
今日は、“地球の起源”について考えてみました。
地球は明らかに来るべき消滅の徴候を見せています。エントロピーの法則(閉鎖系における混沌は時とともに増大する)が示すように、地球上のすべてのものは上方ではなく下方へ向かっているという悲しい現実があります。進化論の主張に反し、自然は生物も無生物も創造できないばかりか、改良すらできないことを多くの自然科学者たちは確信するようになりました。
太陽系の恒星である太陽も、毎秒 400 万トンにものぼる膨大な質量を失いながら巨大な核エネルギーを発散していますが、その損失は取り返すことができません。こうして、高レベルのエネルギー系は必然的に低レベルのエネルギー系まで下げられており、その法則は生物系においても同様で、人間も動植物も進化論の必然的進歩という考え方とは逆に、漸進的無秩序へと向かっていることを観察事実は物語っています。
ところが、不思議なことに、神は聖書を通して既にその事実をこの世に明らかにしておられたのです。
「これら(天と地)は滅びるでしょう。しかしあなたは長らえられます。これらはみな衣のように古びるでしょう。あなたがこれらを上着のように替えられると、これらは過ぎ去ります。しかしあなたは変わることなく、あなたのよわいは終わることがありません」(詩篇 102 : 26 - 27 )
この比類なき神の言葉である聖書は、その 創世記において、宇宙、地球、またすべての動植物、および人類が 6 ~ 7000 年前に 6 日間で創造されたことが描かれていますが、それに対して、この世の科学は、宇宙と地球には 40 億~ 60 億年の歴史があり、人類は少なくとも 50 万年以前から地上に存在していたとします。また聖書は、あらゆる生命が神の創造によるものであると教えていますが、それに対して、科学は、あらゆる生命が進化の結果であると主張します。
ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て、地球に引力があることを発見しましたが、なぜ地球に引力があるのでしょう。しかも、もしこの引力が今以上に強ければ、すべての物が重過ぎて非常に不自由です。また、もしこの引力が今より弱ければ、あるいは引力がなければ、すべての物がフワフワ浮いて困ってしまいます。ところが、この世の科学は、私たちの生活にほどよい不思議な引力がなぜあるのかという問いに対し、何の答えも持っていません。
また地球の動きひとつを考えてみても、それは謎に満ちています。毎日一回転する(自転)ので、昼と夜があり、私たちの生活に便利です。当たり前のように繰り返される毎日の睡眠と活動が、この昼と夜の存在と見事に調和してることを考えれば、これらすべてのものが偶然の一致と考えるより、同じ創造者の業であると考えるほうが理にかなっているように思えます。
地球の自転の原動力は何でしょう。すべての天体の動きの原動力は何でしょう。科学はその答えを知りません。時計の針は、正確に時間を刻みながら回りますが、ネジをまくか電池を入れなければ動きません。また、どんなに正確だといっても、一ヶ月に 1 、 2 秒の狂いは生じるでしょう。ところが、地球は 9 億 1 千万kmもある太陽のまわりを、私たちに分かる如何なる原動力も使わずに、時速 10 万 3880 kmの速さで回り続け、一年かけてもとの位置に戻ってくるのに 1 秒の狂いもないのです。
時計でさえ、誰かが作らなければ、偶然に出来上がることなど考えられません。ましてや時計よりも遥かに正確で、巨大な地球が、誰の手にもよらず、ひとりでに偶然に出来上がることなど考えられるでしょうか。聖書は、この美しい地球が、偶然の産物ではなく、至高者なる神の創造によるものであることを明らかにしているのです。
今日の一言: 地球は意味も目的もない単なる偶然の産物ではない
平安
鶴田健次
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11月18日の鶴田先生による礼拝メッセージ「感謝と賛美の生活」はコロサイ書3章15-17節の御言葉から語られました。
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ3:15-17」
この御言葉にもあるように神様は私達に「いつも感謝しなさい」「すべての事に感謝しなさい」と命令をされています。そして、その感謝は主イエスの名によって、父なる神に感謝をするのです。普通はトラブルや問題のただ中で感謝などできません。しかし、感謝や賛美、喜びは感情でするのではなく、意思的な選択だと語ってくださいました。
「獄中からの賛美」の著者としても有名なマーリン・キャロザース先生は「賛美の力」の中で、信仰の意思的な選択についてこのように語っておられます。
もし、神との関係が私達の感じに依存しているなら、そこには私達の側の選択の余地はないでしょう。どのように感じるかについて自分で決めることはできません。しかし信頼し、信じ、信仰をもつことは私達が自分で決めることのできることです。信仰によって救われると聖書は言います。しかし私達の多くは、信仰について誤解しています。「私には信仰がない」とよく言われますが、その意味は「私は確信の感じがない」ということです。信仰と感じは別のものです。「さて信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1」信仰は私達の感情や感じや感覚に基づくものではありません。信仰は意思の問題です。感覚では分からないことを事実として認める決断をするのです。
私達の信仰は神の事実の上に建てられているのであって、自分の感じの上に建てられているのではありません。しかし、同時に神の約束の御言葉は、私達が前進するにつれて、自分の中に神の喜びと平安をますます経験するということも教えています。そのような経験がおこる時、喜んでください。しかし、渇きとむなしさを感じる時にも喜んでください。そのような時でも、なお、あなたの救いは驚くべき事実なのです。あなたの意思の力を神の方向にきり替え、そしてこう言ってください。「神様、私は信じます。私はあなたの御言葉に立ちます」それを実行してください。そうすればあなたはだんだん感じに依存しなくなる自分に気づくでしょう。自由に信じることができるようになるでしょう。イエスは約束されました 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。ヨハネ8:32」神の御言葉を真理として受け入れてください。そうすればあなたは自由になれます。
私達も感情や感覚に頼る信仰ではなく、神の御言葉に信頼する、意思的な信仰の歩みに進んでいきたいと願います。神に信頼を置くときに、どのような中にあっても神に感謝し、賛美する事ができます。何故なら神は私達に最善以外はなさらないからです。
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。ローマ8:32」
(ブログ制作チーム:薫)
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去る2012年11月22日(木)は、感謝祭(Thanks Giving Day)でした。
毎年、我が家を開放して感謝祭ディナーを愛する神の家族と共に祝おう事にしておりますが、それも今年で3回目になります。ラスベガスでは、カジノエンターテインメント業界で働いている方がいらっしゃいますので、祝日を返上して働いている方もたくさんおられます。そんな中で、忙しい中の時間を聖別してくださり、今年も兄弟姉妹と共に感謝祭ディナーを祝うことができたことを主に感謝いたします。
メインディッシュのハム、グリーンビーンズ、きのこのリゾット、大学いも、カレーライスや、野菜のグラタン、ポテトサラダ、杏姉妹の手作りクッキー、ピーチパイにアイスクリームを囲んで、主への感謝の祈りをし、美味しくディナーをいただきました。感謝際と言えば、ターキーですが、この日、食卓を囲む話題は、カレーライスでした。やはり私達、日本人には、日本の食文化を象徴するカレーが一番人気だったのです。そして、異国の地で、日本の文化を共に分かち合える同胞を神から与えられたことを感謝する場になりました。

私たち家族は、8年前にラスベガスに引っ越してきました。私は国際結婚をしていますので、家族は、日本とサンディエゴと遠くに住んでいます。核家族が主となるアメリカでも家族と離れた場所に住むというのは、挑戦であり、多くの課題がある現代社会での生活は時として孤独でもあります。しかし、こうして神から与えられた、喜び、悲しみを分かち合える神の家族を心から感謝いたします。

そして私達には、罪人でも「そのままのあなたでよい。私のもとに来なさい」と、おっしゃる主の大きな愛が常に降り注いでいます。そんな主の大きなサポートを受けながら、私達が共に歩む聖化の道が祝福されたものになりますようにこの感謝祭の日にも祈りました。
"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたはお互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい。"
ヨハネの福音書13:34
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
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去る11月18日(日)に感謝祭礼拝が持たれました。そしてこの感謝祭礼拝で、岩田ひろし君が洗礼式を受けました。ひろし君は、2004年7月20日に誕生しました。お父様は岩田アーロン兄弟、お母様は岩田ビビアン姉妹です。ひろし君は生後8週間の時に、献児式を鶴田牧師より受けました。
生まれてから毎週日曜日は教会で過ごし、毎朝のディボーションを通し、聖書の知識はあったひろし君でしたが、本格的に洗礼を意識したのは、今年の夏、毎年 夏に持たれるカルバリーチャペルのVacation Bible Studyに参加した時でした。クラスで聖書のことを学びますが、ある日、サンデースクールの先生が"イエス様を主として受け入れたい人はいますか?"とクラスで質問しました。その時に、真っ先に手を挙げた子がひろし君だったのです。
サンデースクールの先生からビビアン姉妹に、"ひろし君は、洗礼を受けたいと手をあげました。洗礼準備クラスがありますので、ひろし君をそちらのクラスにどうですか?"という連絡が入りました。ビビアン姉妹は、"私にはいつも通っている母教会があります。ひろしの準備クラスと洗礼は、私の牧師である鶴田先生にやっていただきたい。"と答え、鶴田牧師に相談し、当教会の準備クラスを経て、感謝祭礼拝にめでたく洗礼の運びとなりました。

当日は、ピシッとしたシャツとネクタイに少し緊張した趣きだったひろし君。そんな可愛い8歳児のひろし君ですが、誓いの4つの質問には、力強くはっきりと答え、僕はもう立派なひとりのクリスチャンとしての聖化の歩みのスタート地点にたっているんだぞ!という意気込みが伝わってきました。小さい体を通して聖霊が働いた洗礼式は、とても感動するものでした。
そして、礼拝後に、感謝祭の交わりとポットラックが持たれました。美味しいポットラックを頂きながら、日本舞踊と沖縄舞踊の発表が催されました。全ての踊りはどれも素晴らしい完成度の高いものでした。

感謝祭は、17世紀にヨーロッパからアメリカに移民をしてきた人々が食べ物に困った中でも、収穫ができたことを感謝したことが発端で始まった祝日です。私たちに日々必要な糧が与えられ、こうして生かされていることが感謝であります。しかし、クリスチャンにとって 何が一番感謝するものでしょうか。それは、イエスを主として信じ、新生した時に神様から授かった永遠の命です。罪人である私たちが取るに足らないものでもかかわらず、神様は私たちを愛し、滅びの道より救ってくださったこの恵を思うほど、偉大なる神様の愛を感じます。
感謝祭礼拝の時に、私たちの教会からまた新たに魂が救われましたことを心から主に感謝します。また、主にある交わりをいつも与えて頂いている事を感謝します。ひろし君のこれからの信仰生活が祝福されたものになりますように、教会員一同 お祈り致します。
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
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あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛してる。イザヤ43:4
11月11日の礼拝で冒頭の御言葉から鶴田先生が「クリスチャンのアイデンティティー」と題して、メッセージを取次いでくださいました。メッセージには「自分は本当は誰なのか?」に対する答えがこめられています。
人間は神によって造られた存在ですが、社会では何ができるかという業績思考の中で価値が決まってしまいます。その為、自分が持っているセルフイメージもこの業績思考の価値で自分を見ていて、自分の価値を正しく評価する事ができません。そして、人間はセルフイメージのとおりに生きていくので、自分の価値をどのように見ているかで、人生の歩みが変わってしまいます。自分を価値のある人間だと思っている場合と、自分は価値のない人間だと思っているでは、全く違う人生になるのです。人生は誰かによって決まるのではなく、自分の選択の積み上げられてきたものであると言えると思います。選択のときに大きく関わってくるのがセルフイメージの中にある「自分の価値」です。価値のある自分は価値のある選択をしていく事ができるのです。
冒頭の御言葉で神様は私達を「尊い」と言ってくださっています。どの位神様は私達を尊んでくださっているかは、ご存知ですね。それは、自分の命を投げ出してでも、私達を救いたいと思うほどに、私達を愛し、守ってくださっているのです。その愛は、私達が神様の為に何かをしたとか、何ができるから等というのとは関係ありません。クリスチャンになってからも長年培われてきた業績思考で自分が何かをしなければと思ってしまいますが、私達は何をしなくても神様に愛されて、受け入れられていますので、神様の大きな愛の中で、安らぐ事ができます。
神様によって与えられているアイデンティティーは、私達は「神の子」という事と、私達は神様によってこの世と聖別された「聖徒」であるという事です。
ここに「神の子」とされた方の素晴らしいお証しがあります。
ある街に未婚の母親の元に生まれた少年がいました。彼は小さい頃に非常に辛い思いをして育ちました。なぜなら、その少年がどこへ行っても必ずある事を聞かれるからです。『お父さんは誰だい?』。街の色々な場所で、必ず人々は少年に同じ事を聞きました。次第に少年は、学校の休み時間や昼ごはんの時間にはいつも他の生徒から一人隠れて過ごすようになりました。そして少年は店に行くのも嫌がりました。皆が必ず聞くその言葉が少年を、それほど深く傷つけたのです。
少年が12歳になったときの事でした。新しい牧師が少年の住む教会に赴任してきました。少年はそれまで一度も教会に行った事がありませんでしたが、新し赴任された牧師の良い評判を聞き、自分も教会に行ってみたくなりました。そこで少年は人目を避けるために、礼拝に遅れて行き、早めに礼拝堂から抜け出しました。なぜなら、例の「お父さんは誰?」という質問を聞きたくなかったのです。しかしある日曜日、少年はうっかりメッセージに聞き入ってしまい、早めに礼拝堂を出る事を忘れてしまいました。礼拝後、新任牧師が少年のほうに歩いてきて、「君のお父さんは誰だい?」と質問しました。教会全体が凍りつき静まり返ってしまいました。新任牧師は続けて言いました。「私は君がどこの子か知っているぞ。君は、お父さんにそっくりだ。」そして、新任牧師は続けました。「君は神様の子供だ。」
この少年は後にテネシー州州知事となったベン・フーパーです。ベン・フーパーはこの日の事を「その日が私がテネシー州の州知事に選ばれた日である」と語っています。
「私は神様の子供」。それが神様が造られた人間の本当の姿です。
(LVJCCブログ制作チーム:薫)
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