
今日は、‘Win-Winの関係’ということについて考えてみました。
人間関係は、いつの時代においても、豊かな人生を送るための大切な要因です。そして、さまざまな人間関係の中でもWin-Winの関係が最良の結果をもたらすものであることは周知の事実です。
あなたの人間関係はどうですか? 特にビジネスをしておられる方にお聞きします。あなたはビジネスの相手とWin-Winの関係を持つことをモットーとしておられますか? これはビジネスが栄え、豊かな人生を送るための重要な鍵です。
また、この原理はすべての人間関係において言えることで、夫婦関係、親子関係、職場での人間関係、友達との関係などあらゆる人間関係に適用されるべき大切な原理です。
では、Win-Winの関係とはどういうものでしょうか? それは自分も勝ち、相手も勝つこと。つまり双方が満足できる結果を得るというものです。しかし、そのためには、まず、「与える者は得る」という聖書の教えに基づいて、互いに相手の益を先に考える心が必要です。
ところが、現実の世界では、Win-Loseの関係(自分が勝ち、相手は負ける)が最も多く、その他に、Lose-Winの関係(自分が負けて相手が勝つ)、Lose-Loseの関係(相手が負けて、自分も負ける。相手に勝たせるくらいなら足を引っ張って共倒れしたほうがマシ)などがあります。
Win-Winの関係は、素晴らしい結果がもたらされるにも拘わらず、それを実行する人が少ないのは、そういう心を持つことの難しさが人間の中にあるからで、それが生まれながらの自己中心の性質です。したがって、人は生まれたときからWin-Loseの考え方を植えつけられて育っていくのが悲しい現実なのです。
Win-Loseの考え方の危険なところは、価値判断の基準が常に相対的で、他人との比較や、周囲の期待に対する達成度でしか自分の存在意義を認められないことです。子ども時代からこういう好戦的な価値観を持ってしまうと、常に他人の顔色をうかがい、相手を出し抜くことで望む結果を手に入れようとするために、Win-Loseの考え方が身についてしまうのだと思います。
Win-Winなど綺麗事に過ぎない、と思う人もいるかも知れませんが、人生の目標は競争ではありません。私たちは、家族や同僚や上司、友達と、毎日、勝ち負けを競うために生きているわけではなく、むしろ協力し合うことによって、お互いが幸福になるために生きているのです。自分が幸福になるために他者を不幸にするWin-Loseの関係は、結局は自分を不幸にし、自分の人生を無価値なものにしてしまいます。
Win-Winとは、すべての人間関係において、お互いの益を求める精神のことで、お互いに満足できる合意や解決策を打ち出そうとする考え方です。人生を競争の舞台ではなく、皆で協力して完成させる舞台と見る、それがWin-Winの考え方なのです。
Win-Winの人間関係のスタートは、「与える者は得る」という普遍的な真理に立ち、お互いに満足する答えが必ず存在するはずだと考えることであり、人の成功は他者を犠牲にしなくても実現できるのだと信じることです。
今日の一言: すべての人とWin-Winの関係を持とう
鶴田健次
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天のお父様
平成28年4月14日21時26分頃発生した、熊本を震源としたマグニチュード6.5、最大震度7の地震。そして、その後の本震・余震で死亡された方々そしてそのご家族、お怪我をされている方々、お家や持ち物等を失われた方々、その他多くの被災された方々、余震の中での生活をされている方々は、色々な思いの中で一瞬一瞬を、日々を、この10日間を生きていらっしゃいます。その全ての方々の上に、あなたからの慰め・癒し・平安・知恵・力をお与えください。
ご家族・ご友人を喪われた方々の上に、あなたからの慰め、心の癒しがありますように。
お怪我をされている方の怪我を癒してください。
家を失われた方々に、平安の中で寝ることができる家を、生活の糧をお与えください。
車や農作物等、生活に必要な物を失われた方々に、生活の糧をお与えください。
避難生活をしていらっしゃる方々が一日も早く家に帰る事ができますように。
道路や架橋が壊れ、生活に必要な物が不足している地域にお住いの方々にも、生活の糧をお与えください。
透析や抗ガン治療等、医療を必要としている方々に必要な医療をお与えください。
壊れた学校が早く回復され、一日も早く子供達が学校に戻ることができますように。
通勤、通学、通院等に必要な道路や線路が早く修復されますように。
夫々の家庭、学校、仕事場、コミュニティに早く笑顔が戻りますように。
私達が祈り続けることができますように。また、あなたが示してくださる私達がすべき事を行う勇気と知恵、力をお与えくださいますように。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105
私たちは明日のことをも知らずに生きている者です。主よ、どうぞあなたの光が被災された方々の行く道を照らし、すべての災いが転じて主の祝福が心に満ち、生涯の旅路の光となりますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
KS
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Q: 私はノンクリスチャンですが、キリスト教の教えも理解していますし、素晴らしい教えだと思います。しかし、天国や地獄と言われても、あまり実感も湧かず、自分のこととして考えられず、信じる必要も感じられません。どうしたら心から納得することが出来るのでしょうか?
A: これはちょっと回答者泣かせの質問ですね。しかし、実は、私もかつては同じ疑問を持っていました。おそらく、ほとんどの日本人が持つ疑問かも知れません。そこで私自身の経験をもとにお答えします。
まず第一に、40年頃前の私が天国や地獄の話しを聞いても、実感が湧かず、知る必要も、信じる必要も感じなかったのは、今から思えば、この重要なことを考えたり理解するために必要な枠組みが自分の中に出来ていなかったからだということを思います。もともと、死んだらすべてが終わりだというふうに思っていたので、天国や地獄の話を聞いても作り話にしか聞こえず、真面目に考えるべき事柄とも思えませんでした。
それはちょうど、数学の微分・積分の問題を解くのに、加減乗除(足算・引算・掛算・割算)だけを知っている小学生ではその問題を解けないので、微分・積分の問題を見ても興味も湧かず、自分が解く問題として考えられないのと似ています。ところが、学年が進み、中等数学の知識が身に付けば、微分・積分の問題を解くための枠組みが自分の中に出来上がるので、その問題を理解できると同時に、自分が解くべき問題として考えるようになるのです。
ですから、もし永遠の天国と地獄が本当の話であり、死んだ後に必ずどちらかに行かなければならないのであれば、これ以上に重要な事柄はないわけですから、その客観的事実を認めて、少なくともそれが本当の事かどうかを調べる価値はあるのではないでしょうか。そのためには、その事をよく知っているクリスチャンと話をする機会を持ったり、聖書を読んだり、教会に行かれるといいでしょう。そうしていくうちに必ず、あなたの中に天国と地獄について考え、またそれを理解できる枠組みが出来上がり、納得のいく理解へと導かれるのではないでしょうか。
もう一つ、天国と地獄が解からない理由は、私たちが目で見えるもの、耳で聞こえるもの、手で触れられるもの、つまり五感で感じられるものしか信じようとしない傾向があるからではないでしょうか。現実の世界で、目に見えるものだけを追い求めている私たちの多くは、精神的な世界や霊的な世界という目に見えない世界には無頓着です。たまに考えることはあっても、そういう事に特別に関心がない限り、直ぐに考えることをやめてしまいます。だから、多くの日本人は、そういう話を聞いても自分の事として受け止めようとしないのではないでしょうか。
天国も地獄もこの世のものではないので、自分一人でどれだけ考えてもなかなか解かるものではありません。これは神の支配の中にある世界です。したがって、神が決められた方法で知ることが一番の早道です。そこで神は、人間の方法(知識)で知ることのできないこの真理を、神の方法(信仰)で知ることができるようにされたのです。ですから、信仰なしにこの真理を理解することは不可能なことで、それは、あたかも中等数学を学ばないで加減乗除の知識だけで微分・積分を解こうとするのと同じです。
何事にも、その道の方法があり、順序があります。あなたが天国のことも地獄のことも理解できないのは、そもそも、あなたが神との関係を持っておられないからなのです。ですから、天国と地獄について心から納得するには、まず信仰のステップを踏み、分かれば信じるといういつまでも実現しない世界ではなく、信じれば分かるという世界に足を踏み入れていかれるといいと思います。
(LVJCC牧師: 鶴田健次)
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今日は、‘失敗というものはない’ということについて考えてみました。
皆さんは‘失敗’という言葉を聞いて何をイメージされますか? 敗北、絶望、悲劇、後悔、反省、その類でしょうか? それとも、‘失敗’に対して、もっと積極的なイメージを描く方もおられるでしょうか? 実際、失敗の捉え方は人によって様々です。人生において、上手くいく人、いかない人の違いがいくつかありますが、そのひとつが失敗の捉え方ではないでしょうか。
一万回の実験の失敗(?)の末に明るく寿命の長い白熱電球を完成させたトーマス・エジソンは、「私は失敗したことはない。ただ一万通りの上手くいかない方法を見つけただけだ」と言いました。つまり諦めない限り、失敗は存在しないのであり、諦めて、そこでやめてしまうときに初めて、その事が失敗になるのだということです。
幼い子供が立って歩こうとするとき、また自転車に初めて乗るとき、何度失敗しても諦めずに立ち上がろうとします。そして、失敗(?)を繰り返しながら、やがては上手に歩き、また自転車に乗れるようになっていきます。何度もチャレンジを続け、失敗(?)するたびに新しいことを学び、成長し、やがて成功を手にすることができるのです。
ところが、現実は、誰もが失敗を経験します。中には失敗の連続という人もいます。また失敗をしたという意識、つまり失敗感が、私たちを絶望の中に閉じ込めてしまうこともあります。また強い後悔の念を呼び寄せ、自分を責めるようになったりもします。そして、自分を責める度合いが強ければ強いほど、それがトラウマとなって私たちを束縛し、自信を失わせ、やがては失敗を恐れて何もしないことを選ぶ生き方をするようになる場合もあるのです。
こういう現実を思うときに、実際問題、何をどんな風に失敗したかよりも、私たちがどう自分を責めたかの方が心の痛みは大きくなるということに気づきます。失敗というのは、私たち自身がそう感じたときに生まれるものです。ですから、多くの偉大な事を成した人たちが、本当は失敗というものはないのだ、と断言する理由は、それを決めるのが自分自身だからです。
あなたが諦めたとき、その出来事は失敗となります。言い方を変えれば、周りの人が「それは失敗だろう」と思っていても、自分が諦めなければ失敗にはならないのです。逆に、エジソンのように、それを成功の踏み台にすることさえできるのです。
事実、失敗という経験は、あなたへのメッセージであり、そこには多くの学びがあります。ですから、もし何かに失敗したと感じたなら、そこから何かを学ぼうとする姿勢を持ちましょう。その失敗があなたに何を与えてくれたかを謙虚に受け取るのです。そこで何を受け取るかはあなた次第です。何が答えであるかも、あなた自身に決める権利があります。
昔の信仰者たちは、そういう体験を神の視点で見つめ、神との関わりの中で教訓を得ました。そして、それは彼らをして「苦しみに遭ったことは私に良い事でした。・・・・・」と言わしめるほどの特別な経験となったのです。
今日の一言: 本当は失敗などというものはない
鶴田健次
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前回の「パンと魚の奇跡の教会」から程近いところに、上の写真「聖ペテロ首位権教会(聖ペテロ召命教会)Church of the Primacy of St. Peter」はありました。
ガリラヤ湖畔の岩の上に建つ、黒っぽい石のブロックで作られた比較的小さい教会です。
現在の教会堂は1933年にフランシスコ会が建てたものですが、最初の教会は5世紀に建てられた後十字軍に破壊され、再建された教会はムスリムにより再度破壊され、現在の建物は3度目のものだそうです。


下の写真は教会内部・礼拝堂です。正面に「メンザ・クリスティー(キリストの食卓)」と呼ばれる岩があって、復活のイエス様が弟子たちのために朝の食事を用意した時の岩、とされています。(ヨハネによる福音書21:4~14)


木陰に、イエス様とペテロの像(下の写真)があり、「Feed My Sheep (私の羊を飼いなさい)」と書かれてありました。(ヨハネによる福音書21:15~22)


教会が建てられている場所は、二人の兄弟ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になったイエス様が、わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう、と言われた場所でもあります。(マタイ4:18~) この場所から、イエス様の宣教が開始されました。
また、十字架の死後3日目に蘇られたイエス様が、弟子たちにご自身を現された3回目が、現在のこの場所でした。


次は、カペナウム(Capharnaum)に向かいます。
カペナウムは聖ぺテロ首位権教会から3km程のところにあるガリラヤ湖畔の町で、ガリラヤ地方でも大きな町でした。ローマ帝国はユダヤを属州とし、ローマ軍の駐屯地とされたカペナウムは栄えていました。
イエス様はカペナウムを伝道活動の拠点にされ、「自分の町」(マタイ9:1)と呼びました。ここには弟子たちの家やシナゴーグ(会堂)や収税所などがあり、弟子のマタイはこの町の徴税人でした。
写真はカペナウムのエントランス。


こちらの写真はペテロの家の跡で、その上に1990年に八角形の円盤状に見える教会・聖ペトロの家教会(Church of St. Joseph)が建てられました。教会の内部は真ん中がガラス張りで、ペテロの家の土台の遺跡が見えるようになっています。
この家でイエス様は、ペテロの義理の母の病を癒しました。(マタイ8:14~15)
イエス様は他にも数々の奇跡をこの町で行われました。
下段の写真は外から見た当時の家の土台。




カペナウムの町には、イエス様が教えをされたシナゴーグ(会堂)の遺跡があります。
写真上段は4世紀のシナゴーグ。
下段右をご覧いただくと、石積みの色が2層に分かれています。黒い石は玄武岩で2千年前のイエス様時代のシナゴーグ跡、その上の白い石は石灰岩で4世紀の末に建てられたシナゴーグの跡です。シナゴーグは長さが20m、二階建て構造だったそうです。




発掘は1800年代から始められ、カペナウムの北側にも遺跡が発見されました。発掘された遺跡の一部が展示されていました。
上段右の写真はシナゴーグの天井付近のもので、ダビデの星が刻まれています。
下段の写真は、ペテロの像の前で撮りました。ペテロは右手に天国の門の鍵(マタイ16:19)、左手に羊飼いの杖を持ち、足元にはペテロの魚・St. Peter’s Fish(マタイ17:24~27) がありました。



カペナウムの町は繁栄していましたが、悔い改めなかったため、ルカの福音書10:15で預言されていたことが起こり廃墟となり、現在カペナウムに住民はいません。遺跡だけが無言で昔の繁栄を物語っていました。
しかし、こうして聖書でおなじみの場所を実際に歩いていると、イエス様と弟子たちがまるで知っている人であるかのように身近に感じ、知らず知らずの内に奇妙なパラレルワールド的な感覚を味わっているのでした。
さて、次回(5/4)は「ガリラヤ湖クルーズ」、「イエスの船博物館」、「ランチはペテロの魚」等を予定しています。お楽しみに。
(Mi)
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