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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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「エリザベス・サンダーホーム」は神奈川県大磯にある社会福祉施設です。この施設は1948年に一人の日本人女性の手で築かれました。その女性の名は澤田美喜さん。美喜さんは1901年三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれました。彼女の生まれた家は、東京の本郷にありましたが、当時岩崎家は、全国に多くの所有地を持っていました。美喜さんは、御殿のような本郷の家で何不自由のない生活をして育ちました。その家は現在「旧岩崎邸園」となっています。

美喜さんがキリスト教に最初に触れたのは、病気療養のために大磯の別荘にいた時でした。ある夜、お付きの看護師の聖書を読む声が聞こえたのです。その聖書の言葉は「汝の敵を愛せよ」と言う箇所でした。その聖書の言葉が美喜さんの心を捕え、キリストへと導いたのです。 しかし岩崎家の祖母は、キリスト教への関心を強く持ったのを警戒して、通っていた学校も友人から聖書をもらったことから、退学させてしまうほどだったのです。美喜さんが21歳になった時、外交官であった澤田廉三との縁談が起こりました。彼女は彼の家族がクリスチャンということで結婚を決意しました。それからは大手を振って教会に通うようになり、また4人の子にも恵まれ、外交官の妻として各国を夫と一緒に渡り歩きました。

1931年から2年間ほどイギリスにいた時のことでした。ある老人から勧められて「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院を訪問しました。その時、彼女は強い衝撃を受けました。そこには孤児と言う暗さがみじんもなく、教会も学校もあり、子供達が明るく生活しているのを見たからです。美喜さんはしばらくそのホームでボランティアをさせてもらいました 。

第2次世界大戦後、日本は戦争に敗れ進駐してきた米軍が多くいました。兵士と日本女性から誕生した子供たちが、全国各地で軽蔑・迫害され、母親が育てられなくなっている事が多く起こっていました。日本に帰国後のある日のこと、美喜さんが汽車で旅行していました。汽車の網棚は、闇などの物資でいっぱいでした。その中のひとつ風呂敷包みが、彼女の膝に落ちてきたのです。それが警察に見つかり、闇物資の疑いをかけられ、開けるよう命じられました。仕方なくしぶしぶ開けると、混血の赤ちゃんの死体がその中から出て来たのです。それを見て警察も周りの乗客も、この子は美喜本人の子ではないかと疑ってかかりました。ようやく自分の子ではないことを知ってもらいましたが、その時美喜さんは「お前が一時であってもこの子の母親とされたなら、どうして日本国中のこうした子供達の母親となってやれないのか・・・」と神様の声を聞いたと言うのです。美喜さんは、私はこのような孤児たちを助けなければならないと使命を感じました。ご主人もそのことを理解してくれたといいます。

そして、美喜さんの心に大磯の岩崎家の別荘を買い戻して、この子供たちの為にホームを作りたいという思いが湧き上がりました。しかしその土地は、戦後没収され、進駐軍の物になっていました。米軍に日参して頼み込むと、それなら返しても良いが条件がある。400万で買い取ること。そして、買い取った土地はその後三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言うものでした。美喜さんは自分の家の全てを売り、どうにか買い戻すことが出来ました。

しかし建物のお金はありませんでした。その時イギリス人女性のエリザベス・サンダースさんが召され、その遺産をホームに捧げるようにしてあったのです。神様のお計らいで、思わぬ捧げ物がホームの最初の献金となりました。その事を感謝して、ホームの名前も彼女の名前エリザベス・サンダース・ホームにしたのです。その時、彼女は46歳でした。

その後も、ホームがスムーズに運営されたわけではありません。日本人からは敵の血を引く子をなぜ育てるのかと言われ、アメリカ側からは「混血孤児達の救済は反米運動につながる」と圧力がかかりました。ある時は、ホームの解散をGHQの将校たちが強く迫ってきました。その時美喜さんは「一度捨てられた子供を、もう一度捨てろというのか!」と抗議したと言います。そのような苦労の中で貫かれた混血孤児を助ける働きは、ついには2000人以上の子供達を育て上げたのです。まさに信仰の力です。

澤田美喜さんは1980年5月12日、スペインの旅行中に78歳で召されて、その生涯を閉じ主のもとへと引き上げられて逝きました。 ホームの子供たちからは「ママちゃん」「ママちゃま」と親しまれた美喜さん。日本で一番のママかもしれません。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.08.31 18:41 | 信仰者シリーズ
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今日は、”隣人に対する責任”ということを考えてみました。

「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。また聖書は、「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきである」と教えています。

世の中には、人知れず負いきれない重荷を背負って生きている人々がいるものです。そういう現実の中で、もし私たちクリスチャンが、自分のように隣人を愛し、強くない人たちの弱さを担うことを心掛けるなら、多くの人を救うことができるかも知れません。

先日、こんな記事が目に留まりました。

2006年2月1日、京都市の桂川河川敷で、冷たい雨の降りしきる中、2人の血まみれの男女が発見された。女性の方はすでに死亡していたが、男性の方はまだ息があった。無職片桐康晴被告(当時54歳)と、その母親小ふじ(86歳)さんで、無理心中を図ったのだ。

片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、結婚していなかった片桐被告は、一身で母親の世話を引き受け、夜中も母のトイレに1時間おきに付き添い、睡眠不足のまま出勤する生活が5年続いた。

昼夜を問わない必死の介護にも拘わらず母親の症状はますます進み、片桐被告が仕事してる間にも、徘徊して警察に保護されるなどの症状が2回も起きた。デイケアを利用したが介護負担は軽減しなかった。仕事を休職して介護に当たるが、05年9月に「いつまでも迷惑をかけられない」ということで、休職中の工場を退職。

生活保護を申請するが、失業給付金などを理由に認められなかった。ハローワークに通い、介護と両立できるような仕事を探したものの、時間的に都合の良い、思うような仕事は見つからなかったという。

そして05年12月、失業保険の給付が終わり、カードの借り入れも限度額に達した。年が明けて06年1月、翌月分のアパートの家賃やデイケア代も払えなくなり、経済的に行き詰まってしまった。職人の父から「人様に迷惑をかけるな」と厳しくしつけられた被告は「命をそぐしかない」と、1月31日、心中を決意した。

その日の朝、自宅をきれいに清掃し、昼頃、出刃包丁とナイフを持ち、母親を殺して自分も死ぬ覚悟で家賃の払えなくなったアパートを出た。車椅子の母親を押し、最寄りの京阪淀駅から三条駅へ向かい、「最後の親孝行に」と、京都市内を散策した。お腹がすいた2人は、コンビニで残りわずかなお金でパンを買って、2人で分けて食べた。

その後、三条駅から淀駅に戻ってきたが、アパートには帰らず、ついに夜が明け、翌2月1日早朝、アパート近くの桂川に架かる宮前橋付近の遊歩道にたどり着いた。前日の昼過ぎに家を出てから、真冬の底冷えする京都の街を一晩中、家にも帰らず、佇んでいたのだ。

片桐被告は、眠っている母の殺害をずっと躊躇していた。自分が一生懸命介護してきた母親を殺害するのが、あまりにも忍びなかったのだ。

やがて目を覚ました母親に、片桐被告は言った。

片桐被告: 「もう生きられへんのやで、ここで終わりやで」
母親: 「そうかあかんか。康晴、一緒やで、お前と一緒やで」
片桐被告: 「すまんな、すまんな」
母親: 「こっち、来い康晴、こっち来い」

(片桐被告が母親の顔に額を密着させる)

母親: 「康晴はわしの子や。わしがやったる」

この言葉を聞いて、片桐被告は、殺害の決意を固めた。母親の首をタオルで絞め付けて殺害しようとしたが、果たすことができず、手で首を締めた。そして自らも包丁で首を切って自殺を図ったが、母の遺体の横に倒れているのを発見され、一命を取りとめた。

検察の取調べに片桐被告は、

「母の介護はつらくはなかった。老いていく母がかわいかった。自分は母親を殺害してしまったけど、もし、もう一度、生まれ変わっても、母の子に生まれたい...」と言った。

片桐被告は、決して、母が憎くて殺害したのではない。また母も、息子に殺害されることを恨んでなどいなかった。最愛の母を自分の手で殺さなければならない、息子の片桐被告の無念さは、いかばかりであったことか。彼にとって、「最後の親孝行」になった母との思い出、額を寄せ合った、母のぬくもりは生涯忘れることのできないものだろう。

検察側は、「死を前にした親子がお互いの額をすり寄せるなど、固いきずなで結ばれていた」と指摘。情状酌量の余地ありとして異例の求刑・懲役3年を求めた。

目を真っ赤にしていた東尾龍一裁判官は片桐被告に対し、「尊い命を奪ったと言う結果は重大だが、経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し 自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当」として懲役2年6ヵ月、執行猶予3年という、殺人(承諾殺人)では異例の執行猶予つきの判決を言い渡した。

そして被害者(お母さん)の心情に対し、「被害者は被告人に感謝こそすれ、決して恨みなど抱いておらず、今後は幸せな人生を歩んでいける事を望んでいるであろうと推察される」と付け加えた。

判決の後、片桐被告に裁判長が「絶対に自分で自分をあやめる事のないようにお母さんのためにも、幸せに生きてほしい」と言われ、片桐被告は深々と頭を下げ「ありがとうございました」と言った。

片桐被告に判決を言い渡した後、東尾裁判官はこう言葉を残した。
「本件で裁かれるのは被告人だけではなく、 介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。 こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを 行政の関係者は考え直す余地がある。」


確かに行政の責任は大きいものがあるかも知れません。しかし、一人一人の生活状況、またそれぞれの精神状態を把握しながら適切な判断をすることには限界があります。そんな中、私たちクリスチャンがもっと隣人愛に生きるなら、こうした気の毒な人たちを救うことができるような気がしてなりません。

今日の一言: 弱い人の弱さを担おう!

平安
鶴田健次

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2013.08.30 12:35 | 鶴田健次牧師より
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今回の日本滞在ではたくさんのお土産が与えられました。その中でも、大きく二つの恵みをいただきました。

まず一つ目、最初に忘れてはならないのが、長女の友人たちです。

異国の地で日本語にあまり自信のなかった長女が、毎日の学校を楽しく通うことができたのは、他でもない友人たちの存在でした。

毎日朝7時半に学校に向かい、午後4時半に帰宅し、宿題をするスケジュール。よほど楽しくなければ、こなせるスケジュールではありません。

学校や近所にたくさんの友人たちが与えられた長女は、日本語がみるみるうちに上達しました。

平仮名と漢字を少し学び、ラスベガスに帰った来た今も、日本の友人と、携帯電話専用の無料通話、メールアプリ「ライン」を通して密に連絡を取り合っています。

先日の長女の誕生日には、特に仲良くしていた友人からHappy Birthdayと書かれた何とも嬉しい写真が届きました。長女は感激して泣いてました。

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そして、もう一つは、私の家族との時間です。私はアメリカに来て以来、子供達の学校に自分の仕事とで、日本の家族ともあまり密に連絡を取らない日々が続いていました。

両親の時間の取れる日本時間の朝は、ラスベガス時間では、ちょうど子供達が学校から帰宅し、宿題をしている時間でもあり、一ヶ月に1回くらい来る電話もあまりゆっくりと話せないということも多々ありました。

ですので、今回二ヶ月という少ない期間でしたが、ただ毎日共にいられたことが幸せでした。

私の家族はクリスチャンではありませんが、その大切な私の家族がまだこの世に生きていて、福音という「良いニュース」を伝えることが出来る機会を設けられていることは、すごく特別のように思えたのです。

二つのことは、毎日祈り求め、与えられたものでしたので、こうした開かれたドアから、未来の日本での伝道の働きに希望を見させてくださったことを心から主に感謝いたします。

「イエスキリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」使徒行伝16:31

(LVJCCブログ制作チーム: Sao)

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2013.08.27 13:13 | 証し

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