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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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Happy Thanks Giving Day!
今年も皆様に感謝祭のブログをお届けできる恵みを感謝いたします。
ラスベガス日本人教会でも、感謝祭交わりディナーが催され、20人以上の兄弟姉妹と共に食卓を囲みました。

感謝祭は、カナダでは10月の第2月曜日、アメリカでは11月第4木曜日に、収穫の恵みを感謝する日であり、クリスマス、イースターに次ぐ大きな休日です。

主役の大きなターキーとスタッフィング、グレービーにマッシュポテト。グリーンビーンキャセロールにキャンディーヤム、パンプキンパイのディナーを家族や大切な人達と過ごす伝統的な感謝祭の後は、年に一度の大きなセール、ブラックフライデーがもう既に感謝祭当日の夕方から始まっている店も年々出てきており、ホリデーだというのに交通量もなかなか多く街は活気づいています。

それと同時に、ブラックフライデーのビッグセールに関わる何千人の従業員たちが家族との時間を早々に切り上げ、感謝祭の日に出勤します。そのおかげで、当人よりも従業員の方の家族から、家族との時間が奪われたとの非難の声も上がっているようです。

そんな私も以前は同じ立場でしたので、十分わかります。私の場合は主人と感謝祭どころか、クリスマス、イースター、子供達の誕生日など大切な日は朝から晩まで忙しくて会えないという事が日常茶飯事でした。

そんなことから「ターキーを焼いてみよう!」とか、「ハムを焼こう!」、どこにも連れて行ってあげられない子供達を「キャンプに連れて行こう!」、などと思いが発展していったのもあり、私の料理の幅も増え、家族との楽しみや思い出も増え、更に自分はやればできるという経験ができ、マイナスがプラスになった事を思い出します。

その経験も積み重なり、今ではターキーもハムも焼けるし、一人でアメリカのどこでもきっと行ける行動力もつき、「感謝」になりました。思いは発展するのですね。

そんな事を思いながら、今年もこの日を迎えられる事を主に感謝します。神様が私に出会わせてくださったお一人お一人に感謝です。

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LVJCC ブログ制作チーム

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2015.11.26 22:20 | 教会イベント
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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和『絶えず祈りなさい』をお送りします。

マザー・テレサの通訳をさせて頂いておりました時に、マザーがおっしゃったお言葉の一つに「祈りを唱える人ではなくて祈る人、祈りの人になりなさい」というお言葉があり、私自身大変おしえられました。

私は修道院に入ってすぐにボストンの近くの修練院というシスターになる前の修業所へ派遣され約130人の修練女と生活をともにしました。修練院は修業をするところですから、毎日の生活は単純労働が主で初めは納得していましたが、月日が経つにつれ「なぜ」と考えるようになっていました。

ある暑い夏の昼下がり台所から洗いあがってきた百数十枚のお皿や食器類を百数十人の夕食のテーブルに並べておりました。すると修練長がいつのまにか後ろに来ており「あなたは何を考えながら仕事をしていますか?」とお尋ねになったのです。「別に何も考えておりません」と申し上げましたところ、修練長は厳しいお顔をなさいまして、「あなたは時間を無駄にしています」とおっしゃいました。私はなぜ言いつけられた仕事を言いつけられた通り手早くしているのに「あなたは時間を無駄にしています」と叱られなくてはいけないのか、怪訝におもってお顔を見上げたところ、修練長は今度は笑顔で「同じ食器を並べるなら一人一人のために祈りながら並べたらいかがですか」とおっしゃったのです。

私は修道院に三十歳の時に入り、それまで7年間ほど仕事の経験があったものですから、仕事とはすればいいものだと思っておりました。その日その時にはじめて仕事というものはただすればいいものではなく、心を込めて愛を込めてすることが大切だと教えていただきました。「機械的に仕事をしていては時間が無駄です。時間の使い方はそのまま人生の使い方になるのですよ」と修練長が教えてくださったのです。

この世の中に雑用という用はなく、用を雑にしたときに雑用が生まれることも教えて頂きました。私達の仕事には草取りもあり、割り当てられた場所の草をとっていたら、また修練長がいつの間にか来ておられ「あなた方の仕事を見ていると草をむしっているだけだ。草は根こそぎとらないとすぐに生えるのですよ」と言われ、私達が面倒な顔をしたのでしょう修練長は「いま世間に非行少年少女がたくさんいます。その中には改心したくてもできない、少年少女がたくさんいるのですよ。あなた方が「改心できますように」と祈りながら草を抜くと仕事に意味が出てきます」とおっしゃいました。

つまらないと思いながらお皿を並べても同じようにお皿は並びますし、同じように時間は経ちます。草むしりをしている時に「なぜ私がこんな仕事を」と考えながら草をむしっても、または非行少年少女の改心を祈りながら草むしりをしても同じ時間が経ち、同じように庭がきれいになります。

祈ったから、夕食にお座りになった方が幸せになったかはわかりません。祈って草を抜いたから少年少女が悪の道から抜けられたかもわかりません。わからなくていいと思うのです。何がわかったかといいますと、私が不機嫌で仏頂面でつまらないと思って過ごす時間が少なくなり、意味のある時間を使うことができたことです。時間の使い方は命の使い方だと教えていただきました。

マザー・テレサが来日された時、通訳をさせて頂きました。ある日、東京を早くお発ちになって、広島に向かわれ、原爆の地で平和の講演をなさった後、約1時間かけて新幹線で岡山まで戻られ、私達の教会で2回、1回は教会の中にいた人達に、もう1回は教会に入れず外にいた人達にお話をしてくださいました。岡山に着かれた時からマスコミや一般の人達が大勢、駅で待ちかまえてマザーのお姿を撮影しました。マザーはお疲れであろうし、お気の毒だと思うありさまでした。ところがマザーをお見かけしていると、向けられたカメラにいつも笑顔で、フラッシュがたかれてもお嫌がりにならないのです。74歳という年齢、慣れない土地、慣れない言葉、慣れない食事、疲れているに決まっているのに、マザーはシャッターがきられる度に、笑顔でいらしたのです。私は「マザーは愛想のいい方だ。もしかしたらカメラがお好きなのかしら」と思いながら、お側で通訳をしておりました。

すべては終わったのが、夜の九時頃だったと思います。マザーは修道女ですので、私どもの修道院にお泊めするため、お連れして歩いておりました。するとマザーは私に「シスター私はねフラッシュが一つたかれるたびに、いま亡くなろうとしている人が神様の御腕の抱き取られますよう、私が笑顔を見せることでお約束してあるのですよ」とおっしゃったのです。私が自分が修練院の時に習った、心を込めてお皿を置くこと、祈りを込めて草を抜くこと、マザーはそういう事を、時間を無駄にせず実行している方だとしみじみ思ったことがありました。

私が大学で教えていたときに、この話をしていたからでしょうか。一人の卒業生が手紙をくれました。自分の夫が鬱病になり、会社にも勤められない毎日で自分は何もしてあげられないけど、洗濯物にアイロンをかける時、夫の鬱病が少しでも良くなるよう祈りながらしています。と、手紙で話してくれました。

私達も誰かのために、何かのために、自分の小さな死を捧げる事ができる、そして、それは絶えず祈ることではないかと思います。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2015.11.23 07:59 | 証し
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今日は、日本が生んだ偉大な人物‘賀川豊彦’のことを考えてみました。

明治42年12月24日、神戸。当時日本最大のスラム街だった新川に一人の青年がやって来ました。彼は、貧しい人たちと寝食を共にし、自分の持ち物をすべて彼らに分け与え、神の愛を人々に説きました。その青年の名は賀川豊彦。日本が生んだ偉大なキリスト教伝道者、また文筆家であり、労働運動、農民運動、政治運動、文化運動において多大な影響を世界に与えた賀川豊彦の生涯は、「彼は、惜しみなく与えた」という言葉に尽きます。

賀川豊彦は、1888年7月10日、神戸で「妾」の子として生まれました。辛く淋しい子供時代を過ごした彼にとって、勉強して優等生になる以外に人に認めてもらう方法はなく、彼はひたすら努力し、非常に優秀な成績で中学に入ります。

中学2年生のとき、アメリカ人の宣教師に英語を教えてもらうために教会へ行くようになり、キリスト教には全く興味がない豊彦でしたが、やがて十字架で死ぬまでに自分を愛して下さったイエス・キリストを知り、それからというもの、まるで別人のように変わっていくのです。

ある日、豊彦は教会の先輩が夕方に、川の向こうの方に歩いていくのを見ました。気になった豊彦が宣教師に聞くと、ビックリする答えが返ってきました。ハンセン病の人たちのところに、毎日、食べ物や子供のおもちゃを持って訪ねていたのです。その姿に感動した豊彦は、その先輩が兵隊に行っている間、代わりにそこを訪ね、そういう風にして、神が自分を何のために生かしておられるのかを考えるようになりました。

17歳のとき、明治学院の神学部に、また20歳で神戸の神学校に入学した豊彦は、まもなく結核になり、医者に「あと二年の命」と宣告されます。「長くは生きられないなら、これからの生涯を貧しい人に捧げよう」と決心した彼は、神学校の寮を出て、神戸の葺合の貧民屈に引っ越して行きました。

豊彦が自分の借りた狭い部屋で教会を開くと、仕事のない貧民屈の人たちが多く集まりました。また無料の診療所を作り、みんなが安くて楽しい食事をできるようにと、天国屋という食堂を作りました。やがて芝ハルという女性と結婚し、それから間もなく、豊彦はアメリカに留学し、貧民屈と労働組合の勉強をしました。

29歳で帰国した彼は学んできたことを実践し、「どうしたらみんなが自分の力で生きていけるか」を考え続けました。また食べられない人たちが米屋を襲うという「米騒動」を機に、豊彦は労働者運動を指導し始め、31歳のとき、「友愛会関西労働同盟」を結成します。 

32歳のとき、豊彦は自伝小説の『死線を越えて』という本を出版し、それがベストセラーになりますが、その多額な印税をすべて人々のために用い、豊彦とハルは貧しい生活を続けました。やがて、彼の体は、いろんな病気にかかりますが、19歳で結核を発病し、「あと2年のいのち」と言われてから、すでに15年も経っており、それからも、いくつもの死線を越えていくのです。

1934年、46歳の時、豊彦は世界を回って伝道しました。ちょうど日本の軍隊が、中国で南京大虐殺など残酷なことをしていた頃です。豊彦は、多くの人が日本が戦争に勝つように祈っていたとき、中国の人々のために祈り続けていました。

1940年。豊彦が52歳の時のこと。教会で説教をしていた時に、二人の刑事に逮捕されました。平和を求めるメッセージが逮捕された理由でした。「造言蜚語罪(ぞうげんひござい)」―言葉で人を惑わす罪―でした。教会では、沢山の人が釈放を祈り、その祈りは意外と早く答えられることになります。

外務大臣の松岡洋右が突然言いました。「賀川さんをすぐ出せ。もしそれが出来ないなら、自分が代わりに刑務所に入る」。賀川豊彦が逮捕されたというニュースが外国に伝わり、あちこちから問い合わせがあったので、外務大臣が慌てて釈放を命じたのです。

1945年、日本は戦争に惨敗。東久邇宮総理大臣は、豊彦を官邸に呼んで言いました。「日本人から、外国人への憎しみを取り除かなくては、ポツダム宣言の発表もできない状態です。外国と日本を結ぶために活動する資格のある人は、あなたしかいません」。

そのころ、連合国の会議では、「日本をどうするか」という話し合いをしていました。北海道はソ連の一部にし、本州はアメリカ、四国はオーストラリア、九州は中国という風に分けようという意見が体制を占めていましたが、中国の指導者の蒋介石が猛烈に反対したのです。彼は、中国人にも、「日本人を復讐をしてはいけない。親切にするように」という通達を出していました。それは、「賀川先生のことを思うと、日本を憎むことができない」ということでした。「確かに日本人は残虐だ。でも賀川先生が祈っていると思うと、どうしても憎みきれなかった」というのです。

東京の焼け跡にバラックが建ち始めると、賀川豊彦は日本中、世界中に呼ばれて、メッセージを語りました。同時に、困っている人を助ける事業を次々に再開し、本を書き、雑誌を作り、そして新聞社を創りました。

1955年、豊彦はノーベル平和賞の候補に挙げられましたが、彼は受ける気はありませんでした。1959年、71歳のとき、豊彦は伝道旅行の途中で、心筋梗塞で倒れ、1960年、72歳で天に召されます。

そのとき彼の体は、心筋梗塞、慢性腎炎、大動脈中幕炎、気管支拡張症、心臓肥大、そのほか数え切れない病気にかかっていたそうです。妾の子として暗い宿命を負い、愛情に飢え、すさんだ心の少年が、ある時キリストに出会い、その時からこの愛のドラマが始まったのです。

人間には、それぞれ、神から与えられている使命があります。神は、ある目的をもって、あなたを造られたのです。だから、もしあなたが、それに忠実に生きていくなら、あなたも「もうだめだ」という死線を、何度でも越えることができるのです。私たちは、賀川豊彦の生涯から、その事を学ぶことができます。

今日の一言: あなたは何度でも死線を越えることができる


鶴田健次


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2015.11.20 09:01 | 牧師室より
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「憎しみによっては、平和は来ない。主イエス・キリストの十字架の愛以外に真の平和はない。」この言葉は、海軍軍人で戦後キリスト教に入信、伝道師となった淵田美津雄師がよく口にしていた言葉です。今日は淵田師のお証をご紹介させていただきます。

いま私(淵田)の胸に去来することは、私は祖国日本を愛し、火のような敵愾心(てきがいしん)を抱いて戦ってきたが、それはいわれなき憎悪(ぞうお)ではなかったか。祖国愛と見たなかに偏狭にして独善なものがなかったか。人類を、そして世界を理解することを忘れていたのではなかったのか。その祖国愛が、愛する民族をこの塗炭(とたん)の苦しみに追いやる始末になったのではなかったのかということです。終戦とともに、日本は人類の悲願である戦争放棄を世界にさきがけて宣言して、「灰燼(かいじん)の中から再建へ」とスタートしました。戦争放棄の理念を裏返して見れば、そこには日本が全人類への憎悪に終止符を打ったことを意味するのでなければならないと、私は思うのです。

しかし、理念では憎悪に終止符を打つことは分っていても、私の感情は別でした。そのころ私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。

戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです。するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話を聞き、心を打たれました。

この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。

やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」

両親が日本軍隊によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と私は膝(ひざ)を乗り出しました。

話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。

やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。

だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。

そしてしばらくの月日が流れました。ある日、私は所用があって渋谷駅に下車しました。駅前に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。私も行きずりに渡されたので、眺めて見ると「私は日本の捕虜でした」と題してあり、一人のアメリカの軍曹の写真が掲載されてあったのです。


それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。私の心は動きました。特にデシーザーが捕らわれて獄中で虐遇されているときに、彼はなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「人類相互のこうした憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えというものについて、かつて聞いたことに心が向き、聖書を調べてみようという不思議な欲求にとらわれた」と言っていることばが、同じ心境にある私の心を捕らえたのでした。

ひとつ、私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、私はハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。

これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。

敵を赦しうる博愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。

その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五・一七)


(「百万人の福音」より)

(LVJCCブログ制作チーム: Kao)

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2015.11.16 00:00 | 証し
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今日は、‘心に描くイメージ’について考えてみました。

幸いな人生を送るための最大の要素は、自分を愛することのできる者になることだとよく言われますが、これはどれだけ強調しても強調し過ぎることのない重要な要素です。なぜなら、私たちは自分自身を見る目と違った行動を取ることは不可能だからです。

その意味で、これまでも色いろな機会にお伝えしてきた通り、心で自分をどのようにイメージしているかは、あなた自身の人生に計り知れない影響をもたらします。自分を愛することのできる人は、自分が愛される価値のある人間であることを信じているので、愛される人間、価値のある人間というイメージに基づく行動を無意識のうちに起こし、それにふさわしい結果を得るのです。

幸運なことに、人は誰でも、今まで自分のことをどのように心でイメージしてきたかに関係なく、自分の心がけ次第で、今からでも良い方向に変わることを選ぶ‘自由意志’という素晴らしい贈り物が神から与えられています。これは誰にでも無限の可能性とチャンスがあることを意味すると言えるでしょう。

健全なセルフイメージを作り上げていく際に常に覚えておくべきことは、意識的に、自分の良いイメージを思い浮かべ、言葉にし、その通りに行動することを心がけることです。なぜなら、私たちが与えたイメージを心が完成させるからです。また、心がけによる新しい習慣は、やがて私たちの本質を変えるからです。

たとえば、20センチ幅の板を床の上に置いて、その上を歩くのと、同じ20センチ幅の板を50階建てのビルの間に渡して歩くのとを想像してみてください。床の上に置いた板の上を歩くのは、安全にその上を歩くイメージを思い描くので簡単に実行できます。一方、ビルの間に渡された板の場合は、そこから落ちる自分を見てしまい、その描かれたイメージを心が完成させるために、あなたの恐怖は現実になるのです。

ところが、最初は怖くても、十分な注意を払いながら、高い所での作業を続けていると、やがてそういう所でも平気で動き回れる自分が見えるようになり、そのイメージを心が完成させるために、板の上を歩くことも簡単にできるようになるのです。

ボールを池に打ち込んだゴルファーが、「そうなる気がした」とつぶやくことがあります。それは描いたイメージを心が完成させ、それを体が行動によって実現させたのです。しかし、前向きなゴルファーは、打つ前にボールがホールに入るイメージを描きます。また、成功するセールスマンは、訪問する前に客が買ってくれるところをイメージします。そして、本当にイメージできたことが現実になるのです。

あなたは自分自身を、また自分の将来をどのようにイメージしておられますか。こういう事を考えたことがない方でも、今のあなたの現実は、実はあなたが無意識のうちにイメージしてきたことの結果であるということが理解できれば、心に描くイメージの大切さがお分かりになれると思います。

あなたは愛されるべき人です。あなたは価値のある人です。そんなあなたの将来は、幸せと希望に満ちたものなのです。ですから、これからはそんな自分、そんな将来をイメージし、そのような人生を生きていきましょう。

今日の一言: いつも幸せをイメージして生きよう

鶴田健次


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2015.11.13 07:59 | 牧師室より

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