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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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(参加者から御言葉入りの額をプレゼント)


昨日、礼拝後にビンセント兄のハウスウォーミングパーティーが行われました。ビンセント兄は今年の2月にハワイからラスベガスに引越しをし、新しい家には4月から住んでおられます。4月24日に牧師先生ご夫妻の元、ハウスブレッシングセレモニーが行われ、主の祝福の元、新しい住居での生活をスタートされました。また、ラスベガスに引越ししてから、当教会の礼拝に集われています。ビンセント兄にとって、当教会はとても心地の良い教会で、今回のパーティーもこの家を主に祝福してもらいたい事、また、神の家族との良い時間を持ちたいとの思いで開催してくださいました。集わせて頂いた私たちも、とても祝福された時間を与えていただきました。恵み深い主と、招いてくださいましたビンセント兄に感謝いたします。

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(ビンセント兄の手作り料理の数々でおもてなしをしてくださいました)


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(日曜の午後に与えて頂いた良き交わりのひと時)


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(子供達もお庭のプールで大いに遊びました。感謝)


ビンセント兄とご家族の上にいつも主のお守りと祝福がある事を教会員一同お祈りいたします。

「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」ヨシュア記24:9
「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」詩篇133:1


(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.06.30 09:43 | 交わり
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今日は、”心の貧しい人は幸いである”ということを考えてみました。

マタイの福音書の5-7章の部分は、「山上の説教」と呼ばれているところですが、イエス様の一回の教えとしては一番長いところで、イエス様もきっと心を注いで、神を信じる者の生き方についてお語りになったのだと思います。

1節を見ると、「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、・・・・」と書かれています。「山に登り」とは、静かな所で大切な教えを語ろうとされたことを、また、「おすわりになられた」のは、じっくりと教えるためであったことを暗示しているようです。

そして、開口一番に言われた言葉が、この「山上の説教」で最も有名な言葉である「心の貧しい人は幸いである」という言葉でした。

内村鑑三は、この最初の一言に、山上の説教のすべてが凝縮されていると言いました。「心の貧しい人は幸いである」 私は、この言葉を最初に聞いたとき、高校生でしたが、意味も解からないのに、感動的な言葉だなあ、という印象を持ったのを今でも覚えています。

さて、この「山上の説教」の最初の教えである5章1-12節は、あの有名な『八福の教え』と呼ばれるもので、イエス様が教えて下さった8種類の幸いな人について書かれているところです。

今日は、この中の一番目に登場する幸いな人を見てみましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)

この有名な言葉は、いわば「山上の説教」の顔とも言える言葉ですが、簡単な言葉なのに、その意味がよく解からない、というのが多くの人にとっての最初の印象だと思います。一体なぜ、心の貧しい人が幸いなのか?と最初は誰もが思うはずです。詩的な表現としては美しくても、普通に考えれば、むしろ「心の豊かな人のほうが幸いである」という気がします。

しかし、やがてこの言葉の意味が解かり、それが私の心に入り込んで自分のものになったとき、意味も解からずに感動した時と比べ物にならないほどの感動を覚え、涙が溢れそうになりました。

では、どのようにこの言葉の意味が解かったのかというと、それは簡単なことでした。つまりそれは、「この自分自身が、実は、心の貧しい者であった」ということです。

天国への入り口は、心が貧しくなることです。私たちは、神の言葉である聖書に触れ、そこに愛と義と聖の神を見出すことによってはじめて、自分の心の醜さ、問題だらけの貧しい心しかない自分に気づかされます。

預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見たとき、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である」(イザヤ6:5)と言いました。

ダニエルは主にお会いして、「私の尊厳は破壊に向き、力を失った」(ダニエル10:8)と言いました。

ペテロは、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言いました。

自分にプライドや高慢があるのは、まだ本当の意味で主を見ていないからです。しかし、主にお会いする時、私たち自身の心の貧しさがあらわにされ、そこで初めてイエス様を救い主として受け入れる心が備えられ、天国を自分のものとすることができるのです。だから心の貧しい自分に気づくことは幸いなことなのです。

今日の一言: 心の貧しい人は幸いである

平安
鶴田健次
2014.06.27 10:23 | 鶴田健次牧師より
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今日は、私の家から5分ほどの近くにあるウォルマートneighborhoodを紹介します。

ウォルマートは、アメリカで最も成功したディスカウントストアのうちの一つです。最初の1号店は、Sam Walton(サム ウォルトン)により、Walton's(ウォルトンズ)として、アーカンサスにオープンしました。都会でなく、地域に密着した必要なものをディスカウントストアとして客に提供したいというサムの思いで1945年に始まりました。歴史を振り返ると、この1940年代には、今現在も人気のある大手マクドナルドやカリフォルニアを中心に活躍するIN N OUTバーガーもオープンした時代でもありました。

その後は即会社が成長したわけではなく、サムの4人の子供達の成長後、1965年にwalmart(ウォルマート)として店をオープンして以来、70年代後半には、190店舗、80年に後半には、800店舗を持つまで成長しました。

今では、世界中の26カ国の国がWalmartの支店があり、日本の西友もビジネスパートナーの一つに数えられています。

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私達が訪れたウォルマートは、neighborfoodと言って、通常のウォルマートより小さめな店内ですが、店内を覗くと、ベイカリー、食品売り場、薬局などがあります。

食品売り場には、さすがはアメリカとばかりに、超特大サイズの商品がならんでいます。日本の3倍くらいはあるカートのサイズも納得できます。

ウォルマートというと、「安いもの=あまり質の良くのないもの」というイメージですが、最近では、オーガニック製品も増え、手頃な値段で買える事が嬉しいです。

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私はパーティーの時には、アクセントとして冷たいドリンクを作ります。ウォルマートで買った、白ワインのマスカットにオレンジ、ブルーベリー、桃、苺などをつけた、冷たいサングリアなどいかがですか? サングリアを楽しんだ後の果物は、アイスクリームなどの上に乗せ、大人なデザートを楽しんでもいいですね。

暑い夏、素敵な交わりの時間を楽しんでください。

(LVJCCブログ制作チーム:Sao)

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2014.06.25 12:51 | その他
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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和『人間理解について』をお送りします。

教師の心に生徒への愛と信頼があるかないかによって、生徒は変わると言う事をある高校の事例をひいて話をしたことがありました。その高校は全国から問題のある生徒が集まりますが、立派に学業を終えて、卒業していく事で有名でした。その秘訣の一つとして感銘をうけたのが、その学校では教師たちが生徒を「しか」で評価せず、「なら」で評価をすることでした。「あの生徒は足し算しか出来ない」と言わないで「あの生徒は足し算ならできる」という評価をするのです。それは教師の心にできないことを強調するのではなく、できることを強調する信頼と愛があったからです。言葉の問題だけではなく、教師の心が180度違うのだと思います。その話をしながら私も少し悪のりをしてしまい、「あの子はいたずらしかしない」ではなく「あの子はいたずらならできる」と言ってしまいました。

私がこの「しか」と「なら」の話に感銘をうけたのは、私は修道院に入るまで七年ほど仕事をしており、修道院に入ってからも大きな修道院にいる期間が長く料理が(覚える間もなく)不得意でした。小さな修道院に配属されて、一人一人が料理当番を受け持たなければならなくなった時、大変困りました。できる料理と言えば目玉焼きくらいで、一人のシスターから「シスター渡辺は目玉焼きしか作れない」と言われたことに傷つきました。ところが他のシスターが「目玉焼きなら作れるわよね」と言って下さって、救われた思いをしたことがあったので、この高校の事例が私の心に響いたのだと思います。この教育講習会が終わって数日後、ある母親から手紙を頂きました。「私はシスターの講演を共感して聞いておりましたが、「しか」と「なら」のお話をなさり、「いたずらならできる」とお話を締めくくられた時から、お話は耳に入らなくなりました。なぜなら私には重度の障害を持つ子供がおり、その子は「いたずらさえ出来ない」のです」そんなお手紙を頂きビックリしました。思いもよらない手紙だったのです。と同時にお詫びの手紙を出し、知らず知らずの自分の言葉で傷つけていることがあるのだとしっかり心に刻みました。

言葉は確かに人間にのみに与えられた貴重なコミュニケーションの手段です。黙っていてはわかりません。「話せばわかる」とよく言いますが、話したゆえに誤解を生んだ、黙っていればよかったのに、と思うことも多々あります。同じ言葉を使っても誤解が生じる事を私は経験しました。あるとき講義の中で、一人の若いお医者様の話をしました。「自分は病気を診る医者にはなりたくない。病人を診る医者になりたい。」とおっしゃった事に心を打たれたからです。近頃は短い診療時間で患者さんの顔さえ見ないで、診断をくだす方もいるとも聞きます。このお医者様は「自分は病気を診る医者にはなりたくない。病人を診る医者でいたい」とおっしゃったのです。講義のあと一人の学生が来まして、「私の父は医者ですが、シスターがおっしゃった事と、正反対のことを言います。「自分は病気を診る医者で、病人を診る医者ではない。」その学生と話をしてわかったのは、「病人を診ていると、この人はお歳を召した方だが、こちらの方は働き盛りで家族もいる。何とか治してやらなければ・・・という気持ちを持たなくもない。またこの人はお金があるから高価な薬や治療もかまわないだろうが、こちらの人には無理だろう・・・そういう気持ちが起らなくもない。だから私は出来る限り病人を診ないで病気を診る事に徹したいと思う」ということがその学生のお父様のお気持ちでした。

言葉は「病気・病人」と同じですが、反対に使われています。しかしこの二人のお医者様の心の底にあったのは、あたたかい心遣いと人間愛で共通するものだったと気づきました。それでは長く話したら、洗いざらいぶちまけたら相手がわかってくれるのか、自分も相手を理解できるのかと言えば決してそうではないと思います。確かに時間をかけて、ゆっくり話しあうこと、隠し事をしないで話すことはとても大事な事ですが、私たちは別人格ですから相手を100%理解するのは不可能です。

歌人・柴生田稔の著作「折々のうた」に掲載されている歌ですが、「今日しみじみ妻と語りて一致する夫婦はついに他人ということ」別人格である二人がしみじみと語り合った結果として、お互いは決して100%理解し尽くすことはできない他人であるいう結論で一致した。しかもその二人がこれからも手を携えて結婚生活を続けていくという二人の成熟した愛、大人の姿に感銘を受けました。

エーリッヒ・フロムの言葉だったと思いますが、「一人でいられるということは、愛する能力を持つことへの条件である」というのがあります。私たちも言葉がどれほど重要なコミュニケーションの手段であるかを気づくと同時に、その言葉が醸し出す誤解にも心を留めないといけないと思います。口から言葉がでる前は私たちは言葉の主人です。しかしいったん言葉が出た後、私たちは言葉の奴隷となることを忘れず、丁寧に話すこと、相手を傷つけないよう言葉を選ぶ事、どれほど信頼しあっていても100%理解し尽くすことは不可能な事です。そこに相手への尊敬と愛と信頼が生まれます。お互いが許し許される謙虚さをもって、生きていきたいと思います。
2014.06.21 20:31 | 信仰者シリーズ
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今日は、”創造か進化か”ということを考えてみました。

あなたの先祖はサルですか? 
その根拠は何ですか? 
学校でそう教えられたからですか?

もしあなたが進化論を信じ、すべてのものが偶然によって出来上がったと思っておられるなら、その偶然の産物であるあなたの人生に確かな意味と目的を見出すことは不可能です。なぜなら、偶然性の中には意味も目的も存在し得ないからです。

しかし、聖書が教える創造論に基づくならば、あなたの先祖はサルではなく人間です。人間は初めから人間として、しかも偶然ではなく必然的に、素晴らしい意味と目的をもって、神の創造の産物としてこの世に誕生したのです。

では一体この二つの考えのどちらが正しいのでしょうか? これは、どちらでも構わないと簡単に片付けられる問題ではありません。なぜなら、どちらの世界観を前提に生きるかで、この世の人生ばかりか永遠の人生が大きく変わってくるからです。

そこで、この問題に関する皆さんのあらゆる疑問に答えるために、これから時どき、進化論と創造論の比較に役立つ情報を提供しますのでご期待ください。きっと今まで耳にしてこられた生命や宇宙の起源に関する情報が如何に根拠のない誤報であったかに気付かれることでしょう。

ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者セント・ジョルジは、「生命は、長い時間を掛けて偶然に発生した」という進化論の主張に対し、時間がすべてを解決するという論理は絶対に有り得ないとしながら、「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、ギリシャの神殿が勝手に出来上がったと言うのと同じだ」と言いました。

また、イギリスの有名な天文学者フレッド・ホイルは、生命が偶然に発生する確率を計算しましたが、その結果は10の40,000乗分の1という確率になったそうです。つまり、生命が偶然に発生すると信じることは、ゴミ捨て場を襲った竜巻が、そこにあったガラクタを寄せ集めて、ホーイング747を完成させられる、ということを信じるのと同じようなことなのです。

10の40,000乗分の一というのは限りなく0に近い数字です。統計学では、確率が「10の30乗分の1」以下の場合、確率を0とみなしますが、この10の40,000乗分の1という確立は、統計学で「あり得ない」とされる確率の10の1000乗倍以上もあり得ないことだということになります。つまり、生命が自然発生したという進化論学者たちの仮説は、明らかにデタラメだということです。

近年、アメリカを中心に、科学者たちの間に創造論を信じる学者たちが増えています。これまで長きに渡って信じられてきた進化論に代わり、今や創造論が生命と宇宙の起源を的確に説明する科学的な理論なのです。進化論を支持する学者たちが減り、彼らが創造論を支持するようになっている現実は、創造論の確かさを物語るものだと言えます。

 聖書を信じる人々は、「生命は、決して偶然に発生したものではなく、そのすべてが神によって創造された」ということを信じています。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)

人間は、「神によって造られた。」
人間は、「アメーバーから進化してきた。」

あなたは、どちらを信じますか?

今日の一言: あなたの先祖はサルではない。

平安
鶴田健次
2014.06.20 12:53 | 鶴田健次牧師より

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