
アンネ・フランク・ハウス ミュージアム入り口
前回のブログの通り、無事に、アンネ・フランク・ハウスへの入館予約ができた約2週間後、いよいよアンネ・フランク・ハウスに行く当日になりました。
アンネ・フランク・ハウス及びミュージアムはアンネ達が本当に隠れて生活していた建物とその隣接建物を使ったもので、あまり規模が大きくないため、午前9時~午後3時半までは予約のみでの入館になります(それ以降は、予約なしで入館可能)。
午後1時の入館チケットを予約していたので、12時にはアンネ・フランク・ハウス及びミュージアムへ向かいました。
入り口には長い列がありましたので早めに並ぼうとしたのですが、「15分前に来てください」と言われ、その通りに伺うとスムーズに入ることができました。
入館チケットには、アンネ・フランク・ハウス及びミュージアムを各自で見るチケットと、そのチケットに30分間のアンネ・フランク・ハウス及びミュージアムに関する説明や質疑応答の時間が与えられるチケットがあります。 今回は、30分間を含むチケットが与えられましたので、写真を撮ったり、しっかりお話を伺う事ができました。
30分間の間に、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の背景、アンネ・フランク一家のドイツでの生活からアムステルダムへの移住のこと、アムステルダムでの生活、隠れ家生活の準備と移住日の決定、隠れ家の建物について、隠れ家生活そしてその協力者、アンネの日記、このミュージアム設立にあたって 等、多くの背景を知ることができたことは、アンネ・フランク・ハウス及びミュージアムを後に見て回る時に大きな手助けになりました。


その後、いよいよ隠れ家のあった建物に入り実際にアンネ達が生活した建物に入ります。(これからは撮影禁止です)
アンネ一家4人、そしてアンネのお父様の会社で働いていた同じユダヤ系の家族 ペルス家の3人(フランク家の潜伏から1週間後に移住)、そしてフリッツと言う男性(フランク家の潜伏から4か月後に移住)が25か月間隠れ住んだ場所は、元々アンネのお父様、オットーが経営する会社があったアムステルダムの運河に面する建物です。
近辺の多くの建物と同じように、この建物にも運河に面する正面側の建物の裏に、もう一つ建物があります。全体はとても複雑な構成になっていることと、正面の建物の1階は倉庫、2階は事務所、3階は商品貯蔵庫等、会社の用途に使われ、アンネ達の隠れ家は、裏にある建物の3階以上にあったため、隠れ家へアクセスする場所はごく限られた人しか知らなかったようです。

アンネの隠れ家 (2タイプの屋根)
ミュージアム、特に隠れ家部分は、写真やアンネの日記から抜粋された日記の部分部分が掲示されているだけで、全てからっぽでした。
それは、アンネ達が逮捕・強制連行された後、ナチスの命令で家具や持ち物が全て隠れ家から持ち出された事と、アンネのお父様が、何百万人の多くのユダヤ人がナチスに連れ去られ、二度とそれぞれの生活の場に戻れなかったように、この部屋の家具もこの部屋へ戻すことを望まなかったからだと言われています。
当日は人が多く、ゆっくりアンネ達が生活した空間でその時の事を想像する余裕もなかったのですが、今思うと、あの空間と日記の内容を重ねるとアンネが記した言葉が活きてきます。
<8人目の同居人が加わる前、姉のマルゴーと共有していた部屋を装飾した時の事>
「さいわいパパが前もって、私のすべての絵はがきや映画スターのコレクションを送っておいてくれたので、糊とハケの助けをかりて、壁全体を一枚の大きな絵に仕立てました。 1942年7月11日」
<部屋を共有しているファーファさんへの不満が記された日記>
「週に2度、午後の4時から5時半まで、わたしたちの部屋にある小さなテーブルを、わたしに使わせていただくわけにはいかないでしょうか(これ以上ていねいな口はきけないくらいです)。いまは毎日、2時半から4時までファーファさんが昼寝をしているあいだ、わたしがそこにすわっていますが、それ以外の時間は、部屋にもテーブルにも近づけません。 1943年7月13日」
<隠れ家での生活 20カ月目頃>
「こういう状況のなかでのせめてもの救いは、こうして考えることや感じることを紙に書きしるすことができるということです。そうでなかったら、完全に窒息していたでしょう。 1944年3月15日」
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写真や日記内容は、アンネ・フランク・ハウスの来館者用パンフレット及び http://annefrank.org/ より引用
(KS)
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アンネ フランク ユダヤ人強制収容時の資料とアンネの日記
この夏、アムステルダムにある「Anne Frank House(アンネ・フランク・ハウス)」を訪れる機会が与えられましたので、その時の事、またアンネ・フランク、アンネの日記について数回に分けてBlogご紹介したいと思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、アンネ・フランクは、1929年6月12日にドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれ、1945年3月頃ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺によりドイツのベルゲン=ベルゼン収容所で死んだユダヤ系の少女です。その一人の少女が1942年7月6日から1944年8月4日までの約25か月間に及ぶ隠れ家での生活期間中に、書き記した日記が「アンネの日記」であり、その筆者です。
日記の舞台でもあり、アンネ一家を始め8人が隠れ家として生活していた家が、アンネ・フランク・ハウスです。


裏が側から見た当時の隠れ家 運河に面する隠れ家の正面
私自身、初めてこの日記を読んだのは、アンネが隠れ家での生活を強いられた年齢よりも少し幼い、10歳前後だったと思います。就寝前の読書が習慣でしたので、読むのはいつも夜でした。夜の静けさの中、一人でこの本を読み進めることの難しさと、同時に一晩分の量を読み止めることの難しさがありました。涙でしばらく読めなかったこともありますが、同年代のしかも誕生日が2日しか違わない(!)会った事もない友人との交換日記の様でワクワクして読んだ箇所もありました。読み終わった後も、しばらく枕の下に置いて寝ていたことも覚えています。(そして、その後同じような日記帳を買ってもらい、日記を記し始めました。)
6歳の時に広島平和記念資料館に連れていかれたこともあったので、戦争の怖さは知っていましたが、この日記から伝わる戦争の狂気、恐ろしさは迫ってくるものがありました。
そして、同じ年代である彼女の生活と自分の生活を比較してみようともしましが、それは私の想像の域を超えたものであることまでしか、分からなかったような気がします。
その頃から「いつかアンネに会いたい♡」と言う思いがあった私に、アムステルダム行きの機会が与えられ、そこにアンネ・フランク・ハウスがあり、ミュージアムになっている!と言う情報も与えられ、無事30分の事前説明付で入館予約を入れることができました!


隠れ家の全体模型図 隠れ家に続くドアの前に設置された本棚
<隠れ家での生活初期の日記より>
「昼間は、倉庫で働く人たちに聞きつけられるといけないので、ひそひそ声ではなさなければならないし、忍び足で歩かなければなりません。 1942年7月11日」
隠れ家での生活 21カ月頃の日記より
「このいまわしい戦争も、いつかは終わるでしょう。いつかはきっと私たちにも、ただのユダヤ人ではなく一個の人間に戻れる日が来るでしょう。 1944年4月11日」
写真や日記内容は
アンネ・フランク・ハウスの来館者用パンフレット及び
http://annefrank.org/ より引用
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今日は、’感謝は奇跡を呼ぶ’ということを考えてみました。
以前に、こんな話を聞いたことがあります。第二次世界大戦の頃の話です。日本の海軍将校であった川上喜一は、終戦後、故国に帰って、目の前に広がる現実にとても驚きました。むごたらしく変わってしまった故国の状況、弱り切った町を見て胸が押しつぶされそうでした。
しかし、彼を苦しめたことは、他にありました。どこへ行っても、軍人を見れば「あいつらのせいで日本は負けたのだ」と指を差してにらみつける人たち、そのような人たちのために、毎日夜は怒りと挫折感に苦しめられていました。そのような苦痛の日々を送り、とうとう彼はひどい病気になってしまいました。顔を除いて全身が麻痺し、まったく動けなくなったのです。
彼は病院で、精神科の医師である藤田勝一医師の診察を受けました。藤田医師は開口一番、彼にこう尋ねました。
「川上さん、良くなりたいですか」
「はい。良くなりたいです」
「では、私が言う通りにできますか」
「はい。何でもします」
「では、私の後について、一度言ってみてください。『感謝します』と」
毎日、怒りと敵対心でいっぱいだった喜一は、「感謝します」と言おうとしましたが、口が動きませんでした。
「今日から『感謝します』という言葉を、一日に一万回ずつ言わなければなりません。感謝する心だけがあなたの麻痺した体を癒すことができます」
藤田医師が出て行った後、喜一はベッドに横になったまま、病気を治したい一心で、毎日「感謝します」と繰り返し言い続けました。最初は病気を治すためと、嫌々ながら言っていたのですが、時間が経つにつれ、「感謝します」という言葉が心の底から出てくるようになりました。怒りと敵対心による苦しみが不思議と消えていき、心もそれにつれて平安になり、変化が始まりました。
顔も穏やかになり、行動も次第に柔らかくなってきました。彼に接している家族たちも、喜一の変化に喜びを隠せませんでした。暗かった家の雰囲気も明るく一変し、以前のような和やかな家庭が戻ってきたのです。
ある日、末の息子が柿の木に柿が赤く熟しているのを見て、「あの柿をお父さんに持って行ってあげたい」と思いました。息子は、よく熟した柿を二つ取って、父親の部屋のドアを開けました。
「お父さん、柿だよ」
そのとき喜一は「ありがとう」と言い、自分でも知らない間に手を伸ばしていました。
「まさか!」
不思議なことに、麻痺して少しも動かなかった手が動いたのです。息子も目を丸くして驚きました。
手から始まった奇跡は、その後、腕や足など体の隅々にまで及びました。硬くなっていた彼の体は、まるで感謝の呪文によって魔法が解けたかのように、動くようになっていきました。
奇跡は、感謝があふれるとき、それによって神様の心を動かすときに起こるのです。神様は時に、私たちの小さな感謝を通して小さな奇跡を日常で見せてくださいます。また逆境と試練の中で大きな感謝をささげることができた人に、大きな奇跡を与えて下さるのです。
今日の一言: どんな時にも感謝の言葉を口にしよう
鶴田健次
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9日目の午後はイスラエル博物館に行きました。
イスラエル博物館は広いので、同博物館で代表的な「エルサレム第二神殿50分の1のジオラマ」と「死海文書館」と「考古学展示館」の3ヶ所にだけ行きました。
博物館の入り口を入ると、すぐにエルサレム第二神殿50分の1のジオラマが見えます。
イエス様は、ちょうどこの上の写真の景色をオリーブ山からご覧になったのだと思います。写真は神殿の正面・東側を写したところです。
ジオラマの外周も歩けますが、展望ルートもジオラマを一周できます。
下の写真は、西側から見た神殿の後ろ側と旧市街です。西壁・嘆きの壁が見えます。
正面突き当りの高い壁はジオラマを見下ろす展望ルートです。

下の写真、南の城壁から手前下に長く見えのがダビデの町です。右端下に少し見える谷はケデロンの谷。南城壁の門から、一般の人々は神殿の丘に入ったそうです。当時はダビデの町にあるシロアムの池から南城壁まで階段で通行できたようです。(現在は、発掘が終わり通行できるようになったようですが、行かれる方は現地でご確認ください。2016年8月) シロアムの池は、写真の左下にある四角で囲まれたところです。
南城壁の外壁周辺は、現在きれいに整えられ考古学公園になっています。

写真では左右が切れていますが、全体はこのような感じです。

下の写真は死海文書館です。ユニークな形をしていますが、実は死海写本がクムランの洞窟で壷に入って発見された時の「壷のふた」の形なのだそうです。噴水がかけられているのは、館内の温度を適温に保つための仕掛けだそうです。アート的にも人目を引き、見た目も涼しげで素敵です。
ここは死海写本専用の展示館で、入り口は地下にあります。撮影禁止でしたので、写真はありません。

死海文書館から広い庭を歩き、考古学展示館まで移動しました。
下の写真は入り口に展示してあったもので、人面の部分が蓋になっている埋葬石棺です。紀元前14世紀頃のものだそうです。

考古学館には貴重な資料がたくさんありましたが、あまりの展示物の多さに、足早に見て回りました。代表的なものを写真に撮りました。











何時間見学していたのでしょうか。ちょっと早めに集合場所に行って、館内のコーヒーショップで一休みしていたところへ全員が揃い、ホテルへ戻りました。
明日は旅行の最終日ですので、夕食後は各地で買い集めたお土産などを荷造りして、明日のチェックアウトに備えました。
9月12日イスラエル旅行最終日10日目の朝を迎えました。
三々五々レストランに集まって「今日で最後だねー」などと言い合って、最後の朝食をいただきました。
今日は長い1日になりそうです。何しろ夜中に出発する飛行機に乗るのですから。
下の写真は5泊滞在したCrown Plaza Hotelのロビーです。毎朝、ここに集合しました。

バスはホテルを出発して間もなく、ガイドのアビさんが田辺先生をモデルに、ユダヤ教の人々が祈りの時に肩に掛ける「タリート」と、聖句の入った「テフィリン」を付けた姿を皆さんに見せてくださいました。




「似合ってますよ、田辺先生~」と、観客(?)から声がかけられていました!
「タリート」は、白地にブルーのラインが入ったショールで、白は天国を表し、青い線は聖なる神の霊を表しています。民数記15:37-40に従って、四隅にふさ(ツィツィ)が付いていました。ふさには613個の結び目を作るのだそうです。613の意味は律法で定められた戒めの数です。
祈りに専念するとき、このショールをかぶります。それは外界から離れ、神の臨在に覆われ、神との交わりの空間を作るという意味があるそうです。
「テフィリン」は、左上腕と額に付ける(申命記6:8)黒い革の箱で、申命記6:4-5をヘブライ語で羊皮紙に書いたものを折りたたんで中に収めた聖句箱です。申命記6:4-5はユダヤ人の中心的信仰告白ということです。
ユダヤ人は食物に食物規定(コーシャ)があるように、身に付けるものも食物同様日常的に気を付けていているため、タリートもテフィリンもコーシャに準じているそうです。
私たちのバスは、メシアニック・ジュー(イェシュア=イエスをメシアと信るユダヤ人)の教会へ向かっている途中、ガイドのアビさんと運転手さんが気を利かせて、エルサレムが見渡せる景色の良い最後のポイントで止まってくれました。
角笛を吹き、聖書を読み、これまでの多くの感謝をもって主に祈りをささげました。



私たちは、ビルディングで覆われている現在のエルサレムを見ながら、紀元前から存在する遺跡をも丁寧に掘り起こし保存し、その伝えなければならない意味を、今日まで伝えているエルサレムの街とそこに住む人々の、真の神に対する意識の違いを見たような気がします。それは主が与えられた民族の働きを果たしているのでしょう。
また、聖書はこの世界が、これからどのような方向に向かうのかも示されています。私たちが見てきたイスラエルは、そのための警鐘を大きく鳴らしていることも強く感じました。
次回9/7の更新は、メシアニック・ジューの教会、エンカレンを予定しています。
(Mi)
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安息日の由来は、創世記に記されているように、神が6日間の天地創造のわざのあと第7日に休まれたことに基づいています。それでユダヤ人は安息日である土曜日に礼拝を捧げました。その礼拝の日が週の第1日である日曜日に変更されたのは使徒の時代です。
聖書を見ると、クリスチャンたちは初代教会の時代に、週の第1日である日曜日に礼拝を捧げていたことが分かります。その初めは、ペンテコステ(五旬節)の日です(使徒2:1)。五旬節の日とは、安息日(土)の翌日から満7週を経た日のことで、日曜日です。つまり聖霊降臨の日は日曜日でした。
以後、日曜日は主イエスの復活の日であり、また聖霊降臨の日であるということから、クリスチャンたちは毎日曜日に礼拝を捧げるようになりました(使徒20:7、Iコリント16:2)。クリスチャンたちがなぜ礼拝の日を土曜日から日曜日に変更したのかという具体的ないきさつについては聖書には記述がありません。しかしキリストの使徒たちは、礼拝のための集会を日曜日に持つよう定め、それ以来、教会は日曜日に礼拝を守るようになったのです。
ただし間違ってはならないのは、これは安息日が土曜日から日曜日に変更になったということではないのです。変更になったのは礼拝の日であって、安息日ではありません。安息日は今も土曜日です。そもそも安息日はユダヤ人のためのもので、異邦人のためのものではありませんでした。ユダヤ人の間には、「ユダヤ人が安息日を守ってきたのではなく、安息日がユダヤ人を守ってきた」という言い伝えがありますが、安息日を守ることが、ユダヤ人のアイデンティティを支えてきたのです。
聖書の「使徒行伝」によれば、初代教会において、異邦人クリスチャンにも割礼を施したり、安息日順守も含めて、モーセの律法を守らせるべきだというユダヤ人キリスト者がいました。そこで論争が起こり、結局、教会会議のすえ、異邦人クリスチャンは次の4つのことだけを守ればそれでよい、ということになりました。その4つとは、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避ける」ということです。これらを避けて生活するなら、とくに割礼を受けなくてもよい、また安息日律法を含むモーセの律法の厳格な順守は要求しない、という決議だったのです。
このように、安息日はユダヤ人のために与えられたもので、異邦人クリスチャンのためのものではありません。今日も安息日は土曜日なのですが、だからといって、異邦人クリスチャンもユダヤ人のように厳格な安息日順守をしなければならない、というものではないのです。
メシアニック・ジュー(主イエスを信じるユダヤ人)の人々も、彼らは、土曜日を安息日として守り、その日に礼拝を持っていますが、「安息日はユダヤ人に与えられたもので、異邦人のためのものではない。異邦人クリスチャンは土曜日の安息日を守る義務はない」という立場に立っています。
このように、安息日は今日も土曜日です。しかし初代教会以来、主の日である日曜日が、礼拝の日として定められました。そのために、異邦人クリスチャンは日曜日を主の日として休み、また礼拝の日として守り続けてきたのです。

LVJCC鶴田健次牧師
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