
今日は、”素晴らしい人体”のことを考えてみました。
私たち人間の体は、まさに”神の最高傑作”と言われるにふさわしく、その構造と機能は想像を超える驚きの世界です。人間は生きた細胞の集団で、その数は60兆個と言われています。しかもその中の20%に当たる15兆個の細胞が毎日死に、また日々新しく生まれる15兆個の細胞がこれを補います。
細胞の中でも、腸管粘膜細胞は1~2日で死んで新しい細胞に生まれ変わりますが、脳細胞は3歳頃まで増殖し、その後は全く増えず生き続け(10代からは減少するのみ)、人間を支える硬い骨の細胞は数ヶ月で全部新しく置き換わるそうです。
そういう訳で、1秒間に約5000万個の細胞が絶えず生まれ変わっているそうです。同じ細胞で一番多いのは赤血球(寿命約120日)です。これは1秒間に200万個以上作らないと間に合いません。
1個の細胞の大きさは1ミクロン(1000分の1ミリ)で、1センチ四方の広さの皮膚は約100万個の細胞があり、その1個の細胞の中には1メートルの長さにもなるDNAに膨大な量の遺伝子情報が含まれているというのですから驚きです。
またさらに驚くことは、血液の赤い色のもととなる赤血球の数です。60兆個の体細胞とは別に、たとえば体重60kgの人で約23兆個の赤血球が必要です。赤血球はわずか1ミリの中に約500万個、1ccで5億個、60kgの人の場合、その体重の13分の1が血液の量ですから約4600cc、つまり23兆個というわけです。また赤血球の寿命は120日ほどなので、なんと1秒間に200万個が骨髄で製造されていることになるのです。
さらに体中に張り巡らされている血管は、大動脈という太い血管から髪の毛よりも細い毛細血管に至るまで、そのすべてをつなぐと何と10万kmになるそうです。これは地球を二周半する長さに相当します。そしてこの中にある血液を休みなく体中に送り続ける、わずか握りこぷの大きさの心臓は毎日10万回もの拍動を操り返しています。
病気で最も多いのが血管に関するもので、特に心臓や脳ではこの血管の病的変化は重大です。血圧が130mmとかいうのは水銀を利用しての数値です。これは血管を切ると血液が約1メートル30センチの高さに噴き出ることを意味します。最高血圧150-最低血圧90以上を高血圧症と世界的に決められています。
また血液には免疫システムがあります。これは最近のハイテク技術をどんなに駆使しても絶対に人工的には真似できないものです。免疫とは、様々な病気から免れる仕組みのことで、自分は全く気がつかずに生活している間に昼夜兼行で頑張っている細胞たち、それは血液成分の赤血球とは別の細胞グループである白血球の大活躍によるものです。
なにしろ100万種類以上といわれる外敵(細菌・ウイルス・有害物質など)が体に触れたり侵入してくると、細菌と認識した場合には白血球が直ちに動員され細菌を殺し、自分も死んで膿になります。
ある種の病気で生涯免疫の出来る麻疹、風疹ではそのウィルスたちが年中まわりをうろついていて人間の中に侵入しようと狙っていますが、直ちにリンパ球が抗体を産生し、絶対に相手を間違えずに攻撃し、24時間体制で防衝し続けています。
この白血球の数は、赤血球の数の約1000分の1で、1ミリ立方に7-8000個ですが、その構造は極めて高度です。また8種類のリンパ球を含む白血球がお互いに協力しあい、懸命に外敵から一時も休まずに頑張っています。
最後に、脳と神経のことを少しお伝えしたいと思いますが、生後間もなく細胞分裂を終了した140億個とも言われる脳細胞は、20才前後から毎日10ー20万個ほど消失していくそうです。また、神経繊維では、―番太い座骨神経(約100万本の神経繊維)から、片手には約1700本の神経織推があると言われていますが、全部つなぐと100万kmにもなるそうです、これは地球を25周する長さです。
僅かこれだけ考えただけで、人間の体、いや人間そのものの偉大さを感じずにはいられません。さらには、脳の働きや遺伝子の働き、知性・感情・意志から成る人格性、いかなる動物にも見られない霊性などの機能を考えると、神の最高傑作としての人間の計り知れない価値を認めざるを得ません。
今日の一言: 人間は万物の霊長
鶴田健次
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アメリカに来て驚いたことの一つに、成績表があります。
日本では、1から5の5段階評価ですが、アメリカでは、ABCDFで、それぞれ、AはAでも、A+とAとA-の3段階に別れているので、合計13評価です。通常、合格はABC-までで、D+からは不合格となります。
スペリングテストから各教科のプロジェクトやエッセイに学期末テスト、そして全ての宿題に成績がつけられ、総合でその学期の教科の成績が決まります。
学期末のプロジェクトで著名人を一人選び、調べあげて書き上げたエッセイの評価がA+を取った時の喜びは一入(ひとしお)です。
私もブログを書いている時や賛美などのご奉仕をしている時に、自分のご奉仕に、もし成績表をつけられていたら。。。と、よく想像する時があります。自分で良くかけたなと思う記事などはやはり評価が気になりますし、A+を取れるような記事を常に目指しています。
ただ、評価を気にすることが私の毎回の霊的戦いになってきました。やはりご奉仕に関しては、技術以上に霊的な作業を必要とすることに気づき、神のみ前に行く前に悔い改めをするかしないかで、全くご奉仕の内容が違ってくることに気づきました。結果も大切ですが、過程の方が重要なのです。
良い結果以外はあまり喜ばれないこの世の中ですが、私達をお造りになった神様は違います。一人一人の辛さ、弱さ、環境を全てご存知であり、私達を愛してくださっています。だって、ひとりひとりが神さまの最高傑作なのですから。
(LVJCCブログ制作チーム: Sao)
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(向かって右が岡本選手)
シドニーオリンピック・テコンドー銅メダリスト・岡本依子さん。厳しいアスリートの世界に生きる中で信仰を持った岡本さんの証をお送りします。
韓国の国技、テコンドー。 テコンドーというスポーツを日本で有名にしたのはこの人岡本依子さんだ。2000年のシドニーオリンピック銅メダリストで、続くアテネ、北京と、オリンピック3大会連続出場を果たした、日本テコンドー界の功労者だ。北京以後「これからテコンドー道場を1000か所作りたい」と、新たな夢を掲げて前進し始めた。06年に韓国で信仰をもって以来、もっと神様のことを知りたいと、神学の学びにも積極的に取り組もうとしている。
練習拠点にしていた韓国で、岡本さんはイエス・キリストと出会った。きっかけは2年前のクリスマス、テコンドーのコーチでクリスチャのイ・ジェイソンさんに誘われて、教会のクリスマス劇を見に行ったことから。初めて訪ねたブンダン市のビジョン・コミュニティー・チャーチ(イム・チャンピョ牧師)。190センチもある大男のコーチが一生懸命神様役を務めていた。笑いそうになったが、すぐに芝居に引き込まれた。初めて知ったキリストの生涯に感動した。「イエス様めっちゃいい人だ!」今度は涙が止まらなくなった。礼拝後にイム牧師に導かれた。「十字架の上で私のことを見てくれている」キリストを、理屈抜きで信じることができた。
もととも宗教には興味があった。母に連れられて修験道の山に登ったこともある。宇宙的な神の存在は意識していたが、キリストは外国の神だと思っていた。でも、憧れはあった。「お祈りするっていいな」と、子どもの頃小さい手を組んで祈ったこともある。中学生の頃はシスターや尼僧のように、神に仕える姿に憧れた。精神的な世界にいつも心惹かれていた。
関西の仏教系の進学校である四天王寺高校から、早稲田大学の人間科学部スポーツ科学科へ進んだ。中学生の頃から空手をしていた運動好きだ。「『道』がつく日本のスポーツが好きです。『道』がつかないのって蹴鞠くらい? 空手は心と体がひとつになる精神世界をもっているところに魅力がありました」将来の目標を決めたくて、アメリカのオレゴン大学に留学した。そこで出合ったのがテコンドーだ。「I CAN DO ITアイ・キャン・ドゥー・イット」の精神で、老若男女が生き生きと練習している姿に魅了された。「年齢なんか関係なく、できると思ったらできるんだというマスターのことばにすごく幸せな気持ちになりました」「アイ・キャン・ドゥー・イット」に励まされて世界チャンピオンを目指し、みるみるうちに世界3位にまで到達した。練習が大好きで、運動選手の生活そのものが好きだった。
16年の選手生活から、今新しい目標を目指す。日本を拠点に千か所のテコンドー道場を開きたい。そこは、強い人が弱い人を助ける、みんなが幸せな気持ちになれる道場だ。「価値を生産性で考える世の中。年寄りや弱い人は無価値と考えてるような住みにくい社会です。若者や子どもだけではなく、いろんな人が夢を持てる世の中になれば…」
テコンドー道場は、そんな岡本さんの夢を形にする場所となるはずだ。信仰はそのための揺るぎない礎になる。 「自分の人生が伝道になりたい」う祈る岡本さんは、神学の勉強にも興味をもっている。09年からは大阪・門真市の自宅で礼拝も始める予定だ。「まずは一人でもやる。礼拝しよう!」そう決めた時から神様は助けてくれると確信している。「これまでもずっとそうだったのだ」と、信仰をもって分かった。「体育会系の行動派」を自認する才媛の新たな挑戦が始まった。(クリスチャン新聞より)
(ブログ制作チーム:Kao)
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今日は、”恵み”について考えてみました。
”恵み”という言葉は、たとえば「自然の恵み」というふうに、「恩恵」という意味で使われますが、キリスト教では、原罪を持つ私たちにただ信仰によって与えられる神の愛による罪の赦しと救いのことを”恵み”と言います。つまり、愛される資格のない者が愛されること、赦される資格のない者が赦されること、これが”恵み”です。
殺人の罪を犯して終身刑の判決を受けるとしたら、それはこの世の人生を棒に振る絶望的なことです。しかし、私たちの中にある原罪という罪の問題を解決しないで永遠のさばきを受けることは、終身刑どころの絶望ではありません。
そんな絶望の中にいた私たちが、救い主イエス・キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠のさばきではなく永遠の命の世界に生きる者とされるというのは、私たちにとってあまりにも分の良すぎる話だと言えます。ところが、この分の良すぎる話がどんなに有難い話であるかは、神が払われた犠牲の大きさを知らずには理解できないことです。
ある病院の待合室に二組の家族の姿がありました。また、そこには何とも言えない張りつめた空気が漂っていました。一つ目の家族は、二十歳前後の若者たち4、5人とその母親。若者たちは、革ジャンを着て、髪の毛を染め、顔のあちこちにピアスをし、どことなく荒々しい感じでした。
待合室の隅のほうには、一人の警官が立っていて、彼らを監視しながらレポートを書いていました。明らかに何かの事件が起こった事が判ります。
部屋の反対側の方には、どことなく品の良い男性が、医者が着る白いガウンを着て、妻と娘と一緒に座っていました。彼らの顔は暗く沈み、目を赤くして、深い悲しみの中にあるようでした。そこに一人の女性記者がいて、何やら特ダネになりそうなことをその男性から聞いて、メモを取っていました。
一つ目の家族の若者たちは、「ゲシュタポ」と呼ばれるギャングの一味でした。彼らの中には一つの慣わしがあり、新しいメンバーになるには、走る車の中から誰かをピストルで撃って殺し、“男”であることを証明しなければなりませんでした。
その「ゲシュタポ」のメンバーである兄弟たちの一番下の弟はリックという名で、心臓病にかかって死にそうでした。心臓移植だけが命を取り留める方法でしたが、彼らには保険がありませんでした。心臓病の手術代は国の福祉のほうで支払われる予定でしたが、かなりの高額になる医者代は自分たちで払わなければなりませんでした。
しかも、心臓の提供者がまだ見つからず、彼は助かる見込みがほとんどありませんでした。しかし、その日の夕方になって、突然、心臓の提供が可能になったということで病院に呼び出されたのです。
一方、その男性医師は有名な心臓病の専門医でした。彼は、心臓移植のために病院に呼ばれ、病院に駆け込んで来て初めて、死んだばかりの心臓提供者が自分の息子であることが分かりました。しかも、これが新聞記者にとって特ダネとしての価値があったのは、心臓を提供する相手が、この男性医師の息子を殺したギャングの弟だったからです。
そこで問題は、この一部始終が分かった今、この男性医師が自分の息子の心臓を、息子を殺した犯人の弟に提供するかどうかということでした。この医師と彼の家族はクリスチャンで、このいきさつが分かってしばらく病院のチャペルで祈っていました。もし彼が息子の心臓をこのギャングに与えるとしたら、手術も引き受けるのだろうかということも大きな疑問でした。一体、この世のどこに自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の兄弟に与える者がいるか。また誰がその父親にその移植手術を頼むことができるか。
待合室の緊張はどんどん高まってきました。もしその医師が息子の心臓をそのギャングに与え、手術をしたとしても、彼らには高額の医者代を払うことができません。
待合室の緊張が頂点に達した時、その男性医師は、死にそうになっているギャングの母親を自分の方に呼びました。部屋中のすべての人が彼の方を注目します。そこで彼はこう言いました。「私が手術を致しましょう。息子の心臓をあなたの息子さんに提供します。そして、医者代は要りません。神様も私に同じ事をして下さいましたから。」
待合室に歓声がわきあがりました。彼らは大声で「リックに新しい心臓が与えられた。しかもタダでだ。おい信じられるか。タダでだぜ!」 その医師は、そこにかがみ込んで泣きました。
そこで、警察官が大喜びをしているギャング達に向かって、「おい、君たち、確かに君たちにはタダであっても、彼にはタダなんかじゃない』と言いました。彼にとっては息子の命という大きな代価が払われたのです。しかも彼は、その息子の心臓を息子の命を奪った者に与えたのです。なぜ彼はそこまでの事をしたのでしょうか?
”恵み”というのは、こういう事を言うのです。神が下さる本当の恵みの意味を理解するためには、恵みは確かにタダで受け取るプレゼントであっても、そのために『計り知れない神の犠牲』があったということを知る必要があります。
神は、無情な人々に大切な御子イエス・キリストの命を奪われてしまいました。そして神は、いわば高価で罪も汚れもないその心臓を、キリストを殺した者たちの魂に移植されたのです。だから、この偉大な医師である神が、この移植を可能にするために、どれ程までの代価を支払われたのかが分からなければ、私たちは神の恵みの本当の意味を理解できないのです。
今日の一言: 計り知れない犠牲がもたらした恵み
鶴田健次
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ラスベガスは砂漠の街であることは度々書いてきましたが、ラスベガスは春夏秋冬の季節も訪れる街でもあります。
ただ、40度を超える夏が最も長く、短めではありますがとても過ごしやすい春と秋は、天気も良いラスベガスでは、オフィスで過ごすのはもったいないほど 最高なアウトドア日和な時期です。
東京とラスベガス、気温を毎日チェックしていますが、私の記憶の中では東京の方が寒いイメージです。コタツのある部屋を一歩出れば、寒くて仕方が無い。実際に気温は、冬は東京とそんな変わらず、一年に数回雪もぱらつく程度ですが、夏は過酷で冷房が壊れると熱中症になり生死をさまようくらい悪化してしまうほど、ラスベガスで生活するためには冷房がとても大切になってきます。
地域によって冷暖房機能が設けられているかどうかは、建てられている家の場所によって違ってきます。ラスベガスは冷暖房完備つきの家が普通ですが、私が以前住んでいたサンディエゴは冷暖房はついていませんでした。
冷暖房は一つあれば、家中の気温をコントロールするので、一階の家は一つの温度設定で、二階建て家は一階と二階に分けて温度設定が可能と言うものが通常です。最近できている三階建ての家は、一・二階は、共有で、一番上の三階はまた別に温度設定が要されると聞きました。
別な温度設定、家の広さなどで光熱費もかかってきますし、冬の間でも温度設定を高くしておくと家の中でも、タンクトップで過ごすということもできますし、低く温度設定をして、家の中でジャケットを着て過ごすこともできます。ラスベガスで一つしかない、ガス会社と電気会社も年々 温暖化と共に料金が上昇してきています。
ラスベガスといえば夏の冷房の方が重宝しますが、一年の半分を雪で覆われる北国地方は、室内で過ごす日が殆どなので、暖房設備がとても充実しているようです。
室内温度は快適で、外での生活が十分ではない分、何でも揃っているということを聞きます。その地域で育った人たちの昔からの知恵が今でも生きており、それが代々伝わっているのでしょうね。雪国に住んだ事の無い私にしてみれば、実に不思議な話です。
寒い寒いと大人が嘆くラスベガスでも、子供達は世界共通なのでしょうか。今年の冬も半袖で登校してくる元気な子供達もよくみました。
もうすぐ春ですね。花の蕾が咲く時期になりました。道端の一輪の花に目を留めて、神を思い、一日の始まりにするのも素敵ですね。
(LVJCCブログ制作チーム: Sao)
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