
今日は、”神は夢を与えることであなたの信仰を築き上げようとしておられる”ということを考えました。
「・・・わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、・・・・栄光が世々限りなくあるように、・・・」(エペソ3:20-21)
信仰は筋肉に例えることができます。それは強めることができ、どれだけ使うかによって、強くなったり、弱まったりするからです。 神はどのようにあなたの信仰を築き上げようとされるでしょうか。
神は非常に分かりやすい方法を用いられます。それが解かれば、あなたも信仰を成長させ、神に用いられる器になることができます。
聖書の中に、こんな話があります。ある父親が息子のためにイエス様に助けを求めて、「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください(マルコ9:22b)」と言いました。すると、イエス様は、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる(マルコ9:23)」と答えられました。
このやりとりからも解かるように、神があなたの信仰を築き上げようとされるとき、神はあなたに夢を与えられます。神があなたの人生に働きかけ、あなたにして欲しいこと、また社会に影響を与えるために神がどのようにあなたを用いようとしておられるかを伝えられるとき、神はいつも夢を与えられるのです。
聖書の中には、その事を示すたくさんの例があります。
・ 神はノアに箱舟を造る夢を与えられました。
・ 神はアブラハムに大いなる国民の父となる夢を与えられました。
・ 神はヨセフに神の民を救う指導者になる夢を与えられました。
・ 神はネヘミヤにエルサレムの城壁を築く夢を与えられました。
では、神からの夢はどのようにして分かるのでしょう。もしかしたら、それは神からの夢ではなく、あなたが自分で考えたことかも知れません。そこで、聖書は私たちに、神は「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかた」であると言っています。
つまり、神から与えられた夢なら、それは大き過ぎて、あなた一人では出来ないようなものだということです。もしあなたが一人で出来ることなら、信仰など不要です。なぜなら、それは神から与えられた夢ではないからです。
今、あなたに神が語りかけておられませんか?
神は、あなたの信仰を築き上げられるとき、あなたに夢を与えることから始められるのです。
今日の一言: 神からの夢はあなたの信仰を成長させる
鶴田健次
ブログランキングに参加しています。クリックでの応援を心より感謝いたします。

私の住むラスベガスシリーズも10回目を超えて、11回目を迎えました。今回はラスベガスに住み、私が最も気に入っている事、ラジオから流れるクリスチャンラジオをご紹介します!
ラジオと言えば、車!毎朝の子供達の送り迎えに、仕事に向かうときなどに、そして、家の中でも、家事や仕事の準備している時、そして実は今もこの記事を書いている時も、クリスチャンラジオから流れる賛美歌を聞いています。
ラスベガスでは、SOSラジオ(90.5)と、Kwave(95.5)の二つのクリスチャンステーションがあります。賛美歌の他に、説教メッセージ、リスナーからの質問に牧師先生が答えるコーナーや証しなども流れています。
私はSOSラジオを主に聞いていますが、朝は賛美歌と証し、夜は賛美歌と説教メッセージが流れています。子供達も車に一緒に乗っていたりするので、何気ない証しメッセージに感動している娘を見て、ほのぼのする時もあります。
以前は記事を書く時に、何を書こうかと迷っていた事が多かったのですが、最近では、即、決断力する事が多くなっています。しかも、来週はこれを書こうという余裕も。以前では考えられなかった事なので、間違えなく神様からの後押しの風を感じています。
もちろん、それは賛美歌だけから頂くものではありませんが、その中でもこの賛美歌を聞いている時間は、神様との交わりの特別な時間であり、イエス様に感動し、そこから生きる水を頂く大切な役割を占めていると感じます。
規制がされている国では、公共の電波から賛美やメッセージを聞く事は到底無理な話しで、たくさんの賛美をラジオから聞くことができるのは、本当にアメリカならではの恵みだと思います。
サタンが使いやすい罪の街でもあるラスベガスに住んでいても素晴らしい事は、アンテナをきちんと神様に合わせていれば、神様からのメッセージも確かに届いているという事です。ハレルヤ!主のみなを賛美します。
「わたしの恵みはあなたに十分である。」コリント人への第二の手紙12:9
(LVJCCブログ制作チーム: Sao)
ブログランキングに参加しています。クリックで応援をお願いいたします!

一月のひどく寒い夜、一人の男性が、氷のように冷たいミシガン湖で自殺しようとして、シカゴの街頭をよろめきながら歩いていました。ところが、ある街まできた時に、神が手をさしのべたのである。この男性はその街で、パシフィック・ガーデン・ミッションの戸口から中へ引き入れられたのでした。
ちょうどその時、以前は偽金造りだったハリー・モンローが聖歌隊の指揮をしていました。若い酔っ払いが座席に案内されてくるのを見て、彼は音楽を中断し、「祈りましょう」と言った。「おお、神よ、この気の毒な青年を救ってください」メル・トロッターは、祈りを聞いている間、頭をまっすぐに立てていました。それから、彼はどうにかこうにか、あかしと説教の一部を聞いた。その間中ずっと、彼の頭には、過去の痛々しい思い出が次から次へと浮かんできて、頭がくらくらするほどでした。
彼の父はバーの経営者で、アルコール中毒でした。19歳のとき、彼はお酒を飲み始めました。勝てると思っていた賭博に負け、職を失いました。それから結婚をしましたが、その時、花嫁にむかって「これからは決して酒を飲まないからね」と約束しました。ところが、ある夜、長い道のりを馬車で旅した後、メルは馬をつなごうと馬屋に入った。突然、お酒が飲みたいという悪魔的ともいうべき欲望が、彼のうちにわきあがってきて、そのまま、吹雪の中を出て行き、戻ってきたときは、酔いつぶれているほどでした。
その後、何度もお酒をやめる事を試みましたが、どの場合もうまくいきませんでした。メルは病院に収容され、アルコール依存症の治療を受けました。退院する時、薬をもらいましたが、15分後にはその薬はグラス3杯のウィスキーに変わってしまいました。妻が子供を出産しても、彼の飲酒はやまず、ある時、メルが10日間飲み歩いてのち、家にもどってみると、妻が死んだ男の子を腕に抱いていました。悲しみと自分の家を捨てて顧みなかった罪悪感に打ちひしがれて、自殺する決心をしたのです。
妻は泣きながら幼児を下ろし、ひざまずいて祈った。それから立ち上がって、メルを腕に抱きしめ、その自殺を思いとどまらせたのでした。「これからはぜったに一滴も飲まないよ」と、彼は熱い涙を流しながら、約束しました。ところがである。息子の葬式が済んでから2時間後、メルは千鳥足で家に帰ってきたのです。
こういった暗い過去をすべて背後に残して、メルは自殺するために、ミシガン湖に向かったのです。だが、彼はミシガン湖へは到着しませんでした。なぜなら、ミッションに引き入れられたからです。
そこで彼は監督ハリーが語るのを聞きました。ハリーはどのようにして神が自分を飲酒と偽金造りの生活から救ってくださったかを語ったのです。礼拝の終わりに、ハリーは神を受け入れる者の招きを行いました。彼はメルをまともに見つめて、「イエスはあなたを愛しておられます。今夜、あなたの心にイエスを迎えいれる余地をつくりなさい」と言った。メルはとびあがって前のほうへ進んで行きました。
その後、メルはできるかぎり、ミッションで過ごすようになりました。ときにはギターをひき、ゴスペルを歌いました。時々、彼とハリーはチームを作って、シカゴ地区の諸教会を訪れたりしました。
回心してから3年後に、メルはミシガン州グランドラピッズにあるレスキュー・ミッションの監督に任じられました。彼はそこで40年にわたる実り豊かな働きをしました。その間、彼は1500人を収容できるグランドラピッズのミッションを拠点として、この国の66箇所の支部を始めました。これらの働きはすべて、貧しい人々や社会から捨てられた人々に、キリストを宣べ伝えることを意図したものでした。しかも、これらはみな、ミシガン湖で自殺をしようとしていた一青年が、レスキュー・ミッションにより救い出されたことから始まったのであった。
神のご計画には人間には計り知れないものがあります。
(LVJCCブログ制作チーム:Kao)
ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。

今日は、”愚かさ”ということを考えてみました。
今日は、旧約聖書の伝道の書10章を読み、瞑想しながら、色んな思いを主から頂きました。こうして祈りと御言葉を通して主の無尽蔵の知恵に触れられるということは、何という幸いであり特権でしょうか。
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。」(伝道の書10:1)
ここでは、少しの愚かさが、死んだはえに例えられています。もし一匹のハエが調合した香油の中に落ちて死ねば、悪臭を放ち香油全体を損ねてしまいます。同様に、少しの愚かさと過ちが生涯をかけて築いてきた名誉を一瞬のうちに失わせ、人生を台無しにしてしまうことがあるということです。本当にその通りですね。
主は全世界の人々の営みを見渡し、そのような人生を送る人がいることをご覧になり、このような警告を与えておられるのです。ですから、私たちは小さい愚かさにも陥らないように注意し、油断することなく自らの心を守らなければなりません。そして、もし何か過ちや失敗があっても、早く悔い改めて主に立ち返り、その過ちの悪影響から抜け出さなければならないのです。
「わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ、富める者が卑しい所に座している。わたしはしもべたる者が馬に乗り、君たる者が奴隷のように徒歩であるくのを見た。」(伝道の書10:5-7)
王でなければならない人が奴隷のようになり、富んでいなければならない人が貧しくなり、神が定めておられる権威と秩序が壊れて、あべこべになっている状態をソロモンは嘆いています。
つまり、神が一人ひとりに与えておられる召しを忘れ、自分が召されていないことに心が向いてその働きをすることほど悲惨なものはないということです。
「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。」(伝道の書10:10)
鈍くなった斧の刃をとがなければ、もっと大きな力が必要になります。ですから、熟練の大工はいつもカンナやのこぎりを研いで、使う時に、あまり力を使わなくてもいいようにするのです。
同様に、日ごろ神の知恵を得ようと心掛けておれば、試練の時や決定的な瞬間に、比較的楽に神を喜ばせる信仰生活に戻れるものです。ところが反対に、たとえどんな理由であれ、日ごろ神の知恵を得ることを怠るなら、試練を乗り越えるとき、錆びた斧で木を切るように、大変な苦労をすることになるのです。
「知者の口の言葉は恵みがある、しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。愚者の口の言葉の初めは愚痴である、またその言葉の終りは悪い狂気である。愚者は言葉を多くする、しかし人はだれも後に起ることを知らない。だれがその身の後に起る事を告げることができようか。愚者の労苦はその身を疲れさせる、彼は町にはいる道をさえ知らない。」(伝道の書10:12-15)
ここでは、愚か者の語る言葉の弊害が述べられています。賢い者は、自分の無知、人間の知恵の限界をわきまえて言葉を慎重に選びます。しかし、愚か者は自分の限界もわきまえずに多くを語り、人間の知り得ない将来のことまで知っているかのように弁じたてます。愚か者は、自分の知らないところに従って労するので、その労苦は実を結ばず、ただ自分を疲れさせるだけです。愚か者は、目の前にある目標(町)すら知らないのです。
今日の一言: 小さな愚かさが人生を台無しにする
鶴田健次
ブログランキングに参加しております。下記2つのアイコンのクリックで、応援をお願いいたします。

今年度から、サンデースクールは低学年と高学年の2クラスに分かれました。私Saoは今年度からご奉仕としての召しを頂き、高学年クラスに携わらせて頂いておりますが、つい最近、高学年クラスに目標が与えられました!
与えられたみ言葉は、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)です。
クラスの子供達が目指すものは、平和の象徴であるオリーブの木です。
聖書に出てくるオリーブの木は、イスラエルの特権の祝福という意味です。
神様が罪人である私達にしてくださった憐れみを思うと、ただただ恵みの特権であります。この素晴らしい特権への理解は、子供達の信仰の要になってくる大切な理解です。霊的理解が必要とされる高学年クラスの上のユースクラスに繋がる良い準備期間でもあります。
そしてオリーブの木というのは、どのようなものにも使われ、用いられやすいことで有名です。それと同じように、将来 どのようにも神様に用いられやすい信徒として成長していけるような使徒を育てていけるようなクラスにできたらと思います。
私達のクラスは元気な男の子ばかりですが、いつも笑顔一杯なクラスです。頼もしい使徒として育ってくれる事をイエス様に大いに期待したいと思います!
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
ブログランキングに参加しています。クリックで応援をお願いいたします。