FC2ブログ

LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

hudson-taylor-pic.jpg

ハドソン・テーラーは、まだ、5歳にもなっていなかった時、「僕が大人になったら、宣教師になって、中国に行くんだ」と言っていました。このイギリスの少年は、まことの神について聞いた者がほとんどいないという、外国に関する話から深い影響を受けていたのです。しかし、幼いハドソンを知る人々は、それを子供じみた衝動にすぎないと考えていました。

テーラー家は、幸福で敬虔な家庭でした。ジェームズ・テーラーは、毎日、子供たちに聖書の一節を読み、説明して聞かせていました。「神様はウソをおつきになる事ができないお方なんだよ」と、彼は子供たちによく語ったもです。「神があなたをを誤った方向へ導かれることはありえない」と語ると、小さなハドソンは、コクリとうなずいていました。

しかし、ハドソンが十代の少年になると、幼いころの単純な神への信頼は失われていました。6年間、彼は霊的に不安定でした。頭では「自分自身をクリスチャンにしよう」と、一生懸命に努力しましたが、それは霊的には役に立ちませんでした。そこで、ハドソンは〈きっと、ぼくが神の愛を受けるにふさわい者となる道があるにちがいない〉と、考えたのである。

15歳になると、彼は銀行員の職に就くことができました。銀行での仲間の大部分は、宗教について話すときには必ずと言ってよいほど、嘲笑を交えた皮肉を飛ばしました。ハドソンと親しかった一人の先輩の行員でさえ、あらゆる機会をとらえては、彼の旧式な考えを笑うのでした。ハドソンは優れた判断力を持っていたのですが、自分が子供のころ教えられた事を皮肉な調子で軽蔑されると、なぜかそれに惹かれるようになりました。〈私は、この世の事柄に大きな価値を置きすぎる位になり始めていた。宗教的義務なんか、あきあきするものとなった〉と、後年彼は語っています。しかし、神の摂理は働いていました。ガス灯のもとで長時間仕事をしたせいで、目にひどい炎症が起こりました。どんな手段を講じても、弱っていく自分の視力を回復させることはできないように思われました。そこで、9ヶ月間勤務した銀行をやめて、再び父の薬局屋を手伝う事にしました

その頃ハドソンは両親に、〈あなたがたが教えてくれた事が真理であるかどうか、確信が持てないんです〉と打ち明けました。両親は息子に対して忍耐深くなければと思いました。母親と妹のアメリアは、それまでつづけてきた祈りを倍にしました。ある日、彼は一人で家にいました。午後になって、何か暇つぶしになるような本がないかと父の蔵書を探してみました。しかし、おもしろそうな本が見つからなかったので、ふと、信仰に関する書物に目を移してみました。その中から一つ選び出して、自分に言い聞かせました。〈初めはおもしろい話だが、おしまいのほうはお説教だろうな。説教は残して物語だけ読むことにしよう〉その時、ハドソンは知る由もありませんでしたが、70マイルも離れた所で、彼の母がひざまずいて、息子の為に祈っていたのです。昼食後、彼女はハドソンの回心に関心を集中しました。そこで、鍵をかけて部屋に閉じこもり、祈りが答えられたという確信が得られるまでは部屋から一歩も出まいと決心をしたのです。

さてハドソンはというと、信仰書を読んでいくうちに〈キリストの完成されたみわざ〉という言葉にぶつかりました。〈何故、著者はキリストの贖いのみわざと言わないのだろう〉と自問しました。するとすぐさま、〈完了した〉と十字架の上でキリストが言った言葉が、心の中に飛び込んできました。さらにこんな考えが浮かんだのです。〈キリストがもし私の罪の負債の支払いを完了されたというならば、あとは私のなすべき分は何だろうか〉こんな思いと同時に、彼にできる事と言ったら、〈ひざまずいてキリストがなされたわざをただ受け入れるだけでいいのだ〉という幸いな確信がやってきたのでした。

2週間後、母は家に帰ってきました。彼は母を抱きしめて、その素晴らしい出来事を伝えたのです。〈知っていますよ。私はね、2週間もその事で喜びどおしだったんです。神様が、私の祈りにこたえられたという確信を与えてくださったんですよ〉彼女は幸せそうこう言ったのです。

こうして、ハドソン・テーラーの長い霊的勝利の生涯が始まりました。彼は宣教師として中国に渡りました。そして、中国奥地宣教教会を設立し、ここから何千という宣教師が、霊的な欠乏状態にある地域に送り出されたのでした。それ故、多くの人から、ハドソン・テーラーは宣教団体の父と呼ばれているのです。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。

2015.06.30 02:04 | 信仰者シリーズ
明け渡し_convert_20150627023141

今日は、”明け渡し”ということについて考えてみました。

信仰生活は戦いです。しかし、私たちが犯しやすい間違いは、創世記32章にあるヤコブのように、その戦いが、しばしば神との戦いになることです。つまり、私たちは無意識のうちに神と戦っているのです。その戦いは絶対に勝てる戦いではないのですが、それでも私たちは神との戦いとは知らず、それを試みるのです。

多くのクリスチャンが未だに同じ問題を抱え、その問題にほとんど進展が見られないということがあります。その理由は、自分の中にある心の王座を神に譲ろうとしないからです。つまり、私たちは自分を神の立場に置き、自分の思いを貫きながら、私たちの内になされようとする神の業を妨げている場合があるのです。

私たちは神ではないし、これからも絶対に神にはなれません。私たちはどこまでも人間なのです。ところが、私たちは自分の人間としての限界を頭では受け入れますが、心では受け入れようとしません。また、人間としての弱さや無力さに頭では同意できますが、心では同意できません。そのために、私たちは神の御心に素直に従うことをせず、自分の考えを貫こうとするのです。

明け渡しの意味:  
自分を神に明け渡すとは、私たちの合理的な考えを捨てることではありません。神は私たちに与えた心を無駄にはされません。神は私たちを自由意志のないロボットとして仕えさせようとは望んでおられません。明け渡しは、私たちの個性を無くすことではなく、むしろ私たちのユニークな個性を用いるために必要なのです。明け渡しは、私たちの個性を抑えるのではなく、むしろそれを本当の意味で活かすものなのです。

C.S.ルイスは、こう言ってます。
「私たちが神に自分を委ねれば委ねるほど、私たちは、より本来の自分になることができる。なぜなら、神が私たちをそのように創られたからである。神は、あなたや私がそうなるべく、すべての人を違う者として創られた。そして、キリストに信頼し、キリストに自分を明け渡すとき、私たちは初めて自分自身の本当の個性を持ち始めるのである。」

今日の一言: 明け渡しは本当の自分を生きる道

鶴田健次


ブログランキングに参加しています。クリックでの応援を心より感謝いたします。
2015.06.26 09:32 | 鶴田健次牧師より
           iw-il mka-
私、Saoはラスベガスからメイン州までのロードトリップの様子を紹介しておりますが、今回はその3回目になります。
今回はネブラスカ、アイオワ、イリノイ、インディアナ州の様子をご紹介いたします。

大きなロッキーマウンテンを超え、コロラド州・デンバーの後は、ただ平坦に長い長い黄緑色の畑や草原が続くネブラスカでした。
コロラドを通り、アイオワを横切るフリーウェイが地元の方にはあまり使われてない道なのか、とにかく周りには何もなく、電灯も立ってないフリーウェイでした。

アイオワ州に入ると、途端に周りの様子が濃い緑色に変わりました。そして、今までとは違って、フリーウェイの周りにはホテル街やモールが見え始め、「アイオワはアメリカ横断のドライバーにとっては便利なところだなぁ」と感心していたら、なんと州内に世界一大きい(?)トラック休憩所がありました。さすが、アイオワ州!

その後イリノイ州に入り、休憩所の場所に公園があったので少し子供たちと遊びました。一つ一つの風景がラスベガスと違い、緑が繁っているとても絵葉書の様なバックグラウンドでした。

インディアナ州を走りシカゴに近くなると、ここからは料金所があってお金を払って走る高速道路になりました。イリノイを抜け、インディアナ州に入りました。ここからは大雨のドライブとなりました。

   ida-.jpg

強い雨が急に降ってきた時です。私が運転しており、子供たちと主人に、「お祈りしてね!」と注意を促したその瞬間、ディーゼルトラックのエンジンが急に落ちてしまいました。
大雨、高速道路の真ん中でエンジンのかかってないトラックがキャンパーを引いてソロソロ動いている様子に、私は急いでハザードを探しました。トラックのハザードは特殊なところについており、少々焦りましたが、その後、路肩に止まり、少し時間を置くと、エンジンがまたかかり始めたので、ドライブを再開しました。出発する時にハイウェイパトロールの車が見えました。どうやら見守ってくれていたのだということに気づき、感謝しました。

この旅では数々のドラマがありますが、こうして最後には感謝で終ることのできる1日1日を過ごせる事は、神様からの恵みを頂いてる事と思い、それを実感する毎日です。

ラスベガスに留まり、同じ毎日、特に私の忙しい毎日の中では、目を向ける事のできなかった事ばかりを経験させていただいている事を心から感謝いたします。

私は、小さな感謝すべきことも感謝とも思えない罪人ですが、神様の元に今日も生きれている事に感謝です。ハレルヤ。

(ブログ制作チーム: Sao)

ブログランキングに参加しています。クリックで応援お願い致します。
2015.06.24 17:11 | 証し
イザヤ

有名なイギリスの説教者「チャールズ・スポルジョン」は父と祖父を牧師に持つ環境で生まれました。生まれてから7歳くらいまでは祖父母の元で育てられました。その間、祖母からは賛美歌を教わり、祖父からは信仰書を読むように訓練を受けました。その後、両親の元に戻り、英国国教会の学校にも通っていましたが、スポルジョンは信仰の迷いの中にいました。15歳のスポルジョンは「ぼくは、自分の罪が他の人たちより大きいように思える」と言って泣き悲しんでいました。また「神にあわれみを求めても、ゆるしてくださらないのではないかと思うんだ」とも言っています。その為、スポルジョンは「僕はクリスチャンになるために、町のあらゆる教会を訪れます」と誓ったのです。それから6ヶ月かかって、見つけることができる教会という教会をすべて訪問してから、彼は、ほとんど絶望状態に陥っていました。

16歳の1月、寒い雪の降る朝、忠実なスポルジョンは自分で選んでおいた教会に出席するために出かけていきました。とぼとぼと歩いているうちに、彼の心は降りしきる雪よりも寒々としてきたのです。激しい吹雪のため、とうてい目的地に着くことができないとわかると、わき道にそれました。すると、彼がそれまでそこにあるとは知らなかった、人目につかない教会があって、彼はそこを訪れたのです。しかし、初めのうちはそのメゾジスト教会に入るのをためらっていました。しかし、そっと忍び込み、席につきました。

しばらく重苦しい沈黙が続いたのち、一人の背の高い、やせた男性が、足を引きずりながら講壇に登り、こう言いました。「天候が悪いので、私達の牧師は来ることができなかったようです。私で辛抱していただかねばなりません」その男性は続けました。「さて、私も、他のすべての説教者がするように、御言葉を引用します」と、その素朴な男性は続けました。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」イザヤ45:22

席についたスポルジョンは顔をしかめ〈なんだ、この人は、発音すら正確にできないのか〉と思ったのです。講壇では、その代理牧師は、御言葉を長々と引きのばして話し始めました。というのも、彼はほかに話す事をほとんど知らなかったからです。「御言葉には『仰ぎ見て』とあります」と、男性は続けました。「さて、『仰ぎ見る』ことは、たやすくできることです。あなたの足をあげたり、指を立てたりすることではありません。それは、ただ、『仰ぎ見る』ことなのです!さて、あなたがたのうちには、自分自身を見つめておられる方もあるでしょう。しかし、自分自身を見つめていることは無益です。あなたがたは、『御霊の働きを待ち望め』とおっしゃるかもしれない。しかし、私はキリストを仰ぎ見よ、と言うのです」

退屈した少数の聞き手は、あちらこちらと目をさまよわせ始めました。しかし、スポルジョンはそうではなかったのです。彼は、あたかも、「僕はなぜ、今までこのことを思いつかなかったのだろう」と言っているかのように、じっとその無学な説教者を見つめていました。御言葉を引きのばして話していた説教者は、今度は叫び始めました。「私を仰ぎ見よ、私は大つぶの血の汗を流している。わたしは十字架にかかっている」それから、その男性はスポルジョンの緊張した顔に目を止めました。「お若いかた、あんたは悲しそうに見える」彼は雷のような声を出しました。「若いかた、イエス・キリストを仰ぎ見なさい!仰ぎ見なさい!」

スポルジョンは後にこう証ししています。「私は、そこで、すぐに救いの道を見た。私は今にも盲目になってしまうのではないかと思うほど見つめた。やみは過ぎ去り、太陽を見た。私は自分の席から飛び上がり、これらのメソジストの兄弟たちの中でも最も熱狂的な者と一緒に、『ぼくは、ゆるされているんだ』と叫ぶことができるように感じたのである」

「おお、どんなに私は、キリストのために何かをしたいと願っていることでしょう」と、スポルジョンは帰宅後、母親に書き送りました。1週間もたたないうちに、彼は何かを始めたのです。まず、トラクトを配り、トラクトがなくなると、紙切れに福音を書き、誰かが拾って読んだら役立つだろうと思って、それを道路に落としておきました。

スポルジョンは一つの御言葉により回心に導かれましたが、それは神の約束が成就した時でもありました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7-8
(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。



2015.06.22 00:00 | 信仰者シリーズ
     高貴な生き方

今日は、”高貴な生き方”について考えてみました。

”ノブレス・オブリジェ”という言葉があります。これはもともとフランス語ですが、日本語に直訳すれば、『高貴なる義務』という意味です。つまり、王侯貴族のような、富や権力を人よりも多く持っている者は、それだけ人よりも多くの社会的義務と責任があるという考え方で、これは「多く与えられた者からは多く求められる」という聖書の言葉がその土台になっています。

その意味では、驚くばかりの神の愛を与えられたクリスチャンは、どんな人にも王侯貴族以上に社会的義務と責任があると言えるかも知れません。

以下の言葉は、マザー・テレサの有名が言葉ですが、本当に考えさせられる言葉です。ぜひ皆さんも、いつも目に付くところに貼っておかれるといいでしょう。

人は不合理、非論理、利己的です。

気にすることなく、人を愛しなさい。



あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。

気にすることなく、善を行いなさい。



目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。

気にすることなく、やり遂げなさい。



善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。

気にすることなく、善を行い続けなさい。



あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。

気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。



助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。

気にすることなく、助け続けなさい。



あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。


気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。


人を気にせず、状況に左右されず、いつも善を行うということは、なんと高貴な生き方でしょうか。また、いかに良い実を刈り取る人生を生きることになることでしょう。しかし、果たして私たち人間にそんな生き方が可能でしょうか?

使徒パウロは、こう言っています。

「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:11-13)

パウロは、「わたしを強くして下さるキリストによって、どんな境遇に処することもできる」と言っているのです。つまり、このような高貴な生き方は、自分の力によってではなく、キリストの愛に動機づけられて初めてできることだということです。

イエス様は、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とおっしゃいましたが、どんな人に対しても、その人の中にキリストを見出していくこと。この人も神に愛されている人なのだというところに、人に対して常に善を行う根拠と理由があるのだと言えます。


今日の一言: いつも善を心掛けよう


鶴田健次


ブログランキングに参加しています。クリックでのご協力をお願いいたします。

2015.06.20 10:38 | 鶴田健次牧師より

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.