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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、 ”ネルソン・マンデラ”のことを考えてみました。

「人類に対する犯罪」と言われた南アフリカ共和国の人種隔離政策(アパルトヘイト)と闘い、ノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラ氏が12月5日午後8時50分に死去されました。95歳でした。アパルトヘイト撤廃を実現し、同国で初の黒人大統領になった後も、黒人が白人に報復することを許さず、人種融和の象徴として世界中から尊敬を集めた偉大なリーダーです。

12月10日に持たれたマンデラ氏の追悼式では、参列した各国の首脳たちが故人の功績を讃えました。

オバマ米大統領  「一人の人間に対するいかなる期待をも超える功績を残した。歴史上の巨人だった。国家を正義に導き、世界中の何十億の人々を揺り動かした。」

潘基文(バン・キムン)国連事務総長  「許容することの偉大な力を示し、真の平和で人々を結びつけた。身をもって教えてくれる偉大な教師だった。自由、平等、民主主義、そして正義のために多大の犠牲を払った」

ルセフ・ブラジル大統領  「彼の闘いは国境を越えて、社会的正義のために闘う若者や女性を鼓舞した」

キャメロン英首相  「世界から偉大な灯が消えた」

マンデラ氏は、1918年、南アフリカ連邦トランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれます。大学中退後、黒人の政治組織アフリカ民族会議(ANC)に参加し、反アパルトヘイト運動を主導しました。1950年、ANC青年同盟議長に就任。1952年にヨハネスブルグにて弁護士事務所を開業し、同年、ANC副議長就任を経て、1961年、「民族の槍」という軍事組織を作り最初の司令官になります。

1962年、それらの活動などを理由に、白人政権はマンデラ氏を逮捕し、投獄しました。反逆罪などで終身刑を宣告され、獄中生活は27年あまりに及びましたが、その間も、白人至上主義と闘い、黒人至上主義と闘い、必要なら命をささげる、と反差別を訴え続けたのです。

1990年、デクラーク大統領(当時)により釈放された後は、ANC議長として民主政権への平和的移行に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞しました。翌年、南アフリカ初の全人種による議会選挙を経て、大統領に就任し、肌の色が異なる人々が共存する「虹色の国」を掲げました。そして、貧しい生活を余儀なくされていた黒人層に、政府が主導して住宅や教育を受ける環境を整えたのです。

マンデラ氏の数々の偉業の中でも、特に目を引くものが二つあります。一つは、抑圧の中にありながら不屈の精神と度量の大きさと人間の尊厳を示した点で、世界の誰よりも人々を鼓舞したことです。マンデラ氏は、すべての男女は生まれながらにして平等であるという信念のために、27年以上を獄中で過ごしました。

ロベン島の刑務所に収監されていた苦難の時代には、マンデラ氏は鉄格子の中にいながら、持ち前の忍耐力とユーモア、許しの力のおかげで、彼をそこに閉じこめ、自らの品位を落とす偏見に縛られた者たちよりも、むしろ自由に見えました。それどころか、マンデラ氏の看守たちは、後に彼の最も熱烈な支持者となったのです。

二つ目の大きな功績は、南アフリカの変革を指揮監督し、汚らわしさと狭量さの代名詞だったこの国を、少なくとも方向性としては、すべての国民が肌の色にかかわらず敬意をもって扱われる権利を持つ「虹の国」へと変えたことで、これはほとんど奇跡と言える偉業です。マンデラ氏の政治信念は、一言で言うなら「政敵を尊重する度量」だと言えます。

彼は1994年に大統領に就任しますが、普通ならば、27年間も刑務所に入れられて、酷いことをされたのですから、最高権力を用いて復讐をすることもできたのです。実際、多くの同志達が、その事をマンデラ氏に進言しました。しかし、彼はそうすることを許さなかったのです。

感動的な話の一つは、獄中でのマンデラ氏の生き方です。

通常ならば、終身刑で刑務所に入れられれば夢も希望もなくなります。しかし、マンデラ氏は、「刑務所にいる白人の看守達を偏見のない人達、自分の味方、仲間に変えることができれば、南アフリカ中の白人を変えることができる」と思い、刑務所を一つの修行の場のように考えたそうです。実際、マンデラ氏は少しずつ白人看守の友人達を増やし、刑務所の中の環境も少しずつ変えることに成功していくのです。

投獄生活を経て大統領になったことと言い、刑務所の看守たちに尊敬される生き方をしたことと言い、旧約聖書に登場するヨセフを彷彿とさせます。マンデラ氏は、メソジスト教会出身のクリスチャンとして信仰に生きた人です。あのヨセフが常に神が共におられる人生を歩んだように、マンデラ氏も常に神が共におられる人生を歩むことで、この偉大な業績を残すことができたのです。

たとえどんなに酷い環境に置かれても、すべてを神の摂理の中での出来事として捉え、そこに意味を見出していく生き方、それがマンデラ氏の生涯から学ぶ教訓ではないでしょうか。

今日の一言: すべては神の摂理の中に

平安
鶴田健次

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2013.12.18 13:07 | 鶴田健次牧師より
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尾崎一夫師は1963年6月、太平洋放送協会(PBA)から電波宣教師として南米エクアドルの首都キトに遣わされた。HCJB日本語放送「アンデスの声」は翌年から始まり、短波ブームの中で世界各地の当時の中高生を中心に全国でリスナーを獲得。多いときには一ヶ月で約7000通の便りがエクアドルに届いたことも。77年の帰国時に尾崎師は、新潟で開かれたBCL(ブロード・キャスティング・リスナー:海外放送受信視聴者)ファン大会で中学生ら1000人を前に福音を伝えた。またこの働きは約40年の間、主に支えられ続けられました。

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)ペテロは、イエスの御言葉に従順し、網が破れそうなくらいのおびただしい魚を得た。尾崎牧師は、まさにイエスから召命をうけて未開の地、南米エクアドルという「深み」に漕ぎ出して始まり、ブラジル全土の福音化と日本の福音宣教に大きく貢献しました。ラジオ伝道の働きも「主ご自身がなさった」と告白し、栄光を神に帰したのです。

ある集会で尾崎牧師はこのように語られていました。「信仰は、人知を超えた神の力と働きに触れるところから始まる」「自分の足りなさをありのまま認める、その決断がすべてを変える。神の前で自分がどれだけ無力かを体験させられたとき、信仰が芽生える。」すべて人は、自分の意思で生まれてきたのではなく、人の命はすべて「与えられたもの」である。では、この「与えられた」人生をどのように歩むかにかかっている。

旧約聖書の創世記に登場するヤコブは、実の兄から命を狙われ、最愛の父母のいる故郷を離れて一人荒野で旅をするという八方ふさがりの状況の中で、神からの約束を受けた。そこで彼は、「主が共にいてくださる」ことをはっきりと体験した。尾崎牧師は、頭で聖書を理解するだけでなく、「主が共におられること」を心で受け止め、主を身近に感じるようになることが最も大事だと伝えた。ヤコブが見た夢は、神ご自身がヤコブに見ておられる夢でもあった。主イエスの血潮によって罪をあがなわれ、神の子とされた一人ひとりにも同じく、神は必ずそれぞれに特別な夢を持っておられる。最後に尾崎師は、神がいつも「私とともにいる、私を助ける」方であることを説き、また自身が神が共にいてくださる体験により、主にある働きを続けられたと語られました。

私達も主から与えられた賜物をもって、神に栄光を帰すために労していきたいと願います。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.12.15 21:47 | 信仰者シリーズ
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今日は”すべての出来事には理由がある”ということを考えてみました。

この美しい物語は、すべての事は理由があって起こることを教えてくれます。

新米の牧師とその妻が、ブルックリンの郊外にある教会を再開させるために最初の奉仕先として任命され、10月初旬、大きな期待を持ってやって来ました。彼らが教会を見ると、それは古びていて、かなり手を掛ける必要がありそうでした。二人は最初のクリスマスイヴの集会までに手直しを終えるように予定を立てました。

彼らは一生懸命に働き、礼拝堂の席を修理し、壁の穴を埋めてペンキを塗り、色んなところを直して、12月18日の時点では予定日までにすべてが終わりそうに見えました。ところが、12月19日に突然その地域一帯がハリケーンに見舞われ、二日間に渡って暴風雨が続いたのです。

ハリケーンが通り過ぎた21日の朝、その牧師は急いで教会に行きました。彼は、屋根が漏って、礼拝堂にある講壇のすぐ後ろのしっくいの壁が横20フィート、縦8フィートに渡って剥がれ落ちているのを見て心が沈む思いでした。彼は床に雑然と散らかったゴミを綺麗にし、クリスマスイヴの集会を延期する以外なにも考えられないまま家路に着きました。

途中、彼は慈善目的の”蚤の市”のようなものをやっている所を通りかかったので立ち寄ることにしました。彼が見たものの中に、美しい手製の象牙色をしたクローシェ編みのテーブルクロスがありました。それは中央の右側に綺麗な色の十字架の刺繍があり、まさに礼拝堂の前面壁の穴をカバーするのにピッタリの大きさで、さっそく彼はそれを買って教会に戻りました。

いつの間にか辺りは雪が降り始め、そこに一人の年老いた婦人が反対の方向からバスを捕まえようとして走るのが見えましたが、残念なことに間に合いませんでした。そこで、その牧師は彼女に次のバスが来る時間まで暖かい所で待つようにと教会の中に招き入れました。

彼女は礼拝堂の席に座り、牧師が梯子やいろんな物を使ってテーブルクロスを壁掛けのようにして壁にかけるのを見ていました。壁にかけられたテーブルクロスはとても美しく、崩れ落ちた壁のすべてをすっかり覆い隠すことができました。

その直後、牧師はその婦人が中央の通路を前に歩いて来るのに気づきました。彼女の顔は驚きで血の気を失った者のようでした。そして突然、「牧師先生、このテーブルクロスはどこで手に入れましたか?」と彼女は尋ねました。牧師はそのいきさつを説明しました。すると彼女は牧師に右側の下に”EBG”というイニシャルの刺繍がないかチェックしてもらえないか頼みました。すると、そこにイニシャルが確かにありました。それはその婦人のイニシャルで、このテーブルクロスは35年前にオーストリアで彼女が編んだものだったのです。

婦人は、牧師からどのようにしてそのテーブルクロスを手に入れたかを聞きながら信じられない思いでした。彼女は、戦前、彼女たち夫婦がオーストリアの裕福な人々であったことを説明しました。ナチスが来たとき、彼女は強制的に国外退去を命じられました。彼女の夫は次の週に彼女の後を追う予定でした。ところが彼は捕えられ、刑務所に送られ、それ以来、彼女は二度と夫に会うことはありませんでした。

牧師は、彼女にそのテーブルクロスを返そうと思いました。しかし、彼女は牧師にそれを教会のために使って欲しいと伝えました。牧師は彼女を家まで送らせてもらうことがせめて自分に出来ることだと思い、ぜひそうさせて欲しいと言いました。彼女は、スタテン島の反対側に住んでいて、ブルックリンには家政婦の仕事のために来ていたのです。

クリスマスイヴの集会は大盛況で、教会は満員でした。賛美とクリスマスのメッセージはとても素晴らしいものでした。集会が終わると、牧師と彼の妻は出口でみんなに挨拶をしました。多くの人々が、また来ると言って帰って行きました。

牧師は、じっと一人席に座って前を見ている老人に気づきました。牧師は、なぜ彼は帰らないのだろうと思いました。しばらくして老人は牧師にそのテーブルクロスをどこで手に入れたかと聞きました。なぜなら、それが戦前に彼の妻がオーストリアで作ったものとそっくりだったからでした。

彼は、ナチスがどのようにして来たか、どのようにして安全のために妻を逃がしたか、また一週間後に彼が妻の後を追う予定であったこと、しかし彼は逮捕されて刑務所に入れられたことなどをすべて牧師に話しました。彼は35年の間、一度も妻に会っていないことを話しました。

牧師は、もし時間があるなら、しばらくドライブをしませんかと老人に尋ねました。彼らはスタテン島まで車で行き、三日前に婦人を送って行った同じビルに連れて行きました。そして、婦人のアパートの前に立たせ、ドアをノックさせました。すると、そこに彼はこれまでに味わったこともない素晴らしいクリスマスギフトを見ることができました。


これは実話です。神はまさに人の思いを越えた不可解な方法で働かれることを知ります。神はあなたの行く道を守り、いつもあなたと共におられます。神の約束は真実です。あなたの道が険しいときも神はあなたと共におられます。そして、神はすべての事を相働かせて益としてくださる方であることを知る者は、すべての事は理由があって起こるものであることを知るのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ書8:28)

今日の一言: すべての出来事には理由がある

平安
鶴田健次
2013.12.13 10:06 | 鶴田健次牧師より
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先週の日曜に Palomar Japanese Baptist Churchを訪れ、私自身感じたことがあり、今回はそれをシェアさせていただこうと思います。

私は、最近日本やカリフォルニアのいくつかの教会を訪れる機会を頂きました。

ラスベガスに一つしかない日本人教会に比べ、日本やカリフォルニアにはなんと多くの日本人教会があることでしょう。大きい教会から小さな教会までたくさんの教会があり、地域により、宗派によりなんとも多くのチョイスがあることでしょうか。

その中、私が訪れたカリフォルニア・サンディエゴのPalomar Japanese Baptist教会は、ラスベガス日本人教会に比べ、規模も人数もそんなに大きくない教会でした。

教会には、毎週牧師先生が遠方から通われているそうで(先週の記事参照)、日曜日は礼拝が持たれていますが、週の半ばの水曜日祈祷会や早天祈祷会などは、行われていないそうです。

「霊の糧が確保できない状況の中で、霊的補充をするのは難しい」と教会に通う姉妹からも度々お話を伺っていましたが、集まれる方だけで聖書の交わりもされているということを聞いて、とても心を打たれました。

私は、ふと大きな気づきを得ました。私達のラスベガス日本人教会はそんな大きな教会というわけでもないけれど、祈祷会も早天祈祷会もおこなわれている。一方は、「行きたいのに行けない選択を強いられている」例と、「行けるのに行かない選択をしている」例の、この大きな二つの霊的状態の違いを示され、自分の信仰生活は本当にこれでいいのですか?と、神様に問われたように思いました。

私は子供が3人いるので、確かにイベント事に参加するのは躊躇します。しかし、それは神様の御心なのでしょうか。神様は、私達に選択の自由を与えてくださいましたが、子供に限らず、仕事や家族、色々な神様のみ前に行けない理由を探してはいませんでしょうか?

私のあの罪のために、私のあの傷のために、イエス様は十字架についてくださいました。それを思うなら、私は何を優先するべきかは一目瞭然であります。

今の私の現状は、仕事があるので、祈祷会に出席するのは困難ですが、まず出席したいと思う気持ちと、出席できるように祈ることの大切さ、そして、正しい時に正しい選択ができるように自分の祈り求めることの重要さを示されました。

「心の貧しい人は幸いである。」と、聖書にもあるように、私達は神様により頼む状況があること事態が、幸いなのであることに気付かされました。

肉の目に見て、整っていない部分を通して、神様のみわざが現れる可能性を多大に秘めている大きな希望を頂きました。
ハレルヤ!主のみなを賛美いたします。

ブログ制作チーム: Sao


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2013.12.11 14:35 | 証し
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斉藤宗次郎は1877年、岩手県花巻で禅宗の寺の三男として生まれました。やがて彼は小学校の教師となり、国粋主義的な思想の持ち主でありました。しかし内村鑑三の本に出会い感動し、聖書を読むようになりました。その後1900年の冬、23歳の時に洗礼を受け、花巻で初めてのクリスチャンになりました。

斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは、12月の雪の降り積もった寒い朝の6時でした。洗礼の場所になった豊沢川の橋の上には、大勢の人が見物にやって来ました。キリスト教が「耶蘇(やそ)教」「国賊(こくぞく)」と迫害を受けていた時代だったからです。

洗礼を受けた斉藤宗次郎に対して、花巻の人々は冷たくあたりました。親からさえも勘当され、生家に立ち入るのを禁止されました。また彼の長女の愛子ちゃんは、学校で耶蘇の子供と呼ばれお腹を蹴られて、腹膜炎を起こして看病のかいもなく数日後に死亡しました。たった9歳の少女でした。人々に何も悪いことをしたわけではないのに、斉藤家族は迫害されたのです。宗次郎はまた、日露戦争に反対したということで岩手県教育会から追放され、小学校教師の職を追われてしまいました。  

教職を追われた後、彼は新聞配達をして生活しました。彼は新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈りました。朝3時から夜9時まで働き、その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時としました。そのような厳しい生活の結果、ついに結核にかかり幾度も喀血しましたが、しかし不思議と体は支えられ、そのような生活が20年も続きました。朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけました。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けたのです。新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。

そのような生活の中でも、宮沢賢治と農学校での親しい交流がありました。新聞配達も20年という年月になる頃、内村鑑三の要請を受けて、宗次郎は東京に出る決心をしました。宗次郎は自分を見送ってくれる人は一人もいないだろうと思いつつ駅に向かいました。ところがその駅には、花巻の人達が大勢見送りに来ていたのです。その中には町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、神社の神主や僧侶までもいました。さらに一般の人たち、生徒たちも来て駅じゅう人々でごったがえしていたというのです。人々は宗次郎が普段からしてくれていたことを見ていたのです。東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものであったといいます。  

斉藤宗次郎は、内村鑑三を師と仰いでいました。当時、内村鑑三を師と慕う人は多数いたのです。しかしまた内村鑑三に師事しながら、彼のもとを離れていった人々も多くありました。内村鑑三は、「聖書の研究」という著の中で「弟子をもつの不幸」という文を書いています。そのような中で、斉藤宗次郎は内村鑑三の臨終に立ち会い、最後まで弟子であり続けた人でした。彼は内村鑑三の死後、内村鑑三の著作を出版することに全力を注ぎました。斉藤宗次郎が宮沢賢治から手紙を受け取った5年後に、「雨にも負けず」の詩が書かれたことが分かっています。この詩は宮沢賢治が病床で書いた詩であり、遺稿と言われているものです。彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれていました。  

この詩のモデルが斉藤宗次郎であると言うことの決定的証拠はありません。しかし宮沢賢治の周りにいた人物で、この詩の人物にぴったりと当てはまるのは斉藤宗次郎であることも事実です。真偽は別にしても斉藤宗次郎の生涯から、聖書の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」(ロマ 12:14) の言葉が聞こえてきます。宮沢賢治は「雨にも負けず」の詩の最後に、「そういう者に私はなりたい」と記しています。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.12.08 23:39 | 信仰者シリーズ

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

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