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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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皆様、いかがお過ごしですか?今週はパッションウィーク(受難週)です。イエス・キリストが私達の罪の為に、十字架にかかり、裁きを受けられた日がグッドフライデー(受難日)であり、その3日後の日曜日がイースターサンデー(復活祭)になります。

昨年のグッドフライデーに近くの教会で集会を守りました。主イエス様の流された血、砕かれた身からだを覚え、聖餐の時を持ちました。また、イエス様は罪の為に裁かれ、十字架刑に処されましたが、それは誰の罪のためだったのか?と言う問いかけが会衆に向けられました。その罪は私達、一人一人が持っている罪です。イエス様は私達の身代わりとなり、十字架で命を捧げてくださいました。罪を告白する者は、前にある木の十字架に罪をはり付けてくださいと(具体的には罪を告白した紙)アナウンスがあり、ほとんどの人が十字架の前に頭を垂れ、自分の罪を十字架につけました。

イエス様が十字架にかかって死んだのは、自分の罪のためです。と、神に告白できることは、本当に幸いなことです。自分の罪を認める事は、イエス様を救い主として信じる信仰の入り口に思います。私達、日本人にとって「罪」は犯罪と言う認識が強いと思いますが、しかし、聖書にある罪は、神に背を向けている状態、また、人間は生まれながらに罪の性質を持っていると教えています。

自分には罪があると認めても恐れる必要はありません。この受難日は私達一人一人のためだからです。私達が罪によって裁かれない為に、イエス様が十字架についてくださったのです。もし、自分の罪の為に、今週、自分の処刑が待っているとしたら、いったい私達はどうなるでしょうか?身も心も震え、正気ではいられないかもしれません。イエス様とて、受けたむごい拷問や十字架を担いで歩まれた道は、痛みと屈辱の極限であられたはずです。しかし、それを耐え忍んでくださったのは、私達が裁きを受けない為、たった一つの理由です。また私達が神を知らない時に、イエス様に対して知らん顔をしていた私達。しかし、主はそのようなことには何も心を奪われず、受難(十字架の死)を成し遂げてくださいました。「ここに愛がある」と聖書にありますが、私達はその愛を生まれる前から与えて頂いています。

どうぞ神の愛をこのイースターに受けてください。主は私達の為に死んで蘇ったのです。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6〜8)」

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

2015.03.30 15:09 | 信仰者シリーズ
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今日は、”神の御心を確かめる方法”について考えてみました。
 
ところで皆さんの中に、自分の願いどおりの人生を生きてきたという方がおられるでしょうか。それとも、いろんな事をやってみたが、なかなか自分の思いどおりにはならなかった、という経験をして来られたでしょうか。

あるいは、皆さんの中には、最初は自分の意に反する道だと思えたものが、思いもよらない最良の結果をもたらすものであった、という経験をされた方もおられるかも知れません。

旧約聖書の箴言19章21節に、このような御言葉があります。
 
『人の心には多くの計画がある、しかしただ主の御旨だけが堅く立つ。』(箴言19:21)
 
クリスチャンの誰もが問うことのひとつは、どうすれば神の御心を知ることができるかということです。なぜなら、明日のことも分からない自分の考えより、すべてをご存知である神の御心があらゆる点において優れていることを知っているからです。

皆さんもそうですか? その信仰生涯で5万回も祈りが聞かれた経験をしたジョージ・ミューラーは、神の御心を確かめる方法として次の六つの要素を挙げています。
 
1.あなた自身の意思を神に明け渡す。
問題、課題に対して、自分の意思を持たないということです。多くの場合、私たちは問題解決にしろ、自分の進路にしろ、既に自分の考えを持ち、その道が開かれることに固執しやすいものです。そういう状態では神の御声に耳を傾けることなど不可能です。
 
2.感情に頼らない。
人間は感情の生き物ですから、自分がどう感じるかに大きく左右されます。そして、ほぼ反射的にこの感情に対応しようとする傾向があるので、神の御心など聴くゆとりもないのです。
 
3.聖書の御言葉によって、聖霊の御心を求める。
神の御心を最も具体的に明らかにするものは聖書です。聖書は神の霊感によって書かれたものですから、聖霊は御言葉を通して御心を示されます。
 
4.神の摂理による環境に注意する。
環境は、御言葉や聖霊の導きに関連しながら、神の御心を示すことがしばしばあります。
 
5.祈る。
特に密室の祈りにおける瞑想の祈りは、神の語りかけを聞く良い機会です。
 
6.待つ。
祈りと御言葉と黙想によって、自分の能力と知識の及ぶかぎり、慎重な判断を下します。その結果、心に平安が与えられ、その上でさらに祈り、なお平安が持続するなら、その判断に従って行動に移るといいでしょう。
 
今日の一言: ただ主の御旨だけが堅く立つ。
 

 鶴田健次


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2015.03.28 09:07 | 鶴田健次牧師より
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日本に戻り、一番びっくりすることは、食べ物です。日本はオーガニックの製品が非常に少ないということ、そしてあったとしても、びっくりするくらい高い値段なのです。

パスタにアーティチョークを買おうと思い、スーパーに行っても、アメリカとは比べ物にならないほどの小さい瓶詰めのもので、1500円くらいした覚えがあり、その値段の高さに仰天し、購入を躊躇ったことがありました。アメリカは、オーガニックでも庶民でも手の届く値段設定であり、少し家計を切り詰めれば、購入は可能です。

そして、とても残念に思うのは、日本の食べ物に対しての認識の弱さです。食品表示が詰めが甘く、食物アレルギーをもつ人にとって、安心して食べ物を取ることが先進国の中でも難しい国と言う印象なのです。これは、日本の方は食物アレルギーになる方が少ないということなのでしょうか?

食物アレルギーは、人の命を奪いかねないほどの恐れがあるものです。私の息子も15の食物アレルギーが見つかりました。この世界のテクノロジーが進むに連れ、病気も増えますが、そのテクノロジーのおかげで、何のアレルギーがあるのか知ることができることは、幸福な事です。

その分アメリカは、アレルギーに対してとても敏感な国なので、レストラン一つでも、全皿何が入っているかは承知済みであり、スーパーで売っているものも、細かく材料詳細を記載しているものばかりです。それは、何の他でもなく、生死の問題を背負う食物アレルギーがある人の為なのです。

幸福なことに、私達人間は何を食べても自由です。私自身もアレルギーになることもなく、33年健康に生活してくることができました。アレルギーを持った息子も、癒されたとしても否としても、神様に何かしら使命があるのであれば、それはとても光栄な事です。神様から、あなたはわたしの子供、わたしによって何事もできる、と、焼き印を押されたのです。

神様の栄光が輝きますように。

(LVJCCブログ制作チーム: Sao)

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2015.03.25 17:16 | 証し
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数年前のブログで掲載した祈りの人ジョージ・ミュラーをご紹介させて頂きます。ミュラーの自身の証にもありますように、祈り(神様に頼る)事だけで、孤児院の運営をされました。そのことからもどれほどミュラーが祈りの力を信じていたかわかりますが、ミュラーは祈りの前に必ずある事をしていました。それは、「「神の子たちが毎日しなければならない第一の事は、内なる人のために糧を得に行くことです。」と明言されています。

ジョージミュラーという名前を聞けば ‘5万回の祈りの回答’‘イギリス孤児の父’という言葉を思い浮かべます。ミュラーは不遇だった幼い時代を乗り越え、信仰の道に入り、25歳の時には瀕死の重病から救われ、44歳の時に最初の孤児院を設立し、生涯の中で祈りだけで孤児院を5つ建てるという偉業をなし遂げました。

ミュラーが最初の孤児院を設立した3年前に、イギリス・ブリストルでギデオン・チャペルの牧師となりました。ミュラーは、その地で孤児たちが収容されていた救貧院の実情を目撃して孤児院を設立するようになったのです。ある日、物乞いの5歳の女の子が弟を背負っている姿を見ました。女の子はイギリスを襲ったコレラで母親を亡くしていました。父親は鉱山から帰ってきていません。ミュラーは泥にまみれた通りに立っていた女の子からイギリスの孤児の現状を知らされる思いでした。しかし、孤児院を建てると言うあまりにも大きな神様のご計画の前に、前進できずにいたミューラーでしたが、この祈りをもってミュラーは信仰の応答をしています。

「神様、私が孤児院をしたいのは偶然な事ではなく、神様が親しく私の心に与えた願いであることを信じます。私はただあなたの種として働くだけです。」

ミュラーの態度に感銘受けた人々は、孤児院運営財源を用意するためにバザーを開いて募金運動をしようと提案しました。しかし、ミュラーはこれを断わりました。ミュラーははじめから最後まで、支援してくれる人々の送金と献品で孤児院を運営するということが彼の祈りだったからです。

孤児院が立てられた後、難しいことはずっとありました。最後の残った小麦粉でパンを作って夕方の食卓を整えながら、次の日の朝のために祈らなければならない日々が繰り返されましたが、ミュラーは絶え間ない祈りによって、孤児院に必要なすべてのものを切に求めました。ミュラーがが祈った物品と食べ物は、いつも間違いなく供給されたので、時には神を信じていない人々までも彼の孤児院を助ける事を進んでされました。

ミューラーの祈りとはどのようなもだったのでしょうか?ミュラーは次のように言いました。

「毎朝早くわたしは新約聖書を黙想し始めました。わたしが数句の言葉で、主の尊い御言葉における主の祝福を求めて祈った後、わたしが最初に行なうことは、神の言葉を黙想することでした。聖書の各節を尋ね求め、その中から祝福を得ました。それは、公衆の面前でメッセージをするためではなく、またわたしが黙想した言葉について語るためでもありません。それはわたし自身の魂に糧を得させるためです。その結果起こることとして、数分後にわたしは罪を告白したり、感謝したり、あるいはとりなしの祈りをしたり、懇願するようになります」

「罪を告白したり、とりなしの祈りをしたり、懇願したり、感謝したりする時間を経て、わたしは再び次の句、あるいは次の節を読みます。読んでから、もし導きがあれば、わたし自身のために、あるいは他の人のために祈ります。しかしながら、相変わらずわたしの黙想の目的は、自分の魂が糧を得るためであることを覚えておきます。そのようにした結果、わたしの内なる人は常に養いと力を感じることができます。朝食の時には、ほとんど例外なく、わたしの心の状態は、喜びがあるか、少なくとも平安がありました」

「神の子たちが毎日しなければならない第一の事は、内なる人のために糧を得に行くことです。わたしたちの外なる人が食べずに働くことができないのと同様に、毎朝わたしたちの内なる人も糧が必要です。だれでも内なる人に食べさせるべきであることを認めなければなりません。それでは、内なる人の糧とは何でしょうか? 祈ることではなく、神の言葉です。これはただ単に神の言葉を読んで、水が水道管を流れるように、その言葉がわたしたちの思いを通過するだけのようであってはいけません。読んだ言葉を黙想し、それをわたしたちの心の中に適用しなければなりません。ですから、わたしたちは神の祝福の中で黙想すべきです。たとえわたしたちが霊的な面でずっと弱くてもです。わたしたちは弱ければ弱いほど、黙想によって内なる人を増強させる必要があります。神の祝福によって、この方法を通して、神から来る力と助けを得れば、どんなに深い試練をも平安のうちに経過できるでしょう」。

「朝早く魂が養いと喜びを得る人と、霊的な準備なしに日中働き、試練、誘惑に出遭う人とでは、何という相違があることでしょう!」

ミュラーはこのようにして孤児院を運営した 65年間の瞬間瞬間、奇跡的な神様の供給を体験しました。彼は、神様は求める者に一番善良なことをしてくださるという事実を疑うことなく信じ、その信頼は常に事実に証明されました。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2015.03.23 13:18 | お知らせ
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今日は、”自分を変える”ということについて考えてみました。

あなたは自分を変えようと試みたことがありますか?
その結果はどうでしたか?
自分を変えるのは簡単ではないと思いませんか?

自分を変える一番良い方法は、自分の古い生活習慣を捨て、イエス・キリストの生き方を新しい習慣として取り入れることです。これがどんな自分の努力よりも効果のある方法です。エペソ書4:22-24にこう書いてあります。



「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」



神は、私たちを即座に変えることもお出来になりますが、ゆっくり私たちを開発する方法を選んでおられます。イエス様は、ちょうど神がイスラエルの民に『約束の地』を“少しずつ”占領させていかれた(申命記7:22)ように、弟子たちの訓練においても慎重でした。神は私たちの人生にも段階を追って働かれることを好まれるのです。



では、なぜ私たちが変わり、成長するのに、そんなに時間が掛かるのでしょうか。4つの理由を考えてみました。



① 私たちはゆっくりとしか学べない者だからです。
私たちは、問題の原因をすぐに他人のせい、また状況のせいにしてしまうので、同じ問題を繰り返す傾向があります。私たちは、何かをちゃんと身につけるには、何十回も一つのレッスンを学び直さなければなりません。その中で、本当の問題が何であるかを学ぶのです。イスラエルの歴史は、私たちが如何に神からのレッスンを忘れてしまい、すぐにまた古い行動パターンに逆戻りしてしまうかを例証するものです。私たちは何度も同じ経験をしなければ学べない者なのです。

 

② 私たちに捨て去るべきものがたくさんあるからです。
多くの人がカウンセラーのもとに行き、長年に渡って生じた内面の問題をすぐに直してもらおうと期待しますが、実際には、それが直るには時間がかかります。私たちの問題のほとんどは、また悪い習慣のすべては、一夜にして身に付いたわけではないので、即座に改善されるものではないのです。悪い習慣を取り除き、良い習慣と入れ替えるためには骨の折れる取り組みが必要になります。聖書はこれを、「古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分を着ること」と呼びます。たとえ私たちが信仰によって新しくされても、取り除かれ、入れ替えられるべき古い習慣や行動パターンが私たちの中にまだたくさん残っているのです。 



③ 成長は、しばしば痛みと恐れが伴うものだからです。
変化のない成長などありませんし、恐れと損失のない変化もありません。また、痛みのない損失もありません。すべての変化は、ある種の損失を伴うものです。私たちは、新しいものを経験するために古いものを手放さなければなりません。しかし、私たちはこれらの損失を恐れるのです。たとえ私たちの古い習慣が自分に害をもたらすものであっても、それらは擦り減った靴のように、少なくとも馴染み深い快適さがあるので替え難いのです。

 

④ 良い習慣は、身に付けるのに時間がかかるからです。
私たちの性格は、すべての習慣の総和であるということを知る必要があります。私たちは習慣的に親切でなければ自分を親切だとは言えません。私たちはいつも正直でなければ自分を誠実とは呼べません。私たちの習慣は、私たちの性格を定義するのです。 
 


自分を変えるということは、今までとは違う新しい習慣を身に付けるということです。新しい習慣を身に付けるには一つの方法しかありません。それは、その習慣を実践し続けることで、その習慣が借り物ではなく自分のものになるということです。それには時間がかかります。即座に身に付く習慣はありません。その事で、パウロは弟子のテモテにこう言っています。「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい」(1テモテ4:15)

今日の一言: 新しい習慣を身につけよう




鶴田健次


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2015.03.23 12:53 | 鶴田健次牧師より

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