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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”劣等感”ということを考えてみました。


皆さんは、自分の内にある劣等感が、しばしば人間関係において緊張感やストレスの原因となることに気づかれたことがありますか?

ある女性が、結婚式を目前にして大きな不安にかられました。彼女は、いつも相手の前で背伸びしている自分を感じていました。結婚して本当の自分がバレてしまったらどうしよう…というような劣等感が多くの恐れ、不安、ストレスを引き起こしていたのです。

時には、真面目であることさえも劣等感となります。それを隠すために人前ではわざとひょうきんに振るまって、そのうちに本当の自分は何なのか、自分でも分らなくなってしまい、本当にリラックスした生き方、これで良いのだという深い自信と安心感のある生き方ができなくなるのです。

このような劣等感はどこからくるのでしょうか。たとえば以下のような原因が考えられると思います。

① 周りからの否定的言葉
周りの人(特に親)からいつも「ダメだ」と言われていると、いつしか自分はダメだと思い込むようになります。例えば、いつも「急ぎなさい。早くしなさい」などと言われていると、“自分はのろい”という強迫観念が植えつけられ、急ぐ必要のないときにも、あせる気持ちが出てじっくり取り組めなくなってしまいます。

② 人との比較
いつも人との比較で生きていると、人より下なら劣等感、上なら優越感が出てきます。ところが、劣等感も優越感も、どちらも出方が違うだけで、根は同じところにあるのです。

③ 過大評価
本当の自分よりも高く評価されたり、過大な期待をおわされた時、それに答えようといつも背伸びして疲れてしまいます。期待に答えられないのではという不安が、自分はダメだという劣等感につながるのです。

④ 悲しい経験、受け入れられなかった経験
人から辱められたり、人に受け入れてもらえなかったという経験は、心の深い傷となり、自分はダメだと思ってしまいます。

では、どうしたら劣等感から解放されていくことができるのでしょうか?

それは、まず自分を再評価してみることです。自分をダメだと思っていることが、客観的に見て本当にダメなことなのかどうかを、もう一度ゆっくり考えてみることが必要です。

例えば、字が下手だという劣等感を持っている人は、まず相手が自分の字を読むことができる事実を認めることです。また世界には字を書けない人が多くいる中で、字が書けるということを感謝しましょう。私たちは、しばしば出来ることは当たり前として感謝せず、出来ないことばかりに目を留めて、勝手に自分は劣っていると思い込んでいるのです。

自分にできることを一つ一つ感謝していくこと、これが劣等感から解放される秘訣です。両足と片手を切断し指三本しか残されず、何もできないと考えていた田原米子さんは、神の愛に触れた時から指が三本もあると考えるようになり、チャレンジの生活が始まりました。

指が三本しかないと考えて劣等感に陥るか、指が三本もあると考えて出来た事を感謝するかで大きな違いがあります。与えられていること、できることを感謝することこそ劣等感を克服する道です。

人の目・人の評価ばかり気にする生き方は、不自由な人生です。人は皆生きてきた環境も状況も何もかも違うのですから、人と比較して劣等感を持つ必要などありません。どうしても比べたければ、以前の自分と比べればよいのです。そして、出来るようになった事があれば感謝し、もしまだできない事があるなら、これからの歩みへの励み、チャレンジとするのです。

神の愛は、立派な人にではなく弱い人に注がれます。なぜなら、本当は立派な人など一人もいないからです。自分は弱いと思うなら、あなたは神の愛の対象なのです。

神様はあなたを愛しておられます。たとえまだ、あなたがそれを本当だと思えないとしても、少しずつでもそのことを心に留めて下さい。自分が神様に愛され、受け入れられていることが分かった時、劣等感が消えていくことを体験されるでしょう。

今日の一言: あなたは神に愛されている。

平安
鶴田健次


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2014.10.31 13:27 | 牧師室より
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つい最近、カリフォルニア在住の私の友人との話で面白い話題になりました。彼女の地元の大学生が第二ヶ国語を話す人にアンケートをとっているというので、私の得したことは何か?と聞かれました。

その時は、第二ヶ国語といっても、英語は、仕事場、子供の学校、医者など1日の大半を使用しているので、今では第二ヶ国語と言っても生きるためには必要不可欠なものと、化しています。

ですので、得したことは?と、聞かれても、頭を悩ませました。

私にとって、英語を勉強するきっかけとなったのは何だったのだろうと考えた時に、高校生の時に、英語が全然話せなかった時に体験した人々の心の温かさに触れたことがきっかけだったことを思い出しました。それは、オーストラリアにいた時の私のホストファザーのDavidさんでした。毎晩毎晩、辞書を片手に明日の予定や行く場所を細かく説明してくれようとしました。私は一生懸命聞こうとするのですが、おそらく半分くらい、いや、4分の1もわかっていなかったと思います。

私はその時、彼の温かさに触れ、"言語は大切なコミュニケーションの一つだけど、こんなに話せない私でも受け入れてくれる人がいる。正確に言おうとする日本語でさえも、分かり合えないことがあるんだもん。コミュニケーションはきっと心だ。もっともっと心の通うコミュニケーションをしたい。"と、思いました。

それ以来、英語を勉強し、アメリカに来て、今に至るのですが。。。

今考えると、また違った視点が見えてきます。当時、Davidさんがクリスチャンだったのかわかりませんが、家族以外の方に受け入れられるという経験をしたことが私の人生に大きな転機をもたらしたのだと思います。だって、それまでは外国語を勉強して外国で暮らすという思いは、一切ありませんでしたから。

実際、それがどこの国でもやっていけるという強い自信に繋がり、アメリカでの生活が始まりました。友達や主人に出会い、子供が生まれ、アメリカではごく自然にある教会で聖書に出会いました。

聖書を学んでいくうちに、英語の言い回しの方がしっくりくるなと思うことが多くなりました。アメリカは今現在こそ、クリスチャン人口は少ないと言われ、悲しいニュースが後を経ちませんが、それでもやはりアメリカの文化は聖書に共感するところがたくさんあることに気づきました。もしかしたら、オーストラリアもそうだったのかもしれません。

そう考えると、私はホストファザーのDavidさんにより、受容される経験をしたことにより心が柔らかくされ、後に、アメリカの地に渡り、神様を信じる信仰に導かれる神のご計画だったように思えてなりません。

ズバリ、私の「英語を勉強して得したこと」は、福音を信じることに繋がったことだと思います。

受容されると、素直に嬉しいのは今も同じです。忘れかけていた「英語を勉強したきっかけ」を思い出させて下さり、素敵な気づきをくださった主に感謝いたします。

心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。(箴言15章13節)

(LVJCCブログ制作チーム:Sao)

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2014.10.29 09:02 | 証し
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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和『天との契約』をお送りします。

ビクター・フランクルという方がいました。ユダヤ系であったため、第二次対戦中はナチスに捕らえられ、アウスビッシュやダッハウスの収容所に入れられ、九死に一生を得て生還した方です。再び自由になったときフランクは、自分の収容所体験から多くの本を著し、また「ロゴセラピー」という心理療法をあみだしました。これは人はお金や権力、快楽などで生きるのではなく、人を生かすのは意味があること、人が自分の生きることに意味を見出せるときにはどんな状況におかれていても生きていくことができる、ということを説いた療法です。

ロゴセラピーのひとつの例としてこんな話があります。ある仲の良い夫婦がおりましたが、妻が先立ってしまいました。夫は身もなく世もなく嘆き、どれだけ慰めても悲嘆を癒すことができません。そこで人々はこの夫をフランクルのところに連れていきました。フランクルは夫の嘆きを聞き、姿を見て言ったそうです。「あなたは奥様の死を悲しんでいるが、では、いっそあなたが先に死んだらよかったですね。」それを聞いて夫が言いました。「そんなことはできません。私の最愛の妻にいま私が通っているような苦しみを味わわせることはできません。」それを聞いてフランクが「では、あなたはいま奥様の代わりに苦しんでいるのではないですか」と言いました。その時はじめてこの夫は理解し「もし私が先に死んでいた時の妻の苦しみや嘆きを今、私が代わって苦しんでいるのですね。」と晴れやかな気分で帰ったそうです。

この人にとって苦しみがなくなったわけではありません。苦しみでなくなったのです。私達は生きている間、苦しみをなくすことはできません。しかし苦しみでなくすことは私たちの自由にかかっています。実は私もフランクルに助けてもらったことがあります。修道院に入ってアメリカに派遣され、学位をとる為に勉強をしていたとき、フランクルの著作集が課題として与えられました。その中に聞きなれない言葉を見つけました。それは「天との契約」という言葉でした。収容所の中で人々は自由を奪われ、人間の極限状態に置かれ、毎日毎夜、死の恐怖にさらされていました。

そんな状況の中、一人の収容者がフランクルに語ったのは、自分の最愛の母親のために生きなければならないと決心し、天と契約を結ぶことを思いついたという事です。もし自分が死ななければならない運命にあるとしたら、それは母親に生きながらえることを贈る事になるという契約です。そしてもし死まで自分が苦悩を忍べば忍ぶほど、母親はそれだけ苦しみの少ない死を迎えることができるのだ、と天と契約を結んで戦争が終わるまで生きながらえたそうです。この箇所を図書館で読んで、私もこの天との契約を使って、生きようと気づきました。

30歳まで一般社会で働きながら、母と二人で水入らずで暮らしていましたが、制限年齢の30歳間際で兄嫁に母を託して修道院に入りました。44歳のときに私を生んだ母でしたから私がアメリカに派遣された頃には、80歳近かったと思います。アメリカにおりましても母のことがいつも心にありました。天との契約といぁう言葉を見つけたときに、「あぁそうだ」と思いました。「神様、私は喜んで笑顔で辛い言葉を聞きますから、どうぞ今日一日、母が辛い言葉を聞かなくてすむようにしてやってください。食卓に口に合わない物が出てきたときに気取られぬよう喜んでいただきます。ですから神様どうぞ母の食卓に一品でいいですから母の口に合う物を出してやってください」

はたしてこの天との契約のおかげで、母が辛い言葉を聞かずにすんだか、食卓に好きなものが乗ったかわかりません。しかし私に生きる力と勇気と母のために何かできる喜びを与えてくれました。天との契約は聖パウロがテサロニケの信徒に贈った言葉「いつも喜びを忘れずにいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉を助けてくれるものではないかと思います。

パウロが言った「喜び」は、志望大学に合格した喜びでもなければ、宝くじにあたった喜びでもなければ、思い通りに物事が運んだ喜びをさしたものでもないと思います。それはちょうど十字架の上でキリストが苦しんで死んだそのキリストの死と苦しみのために復活の喜びが与えられた。苦しみを通し死を通しての喜びだと思います。

「絶えず祈りなさい」学生達は携帯電話を握り締めて、いつも誰かとつながっていたい、メールが返ってきているだろうかと気にしています。私たちも天との契約を結ぶことによって、抜き差しならないつながりを、自分の生活一コマ一コマとして神との間につくります。それが「絶えず祈っている」ことに該当するのではないかと思います。

私たちも毎日の生活の中で、天との契約を結びながら生きていきたいと思います。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.10.26 19:55 | 証し
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今日は、”巧妙な誘惑”ということについて考えてみました。

キリスト教信仰において、サタンの巧妙な誘惑との戦いに関する知識と経験を深めることは、豊かな勝利の人生を送るうえで欠くことのできない大切なものです。なぜなら、天地万物を造られた神が存在すると同時に、この神に敵対するサタンも存在するからです。

そして、このサタンは、クリスチャンに「巧妙な罠」を仕掛け、彼らの肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに働きかけ、ほんの少しずつ神の道から外れさせながら、喜びを奪い取り、奉仕から遠ざけ、周りの人々をも巻き込んで人々を神から引き離そうとするのです。

20世紀を代表する神学者の一人であるボンヘッファーは、サタンの巧妙な罠から逃れることについて、以下のように言っています。 

われわれのうちに潜んでいる快楽への要求が、突然、激しく表れることがある。情欲は、逆らうことができないような力を持って肉体を支配する。密かにくすぶっていた火は、一度に煽られる。それが性欲であろうと、功名心であろうと、復讐心、名誉欲、権力欲、金銭欲であろうと、あるいはこの世の美しさというものに対する言い表せないような快楽であろうと、全く区別はない。今や、神を喜ぶ喜びが我々のうちから消滅してしまい、我々は被造物の中にあらゆる喜びを求めるようになるのである。・・・そして神を全く忘れさせてしまう。こうすることによってサタンは、我々を欺く。焚きつけられた情欲は、人間の思考と、人間の意志を深い闇の中に葬ってしまう。・・・・それゆえ聖書は、肉体が誘惑を受けた時に「逃れる」ことを教えている。・・・十字架につけられた方のもとへ逃れよ・・・・



かつてサタンがイエス・キリストを試みたときの巧妙な手口を思い出してみて下さい。彼はイエス・キリストに対し、一度ではなく三度の誘惑を試みました。サタンの誘惑は巧妙なだけでなく実に執拗です。

ルカの福音書によれば、サタンの第一の誘惑は「飢えの状態におけるパン」という身体的なものでした。それに対して、イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉で誘惑を退けられました。

第二の誘惑は、「権力と繁栄」という政治的、経済的なものでした。これに対しては、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の言葉を用いられました。

第三の誘惑は、サタンの方から聖書の言葉をもって挑んできました。その意味では、この第三の誘惑は、宗教的なものであったと言うことができます。しかし聖書の言葉を間違って用いるサタンに、イエス・キリストは「あなたの神である主を試みてはならない」という聖書の言葉で誘惑を退けられたのです。
 

ちなみにマタイとルカでは、第二の誘惑と第三の誘惑が逆になっています。ルカはおそらく聖書の言葉を用いての誘惑こそが究極の誘惑であったと考えたのでしょう。神の言葉すら誘惑の材料になるということは、誘惑の巧妙さを如実に物語っています。だからこそ、聖書の正しい理解、解釈が大切なのです。

サタンは、神に用いられようとする信仰者に誘惑を試み、巧妙な罠を仕掛けます。それは、最終的にその信仰者が神の栄光を現わす働きをできないように邪魔をするためです。そして、この巧妙な罠は、時には神のために役立っているかのような錯覚を起こさせながら人に近づいて来ます。そうやって、やがてそれがサタンの誘惑であったと気づいたときには、そこから抜け出せない状態に陥っているのです。

誘惑に陥いる経験は、程度の差こそあれ、すべての信仰者が経験するものです。しかし、誘惑に陥ることを通して幸せになることなどないことを誰もが後になって気づくものです。サタンは絶対に人に幸福をもたらすことはありません。そればかりか、誘惑に陥って罪を犯すと、必ずその刈り取りが待っています。それは、「なぜあんな事をしてしまったのだろう」と必ず後悔せずにいられないものなのです。

誘惑に陥らない最善の方法は、誘惑に陥る前にサタンの誘惑であることに気づくことです。サタンの誘惑には、たとえば以下のようなパターンがあります。

第一に、それは霊の思いを悲しませ、肉の思いを喜ばせる。

第二に、それは御言葉に反する。

第三に、それは教会の秩序を壊す。

第四に、それは人を悲しませる。

第五に、それを隠れてしようとする。

したがって、自分が一生懸命になりかけているものに、もしこのような要素があるならば、悔い改めて、速やかにそこから離れることです。さもなくば、結局は多くの時間を無駄にし、自分と人とを傷つけ、人生に再び汚点を残すことになるのです。

今日の一言: 誘惑に陥ってはならない。


平安
鶴田健次


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2014.10.24 09:43 | 牧師室より
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先週ブログでお伝えした通り、去る10月18日(土)にスモールグループエデンを主催としたバーベキューが催されました。

当日は、少し曇り空で、朝は肌寒い気候でしたが、その曇の下でも朝日を受ける赤褐色のレッドロックキャニオンはまたまた絶景で、バーベキューの場所であるスプリングマウンテンランチ州立公園に行く前に、車を止め、写真を撮らずにはいられませんでした。

朝の空気も気持ち良く、朝の10時前ではありましたが、サイクリングを楽しんでいる方がもう既にたくさんいらっしゃいました。

早速、州立公園に着き、ゴミ捨て場や水飲み場、トイレの位置がすぐにわかる、西日の届かない、バーベキューには最適な場所をある兄弟が選んでくれました。

グリルとテーブル、ベンチを掃除し、炭をウッドチップと一緒に火を起こし始めました。

そのうち、だんだんと参加者が到着し始めました。バーベキューの始まりです!

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食べ物が、グリルにズラーっと並びました。コリアンショートリブ、シシケバブ、チキン、スペアリブ、ホットドッグ、ソーセージ、トウモロコシ、じゃがいも、サツマイモ。美味しそうなキャストがずらりと並んでいたら、ひょいっと登場した、豪華な鮭と秋刀魚がいい香りをして、バーベキューをますます鮮やかに彩ってくださいました。

秋の香りいっぱいのバーベキューに皆さんも会話も弾み、心もお腹もいっぱいになりました。

椅子に座ってリラックスする方、数人の兄弟姉妹と会話を楽しむ方、芝生でバトミントン、フリスビー、フットボールでそれぞれ闘志魂を燃やしていました。

見上げる度に絶景が見える州立公園でのバーベキューでの今回の交わりも名前の通り多くのものを収穫することができました!

この交わりを実行するにあたり、本当にたくさんの有志の時間やお金が神への捧げ物として捧げられました。

そして、このたくさんの食材ですから、最後まで立ちっぱなし、焼きっぱなしの熱いグリルと格闘をしてくださった兄弟たちには心から感謝でした。

その時にふと私は気づきが与えられました。私たちに与えられた時間やお金は、本来はこういうものこそに使うべきなんだ、と。

神様に栄光が返されるものに捧げられるべき与えられた時間とお金。罪人の私たちは、失敗ばかりな壊れた器にからし種の信仰が加われば、神様の素晴らしい栄光が輝くと言ってくださる偉大なお方が味方におられます。

その証拠に何よりも有志たちの素晴らしいチームワークが光っていました。私達の本来の役割は、神様の身体として輝く一つ一つのピースであります。

このような素晴らしい経験を主に感謝いたします。ラスベガス日本人教会の一つ一つのピースが燦々と輝く未来に期待いたします。

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「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」エペソ人への手紙4:1-6

(LVJCCブログ制作チーム:Sao)

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2014.10.22 11:12 | 教会イベント

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