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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”人間の可能性”ということを考えてみました。

人間の可能性に関して、世の中を見まわして感じることのひとつは、人間の可能性はその人の能力次第ではなく、その人の心次第であるということです。つまり、心が何を信じているかで、その人の生き方は決まってしまうと言っても過言ではないと思います。

もし、その人の心が医者になると決めていれば、その人は将来、医者になるでしょう。もしその人の心がプロ野球の選手になると決めていれば、その人はきっとそうなるでしょう。もちろん、そこには様々な困難の壁が立ちはだかるでしょうが、単なる希望ではなく心が決まってさえいれば、その人はどんな困難の壁があろうと、心が決めた道を突き進み、やがて目標を達成していくのです。

二本指のピアニスト、イ・ヒアさんをご存知でしょうか? 彼女は1985年9月生まれの28歳。先天性四肢奇形で両手に2本ずつ、全部で4本の指しかなく、さらに膝下の足もありません。そんな彼女が、文字どおり、血のにじむような練習を重ねて、世界中の人々に感動を与えるピアニストになったのです。

彼女がまだ5歳のとき、指の関節の力もなく、鉛筆も満足に持てない彼女に、お母さんは関節の力をつけさせようと、ピアノを習わせました。ところが、思うようにピアノを引けない彼女にしびれを切らした先生は、「この子には才能がない」とさじを投げてしまいます。

そこで、お母さんは自分がピアノを習い、それを娘に教えるということを始められたのです。わが子に必要なものを得させるために、愛をもって心を鬼にし、娘がどんなに練習を嫌がっても、それを許さず、一日に10時間以上練習させることも珍しくありませんでした。

ヒアさんは、そのような厳しい母親に対し、「この人は本当に私の母親なんだろうか」と憎しみを覚えることもあったようです。しかし、彼女はその厳しい練習に耐え、信じられない可能性が開花されていったのです。

ヒアさんは、ピアニストとして世界中で活躍するようになった今、「私を産んでくれた母に、私をここまで育ててくれた母に心から感謝したい」、「私の演奏で、多くの人が勇気をもってくれたら嬉しい」と言われます。

一日10時間に及ぶ練習は、確かに彼女にとって過酷な戦いだったでしょうが、そのおかげで、以下のような栄誉に与ることができたのです。

7歳にして学生音楽コンクールで最優秀賞を受賞。
1993年6月、第6回全国障害者芸術大会で最優秀賞を受賞。
1997年10月、初のリサイタルを開催。
1999年、障害克服大統領賞を受賞。
金大中大統領の招きで、青瓦台(大統領官邸)での演奏を行う。
2000年10月、シドニーで開催されたパラリンピックにて祝賀演奏。
2001年5月、世界原子力会議での招待演奏。
2002年4月、愛の音楽会の招待演奏で、江南シンフォニーと協演。
2003年1月、アメリカ、カナダ・ツアーを行い各地で絶賛。
12月には韓国の名ソプラノ、スミ・ジョーと共演。
2004年6月、KBS交響楽団と協演。
2005年2月、カナダ・ツアーを行う。

また数多くのマスコミで採り上げられたほか、童話、マンガ、DVDなど多くの媒体で紹介され、さらに国内外で多数の演奏会を開くなど、立派に障害を乗り越え、多くの人々に勇気と感動を与えています。

それでは、イ・ヒアさんの演奏と練習模様をお楽しみください。

演奏を観ていると天使が一緒にピアノを弾いているようでした。

今日の一言: 心が決まって努力をすれば計り知れない可能性が広がる

平安
鶴田健次

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2014.01.31 09:21 | 鶴田健次牧師より
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今回はラスベガス教会の香織姉妹のお母さまである順子姉妹に、日本で携わっておられるご奉仕の上になされた神様の業のお分かちをしていただきました。以下は去る日曜日の礼拝後に、茶話会形式でお証しして下さった内容です。

脳梗塞による半身マヒを克服し認知症を介護し・介護された経験をお持ちの私の知人Kさんを紹介します。知人は都内で会社経営をしていて倒れてから柏市に住むようになってNPOを立ち上げて「優しい街づくりの取り組み」や柏市が主催する講座の講師をしています。私は柏市主催の講座で知り合い、NPOの手伝いをするようになりました。

Kさんは、会社経営をしていたころ認知症のお母様を自宅で5年間介護されました。Kさんが介護センターの所長をしておられたので介護のプロに囲まれて、良い介護をされたと当時は思っていらっしたようです。その後2004年3月に多忙な生活のためご自身は脳梗塞で倒れ半身マヒになりました。その年の8月に心筋梗塞・肺に腫瘍が見つかり余命の先刻もされたそうです。その後、脳梗塞による認知症で、自分の名前も分からない深刻な症状となりました。ご自分が介護される側になって、お母様に良い介護をしていたと思っていらっしゃったことが一瞬で間違っていたことに気づかされたそうです。

それでも私がお会いした2011年には、健常者としかお見受けできませんでした。

倒れたときに不自由な体に慣れてください。と病院の先生に言われたそうですが、外部のリハビリチームに退院するまでの3ヶ月間一日おきに5時間、辛いリハビリが続けられました。 連載された「東葛まいにち新聞」の記事の中にリハビリの様子が書かれています。

バランスをとる訓練━動く方を使いながら反射で動かない体に良い刺激が伝わって改善するのでしょうか。
声を出す訓練━応援団の学生に1週間目から外食に連れて行かれ、退院するころには10メートル、杖があれば50メートル歩けるようになっていたようです。

認知症はご本人がおかしいと意識するそうです。Kさんも駐車場で車を出そうとした時、エンジンのかけ方が分からない。家に帰る高速の出口が分からず遠くまで行ってしまった。会合の自己紹介でフルネームが出てこなかった。などの症状があったようです。

その後に脳梗塞による認知症と診断されましたが、その時も「忘れるから、新しいことを入れればプラスマイナスゼロですよ。」
の言葉で、通信制の福祉学科の大学へ編入。最初は字を写すこともできなくなっていたそうですが、公民館の学習室で9時から5時まで書いておられたそうです。大学はレポートが合格して試験に望めるそうで、時間はかかりましたが根気よく望み合格できました。

認知症は家族との関係が良くも悪くも影響するそうです。言われる言葉の意味が分からなくなる。それを知られたくないので、適当に返事をする。言いたくても言葉を忘れていて出てこない。家族の方は、出来るだけ具体的に言葉を伝えて欲しいそうです。徘徊については、女性だと子供が小さい時の年令に返っていて、子供が帰ってこないので迎えに出掛けて家が分からなくなる。年齢が若くなっていれば、昔の家を探したり・・。

大きな声で騒ぐことがある。Kさんも鏡に映っている顔が自分と認識できない時があったそうです。知らない人がそこに居る、振り向くといない。怖い思いをされたようです。また、窓ガラスやテレビに映る影も理解できないことがあるようです。

認知症はいつも一緒にいる人には強く出ますが、時々来る人には挨拶したりしっかりと話をあわすので、一緒にいない家族に理解されにくいそうです。

介護予防・生活習慣病の予防、脳の活性化、何かを考える、感じる、興味や関心を持つ、感動するなどが良いとの事で、その一つとして、私も参加していますが、一枚の写真を見て川柳を作ります。これは言葉を探すのでとても良いリハビリになると言っていらっしゃいます。この反対で、投稿された川柳を見て写真の場面を考える、思い浮かべると言う「かがみ遊び」が出来ました。相手を分かろう感じ様とする気持ちを訓練するので、参加された方はいつも使っていない脳の部分を使って面白いと言ってもらえます。

普通生活していてもそうですが、特に認知症の人は好き嫌いがはっきりしており否定されると、その後も良い関係が取れないようです。介護する人の心構えとして、認知症の方の出来ることを見つけてあげる。 違うかなと思っても、まずは「そうですよね」と認めてあげる事が大切だそうです。ラスベガスの皆さんにお会いして、年令に関係なくとてもお元気なので、このことは帰ったら是非お伝えしなければと思っています。

介護される側からの認知症を学ぶ、と言うことで昨年1月からお手伝いをしてきました。今年も2、3月と講座が決まっております。
Kさんのご紹介から、参考になる事がお伝えできたか分かりませんが、本日は大切な時間をありがとうございました。     

2014年1月26日 小林順子

(LVJCCブログ制作チーム:Sao)

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2014.01.29 16:35 | 証し
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ウィリアムズは、1829年7月18日にバージニア州のリッチモンドに誕生し、アメリカ聖公会の宣教師として伝道しました。ウィリアムズの先祖は信仰の自由を求めて、イギリスから移住した清教徒(ピューリタン)でした。両親は共々にこの信仰を受け継ぐ熱心な信者でしたが、父の方は彼の幼い日に戦死した為、母の手一つで養育されました。彼は母の信仰を子供の時から受け入れ、成長してきました。

やがて彼は24歳の時、宣教師となる決心をし、最初は中国に渡って伝道しました。そして30歳を迎えた、1859年6月29日、日本へ最初のプロテスタント宣教師としてやってきたのです。その当時の日本は「切支丹邪宗門禁制の事」、すなわちキリスト教を信じる事を禁止する高札が立てられていて、自由な伝道はできませんでした。それで言葉によらず、行いによって伝道するように心がけ、どんな人に対しても親切を尽くして助けました。

ウィリアムズは、1866年に日本聖公会の主教(監督)に任命されました。監督といえば月給が当時の額で700~800円だったそうですが、彼は月15円で生活していました。いつも粗末な食事ですませ、冬はストーブも焚かず、服といえば古物屋から買って着ていました。ある時、駅の待合室で「乞食は向こうに行け」と駅員に叱られたので、彼は「ハイ、ハイ」と頭を下げて言われるままに隅にいますと、しばらくして大勢の信者たちが見送りにやってきたので、先の駅員は誰であるかを知ってビックリしたと言うことです。

ウィリアムズ監督の家には炊事人の方がいましたが、買い物をすると、彼は「もっと安い物と代えてきて下さい」と言って買いかえさせました。あまり度重なるので炊事人はそれを嫌って、「監督さん、こんなにされてはたまりませんから、おひまを下さい」と言って出て行こうとするので「そうですか、仕方ありません」、そう言ってから何か持ち出してきました。それは何百円かの貯金通帳で「これは買いかえてもらった時の、浮いた分をあなたのために貯えたものです」と言って差し出したので、炊事人は驚き自分の不信得を深くわびて、それからは忠実に仕えたということです。このように貧しい生活に徹して、残ったお金をみな主のために捧げました。ウィリアムズは、東京、大阪、京都など8箇所近くも教会堂を建て、また学校(立教大学、立教女学院等)も創立し、信仰と教育と尽力したのでした。

ウィリアムズはあまり日本語は得意でありませんでしたが、その話には不思議な魅力がありました。また誰でも彼を見れば、イエス様を見るような気がして、時には仏教のお坊さんが、その人格の気高さに打たれたということです。日本へ30歳の時来られて79歳まで伝道し、力の限り働き通されたので、頭も体も働くなくなり困難をきたしましたので、人の厄介になるのはいけないと思われてか、ある日こっそりと日本を離れ、母国アメリカで日本人の救いのために祈り続け、ついに82歳で眠るが如く天国に行かれたと言う事です。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.01.26 22:33 | 信仰者シリーズ

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