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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は『ちいろば先生」こと榎本保郎牧師をご紹介いたします。先生の呼称である『ちいろば』とは小さなロバの事です。イエス様がエルサレムに入城す時に乗ったとされる小さなロバの子の事。小さい体で、ただイエスの為に働く子ロバの従順を意味しています。

榎本牧師は1925年(昭和5年)、淡路島で生まれました。軍国少年として模範的に学び、淡路島で代用教員をしていました。徴兵によって陸軍幹部候補生として中国に出兵しましたが、教えられてきた国家や自分の理想からはほど遠い、現実に展開されている戦場での残忍な日本軍の侵略行為と、野蛮な行動を目の当たりにしました。模範少年であった先生も理想と現実の狭間で苦悩したが、敗戦近くになって結核にかかってしまいました。

その様な状態の中で、8月15日の敗戦を中国の旧満州で迎えました。そして、1946年(昭和21年)に引揚げ船・高砂丸で佐世保に着いた時、中国で経験した日本軍の蛮行や、敗戦で生き延びるために行われた地獄のような光景を見て来た先生の心は荒んでいました。先生は「厳しかった軍隊の秩序は乱れ、あからさまに人間の醜さが目につき・・一途に生きてきた自分がひどく哀れに思われた。『だまされた』という憤りが内に燃えるのを覚えた。でもどうすることもできない。もう誰の言うことも信じない。自分の将来などについても真面目に考えまい。やりたいことをやって死んで行けばそれで満足だ。どうせ、真面目にやったって、誰かにだまされるのがおちだ。」と自叙伝で当時の状態を語っています。さらに先生は、「この時のわたしの悶え、これはよく言い表す事が出来ない。ただ、私はこの苦しみを忘れ、この苦しみから救われるために酒を飲み、あらゆる悪い遊びに熱中した。残るものはだ悲哀のみであった。『歓楽つきて悲哀多し』である」とも述べています。

先生は中国で陸軍幹部候補生だったカトリック信者の友人・奥村氏を思い出し、安否を確認したくて京都の奥村氏の父、奥村要平神父を訪ねる。この時、戦友、奥村光林氏はシベリヤ抑留中であったが、その消息は分からなかった。先生は、奥村神父に軍隊生活の中でも、奥村氏がいかに敬虔な信仰を貫き通したかを語った。先生は中国で奥村氏と別れる際の言葉を忘れることはなかった。それは「わかった。しかしな、榎本、貴様にもおれの言葉が必ず思い当たる日が来る。神よ、許してくれと、叫ぶ日が必ず来る。人間である限りはな」。その別れ際の言葉と、その後の頽廃生活の幻影から抜け出せず苦悩している自分、罪の中に救いを求めている自分に気付いてはいたものの、神に対する救済までには至っていなかった。しかし、「では、祈りましょう」と、奥村神父が目の前で見せた祈りの姿に動顛し、ただ驚嘆する思いだった。

奥村神父が渡してくれた「長崎二十六聖人の殉教」を読み、14歳のトマス少年が母親に書いた手紙を読んだ。トマス少年は共に十字架にかかる父親と、母の元にいる二人の弟がいるが、「父様の事も、私の事も心配なさいますな。私は天国で母様をお待ちしております。この世のものはみな夢のように消え失せるものゆえ、たとえいかに貧しくなろうとも、ただ天国を失わないように心がけなされませ。また、人からどのように言われようとも、忍耐と愛とをもって耐え忍びなされませ」と記されているのを読んだ先生は、自分は「国のために戦った。それを第一として生きて来た生活が崩れると、残ったものはただ、空しさだけだった」と思い、「自分にこのような生き方ができるだろうか。自分は弱い人間だと思った。弱いからこそ、しがみつくんや。救ってくれるものにしがみつくんや」と、煩悶をくり返しました。虚無的な生活に明け暮れした満州での自分を思い出し、叫びたい気持ちだった。すべての罪、汚れを、本当に清め虚無の世界から救い出してくれる者があるなら、心底救ってほしいと思い出したのです。

先生の心はいよいよ聖書の神様に向いたのです。そして同志社大学の神学部に入ったのですが、人を見て神様を見る事を学ばず、自殺をしようと同志社を飛び出してさまよいました。 先生自身が「自殺しようとしていた自分が、何で、お寺になんぞ行ったんやろ」と語っているように、気がついたら寺の門に踏み込んで、和尚に自殺を戒められて、寺の小僧になるために頭をそられ、住職と共に托鉢にも出るようになったのですが、自殺をしているのではないかと探しまわっていた、彼の父が寺を見つけて彼を迎えに来たのです。
 
先生は淡路島にあるフリー・メソジスト教団の福良教会に出席するようになり中山牧師から学びました。そしてもう一度、イエス様の中にあって生きる事と、イエス様を伝える使命に燃えて同志社に復帰しました。学生でありながらも伝道に燃えてイエス様のために働こうとしました。京都の郊外で、子供たちを集めて日曜学校や保育園のような働きを始めました。そして京都世光教会がそこから生み出されていったのです。

『一生懸命聖書を読み、み言葉を信じて従っていくことは、不信との闘いである。信仰するということは不信仰との闘いである。人はみな神を信じられない自分と闘っているのである。見えないところのものをどうして信じていくことができるだろうか。だから私は、信仰の深い人ほど、自分が不信仰な者であることを知っていると思うのである。 榎本牧師』

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.08.31 16:02 | 信仰者シリーズ
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当教会ブログにて、私Saoは以前にも何回かキャンプの様子を紹介してきましたが、実は私は幼少の頃は1度もキャンプをしたことがなく、虫もさわれず、地面に座ることもできない子でした。それが、2年前に自らキャンプ道具を揃え、初体験のキャンプに行って以来、今回で6回目。そんな事が出来るようになったのは、キリストが私に力を与えてくださったからだと思います。

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キャンプの動機は、初めは子供たちの教育の為でした。「①身体を動かし、神様の創造の御業である自然を知る。②その中で神様からの問いかけに耳を済ませる感性を育てる。③心と体を鍛える。」などなど。子供達は私のリクエストを素直に受け入れてくれ、山とも神様とも母親の私とも良い関係を保っており、もちろんそれは、これからも続けて行きたいと思っています。山登りは、度胸と忍耐を育ててくださいますし、美しい景色を通して、神様の偉大さを力強く感じることができます。

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今回のグランドキャニオンノースリム滞在では、子供たちと片道5マイルのトレイルに挑戦しました。最初は、慣れない山路に子供たちは疲れ気味だったのですが、徐々に歩いているうちに慣れていき、ずんずんと奥に進んで行きました。奥に行くに連れ、景色も壮大になって行き、その変わる景色を見るたびに、励まされ、子供たちと歓声をあげました。だんだん、その景色を見ることが楽しくなって行き、最後まで(完歩)行こう!と、盛り上がった時に、無情な雷雨。雷雨が雹(ひょう)にかわり、私達に激しく降りかかりました。

私は雹のあたり具合が強く、痛くて嫌だったのですが、子供たちは大喜び!!!子供たちは興奮気味で「氷が空から降ってるよ~。すご~い!?」と、目をきらきはさせて言っていました。

帰り道は雨に濡れて、往復、試練の8マイルになってしまいましたが、神様は子供たちに雹という人生で初めて見て感じた"粋"なプレゼントを忘れず渡してくださいました。この時の経験は、子供たちは帰ってきた今でもグランドキャニオンの印象に残ってる思い出として嬉しそうに話します。

こんな感じで、子供たちの教育や数々の自然の中の神様を見つける体験もありましたが、私自身、今回のキャンプを通して自らと向き合うことになりました。

----------次週に続く

(LVJCCブログ制作チーム:Sso)

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2014.08.29 14:20 | 証し
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今日は、”本当の自由”ということを考えてみました。


自由という言葉は、普段、何気なく使っている言葉で、水や空気のように、私たちにとって無くてはならない大切なものですが、それが無くならない限り、なかなかその有難さが実感されにくいものです。

果たして私たちは、この大切な自由というものを正しく理解し、その自由を本当に自分のものとして受け取り、またそれを生かして用いているでしょうか。もしかしたら、ちょうど水や空気が汚染されていて、そのために返って私たちの害となるように、自由というものが間違って受けとめられることによって、私たちの中に混乱をもたらし、時には大きな問題を生み出しているかも知れません。



さて、コリント書第一の10:23-33に、当時のコリント教会にあった一つの騒動が記されています。当時、コリントの町にはさまざまな異教の神殿があり、毎日、色んな神々のために犠牲の動物が捧げられていました。祭儀が終わると、犠牲に捧げられた動物の肉の中から、まず祭司が自分たちの分を取り、残りは市内の市場で売られていました。

この肉について、コリントの教会には二通りの考え方がありました。一つは、異教の神々に犠牲として捧げられた肉を食べることは偶像礼拝になるので食べるべきではないという考え。もう一つは、そもそも異教の神々などというものは人間が作ったもので実際には存在しないのだから、そういう肉を食べても別に偶像礼拝には当たらないという考えです。

そこで、この両者の間に対立が生じ、パウロも無視できなくなって、この問題についてどう考えるべきかを、この手紙の8章で詳しく書いています。ところが、パウロは、この問題を再び10章で取り上げながら、この問題解決のために、キリスト信仰の本質的な議論を展開します。それは「本当の自由」とはどんなものかということです。

ここでの教えは、人生観を根底からひっくり返すほどの内容を持つものですが、これは知識として理解できても、自分の信仰や生き方に反映されるようになるためには、時間を掛けて、少しずつ全人格的に習得していく課題であると思います。

実際、この問題は、当時の教会の人々にとって難しい問題でした。それが単に食材の問題ならば、食べないようにすれば済むことでしたが、ある人たちは、その肉を神が与えて下さったものだと言って感謝して食べていたのです。まさに26節にあるように、地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

ですから、そのように感謝をして食べていいと思っていた人々にとって、それを非難されるということは心外なことで、自由を束縛されているように感じていました。

この問題に関してパウロは、まずその肉を食べることは全く問題がないことを明らかにしていますが、その前に、次のことを前提として教えたのです。それは10章24節にある、「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」という原則です。

この原則は、問題がなければやっていいという考えに優先する原則です。そして、その原則を今回の場合に当てはめたものが、もし誰かに「これは偶像にささげた肉です」と言われたら、そう知らせてくれた人の良心のために食べてはいけないということです。



そして、ここが注目したいところですが、パウロは他の人の良心のために自分の行動を制限するということを、ただの思いやりとか配慮とかいうものを越えた、人間の自由の問題として取り上げているのです。

知らせてくれた人の良心のために肉を食べるという自由を制限することは、自由を侵害されるということではないのです。なぜならパウロが言うように、私たちの自由は、他人の良心によって裁かれたり非難されたりするものではないからです。

自由というものは、それ自体、矛盾につながるような部分が含まれています。もし何もかも自由に自分の思い通りにするとしたら、その時、私たちは他人の利益のために、自分の自由を制限する自由を失くしてしまうことになります。自由でありながら、自由でなくなってしまうことが生じるのです。

しかし、もし私たちが自分の自由を制限することができれば、その時、私たちは自分の自由を制限することで、逆に他の人のためになる自由を獲得するのです。

ですから、本当の自由とは、自分の利益よりもさらに高い目標のために、自分の自由を制限する自由を持つことだということです。それができない人は、返って不自由で、窮屈な人生を送ることになるのです。


31節を見ると、こう書かれています。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

聖書は、私たちが生きる最高の目的を、神の栄光を現すため、と教えています。私たちは、私たちが持つ良いものや優れたものをすべて神からいただいているのです。自由も自由意志も神からの賜物です。

そして私たちは、神からいただいた自由という賜物を、神の栄光を現すために用いるのです。それが最も高貴な生き方であり、私たちの心が最も大きな喜びに満たされる生き方なのです。

33節で、パウロは、「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」と言っていますが、自分の利益ではなく、他人の利益を求めることが、その人々が救われることにつながるのだということです。そして、そのような自由は、自分の自由を神にささげるという行為なのです。

あなたも、そのような自由を行う者の一人でありたいと思いませんか? 

私たちは自由です。その自由を、神の栄光のために、他人の利益のために用いましょう。

今日の一言: 本当の自由とは、良い目的のために自ら進んで自分の自由を制限する自由を持つことである。


平安
鶴田健次


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2014.08.27 08:35 | 鶴田健次牧師より

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