
今日は、”正しさという鎧を脱ぐ”ということを考えてみました。
時どき、人と関わることが極端に苦手で、すぐに人とケンカをする人がいます。家族、友達、職場の同僚など、みんなと仲良くしたいのに、どうしてもケンカになってしまうのです。
対人関係が苦手という人には二通りがあり、自分の意見や気持ちを言わずに黙って大人しく引きこもるタイプと、上記のように、すぐケンカをしてしまうタイプです。この二つのタイプは正反対に見えますが、他人と心理的距離を取るように行動してしまうという点では同じです。では、なぜ人と距離を取らなければならないのでしょう?
多くの場合、このような人は繊細で、傷つきやすい心の持ち主です。相手の言葉や態度に心無いものを感じると、「自分は愛されていない」とガッカリして、強い不安を覚えます。自分が大切にされていないと感じる時だけではなく、周りの誰かが大切にされていないように見えれば、やはり強い憤りを感じます。それだけ愛情に敏感で、愛のある、思いやりにあふれた環境を求めている人なのです。
ところが、それが理想どおりに実現しないと、落胆し、絶望してしまいます。相手が、自分が親しくなりたい人であればあるほど、悲しい気持ちになるので、その痛みを感じたくなくて怒りが噴出するのです。そして、仲良くなりたい人ほどケンカをしては遠ざけてしまい、辛い思いをすることになります。
この繊細さはその人の個性であり、本人にしてみれば、なぜ他の人がこうも無神経なのか分からず、人と関わりたくても心理的距離が近くなると心無い言葉や態度に触れて傷つくので怖いと感じます。それでも、よくケンカをしてしまう人は、人とつながりたい気持ちが強く、人と関わることに臆病になる自分をダメだと思い、自分の怯えを抑え込んで、心理的距離を縮めようと人に近づくのです。
このように、よくケンカをする人の心の奥には、愛を求めながらも、その繊細さのゆえに傷つくのをとても怖がっている臆病なマインドがあります。人に近づこうとするとき、傷つきやすい自分の繊細な心を守るために、こういう人はよく「正しさの鎧」を着ます。
一生懸命に正しくあろうとした分、他人が自分の正しさを尊重してくれないと、自尊感情が傷つくので、つい正しさを盾に相手を攻撃してしまいます。しかし、いくら正しさを証明して相手を負かしても、相手と仲良くはなれません。みんなと仲良くするためには、この「正しさの鎧」を脱ぐ必要があります。
つまり、「あなたはこうでなくてはいけない」ではなく、「私はこう思うけど、あなたは違うんだね」と違いを許せるといいと思います。なぜなら、正しいからといって、それを人に強要しても、幸せになれるわけではないからです。
正しさを主張するよりも、違いを受け入れましょう。これが幸せの原則であり、人と上手く付き合える方法です。私たちは自分を認めてもらうために自分の正しさにしがみつこうとしがちですが、自分の考える正しさに固着すればするほど、相手を正しくないと判断することになり、仲良くなりたい人を遠ざけてしまいます。
正しさより仲良くなること、幸せになることのほうを選びましょう。私たちは、無意識のうちにしてしまうことがとても多いですが、意識的に選択することもできます。この選択の力をもっと信頼し、幸せになることを選びましょう。
今日の一言: 幸せは選択である
鶴田健次
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今年も感謝祭がやってきました。
このシーズンは街中がホリデーシーズンになり、買い物客でごった返します。ラスベガスは、私の知る限り、先週の金曜日までは普通の街でしたが、土曜日になると、急にスーパーに感謝祭ディナーの買い物客でレジの前には長蛇の列を作っていました。。並んでいる間に前隣の客と話し仲良くなるというケースも稀ではなく、人々の暖かさを感じらsれる時期でもあります。
そして、もう一つ、感謝祭と言えば、朝早くからターキーを仕込み、焼き始め、お昼に家族や親しい人を交えて、感謝祭ディナーをいただきます。ターキーの他に、アメリカンヤムにマシュマロを乗せて焼くといい香りが漂うスイートポテトヤム、さやいんげんグラタンのグリーンビーンキャセロール、マッシュポテト、刻みセロリと人参とを混ぜ、鶏がらスープとターキーから出る肉汁とが混ざり合った絶品なスタッフィング、デザートには、欠かせない生クリーム付きのパンプキンパイ。
そして、食卓を囲んで、一人一人の胸のうちにある一年分の感謝を。。。話し合えれば良いのですが、我が家は、そういう話は5分で終わり、後は子供達の楽しかった事に話題は移り、くだらない話で笑い合い、終了します。
主人は例年仕事ですので、ターキーを作っても、子供達も私もあまり食べないで終わってしまうのが通常の我が家の感謝祭。食べ終わり、家族で映画を見た後は、さっさと次の日のブラックフライデー(一年で一番のセール日で、通常は朝5時開店なお店が多かったが、最近では早い所は木曜日の夜中12時から次の日の閉店日まで開いているところもある。お目当ての品をめがけて、前日から店の前に並ぶ客も大勢見られる)に備えて寝ます。
今年の感謝祭は、なんと嬉しいことに今年はラスベガス日本人教会で感謝祭ディナーが開かれます。子供達も、毎年ラスベガスの家族だけの感謝祭には少々物足りなさを感じていたようでしたので、感謝祭ディナーを神の家族と祝えることを主に心から感謝です。

「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」第一テサロニケ5:16-17
(ブログ作成チーム:Sao)
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(創世記37章:兄弟達によって穴に落とされたヨセフ)
旧約聖書に見る本来の労働の姿として、ヨセフの労働を取り上げる。ヨセフは17歳で売られ、エジプトの王パロに仕えるようになった時は30歳。38歳の時にエジプトの総理大臣となった。17歳の時にすでに夢によって神からの語りかけを受けたが、既にこの時、自分は主に呼ばれたものであるとの何らかの自覚を持ったと思われる。
その後の彼の働きの人生において、ヨセフは本当に多くの試練に会ったが、彼は困難な状況の中でも自分の人生の不幸を呪うということをせず、むしろ新しい環境で生き生きと活躍をした。人を恨み、卑屈になって不幸のかたまりのような、また奴隷のような態度で生き続けることをしなかった。むしろ、神の恵みに生かされている人間、神から働きかけを受けた人間として希望を持って歩んだ。このことがパロの夢を説き明かすというまたとない機会に繋がっていった。
ヨセフは働きの人生において本当に神と良く交流をした。そのことは創世記の37章から50章の多くの御言葉から伺うことができる。神のヨセフへの働きかけに関する御言葉は、彼が一番逆境の時に多く出てくる(創世記39章には8回)。神はヨセフの一番逆境の時に一番彼と共におられ、彼を導かれた。「主がヨセフとともにおられたので」(創世記39:2)、「主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させて」(創世記39:3)、「主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった」(創世記39:5)、「それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させて下さったからである」(創世記39:23)。また、ヨセフの神への応答に関する御言葉も多くある。「このことが神によって定められ神がすみやかにこれをなさるからです」(創世記41:32)、「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」(創世記41:52)、「神は私をエジプト全土の主とされました」(創世記45:9)。
ヨセフのように、問題や困難に直面した時に、それらが、私たちを本当に愛し、決して裏切ることなく支え続けて下さる神の御手の中で許されたことであると信じる人は、絶えず自分の前に神を覚えることができる。ヨセフはこのような神との密な交流を通して成長し、成熟した人物へと作り変えられて行った。創世記39章3節には、ヨセフの歩みの内に、そこに働かれる神の臨在が確かにあることを、その主人は知ったとある。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」。また、創世記41章38節には、パロが家臣たちに、神の霊の宿っているこのような人をほかに見つけることができようかと言ったとある。「そこでパロは家臣たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか』」
これらのことから、ヨセフの歩みは、その周囲にいる人にも神の臨在を感じさせる素晴らしいものであったことが伺える。そのことは、彼の労働を含むすべての人生にあらわれていた。彼は全力を注いで彼の働きを行った。そして、エジプトの大臣としてパロに仕える働きを通して、実に多くの恵みをエジプトの国に、また彼の親や兄弟に、引いてはイスラエル民族にもたらした。その働きの内には、彼が神から与えられた多くの賜物を見ることができる。神は、本気で神に従う人には、多くの恵みと祝福とを与えられるということが分かる。神は、彼のなすことすべてを成功させてくださった。ヨセフの人生を通して、労働においても、神との密な交流が、いかに大切であるかを覚えさせられる。(参考:クリスチャントゥディ)
(LVJCCブログ制作チーム:Kao)
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今日は、”面倒くさがり屋の心理”について考えてみました。
あなたは”面倒くさがり屋”ですか? しなければならない事をなかなかやろうとしない、そういう人があなたの周りにもいませんか? あるいは、あなた自身がそうかもしれませんね。
”面倒くさい”と思うことには二種類の心理があると言われます。一つは、「できるのにやらない」という心理、もう一つは、「できないからやらない」という心理です。
1.できるのにやらない
これは、「やろう!」と思って始めれば、比較的簡単に終わることなのに、面倒くさくてやる気になれないという場合です。
別の言い方で言えば、人は「やりたくないこと」をしようとする時に「面倒くさい」と感じます。その場合、「なぜやりたくないと感じるのか?」がやらない理由です。
例えば、私自身のことを考えると、いくつもの原稿の期日が迫っているときに、家内に「買い物に一緒に行こう」と誘われた場合、「原稿を書くのを止めて買い物に行くなんて面倒くさい」と思い、しばらく聞こえないふりをして返事をしません。しかし、家内は私の健康を考えて、長時間コンピューターに向かっている私を外に連れ出そうとしているんだ、ということが分かり、「じゃあ、ちょっと出ようか」ということになります。
つまり、自分の意志と違うことをしなければならない時、私達は面倒くさいと思うのです。自分が我慢しなければならない犠牲感や義務感、誰かに強制されているような不自由感があるとしたら、「やりたくない、面倒くさい」と感じるのです。
したがって、「できるのにやらない」タイプの面倒くさがり屋さんには、「自分がやりたいからする」という自主性を取り戻していくことが必要になってきます。そのためには、それをすることの「意味」を探し、それをすることで自分にとっても誰かにとってもメリットがあるというふうに、何か意味を見出すことができれば、面倒くささも減ると思います。
2.できないからやらない
これは、「やるからには、ちゃんとやりたい。でも、そのためには、あれとこれをしなければならない・・・」と、一つのことを成し遂げるのにしなければならないことがいくつもあると、「全部するのは無理かも知れない。面倒くさいからやめておこう・・・」となる場合です。
こちらの場合は、物事を白か黒かではっきり見る、いわゆる完璧主義の傾向がある人に多く見られます。完璧主義者の基準は「完璧にする」か「完璧にできないなら一切しない」の二択です。完璧にするためには、多大な労力が必要です。この膨大な労力をかけなければならないことを想像して面倒くさくなるのです。
この場合、「完璧にできなくても大丈夫」と、自分や他人への要求水準を見直すことが必要になります。誰も完璧な人などいません。みんな不完全で弱さや足りなさがあります。ですから、完璧な仕事などないのです。しかし、それでもその仕事をしたことで何かの必要が満たされ、人の役に立つとしたら、それは素晴らしいことではないでしょうか。
また、たとえ完璧でなくても、何かのために一生懸命に取り組むあなたの姿は、周りの人々に色んな良い影響を与えるに違いないことを考えれば、結果をすべてのように考えるのではなく、過程を評価する考え方も大いに必要であることが分かり、「完璧にできないなら一切やらない」という極論から抜け出すことができるに違いありません。
さらに、取り組むことで成功体験を重ね、達成感を味わって自信を持ち、更なるやる気につながっていくとか、失敗を乗り越えて成長するとか、やってみるからこそ生まれるものがあります。
完璧にできなくて大丈夫です。まずは、少しずつ取り組んでみてはいかがでしょう。たとえ最初は少し面倒に感じても、動き出せば意外に楽しいものかも知れません。
それから、「完璧な自分でいよう」とする裏側には、「自分は不完全だ」というコンプレックスが潜んでいる場合があります。人間は不完全さを隠そうとして完璧さを求めることもあるのです。
人間はみんな不完全です。自分の不完全さを否定するのではなくて、不完全さがある現実を受容してみるといいかも知れません。不完全ながら頑張っているのだとしたら、「よくやってるなあ」と自分を認めやすくなるのではないでしょうか。そうすれば、「完璧にできないなら一切しない」と面倒くさがっていた気持ちが変わり、「ちょっとやってみようかな」という意欲が芽生えることでしょう。
今日の一言: 失敗でも何もしないよりはまし
平安
鶴田健次
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私がクリスチャンになり、聖書勉強や交わりの中で色々な方々とお話しする機会を与えていただき、数々の見解を、日々新鮮な気持ちで聞かせていただいています。その中で、クリスチャンの方でも、聖書の中の出来事と普段の実生活を分けて考える方がおりましたが、私の場合は、切っても切り離せない体験をすることが多いのです。
例えば、年の初めに選んだ年間聖句が、"「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9~10)"だったとすると、今までに無いような大きな試練が同じ年に何通りも与えられ、神様、勘弁してくださいと言わんばかりに、心も体も弱りはてたことがありました。
私は、その年は今よりも聖書の事も知らず、霊的にも更に未熟でしたので、冷静に分析する余裕もなかったのですが、みことばとシンクロするような事が一年の中で何回も起きたりした不思議な経験をした中で、最近、賛美のご奉仕でも似たような経験を再びすることになりました。
礼拝の初めの賛美を始める時に一言ご挨拶のような言葉を述べますが、その時に話した聖書の物語が、来る一週間の中で私の身に起きるのです。
この日曜日は、税金取りのザアカイの話をしましたが、この一週間の間にザアカイの気持ちを知る経験をしました。何故か、その時に限り、自分の悪口が人を通して聞こえたり、自分は皆に嫌われてるというような錯覚を起こさせるような出来事がたくさんありました。
その時に、これはきっとザアカイの気持ちだ!?と、思いました。きっと彼は人に心ない言葉を言われ、裁かれ、彼の心はかなり傷ついていたのです。そして、彼も罪を犯しました。その罪を思った時に、私も、ザアカイとは種類が違う罪を犯しましたが、人の石のつぶてになるような神のみ前で罪を犯したことに気づきが与えられたのです。
そして、ますますザアカイに親近感を抱きました。だって、彼の心は誰も信じることができないほど、傷ついたのですから。でも、そんなザアカイだからこそ、イエス様は歩み寄られのです。どんなに人に嫌われてるザアカイでもイエス様の目には尊い特別な存在であったのです。
そう思った瞬間に自分の中の何かが吹っ切れたような気がしました。私は誘惑には弱く、勝利の信仰生活どころか、敗北の信仰生活の道を送っているような小さいものでありました。それでも、今回の試練には、心の底からふつふつと湧き出るような、私は神様には特別な存在なのだという励ましに溢れ、ザアカイの経験と重ね合わせ、心を乱すことなく平安に過ごせました。
人には、人の手で結ばれたプラスチックの御霊の実と本物の聖霊の御霊の実があるそうです。プラスチックの実は、人の言葉に惑わされ、試練に弱く、すぐ壊れます。それとは反対の、本物の聖霊の御霊の実は、試練の中でこそ、輝くものであるそうです。私達の努力や心がけでは結べない聖霊の実。これからの信仰生活が、本物の聖霊の実を結べるものでありますように、神様へ祈り求めます。
「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。マルコの福音書13:33-37
(ブログ作成チーム:Sao)
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