
今日は、‘心の養い’ということについて考えてみました。
人間の思考、言動、行動は、すべて心の中から湧いてくるものです。人は、心の中にないことを考えたり、口にしたり、行動に移したりすることはしません。すべて心の中にあるものが考えとなり、言葉となり、行動となって表に現わされていくのです。したがって、心を育て、心を守るということは、幸せな人生を送るうえで非常に重要な鍵だと言えるでしょう。
旧約聖書の箴言4章23節に、「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」という言葉がありますが、まさにここで言われていることは、あらゆる人生訓の基となる重要な思想です。
旧約聖書においてこの「心」(レーブ)という言葉が使われる時、それは知性、感情、意志を含めた全人格を表し、それは「命の泉」であり、その命は心から湧いてくるものであると言われているのです。したがって、「心」はすべての守るべきものに先立って守るべき大切なもので、それによって、その人の人生が決まるのです。
マザーテレサが、このようなことを言っています。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
つまり、どんな言葉を口にし、どんな行動を取り、どんな習慣を身に付けていくか、それがその人を作り、その人の人生を決めていくわけで、そのすべての源となる思考は、「心」の中から生み出されるのです。
ですから、良い思考を生み出し、良い言葉、良い行動、良い習慣、良い性格、そして幸せな人生をもたらすために健全な心を育て、守ることを心がけましょう。
健全な心は、心の糧である聖書の言葉を学び、それを行うことによって養われます。学ぶだけでは心は育ちません。それを行うことが大切です。どんな状況の中でも、神の言葉に心を向け、油断することなく心を守りながら、神の言葉を瞑想し、それに基づく言葉を口にし、また行うのです。
そうすれば、やがて健全で豊かな心が育てられ、その心から健全な思考が湧き上がり、良い言葉、良い行動、良い習慣、良い性格がもたらされ、素晴らしい人生を生きることができるのです。
今日の一言: 健全な心を育てよう
鶴田健次
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私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 ローマ書1:16
今日(こんにち)のニュースは、いろんな悪に満ちています。私たちは、この世が罪に支配されていくのを嘆くかもしれませんが、同時に私たちにとっては絶好のチャンスであります。ヨハネ17:18では、イエス様は、人々のためにこう祈りました。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」神様が、この世を支配してくださっているのです。
使徒行伝20:24で使徒パウロは、こう言っています。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」これは、私たちに与えられた神からの使命と呼ばれます。これは、私たちが携わるミニストリーとは異なります。私たちのミニストリーは、救われたキリストの肢体であるクリスチャンに捧げられる奉仕であり、Mission(使命)は、世界中の未信者に対して捧げられるものです。
英語の「Mission」という語源は、ラテン語で「送る」という意味から来ています。クリスチャンであるということは、イエス様の使者として、この世に送り出されるということです。イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わしわたしは、あなた方に語るべきわたしのメッセージを伝える権威を授けたのです。」と言われました。それは、キリストを知らない人々にキリストによる救いの福音を伝えるということです。
イエス様は、地上で果たすご自身の使命をご存知でした。12歳の時には、必ず自分の父の家にいることをご存知で、その21年後には、あの十字架について死なれる時に、「完了した。」と言われたのです。これは、人生の目的を全うされた素晴らしい例です。イエス様は、御父から受けた使命を全うされました。
イエス様のこの地上での使命は、今度は、イエス様の肢体である私たちの使命なのです。人間となってこの世に来られたイエス様が地上で果たされた使命を、今度は、霊の体として、教会が受け継いでいくのです。
この使命とは、人々に神様のことを広めることです。聖書にはこう書かれています。「神様は、キリスト・イエスのお働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神様との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。」
イエス様を救い主として迎え入れたその日から、私たちはイエス様の全権大使となったのです。この地上で神の全権大使となった私たちには、神の御性質を人々に示す機会が与えられています。しかしこれは、憐みの心を備えた時にだけ実践できます。つまり私たちには、福音を語る相手の人生に何が起こっているのか見極めることが大切であるだけでなく、私たちの言動で、どのようにイエス様を示すことができるか、常に神様に尋ね求める必要があるのです。
神は、人々を悪から救い、御自身と和解させようと願っておられますが、悪魔は伝道を嫌います。悪魔は、あなたや私に、福音を宣べ伝えて欲しくないのです。私たちが福音を語るとき、それは私たちが悪魔の領域に立ち入ることになり、悪魔は、そんな私たちをそっとはしておかず、戦いなしには、地獄から魂が救われることを許すわけがありません。
神はまず私たちを救いその後私たちを使者として送り出します。聖書には、「私たちはキリスト様の大使です。」と書かれています。私たちは、神の目的と愛をこの世に示す使者なのです。イエス様は、ご自身の使命を私たちが受け継ぐよう命じられます。イエス様は、御心のままに、私たちを時には呼び寄せ、またある時は送り出されます。私たちは、「出て行って、すべての国の人々に福音を伝えなさい。」(マタイの福音書28:19−20)と命じられています。
これ命令は、イエス様を信じるすべての信仰者に与えられた命令です。この大宣教命令は、牧師だけに与えられているのではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられています。イエス様はこう言われました。「ほんの片時でも、その人のために計画された仕事から目をそらす者は、神の国にふさわしくありません。」
私たちは、友達や、近所の人々、また家族にも、どこででも福音を伝えなければいけません。私たちの周りには、罪、苦しみ、痛みや失敗に押し倒されそうになり必死でもがいている人が多くいるかもしれません。私たちは、神が周りにいる人々の救いの責任を私たちに置かれていることを忘れてしまうことがあります。
聖書は、こう警告します。「彼らが悔い改め生きるようあなたがたは、警告しなければならない。」「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(第2コリント5:15) もし私たちが罪に染まった人々に警告をしなければ、彼らは、罪のゆえに死んでしまいます。そして、神は、彼らの血の責任を私たちに問われるのです。
イエス様を信じない人々は、地獄に行きます。それなのに、すでに救われた人々が、「赦し」、「人生の目的」、「平安」、そして「永遠の命への道」を人々に伝えず、自分たちの内に留めてしまうこともあります。しかし私たちは、愛する人々にこの様なことが起こることを決して望まず、彼らが希望の救いを得ることを切に願うのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。ある人の人生の中で、私たちが唯一のクリスチャンとの関わりとなるかもしれません。私たちの使命は、人々にイエス様について語ることなのです。これは、私たちがその人にできる最大の親切なのです。
ビビアン 岩田
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今日は、‘束縛からの解放’ということを考えてみました。
私たちは、自分自身のことを考えたり、また周りにいる人々に目を向けたときに、しばしば何かに束縛されている人間の姿を見ます。本当は何でも自分のしたい事を自由にできる筈なのに、したい事をできない自分がいます。また、してはならない事と知りながら、それをしてしまう自分がいます。自分の自由に生きているつもりが、もう少し深いレベルで考えてみると、自由どころか、極めて不自由な生き方しかできていないことに気づくのです。これがまさに、原罪という罪の束縛の中にある不自由な人間の姿なのです。
また、それとは別に、豊かな人生を願っているのに、まるでブレーキをかけながら自転車をこいでいるような、そんな生き方をしている自分に気づくことはありませんか。一生懸命に自転車をこいでいるのに、こいでいる自分が同時にブレーキを踏んでいて、そのために思ったように前に進まない。ブレーキを放せばもっとスムースに進めるのに、或いは、もっと色んな事をする力と能力が本当はあるのに、なぜか自分で自分を制限しながら生きている。そんな自分に気づきませんか。
私はよくサーカスの象の話をします。サーカスで使われる象は、その象がまだ小さい時に、鉄の鎖につないで暴れないように訓練します。初め、幼い象は自由を得ようとして、一生懸命、鎖を千切って逃れようとします。ところが、小さな象にとって、鉄の鎖は重くてビクともしません。しかし、それでも象は繰り返し鎖を千切って逃れようとします。ところが、ある期間が過ぎると、この象の潜在意識は、鎖から逃れる事が不可能である事を確認し、その鎖から逃れる事を完全に諦めてしまいます。
やがて歳月が経ち、この象が成長して大人の象になると、その鉄の鎖を千切れるほどの力を持ちますが、この力持ちの象は、小さな杭に鉄の鎖で縛られると、そこを離れようとしなくなります。なぜなら、この鎖は絶対に切れないというイメージが象の潜在意識の中に出来上がっているからです。
しかし、この象と同じような心の束縛が、実は私たちの中にも様々な形で存在します。そして、ある状況に出くわすと、いつも同じ反応をするのです。この行動パターンは心の束縛が原因です。そして、この心の束縛は、私たちが豊かな人生を送るうえで大きな妨げになるのです。
たとえば、子供の頃に、
親に批判されながら育った人は、人を責めやすくなります。
憎しみの中で育った人は、人と争いやすくなります。
恐怖の中で育った人は、オドオドした小心者になります。
馬鹿にされて育つと、自分を表現できなくなります。
嫉妬の中で育つと、人をねたみやすくなります。
ですから、怒りっぽい、批判ばかりする、心配のし過ぎ、根気がない、人が苦手、怠け癖がある、というような行動パターンは、すべて心の束縛が原因で、そのために、サーカスの象のように、その人の本来の可能性までも束縛し、望んでいるものとは違う人生をその人にもたらしているのです。
あなたは如何ですか? そんな心の束縛のために、自分にブレーキをかけていませんか。たとえあなたにどんな過去があろうと、あなたが神のもとに来られるなら、そこに、あらゆる心の束縛からの解放の道があるのです。
今日の一言: 心の束縛から解放されよう
鶴田健次
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生まれながらに持った才能と、イエスキリストに出会い新生して与えられるギフトは別物と聞くことはありますが、人を感動させるギフトを持っている方に遭遇することがあります。
私が今回感動した「ギフト」は、エレクトーンを弾く1人の女の子です。彼女は、映画やドラマのテーマ曲を見事に再現してしまいます。youtubeで彼女の弾いている姿が見れますが、右手と左手、そして左足が各自バラバラにかつ巧妙に動き、音と音を繋ぎ、実にすばらしいものとなっています。彼女のスターウォーズメドレーはこちらからご覧になられます

ピアノ演奏者にはお目にかかる事が何度かありその度に感動してきましたが、今回はキーボードを巧妙に操る少女。彼女のYou Tubeをさかのぼると、5年前の威風堂々は、彼女がおそらく小学校低学年の時のものだと思われます。小さい頃からギフトを使われてきたのでしょう。
この世に1人とも同じ方はありません。人を感動させる目立つギストからや目立たないけれど多くの方を癒すギフトなど神様のみわざに驚くばかりです!
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
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今日は、‘逆境は人生の宝’ということを考えてみました。
木の切り株を見ると、年輪がその木の樹齢を刻んでいますが、人間も歳を取ることを‘年輪を加える’などと形容します。これは木の年輪から来ています。
ところで、山にある木の切り株の年輪の中心は、真ん中でなく、北側に片寄っているのをご存知ですか。それは、日光と南風を十分に受けて育つ南側は年輪の目が幅広くなり、それだけ肉付きがよく成長するからです。反対に北側は、寒さから身を守るために、厚い皮をつけて戦います。したがって、年輪の目が幅狭く、中心がそちらに片寄るのです。
ところが木が伐採され、用材として製材されるとき、太陽の光を受けて育った南側の部分は板になり、北風を受けて育った部分は柱になります。柱は家を建てる際に、最も重荷がかかり、大切な部分となります。材木でも、逆境で苦労して鍛えられてこそ、柱という大切な部分に用いられるものになるのです。
人生には、浮き沈みが付きものであり、順境もあれば逆境もあります。人は、誰も逆境や試練の中を通ることを望みません。しかし、人生は長い目で見れば、むしろ順境よりも逆境の苦しみの方が、私たちに益をもたらすことが多いのではないでしょうか。
かつてイスラエル王国に黄金時代をもたらしたソロモン王は、イエス・キリストをして‘栄華を極めた’と言われた人ですが、その人生の晩年に、聖書の中に次のような言葉を記しました。
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。 」(伝道の書7:14)
人生の逆境は、その逆境の中で今までの自分の歩みを反省させ、人生を深く考えさせるための大切な機会であり、愛なる神からの贈り物なのであるという意味の言葉です。人は、繁栄や順境の中では、自らを誇ったり、傲慢になって、他者を思いやる心を失いがちです。そういう人は、人の言葉に注意を払わず、道を踏み外して暴走し、やがて人生の行き詰まりを経験することになるのです。そして、ようやく、そこで初めて自分自身を省み、人生の建て直しをすることができるのです。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
この詩篇119篇の作者と同じように、あなたも「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」と言い得る日が来ることを信じて、今の試練を乗り越え、逆境を意味のあるものとして生かしてください。 真摯な心で聖書を開き、そこで示された神の言葉に従順に従うなら、どのような絶望的な人生を送っている人でも、真の希望を見出すことができます。そして、今の試練は、これからの人生に決して無駄になることはないのです。
今日の一言: 逆境は人生の宝
鶴田健次
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