
12月30日(火)、夕方5時半よりラスベガス日本人教会にて、毎年恒例の望年祈祷会が催されました。
暖かいお蕎麦に、天ぷらなどの脇役たちが光り、今年もお腹も心も満腹になる年越し蕎麦を頂きました。
交わりと美味しいお蕎麦でお腹を満たした後は、礼拝堂に集い、神様に賛美を捧げました。
それから、一人づつの今年を振り返り見た2014年を分かち合いました。
今年のラスベガス教会は、新年会、イースター、感謝祭、クリスマス、そして年納めの祈祷会と数々の催しに恵まれ、その度に共に集い、神さまを真ん中にして囲んだ年でありました。
お一人お一人の2014年のお証は、教会の足跡です。私たちが苦しみ、そして喜んだ経験を通して働かれた神様の軌跡を共に分かち合えた事を感謝でした。
来る2015年も神様と共に歩む教会でありますように心よりお祈りしております。皆様も良い年越しをお過ごしください。
(ブログ作成チーム:Sao)
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日本で収容所生活をくぐり抜けた方の一人にメーベル・フランシスと言う女性宣教師がおられました。彼女が29歳で独身宣教師として日本に来たのは、明治42年の事でした。32年間に渡りキリストの福音を述べ伝え、大正時代に入ると弟のトーマス、妹のアンも働きに加わりました。その結果、キリストの教会が一つもなかった広島と四国の町々に20もの教会が誕生しました。日本の牧師も育ち、祝福されていました。しかし日中戦争勃発と共に、弟トーマスは警察から圧迫を受けるようになり、ついに一切の伝道活動ができず、アメリカに帰国せざるをえなくなりました。
しかし、メーベルと妹のアンは『神はこの日本を深く愛している』と確信し、日本にとどまる決心をしていました。アメリカ大使館からは帰国勧告が出ていました。母国の友人達も帰ってこれるうちに帰れと言いました。そのような中、1941年12月8日ついに日米戦争が勃発し、その翌日、警察官が来ました。そしてメーベルにこう言いました。『あなたは自分がもはや敵国人である事を承知していますか?』、と聞かれ、戦争妨害をしない誓約書を書かされ、訪問者全員の名前の提出を求められ、自宅軟禁の状態に置かれました。しかし、彼女の生活は全く変わらなかったと言われます。毎朝4時に起き、身支度をした後はベッドの傍らにひざまずき、聖書を読み、6時からの祈り会に出ました。一歩家の外に出ると、鬼畜米のスローガンが踊っています。ただ彼女は家に訪ねてくる人の信仰を励まし、祈りました。
その頃メーベルの家には当時だれもが恐れる結核患者が3人も引き取られ、メーベルの看病を受けていました。患者の一人長野ちよこは、ある日のことメーベルに尋ねました。『メーベルさんは死が怖くないんですか?』、長野さんはこんな非常時にいつもと変わらない平静を持ち、聖書を読み、賛美歌を歌っていられるメーベルが不思議でならなかったのです。『メーベルさん、もし今日、死ぬと宣告されたらどう思いますか?』、廊下で立ち止まったメーベルは両手を挙げ、いつものように微笑みながらこう答えたそうです。『喜んでイエス様の御元に参ります。でも、使命のある間は生かされるんですよ人間と言うのは』
メーベルこう信じていました。『私たちの目に見える世界は、私たちをおじけさすもの、不安にさせるもの、疑り深くさせるもので満ちています。しかし、その世界の背後に恵み深い神の支配がある。見かけ上の支配者は暴力的な権力者や、冷酷な独裁者かもしれない。でも、本当の支配者は愛と配慮に満ちた神であって、その配慮はあまりにも遠大なので、すぐには理解できないこともある。どんなに凄まじい雨雲の上にも太陽が輝いているように、人生にたれこめる暗闇のすぐ後ろに、明るくあたたかい神の支配があるという事を信じたのです。』
どうしてもアメリカに帰ろうとしないメーベルはとうとう、四国から東京の収容所に移されました。東京に移された後で、帰国の為の最後のチャンスが訪れます。汽船で本国帰還ができることになったのです。90名近いカソリックの修道女や70名近いプロテスタントの女性宣教師の大部分がこれを機会に帰国しました。日本にいても収容所の中では日本人と面会できなかったからです。ところがメーベルはこの最後の機会をも断ってしまうのです。みずから機会を捨てた時、やはりなんとも言えない寂しさがこみ上げてきたそうです。ところが、自分の生涯が神の御手に握られていると思うと、心に平安がさっと回復したと言っています
。ところで、ここまでしてメーベルが日本にとどまりたいと願った理由はなんでしょう。大使館の勧告を拒み、本国の友人達の勧めを拒否し、収容所生活の中で日本人に会うこともできない状況になっても日本に踏みとどまろうとしたのは、何故でしょう。それはただ神が愛する日本人と一緒にいたいという思いからでした。メーベルの心は日本人と一体となっていました。日本人の上に降りかかる運命を自分も一緒に引き受けようと、心に決めていたのです。そして何より自分はこの日本に、人間の命令で住んでいるのではなく、全ての支配者である神の命令で住んでいる。その方が出て行きなさいとおっしゃるまでは出て行くべきではない。たとえ殺されても、と考えていました。
やがて終戦を迎え、焼け残った宣教師館に宮内庁から特別な使者が送られてきて、皇后陛下が、戦時中に抑留生活を送った女性宣教師達をお茶に招いて、労をねぎらいたいと言う招きのお知らせでした。メーベルはその招かれた席でも、陛下に対して神の救いをまっすぐに語ったと言われています。神の救いとはなんでしょう。それは私たちを罪と死から解放するために、神が用意してくださったイエス・キリストのことです。キリストは私たちの罪を責めるためではなく、私たちの罪のために身代わりに責められるために十字架にかかってくださいました。そして、私たちの罪を赦してあまりある償いをご自分の命で償ってくださったのです。そして、あの十字架の上で息を引き取り、墓に葬られ、3日目によみがえってくださった救い主なのです。
日本にキリスト教と関係のない方は沢山おられると思います。しかし、罪と関係のない方は一人もおられないと思います。
イエス・キリストは全ての人に必要な永遠の赦しをもたらす方なのです。どうぞあなたの為に天からくだり、十字架につき、死からよみがえったキリストを信じてください。(聖書と福音より)
(LVJCCブログ制作チーム:Kao)
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今日は、”人生に対する新しい解釈”ということを考えてみました。
イエス・キリストの誕生は、一言で言えば、この世を大きく二つに分けた出来事であったと言えます。それは、この世の歴史を紀元前と紀元後に分けただけではなく、暗黒の世界に光を、絶望の世界に希望をもたらした出来事だったのです。
また同時に、それは私たち個人の人生をも二つに分ける出来事でした。つまり、罪のために永遠の裁きを余儀なくされていたすべての人類に、キリストを信じる信仰によって、永遠の命の恵みが与えられることとされたのです。
さらにまた、キリストにある人生は、この問題だらけの世界に住みながら、永遠の世界に生きる者としての新しい視点、物事に対する新しい解釈が与えられるのです。
パウロは、ある時、非常に素晴らしい神秘的な体験をします。それは神から天国を見せてもらうという体験でした。その体験はあまりにも特別な体験なので、彼が思い上がることのないように、神は彼の体に一つのとげを与えられました。
そのとげは、ある種類の病気で、伝道者パウロにとっては致命的な病気でした。そこで彼は必死になって、この病気が癒されるようにと祈りました。しかしその病気は直りませんでした。パウロには「癒しの賜物」が与えられていて、彼が祈ると他の人の病気がどんどん癒されたのですが、彼自身の病気は直らなかったのです。
ところが、その時、彼は神の声を聞きます。それは、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力はあなたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という語りかけでした。
そこでパウロは、目からうろこが落ちる経験をするのです。
「もし私に何の問題もなく、私が強ければ、私は自分の力だけに頼って、自分の力だけで生きていくことになっていた。それでは、私に出来ることしか出来ないことになる。しかし、この病気のおかげで、私も弱い人間の一人であり、神の恵みと助けを祈り求める者とされている。だから神が私を助けて、私には出来ない筈の大きな働きをこうしてさせてらっしゃるのだ。であれば、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の病気、自分の弱さを誇ろう。たとえどんな困難や行き詰まりがあっても、それに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからだ。」
そういう気付きが与えられ、本当の強さはそこにあるのだということを悟ることができたのです。
星野富弘さんの詩に「つばき」という詩があります。こんな詩です。
木は自分で動きまわることができない 神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、
許された高さまで、一生懸命伸びようとしている そんな木を、私は友達のように思っている
これはきっと、ご自分のことと重ね合わせて歌ってらっしゃる詩だと思います。身動きもできない体になって、そこで初めて神の愛に気付き、神の愛の招きを受け入れることができた。頼りにならない自分の力で生きていたときには、人生の意味も目的も何も考えずに、ただ生きていただけだった。
ところが、首から下が全く動かなくなって初めて、もはや自分に頼れなくなって初めて、神の手の中に自分を預けてみた。すると、こんな体にならなければ見えない世界が見えてきて、ただそれを詩に表わすことによって、何百万人もの人々に力と勇気と励ましを与えられる生き方ができている。そして、来るべき時が来たら、この不自由な体から解放され、永遠に朽ちない完全な体が与えられて天国に生きる者とされる。クリスチャンとは、こういう人生の解釈に生きる者です。だから、どんな事があっても強いのです。
将棋に勝つのは、将棋の駒が立派だからではありません。その差し手が強いからです。たとえ紙でできた将棋の駒であっても、将棋の名人は、その駒を使って、誰とどんな勝負をしても必ず勝つのです。私たちはいわば将棋の駒です。大切なことは、名人である神の言われるとおりに生きることです。そうすれば勝利が与えられるのです。
今日の一言: キリストにある人生には、物事に対する新しい解釈が与えられる
鶴田健次
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本日、12月24日、アメリカではクリスマスイブ。
ラスベガスは観光客が減り、年末を過ごす客が来るまでしばし静かになります。
アメリカでは、クリスマスは国民の休日として扱われており、家族と過ごす日です。ただし、カジノ業界に携わっている方はクリスマスにも働いていたり、まとまった休みがあまり取れないので、街を離れないことも多いようです。
私Saoは、家族と過ごすためにサンディエゴを訪れ、友人家族と共にキャンドルライトサービスを守ることができました。静かな夜に待ちわびたイエス様の誕生を喜ぶ聖なる夜、それはとても特別な礼拝でした。


イエス様の降誕日であるクリスマスは、私たちへの神様の愛がふんだんに現された日であります。アメリカで伝わっている家族で過ごす風習とは、もしかしたら 家族のわだかまりや過去の失敗などの自分の罪を認め、許しあう日であり、イエス様がなされた愛を感謝し、教会に集う日なのかもしれません。

一方、ラスベガス日本人教会でも34人の方が集まり、イエス様のお誕生日をお祝いしたようでありました。
明日は25日。素敵なクリスマスをお過ごしください。
"神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。"ヨハネの福音書3:16-17
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主イエス様のご降誕を心からお祝い申しあげます。

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教会を出て行くときに、メリークリスマスとお互いに声をかけながら、家路につきました。今週がクリスマスですが、一人でも多くの方が本当のメリークリスマス(主イエス様のご降誕をお祝いする)の意味を知り、イエス様をご自身の救い主として心にお迎えすることをお祈りいたします。皆様の心が主イエス様の光でいっぱいになりますように。
『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった。ヨハネ1:4-5』
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