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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

           lent 4a

今日もラスベガス日本人教会のブログを読んでいただきありがとうございます。
皆様、いかがお過ごしでしょうか? 
私は、日々とても忙しく過ごしており、心落ち着かせ、静かに主と過ごす時間が少ない。。と言う事が事実です。
そんな私を見かねた主が、このBlogの執筆を通して、半ば強制的に(苦笑)主と過ごす時間を長目に作ってくださった事に感謝します。
さて、先週から始まりました「あの日まで 40日間の旅」シリーズ2回目の今日は、レント第二十日目に鶴田牧師から送られたメッセージです。

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第二十日
今日はレント第二十日、マルコの福音書13章32-37節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 気をつけなさい。「目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように言いつけるようなものです。 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」(マルコ13:32-37)

キリストの再臨が必ずあること、そしてそれが近いことは、神の言葉によって知ることができます。しかし、その日時は誰にも知らされていません。キリストもそれを「知らない」とおっしゃいました。すべてを父なる神様に任せて、ご自分で知ろうとはなさらないという意味でしょう。大切なことは、その日時ではなく、いつ再臨があっても大丈夫なように準備をしておくということです。ジョン・ウエスレーは、「明日、再臨があるとしたらどうしますか?」という質問に、「いつもと同じようにするだけです」と答えました。おそらく、それが最も良い答えでしょう。


黙想: 「主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)


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「私はすぐに来る」と言ってくださったイエス様の言葉を信じ、再臨を楽しみにお待ちします!

天のお父様
その時まで、私がしっかり御言葉に繋がり、福音を延べ伝え、一人でも多くの家族、友人達等の救いの為に働くことができますよう。また、あなたの御心を行う生活を送ることができますよう、聖霊様、お導きください。
イエス様の御名を通してお祈りします
アーメン

(SK)


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2016.02.28 00:00 | その他
    chance screeshot

今日は、‘チャンス’ということについて考えてみました。

先日、瞑想の中で、「チャンスって何だろう?」ということを暫く考えていたら聖書のこの言葉が頭に浮かんできました。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:18)」

この言葉が思い浮かんだのは、ある人の事を思い浮かべながら、チャンスだと思えた事が必ずしも好転に結びつかず、逆に問題だと思っていた事が大きなチャンスに変わるということが人生にはあるものだ、というようなことを考えていたからだと思います。

私たち人間は、どうしても目に見えるものに大きく左右されがちです。しかし経験的にも分かることは、見えるものは一時的な場合がしばしばで、結局のところ、多くの事柄が普遍的な原理に基づいて展開されていくということです。ですから私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ必要があるのです。

一万回以上の実験に失敗しながら白熱電球の実用化を成し遂げたトーマス・エジソンは、失敗を失敗とは考えず、「一回一回の失敗は、単に上手くいかない方法を確認し消去しているに過ぎず、失敗を重ねるごとに一歩ずつ成功へ近づいているのだ」と考えました。つまり、見える失敗にではなく、見えないもの(Vision)に目を注いでいたということです。「問題は何かを示す指針であり、やめろという標識ではない」と誰かが言いましたが、あらゆる問題には、別の面でのチャンスがあるということです。         
                                        
カルフォルニア州のパシフィック大学には、正門から入るとすぐに、空に向かってそびえ建つ新ゴシック風の建造物があり、ここを訪れる来訪者たちは誰でも高さが50メートルもあるこの塔に目を奪われてしまいます。ところが、ほとんどの人は、これが給水塔であることに気づきません。

さて、この美しい給水塔が建設されるに至ったこんなエピソードがあります。あるとき、大学内で水不足が深刻になり、何か対策が必要になりました。技師たちは、議論を続けた結果、正門を入ったところに高い給水塔を建てる以外に方法はないとの結論に達しました。しかし学長には、その案は受け入れがたいことでした。なぜなら、巨大で醜い鉄の給水塔は、キャンパスの美しい景観を壊してしまうからです。

そこで、議論が重ねられた結果、この不格好な建物を荘厳な建物にする案が出されました。それは全体をコンクリ-トの建物とし、その上の給水塔の部分はステンドグラスで囲み、下の部分は9階に分け、役員室、会議室、放送室などに使うというものでした。

こうして、この大学の職員たちは窓から素晴らしい眺めを楽しみながら仕事をしています。数多くある大学の中でも、このような素晴らしい建物で大学に来る人を歓迎しているところは稀です。

この話は、たとえどんな問題が生じても、その問題解決には多くの創造的な可能性が秘められていることを示しています。見える問題に心を奪われ、考えを縛られるのではなく、見えない可能性に目を向け続けるなら、思いもよらない可能性の門が開けてくるものです。チャンスとは、見えないものに目を注ぐ心が手繰り寄せるものだと言えるかも知れません。

今日の一言: チャンスとは手繰り寄せるもの

鶴田健次   

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2016.02.26 08:04 | 牧師室より
       SC 3a
(2月17日の続きになります)

この度、第2弾の本も出版された日野兄弟は、ご自分で「今日本で一番腰痛になれない人」です、とご冗談をおっしゃっていましたが、どんなに忙しくても逆算して、日々のディボーションと体操、この時間は取るとおっしゃっていました。

一年のうち3分の一は飛行機で移動されるような猛烈なスケジュールの中でも、
身体が守られているのは、ご自身がその体操を日々の日課とされているからだと痛感しました。またご自身の過去の経験からも、国の予算が本当に必要なところに使われず、その為に命を落とす方まで出てしまっている今の現状を知り、医療費を削減をする事によって少しでも必要なところに予算を使って頂きたいとの願いが与えられたとの事です。実際に多くの方が、背骨コンディショニングのプログラムを通して、今までは手術でしか治らないと言われていた症状を、運動によって治されてきました。

この背骨コンディショニングが広く浸透する事によって、10年後には「一兆円の医療費の削減」を目指されていますが、その理念の中に、聖書の一番大切な戒めの一つにも通じる、「自分を愛するように隣の人、特に先ず弱きを覚えている人の気持ちになる」という事を掲げられています。真の愛を持つ指導者を多く輩出する事により社会に貢献し、心身ともに真のいやしと平安を一人でも多くの方に与えられたらと願われている、とのことです。

ラスベガス教会ではその理念に共感し、体操教室に必要な場所や人材の提供をさせて頂く事にし、すでに月に2度ほどの体操教室を始めています。日々家で体操に取り組むのも良いのですが、一緒に体操をすることによってお互いのフォームの乱れなども治せたり、何よりも継続することが大切なので、励まし合って一緒に取り組む仲間が与えられている事がとても感謝です。

       SC 1a

神様は私たちの心も身体も健康になる事を願っていらっしゃいます。身体を痛める前は運動の大切さをあまり考えてきませんでしたが、与えられているこの身体をなるべく健康な状態に保つことは、神様の望まれている事ですので、日々の小さな努力を怠ってはいけない事、また身体を健康な状態に保つ事で、私の周りの方々を少しでも助けられる機会が与えられるのでは、と気付かされました。

皆様の中でも、もし腰痛などでお悩みの方や、運動する機会があまりない方、また健康を維持されたい方などいらっしゃいましたら、是非一度体操教室に参加されてはいかがですか?

* 次回の無料体操教室は 2/28 と 3/6、 1:45 pm からです。 お問合せ 702-461-5099

(HW)


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2016.02.24 15:15 | その他
   lent1a.jpg

イエス様が復活されたことを記念するイースター。

3月27日がイースターとなる、2016年は、2月10日からレント(受難節)に入りました。
私達ラスベガス日本人教会では2014年のレントの期間中、鶴田牧師から毎日、私達教会員にメールが送られ、それぞれがイエス様の受難・死・復活等を思い、祈り、感謝を奉げながらレントの期間を過ごしました。

その時のメールの一部をイースターまでの期間、これから何回かに分けてご紹介します。
今日のBlogは、2014年レント第一日目、灰の水曜日に送られた最初のメールです。

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レントとは、イースターの日曜日を含めた6回の日曜日を除く40日間で、この期間は、イエス様の十字架上の死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備の時として過ごします。

まず今日は、マルコの福音書10章32−34節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

さて、一行は、エルサレムに上る途中であった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者、たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:32−34)

レントの40日の旅は、イエス様と共に十字架に向かって歩む旅です。主はご自分の十字架と復活を預言されました。弟子たちは主の並々ならぬ決意を聞きました。私たちも、その行く先が十字架であったとしても、復活を望み見ながら勇気をもって進みたいと思います。

黙想: 十字架に向かって進むとは、私にとってどうすることだろうか?


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私は、このマルコの福音書10章32 -34節を読み、二つの事を思いました。それは、
- 父なる神のご計画に従うため、弟子たちの先頭に立ち十字架に向かわれたイエス様の姿
- イエス様を十字架につけてしまった、私の罪
です。

日々の生活の中で、苦難にあったり、怒りを覚たりする時等「イエス様は十字架につけた私達、そしてイエス様を売り渡したユダの罪をご存知でいらっしゃったにもかかわらず、その人々の罪を見る(裁かれる)のではなく、御父への従順、私たちへの愛をもって十字架に向かわれた」事を覚え、人の罪やその状況を嘆いたりするのではなく、主の御心を訪ね求め、そしてそれを一つずつでも、少しずつでも行う事が出来るよう、一歩一歩を積み重ねて行きたいと思いました。

(SK)


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2016.02.22 17:39 | その他
        zim ok

今日は、‘I’m OK’(私は私で良い)ということについて考えてみました。

豊かな人生を送るうえで大切なことは、人を愛し、受け入れ、赦すということにおいて積極的であることです。そのためには、自分が自分を愛し、受け入れ、赦すことができていなければなりません。

私たちは誰でも、程度と割合の差こそあれ、光と影、長所と短所、得意と不得意な面を持っています。しかし、神はそういう私たちを丸ごと愛し、赦し、受け入れていて下さるのです。ですから、私たちも安心して、そのような自分自身を受け入れれば良いのです。

以前に、ある身体障害者の方が、ご自分について、「これは障害ではなく、私の特長なのです」と言われたことがありますが、とても素晴らしい自己認識だと感動したことがあります。私たちは生まれてからずっと、この世の価値基準をもとに「良い」「悪い」「OK」「OKでない」ということを言われ続けてきて、「良い」と言われた自分には自信を持ち、「悪い」と言われた自分には劣等感を持つようになりました。また、「良い」と言われた自分は好きでも、「悪い」と言われた自分は嫌いなのです。

しかし、自分で嫌いな自分の性格や能力や容貌なども、実は自分自身であり、それは自分の特長なのだと見方を変えてみれば、また違う世界が広がるかも知れません。長所も短所も、得意も不得意も、そのすべてが世界でただ一人の自分という尊い存在の一面であり、短所や不得意と思われていた面も、実は、使い方次第では素晴らしい自分を表す性質として無くてはならないものなのです。またそれとは反対に、長所や得意と思われていた面も、その人の心次第では、傲慢で利己的なものを生み出す結果になる場合もあるのです。

そう考えれば、長所には短所、強さには弱さ、美しさには醜さが潜んでいるという現実がありそうです。その事を理解できれば、人の違う側面をも知ることができ、人としての円熟さが与えられるのではないでしょうか。

私たちには、まず‘I’m OK’(私は私で良い)と言うことができる必要があります。それを心の底から自然に受け取れるようになると、コップに注いだ水がいっぱいになって自然に外に溢れてくるように、他の人に対しても優しい心で、愛し、受け入れることができるようになるものです。 

この‘I’m OK’(私は私で良い)が出来ていない人は、どんなに自分を打ち叩いても努力しても、人を愛せませんし、人に優しくなれません。確かに、見せかけの愛や優しさを示せても、すぐにメッキが剥げてしまいます。

自分の愛や優しさが見せ掛けやメッキであることに気づく簡単な方法があります。それは、あなたが他の人のために何かをしてあげて、相手から感謝をされないとき、そのことで腹を立てているならば、あなたの愛や優しさは残念ながらメッキであったということです。

今日の一言: I’m OK(私は私で良い)と言えるようになろう


鶴田健次

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2016.02.19 08:50 | 牧師室より

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