分の肉の思いは、私たちの心の安息や平安の障害となり、もしそれに屈するならば、私たちは聖霊の臨在を失い、私たちの思いは暗くなり、平安を失います。それに対し、神からの思いに自分を従わせていくならば、安息と平安が増し加わり、聖霊の臨在に触れて、私たちの思いは明るくなり、希望が湧いてきます。

 

ですから、自分の心の状態を吟味すれば、自分が誰からの思いに従っているかが判るのです。すでに私たちはキリストにある勝利者です。自分で勝利するのではなく、すでに得ている勝利を信仰をもって宣言することが大切なのです。


LVJCC牧師:鶴田健次


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2016.10.24 11:05 | キリスト教 Q & A

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今日は、”心のフィルター”ということを考えてみました。

綺麗なコップが目の前にあり、その中に水が半分入っているとします。

この水の入ったコップを見て、あなたはどう思うでしょう?

この水は、多いですか?少ないですか? 

水の多い少ないよりもコップの色やデザインが気になるかも知れません。

その感じ方は人によって随分違うことでしょう。

のどが渇いている人は、コップ半分の水は少ないと感じるでしょうし、水など飲みたくもないのに薬を飲むためにその水を全部飲まなければならないとしたら、その水を多く感じるでしょう。あるいは、人によっては水よりも綺麗なコップに目がいき、色の美しさやデザインの良さに心を引かれるかも知れません。つまり、目の前にある現象や出来事、あるいは目の前にいる人に対してどう思うかは、人によって捉え方が違うということです。

たとえば、 お見舞いの電話をもらうと、普通、人は喜ぶものですが、人によっては迷惑がる人もいます。それは何故でしょうか。それは、すべての物事に対し、人は自分の心というフィルターを通して考えるからです。だから、コップ半分の水を少ないと感じる人、多いと感じる人、水ではなくコップの色に、あるいはコップのデザインに関心を持つ人がいるのです。

つまり、あなたの目の前のすべての事柄に対し、あなたがどう思うか、またどう対応していくかは、あなたが自由に決めることができるということです。受験に失敗しても、会社が倒産しても、結婚に失敗しても、その事実をどう受け止め、それにどう対応していくかは、あなた次第なのです。

受験に失敗したことに対し、「十分な準備をしなかったから仕方がない。今度はしっかり準備をして必ず合格するぞ!」と思ってそれを実行するか、それとも、「ああ自分はもうダメだ。学校に行くのはあきらめよう。」と思ってそうするかは、あなたが自由に決めることなのです。

また、結婚に失敗し、「自分に思いやりが足りなかった。これからはもっと相手を思いやる人間になろう・・・」と考えるか、「結婚の相手を間違った。もっと人の気持ちを考える相手を選ぶべきだった・・・」 と考えるか、「ああ結婚なんか二度とするもんじゃない。これからは独りで気楽に生きていこう・・・」と考えるか、それはあなたが自由に選べることです。そして、あなたはその選択に準じた結果を刈り取ることになるのです。

人には物の考え方にパターンがあり、そのパターンは心のフィルターを通して表に現れてきます。つまり、自分のことを「わたしは不幸な人間だ」と感じている人は、それが心のフィルターとなって、無意識のうちに不幸ばかりを選び、「わたしは幸福な人間だ」と感じている人は、幸福ばかりを選ぶのです。

要するに、すべての物事に対する気持ちは、あなたの心というフィルターを通した結果であり、その結果はあなたが自由に決めることが出来るものです。つまり、人生はあなたが自由に決めることが出来るのです。

今日の一言: あなたの人生はあなたが自由に決めることができる。

鶴田牧師


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2016.10.22 02:06 | お知らせ

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