
今日は、‘志の実現’ということについて考えてみました。
皆さんは将来に志をお持ちですか? 将来に志を持つことは、年齢に関係なく、とても重要なことです。また志を貫き、それを実現させることは決して簡単なことではありません。しかし、その志をいつまでも持ち続けることができれば、やがてその志は必ず実現します。ですから、その原則を心に留め、ぜひ志を持ち続けてください。
アメリカで最も権威ある大学の一つで行われた調査によれば、新しい情報を伝えられた人々は、二週間後には、その情報の約2パーセント程度しか覚えていなかったという結果が出ました。ところが、六日間同じ情報を見聞きしていれば、二週間後もその62パーセントを覚えていたそうです。また、それだけではなく、そこではもっと重要な点が指摘されました。それは、同じ情報にさらされればさらされるほど、それについて何らかの行動を起こす確率が高くなるということです。
私の友人で、自分の志を紙に書いて、いつでも目に留まるところに貼っている人がいます。それは本当に素晴らしい心掛けだと思います。なぜなら、この賢明な行動を取るほどの強い願望が志の実現を後押しする力になるからです。また、その言葉を絶えず目にすることで、志の実現に必要な行動を取り続けるよう中枢神経が働くようになるのです。
人間の脳細胞の中の98%は言葉の影響を受けていると言われます。言い換えれば、言葉がほとんどの神経を支配しているのです。つまり、見ること、聞くこと、感じること、そのような全ての神経が、言語中枢神経に大きく影響され、その言葉通りの行動へとその人を駆り立てるのです。
ですから、どんな言葉を口にし、目にするかによって、その人のあらゆる神経系に影響をもたらし、その人の考え、行動を支配し、人生を支配するのだということです。
私はできないという言葉を口にし、目にすれば、中枢神経ができないという指示を送るわけですから、その指示に従って、私はできないという道を歩むことになります。それに対して、私はできるという言葉を口にし、目にするようにすれば、中枢神経ができるという指示を送るわけですから、その指示に従って、私はできるという道を歩むのです。
結局、私たちの人生は、自分の口から出てくる言葉によって決まるとさえ言えるほどに言葉の持つ力は大きいのです。
ですから、志に向かって行動を起こすのに役立つ言葉を口にし、目にし、心に留めることによって、ぜひ志を実現しましょう。
今日の一言: 志を実現するための言葉を用いよう
鶴田健次
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生涯を日本の農村伝道に捧げられたストーン宣教師は、1902年、カナダ・オンタリオ州ハイゲート村で生まれました。父の農業の手伝いをしながら少年時代を過し、高校卒業後は季節労働者としてアメリカで出稼ぎし、1920年にトロント大学へ入学。大学ではヴィクトリアカレッジで学び、ロンドン教区で牧師となりました。1926年9月、ストーン先生は日本に赴任し、東京で日本語を学び、1928(昭和3年)に長野市に赴任し、信州にある教会に派遣され、各地で農民福音学校を開催し、信濃農村社会教区という農村伝道と社会活動を地元の村の組織と共同で行いました。
27年間宣教師として働いたストーン先生の生涯を振り返るとき、農民として農村に生き、そこに働きの場を求めました。生活苦にあえぐ農民の魂と生活の向上を願い、農民と苦楽を共にし、一農民になり切ろうとしました。 土の中から出たような先生は土と共に生きる人を自分の分身のように接し愛したのです。ストーン先生は文化も習慣も違う日本にあって、日本家屋を愛し、集会では囲炉裏を囲んで座り日本食を食べ、流暢な日本語で語り合ったといわれています。ストーン先生は一人の人間を大切にし、一人にかかわり続けましたが、同時に個人を取り巻く社会の改善や変革を求めていました。「社会的救済とは、個人の救済に適うよう社会状態を変ずる事を意味する。」ストーン先生の言葉です。
ストーン先生は戦後、農村伝道のために中央農村教化研究所(現在の鶴川学院・農村伝道神学校)を設立しました。1954年に「北海道特別開拓伝道委員会」が組織され、10年にわたる北海道の特別開拓伝道が進められることになりました。ストーン先生はこの伝道の働きを担うために北海道に居を移して赴任されたのです。その会議ために同年9月、上京の途次、青函連絡船の洞爺丸で台風に遭遇して52歳で天に召されることとなりました。
台風の影響であまりに激しい風浪のため、同船は青森に向かうのを見合わせ、函館湾に待機していましたが転覆、約千人が波にのまれ犠牲になりました。そのときストーン先生とディーン・リーパー宣教師は、動揺する日本人乗客達を励まし、沈んでいく船の甲板で、救命胴衣を着けていない青年たちに、自分たちの救命胴衣を脱いで与えたそうです。結果として青年たちは助かり、二人の宣教師は亡くなりました。ストーン先生がまったく泳げなかったことを、それから四〇年後に来日した次男ロバート師が語っています。二人の宣教師は自分の当然の権利を捨て、隣人のいのちを救うため行動した神の使徒と呼ばれています。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
(LVJCCブログ制作チーム:Kao)
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今日は、‘絶対幸福’ということについて考えてみました。
幸福といっても相対的幸福の定義は十人十色、百人の人がいれば百の幸福の定義があるかも知れません。通常、私たちが思う幸福とは、「苦しみがなく、人や物事が自分の願い通りに動き、自分にとって都合のいい状態、喜ばしい状態」を指すのではないでしょうか。
確かに、嫌な事がなく、経済的に恵まれ、健康で、地位と名誉、美貌や権力などに恵まれれば、人生は楽しいでしょう。だから、人は誰でも本能的にそのような生きる条件をよくして、楽に生きたいと願い、自分を取り巻く条件が満たされることこそ幸福だと思うのです。
しかし、そのような幸福と思える状態は長続きせず、そういう状態を必死で求めれば求めるほど、辛いことも増してくるのが人生です。他人の目にはどう映ろうが、この世に生きているかぎり、苦しみを経験しない人はありません。条件がすべて整っているように見える人であっても、心の虚しさを覚えていることがよくあるもので、幸福とは苦しみから切り離しては成り立たないようです。つまり幸福とは、人生に組み込まれている苦しみをどう受けとめ、どう向き合っていくかという姿勢と大いに関係がありそうです。
また私たちは、幸福はいま手の内にあるのではなく、いつか希望や条件が満たされたときに実現するものだと考えがちです。そして胸のわくわくする喜びこそ幸せであると思います。しかし、人生には曇りも雨も嵐の日もあります。私たちの心は移ろいやすく、常に高揚した気持ちでいることはできません。そして生きているのは、昨日でも明日でもなく今だけです。
そんな現実の中で、幸福になる秘訣をメーテルリンクは、こう教えています。
「どんな些細な事柄にも輝かしい瞬間があるということを知ること。最も不幸な者たちでさえ、あるいは最も貧しい者たちでさえ、現実の彼らがどうあろうと、魂の奥底には無尽蔵の美の宝を持っている。大切なのは、ただそこから美を取り出そうと常に心がけることだ。」
また、新約聖書の多くの書簡を書いた使徒パウロは、こう言っています。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
こうしたことを手掛かりに、‘絶対幸福’というものを手に入れようとは思いませんか?
今日の一言: 絶対幸福を手に入れよう
鶴田健次
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先週に続きまして、グレッグ兄のメッセージ「平安、高慢、争い①」をお送りします。
ローマ書12:18〜20には、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」と書かれています。
私たちの中には、赦しは弱さを象徴し、復讐は強さを象徴する美徳と教えられて育った人もいるかもしれません。そのような環境や文化に育った人にとっては、この御言葉の概念は、非常に受け入れがたいものであるでしょう。私もこのような環境で育った一人で、その考えが私の人生の一部となり、長い間この御言葉の意味を受け入れられず苦しみました。
皆さんも経験があるかと思いますが、私も過去に、人に裏切られ、ひどい扱いを受け、濡れ衣を着せられ、責められ、だまされ、嘘をつかれ、うわさをされ、拒絶され、中傷されたことがあります。神様は、私に高慢と赦しを教えるために、私が受けたあらゆる経験を用いてくださいました。私は若い時、どうしても許せない人たちがいて、ずっと憎んで過ごしていました。しかし、イエス様によって日々造りかえられるにつれて、速やかに赦すことを学びました。同時に、自分が利用されたりひどい扱いを受けることがないように、自分を守る必要があることも学びました。これは、私たちにとって非常に重要なことです。私は、思い起こして考えました。「私を傷つけた人を、長い間赦さないことによって、私は何の徳を得たのか?」と。私にとって益は何もなく、それどころか、自分で自分の首を締め、自分の癒しを遅らせ、神の恵みを自分から拒む結果となったのです。では、赦せない人を赦した時、私は、どんな被害を被ったでしょうか? 被害どころか、むしろ私にとって益となり、平安を得ることができるのです。
皆さんは、いかがでしょうか? 過去に起こったことで、人やその出来事を赦さなかったことによって、恵みを受けたり益となった経験があると言える方はいらっしゃいますか?心のうちに、まだ恨みを持ち続けているという人も中にはいるのではないでしょうか?
一度も罪を犯したことのないイエス様を思い出してみましょう。あの十字架上で、ご自身を十字架につけた人々に対して、イエス様は、彼らがまだ自分たちのしていることがどんなに大きな罪であるかに気付く前に、また自分の罪を悔い改める前に、すでに天の御父に、彼らを赦してくださいと、彼らのために頼まれたのです。同じように今日も、罪に染まって生きている私たちを、イエス様はお赦しになられ、愛してくださるが故に、私たちもまた赦すべきなのです。なぜなら、イエス様が私たちのうちに住んでいてくださるからです。
誰かがこのように言っていました。「赦さないことは、自分が毒を飲んで、赦せない人が死ぬことを望んでいるようなものだ。」と。
赦さないことは、自分を傷つけるだけで、イエス様がおっしゃられたように、人々を赦さないとき、自分が赦された存在であることを確信することもできくなるのです。聖書は、「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と教えます。これは、悪魔に機会を与えるか与えないかの選択が、私たちにあることを意味しています。私達が、争いを迎え入れた時、不必要な問題や挫折が一緒に入り込んでくることがあります。
私たちは、特に自分に近い存在と、討論したり、ひどい態度を示したりしがちで、多くの場合、一番近い存在に対して、最も辛くあたってしまう傾向があります。私たちは皆、対立や意見の違いを経験しますが、心に争いが入り込むと、私たちの家族や私たちの個性や、私たちの存在にさえも、悪影響を及ぼし、気付いたときに対処しなければ、私たちの大切な家族を滅ぼす結果となりうるのです。争いによってもたらされるダメージを修復するよりも、平安と家族の一致を保つ方が、断然楽なのです。聖書には、「家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。」と書かれています。たとえ相手が自分に罪を犯したとしても、罪を見逃し、先に赦すことができるようになるには、成熟さが必要です。
悪魔やこの世、また私たちの肉は、「争いに勝つことは、誉れに値する」と私たちに語りかけます。しかし、箴言20章には、「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」と書かれています。あなたは、常に自分が正しいことを求めますか?それとも、平和を第一に求めますか?真理のために堅く立つことが必要な時もありますが、時には、たとえ相手が間違っていても、寛容になり、彼らが間違いに気付くよう神に祈ることが必要である時もあるのです。私達が、一致と平和を守る時、私たちの人生や家族に神の恵みがもたらされます。
最後に、もし私たちがまだイエスキリストを救い主として心に迎え入れていないのであれば、永遠に続く真の平安を得るために必要不可欠な要素が欠けているということをお話しします。イエス様は、平和の君であられ、へりくだって自分の罪を認め、救い主が必要であることを知り、主と主がして下さったことを信じるすべての者に惜しみなく平和を与えて下さいます。神との和解無くして、本当の意味で自分で自分を受け入れることはできず、ましてや他人を受け入れることはできないです。
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。もしあなたが、あなたの罪のために御子を犠牲にしてまでもあなたを救おうとされた神の救いのご計画を拒み、自分自身を信じ、神の救いなど必要でないと思うならば、聖書は、あなたの罪があなたを滅ぼし、やがて平安のない後悔の場所で目を覚ますことになると教えています。
しかし、もしあなたが、自分自身に頼ることを止め、罪を認め、救われる必要があると受け入れ、イエス様があなたの罪の代価を支払い、救いの御業を完成してくださったと信じるならば、神は、イエス様によって、義の衣をお与えになり、古いものは過ぎ去り、主にある全く新しいアイデンティティーをあなたに与えてくださるのです。あなたは永遠に神に受け入れられ、愛される存在となり、あなたの負債は全て支払われるのです。
もしここにいらっしゃる人の中で、イエス様を主として迎え入れたいと願うならば、神はあなたのその想いをご存知です。なぜなら、神が事前に、あなたが主を信じることができるように、あなたの心に信じたいと願う想いを備えられたからです。もしあなたが信じてイエス様を受け入れるならば、これから祈る祈りを、一緒に祈りましょう。
「天のお父様、あなたは、私に代わって私の罪の代価を支払うために、御子イエスキリストをこの世に送ってくださり、御子イエスキリストの血によって私の罪が赦されただけではなく、義と認められ、永遠のいのちをお与えになり、あなたの子どもとされる特権が与えられたことを私は信じます。イエス様、救いと自由を確信できるように、私の心と想いと人生に、あなたの霊を送ってください。イエス様の御名によって、祈ります。」アーメン
(LVJCC英語部:グレッグ兄)
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今日は、‘高貴なる生き方’ということを考えてみました。
フランス語に、ノブレス・オブリージュという言葉があります。これは日本語に訳すと‘高貴なる義務’という意味です。つまり、王侯貴族のような富や権力を人よりも多く持っている者は、それだけ人よりも多くの社会的義務と責任があるという考え方で、これは「多く与えられた者からは多く求められる」という聖書の言葉がその土台になっています。
また、この考え方はヨーロッパにおける指導者観の基本で、その源流は‘騎士道’つまり‘ナイトの精神’であり、‘紳士の道’つまり‘ジェントルマンシップ’ということです。優れた勇気と力、自制心、高潔さ、犠牲的精神などを備え、何かあれば真っ先に自分が危険の矢面に立って人々を守る、それが高貴な生き方をめざす者の生き方であろうかと思います。
かつてのイギリスにおいて、第一次、第二次大戦で、最も戦死率が高かったのは、オックスフォード大学等の名門の出身者であったそうです。いわゆる上流階級の子弟も、危険な第一線で戦うのが当然とされたわけで、本当のエリートとは、‘人を出し抜いて、特権の甘い汁を吸う’人種ではなく、反対に、社会のため、民衆のために、自ら進んで犠牲になっていく人々だったのです。
1982年1月、飛行機事故で乗客全員がワシントンDCのポトマック川に投げ出されるという惨事がありました。氷結した酷寒の川の水温は零度。体が凍えていく中、氷の割れ目から助けを求める人々の声が続きました。やっとのことでヘリコプターが救援に駆けつけ、投下された浮輪や命綱につかまって、一人また一人と救出されますが作業は思うようにはかどりません。30分で絶命すると言われた冷たさで、時間との戦いでした。
そうした中に、一人の中年の乗客がいました。クリスチャンの彼は、自分が助かるチャンスを得ながら、「あなたが先に助かりなさい。私は大丈夫です」と言って、二度もそのチャンスを他の人に譲ったそうです。あえて後回しになった彼は、ついに力尽き、命を失いました。この事実が、関係者から明らかにされた時、世界中が泣き、多くの人々が強く胸を打たれました。
もうひとつ、こんな話があります。イギリスのある川が洪水になり、一軒の家が流されかけました。そこを通りかかった金持ちが、「だれか家の中の人を助けた人に、賞金を出す」と呼びかけました。しかし、急流を前に人々はひるんでしまいます。その時、一人の青年農民が走り出て、無言で激流に飛び込みました。そして、家の中の人たちを無事に助け出すことができ、その直後、家は激流に飲み込まれてしまいました。
まさに間一髪。見ていた人々は皆、勇気ある青年を喝采しました。そこで金持ちは喜んで、青年に賞金を与えようとしました。しかし、青年はその賞金を辞退し、こう言ったのです。「私は自分の生命をお金で売ろうとは思いません。むしろ、この人たちこそ、家を流されて大変でしょうから、お金はできれば、この人たちに差し上げて下さい」。
生命をかけた自分の行動が、金銭に換えられることを潔しとしない。この生きる姿勢こそ、まさに‘高貴な生き方’です。もちろん、そういう生き方が誰にでもできるわけではありません。しかし、そういう生き方を全うした人々のことを思い、‘自己中心の生き方’になりやすい私たちの自戒としたいと思います。
イエス・キリストは、「人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と教えられました。そして、その自らの教えどおり、その尊い神の子の命を、あなたの救いのために犠牲にされたのです。これこそ、まさに‘高貴な生き方’の究極の見本だと言えます。
今日の一言: 高貴なる生き方を心に留めよう
鶴田健次
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