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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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イエス・キリストが十字架にかかられて後、約40年後の紀元69年頃に、ポリュカルポスは生まれました。彼はヨハネの福音書やその手紙、黙示録の著者である使途ヨハネの弟子であり、そのために様々な教えをヨハネから受けたと言われています。彼は幼い時から、キリストを信じる家庭に育ち、その上ヨハネのような先生から教えを受けたのですから、良きクリスチャンとなり、後にはスミナル市(現在トルコ国)の教会監督になりました。

スミナルの監督になって、紀元110年にはピリピ教会の求めに応じて手紙を書き、その中で、「徳を重んじ善を行う生活をし、キリストにある信仰によって救われたのだから、万一、死ぬような事があっても信仰を捨ててはならない」と、勧めました。当時のクリスチャンへの迫害は相当なもので、ポリュカルポスにもその危機が迫っていました。

彼がある一軒の農業の家に泊まっていた時、ついに兵士が捕らえようとやって来ました。信徒達は、彼を隠そうとしたのですが、彼は少しも恐れず静かに2階より下りてきて、兵士達に挨拶すると、その家の者に命じて食事を整え、親切にもてなしました。この悠揚とした老聖徒を前に兵士達は、ただ頭を下げて敬意を表すばかりでした。

ポリュカルポスは、一時間程祈る時を与えてくれるように頼むと、ひざまずいて祈り続けました。祈っているうちに彼の心は歓喜に溢れ、黙しておられなくなり思わず口を開き、イエス・キリストの救いを話し出しました。兵士達は、この老聖徒の話に感じ入り、逮捕することを恐れました。しかし、市長の命令とあらばやむをえません。彼はロバにの乗せられると都にひかれて行きました。すると役人達が交互にやって来て、改宗させて命を助けようと図りました。しかし誰も彼の固い決心をひるがす事ができませんでした。

ついに、役人達は怒り、ポリュカルポスの老体を、ロバから引きずり下ろして刑場に運びました。その時、突然天から声がありました。「ポリュカポスよ、勇め」そこにいた人々は、その不思議な声を聞きましたが、姿を見る事はできませんでした。

聖人と言われた名高いポリュカルポスが、闘技場で処刑されると言うので、大群衆が押し寄せて、かたずを呑んで見守っていました。執行官が彼に最後のチャンスを与えようとして言いました。「キリストを呪え、そうすれば助けよう。」ポリュカルポスは答えました。「私は86年間、キリスト様に従い続けてきましたが、その間ただの一度も私に不幸をお与えにならず。恵みのみを与えてくださった。こんなにまで私を愛して下さる主を、どうして呪うことができましょう。」

そこで執行官は「もし命令に従わねば、猛獣の餌食にするがよいのか」「たとえ、どのようにされても、公平に扱って下さる神のみもとに行くだけです。」「猛獣を恐れぬのなら、火で焼き殺されてしまうがどうじゃ。」「火であるとな。それならば、しばらく燃えてすぐ灰になる。本当に恐ろしいのは、来るべき審判の火と永遠の刑罰である。」

そのように答えると、ポリュカルポスの顔は喜びと確信に満ち溢れ、実に平和な顔で微笑んでいます。これを見ていた群集は激怒し、「火で焼け!」「焼き殺せ」と叫び、たちまち山のような薪を運びこみ、彼をその真ん中にはりつけにして、火をつけました。

火炎は天をも焦がす勢いで燃え上がりました。ところがどうした事か、炎はまるでアーチのようにポリュカルポスの身体を取り囲み、少しも焼けないでいたのです。群衆は彼の眩しく輝いている顔を見ているだけでした。執行官はやむなく兵士に命じて、彼の脇腹を槍で突いて殺したのでした。群集は、この有様を見て、神が彼と共にいたことを認めるほかはなく、感動し胸を打って立ち去りました。

「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。ダニエル書3:16-18」

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.09.30 12:30 | 鶴田健次牧師より
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今日は、"生きがい"ということを考えてみました。

心の中にぽっかりと穴があいているような虚しさ・・・・、これは誰もが感じたことのあるものではないでしょうか。どんなに豊かな生活をしていても、あるいはどれだけ能力があって、自分のしたい事を出来ていても、それだけでは満足できない・・・、それが人間というものではないでしょうか。

いかなる動物も"生きがい"を求めて悩んだりしません。人間だけが、生きがいを求め、生きる目的や意味を考えるのです。なぜでしょうか? パスカルは『人間の心の中には神によってでしか埋められない真空状態がある』と言いましたが、神との愛の関係を持つように造られた人間は、神との愛の関係を持つまではその心が満たされることがないからです。

今から3000年ほど前、栄華を極めたイスラエル王国のソロモン王は、すべてのものを手に入れた後にこう言いました。

そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。(伝道の書2:11)

これは、富と権力を欲しいままにし、知恵ある者としての名声を博したソロモンの言葉です。人類史上、最大の富と権力と最高の知恵が与えられた王様が自分の実体験から、人が求めているこの世のものは結局は何一つ益となるものはないと言っているのです。

しかし、それでも人は必要以上に富と権力と名声を求め、人を軽んじる自己中心の心が競争社会を生み出し、人の心から"生きがい"を奪い取っているようにも感じられます。

では、"生きがい"とは一体どこにあるのでしょうか? その一つのヒントが私たちの日常生活の中にあります。私たちは誰かの役に立っていると感じた時に何とも言えない満足を覚えるものです。たとえそのために自分の何かを犠牲にしなければならなかったとしても、誰かの役に立ったことで私たちの心は喜ぶのです。

つまり私たちの心の中には、自分が損をしても他の人が得をすることが嬉しいという心根があり、そこに私たちはある種の"生きがい"を見出すのです。また反対に、自分が得することばかりを追い求めていくならば、だんだん人が自分から去って行き、多くのものを失う結果になります。聖書にこんな言葉があります。

施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(箴言11:24)

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ6:38)


見返りを求めないで与え、他者のために生きる時、かえって自分が豊かに生きる力が与えられ、私たちの心は満たされるのです。ところが、いくら見返りを求めないとはいえ、与えても与えても、なお裏切られることがあるものです。そんな時、がっかりして、他者のために生きることを止めてしまうと、いよいよ心は貧しくなってしまいます。

そこで私たちが知らなければならないことは、私たちの心を豊かにする「他者のために生きる」という人生において、本当の「他者」とは誰なのかということです。それは決して私たちを裏切ることのない『神様』であり、この方ために生きる時、私たちの心は本当の”生きがい”を覚え、また生きる力が与えられるのです。

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。(第一コリント10:31)


今日の一言: 神様のため、人のために生きよう。

平安
鶴田健次

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2013.09.27 14:54 | お知らせ
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杉原千畝(すぎはら ちうね)は、第二次世界大戦を経験したユダヤ人達にとって忘れることのできない日本人です。いまや彼の名前が着けられた道がイスラエルにあるほどなのです。第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人大虐殺を逃れようとして難民となったユダヤ人の命を救ったのが、杉原千畝なのです。その数は六千人に及びます。その時、杉原千畝はバルト三国の一つ、リトアニアの首都カウナスの日本領事館で代理領事をしていました。

ナチス・ドイツのヒットラーがユダヤ人狩りを続けていました。1940年7月27日の朝、千畝は物凄い数の人々の声に驚いて目を覚ましました。その声は、ポーランドから歩いて逃げてきたユダヤ人難民の声だったのです。彼らの願いは、ソ連を通り日本を経由して第三国へ移住するための、日本通過ビザの発給を求めてのことでした。既にオランダもフランスもドイツに破れ、逃れる道はシベリアから日本を経由して他国に逃げる道しかなかったのです。

杉原千畝は、さっそく外務省に電報を打って、日本入国許可のビザの発行可否を問い合わせました。しかしそれに対する返事は非常にも「否」でした。当時日本は、イタリヤ・ドイツとの三国同盟を結ぼうとしている時でした。同盟国のドイツの気に食わない事はしたくないと言うのが本音だったのです。迫り来るユダヤ人達の悲痛な姿を見て千畝は悩みました。日本人として国の命令に従うべきか、日本の命令を無視してでも人々の命を守るべきか苦悩しました。彼はついに決断しました。独断でビザに署名し発行することを選んだのです。その時千畝は「ビザを出さなかったら神に背くことだ。私は自分の責任においてビザを発行する」と言ったといわれています。彼は若いころにロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンでした。また杉原夫人も、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意しました。

8月1日、ついにビザ発行の言葉を聞いた瞬間、ユダヤ人たちは抱き合い、躍り上がって喜んだとのことです。8月3日ソ連軍がリトアニアを併合し、外国領事館の退去命令が出されます。杉原は退去期限ぎりぎりまで、朝から晩まで一日中ビザを書き続けました。ついに用紙も無くなり、ついには周りの紙切れに書きました。不眠不休で書いたそうです。9月1日早朝、ついに杉原はリトアニアを離れなければならない時が来ました。彼がベルリン行きの国際列車に乗っても、大勢のユダヤ人が駅のホームまで押し寄せて来ていたと言います。杉原は窓から身を乗り出してビザを書きました。そのビザに救われたユダヤ人は6.000人以上と言われています。1940年10月6日から翌1941年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されています。

終戦後、千畝は日本に帰国しましたが、外務省を退職させられます。彼は黙って外務省を去っていきました。ビザを書いてから28年が経った1968年8月のある日、突然イスラエル大使館から杉原のもとに電話がかかってきました。参事官ニシュリが「会いたい」と言ってきました。杉原が行ってみると、彼は一枚のボロボロになった紙切れを見せて、「あなたが書いて下さったこのビザのお陰で、私は救われたのです。私はあの時、領事館であなたと交渉した5人のうちの一人、ニシュリです」と言ったのです。さらに翌年の1969年、杉原はイスラエルに招待されました。彼を迎えたのは宗教大臣バルハフテイツクでした。彼も杉原に救われた一人だったのです。1985年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を授賞しました。杉原夫人は「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神にカウナスに遣わされたのではないかと思ったものです」と後に述べています。

このことが新聞やテレビで報道され騒がれ始めましたが、彼はただ一言「当然のことをしただけです」と謙遜に語りました。

「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。ルカの福音書17:10」

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.09.25 12:42 | 信仰者シリーズ

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