
今日は‘永遠’ということを考えてみました。
あなたは‘永遠’という言葉から何をイメージされますか?
たとえば、宇宙、神、天国、霊、魂、などでしょうか。
‘永遠’は、どのように定義できるでしょうか?
これは、芸術や哲学や宗教において重要なテーマです。
永遠とは、物事の変化を認識するための概念である時間に対し、変化しないものの概念であり、常に過ぎ去っていく時間に対し、不変のものを言います。また、時間が有限であるのに対し、永遠は無限であり、時間に制約されない、常に在るものの在り方を意味します。
したがって、永遠は、それがいつの時点から存在するかを推し量れないもので、それが過去から現在に、さらに際限のない未来へと不変の状態で無限に存在し続けることです。
日本語に‘常盤’(ときわ)という言葉がありますが、これは「とこ(常)いわ(磐)」という意味で、しっかりとして、いつも在るもの、つまり永遠を指しています。また、インドやヨーロッパなどで永遠を意味するそれぞれの言葉は、いずれも「生命」「生命の長さ」「世代」を意味する言葉から派生し、「いつも在るもの」というものを意味しました。これが宗教的な文脈においては、「世の初めからいつも在るもの」として、神を表しました。
キリスト教では、創造され、生成された世界は永遠ではなく、創造者である神だけが永遠です。その永遠の神が、人間を罪の裁きから救い出すために、有限の世界に、人となって来られた(受肉)ことによって、永遠を時間を含むものとして捕らえます。
旧約聖書の創世記1章1節に、「はじめに神は天と地とを創造された」とありますが、この天地創造の神は、時間と空間を超越した永遠的な存在で、天地宇宙に偏在し、宇宙を支配し、保持しておられると聖書は語っています。
また、旧約聖書の伝道の書3章11節に、「神は人の心に永遠を思う思いを与えられた」とありますが、それは人間が神を思う霊的な存在として造られたということです。霊は物質と違って、永遠に存在します。人間は霊的存在なので、霊的存在である神を理解できるのです。
ですから、私たち人間は霊的な存在として造られているので、物質的なもの、地上的なものによっては魂(心)は満たされません。どんなに富を得ても、立派な家に住んでも、名誉、名声、地位を得ても、人間の心は満たされないのです。なぜなら、それらのものは皆、地上に属するもので、永遠に存続するものではないからです。
世界的スーパースターの中には、世界中の人々愛され、賞賛を浴びながらも、人知れぬ心の虚しさをどうすることもできず自殺をする人がいます。どんなに人に愛されても、人間の愛は有限なので、人の心を完全に満たすことはできないのです。
人間の心を完全に満たす方は、人間を創られた神だけです。自由意思を持つ霊的存在として人間を造られた神は、私たちが心を開いて神の愛を受け入れ、心が完全に満たされることを願っておられるのです。
今日の一言: すべての答えは永遠の神の中にある
平安
鶴田健次
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去る9月18日に敏子姉妹の新宅にてHouse Blessing Ceremonyが開かれました。
クリスチャンは新しい家に移る際にHouse Blessing Ceremonyと呼ばれるセレモニーを行いますが、この祝福式において、家の主人は、自分の家を主に捧げることを誓います。また、その家のすべての部屋が悪の霊から聖められ、神の霊を迎えることによって、あらゆる災いから守られるように参加者が心を合わせて主の御名によって祈ります。そして、賛美を住まいとしておられる神がその家に満ち満ちて下さるように一同心から賛美を捧げます。

セレモニーには、日本から敏子姉妹の妹さんであられる恵子さんとその娘さんの千晶ちゃん、教会からは20名の方が参加されました。
ポットラックでしたので、新しくゲストが増える度、食べ物が増えていき、華やかなポットラックがカウンターアイランドにずらっとならびました。優子姉妹のお祈りの後、そのポットラックを皆でいただきました。姉妹たちが手をよりにかけて作ったポットラックを食べ、心を通わせた兄弟姉妹たちとの交わりは、教会とはまた違った良い交わりの時となりました。
良き交わりの後、セレモニーの時が持たれました。
「いざみなきたりて」の賛美、松岡兄弟の祝福のお祈り、詩篇127:1、2と44:1ー8の御言葉の朗読がされました。 続いて「新しき地に踏み出す」を賛美し、敏子姉妹のお証しとなりました。
敏子姉妹は離婚を経験された苦しいときにイエスキリストとの出会いをなされました。そんな時、愛する兄弟姉妹であるノーマンご夫妻と薫姉妹の近所に住むことになり、たくさんの良き交わりをされていましたが、ある日ノーマンご夫妻がお引っ越しをなされた時に、住み慣れた家を出、新しい家を探す思いを与えられました。
しかし、家探しは簡単にはいかず、探しても探しても何だかしっくりこない家ばかりでした。不動産のハルさんの協力により、紆余曲折を通りながらも、ついに1年半の年月を経て、こうして新しい家を見つけることができたそうです。簡単にいかなかった1年半の経験を思えば思うほど、神様のお導きを実感したそうです。敏子姉妹のお証しは、共にひとつの事を祈り求めたもの同士、心に響くものでありました。

お証の後、鶴田牧師によるヨシュア記24章11ー23を通して、"全てが主の恵み"と題して、ショートメッセッージが語られました。最後に、お祈りで祝福式が終了しました。
今回のセレモニーに出席させていただき、家を主イエスに捧げたいという敏子姉妹の信仰に心を打たれました。自分の主人をイエス・キリストとする"明け渡し"とは、献身したクリスチャンなら誰でも通らなければならない道ですが、House Blessing Ceremonyを通して、家の主人を口で宣言して明け渡すセレモニーを目の前で見た今、なんとも言えない喜びで満たされています。決意をされた敏子姉妹に注がれた溢れんばかりの神からの祝福の恵みを参加した私までもが頂き、兄弟姉妹と共に祝福の場に同席し共有できたことを嬉しく思います。
敏子姉妹の新しい主にある生活、そしてご家族の上に更なる祝福が注がれますように心よりお祈りしております。
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
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今日は ‘遅刻をする人の心理’について考えてみました。
“Time is money” (時は金なり)と言われるように、時間を大切にし、無駄な時間を過ごさないようにすることは豊かな人生を送る重要な要素です。当然、時間を守るということも時間を大切にすることであり、時間を守れない人は周りからの信用を失い、仕事にも大きな支障をきたすことになります。
勿論、このようなことは誰もが分かっていることで、「時間は大切で、遅刻は良くない」と思っているのですが、それでも遅刻をしてしまうという人がいます。では、なぜ、良くないと分かっているのに遅刻をしてしまうのでしょう。それは、無意識のレベルで遅刻をするような心理が働いているからなのです。
たとえば、その一つの心理は罪悪感です。罪悪感の強い人は、心のどこかで「自分はダメな人間」だと思い込んでいます。そうすると、「ダメな人間」=「責められても仕方がない」という構図が出来上がり、無意識のうちに謝らなければならなくなる状況を作り出してしまうのです。そして、遅刻をして、「ゴメンナサイ」と言う時、その人は、遅刻をすることによって「私はダメな人間で申し訳ない存在です」ということを無意識的に証明しているのです。
また、もう一つの心理は無価値感です。つまり、「自分は必要とされていない」という心理です。たとえば、あなたがある組織に属していて、明日の朝7時に会議があるとします。もしあなたがその組織にとって大切な存在であることを自覚しているなら、あなたは7時前に姿を現わすでしょう。それは、あなたがその組織に必要な人だからです。しかし、もしも自分のことを「必要ない存在」と思っていたら、自分がいなくても会議に支障をきたすことはないと考えるので、遅刻をするか、会議に来ないかも知れません。ですから、そのように遅刻を繰り返す人の中には「私がここにいてもしょうがない、私は必要とされていない」という気持ちが潜んでいることが多いのです。
では、時間を守るためにはどのように考え、行動していけばいいのでしょうか。まずは自分を責めないことです。そして自分の存在感を認めることです。遅刻をすると、つい自分を責めてしまいます。でも、あなたはわざと遅刻をしているわけではないのです。だから、まず自分を責めるのはやめましょう。責めてしまうと自分の価値を認められなくなってしまいます。そして「価値のない私はここにいてはいけない」=「遅刻する」という悪循環から抜け出せなくなります。自分を責めるのではなく、「自分はここで何ができるのだろうか」と、あなたの良いところ、今できることを探してみましょう。
また、時間を守るようになるためには、自分のやり方を手放すことも必要です。往々にして、遅刻をしやすい人というのは頑固な面があるそうです。自分のやり方や考えにこだわり過ぎて、却って自分を不自由にしてしまっていることがあります。そうだとしたら、自分のやり方を手放し、今までとは違ったやり方や発想を取り入れることで身軽になれば、時間を守れるようになります。
あるいは、あなた自身ではなく、あなたの周りに遅刻魔がいたら、あなたはどうすべきでしょうか。「いい加減にしっかりしなさい」と言いたくなるでしょう。でも、そうすることで更にその人の罪悪感が強化され、遅刻をしやすい状況を作ってしまうことを知っておかなければなりません。
そのような人が周りにいたら、まずは言いたい言葉を抑えて、「あなたがいてくれて本当に助かるよ」と言ってみましょう。きっと、その人は時間通りに、そこに来たくなるでしょう。勿論、すぐに一変するわけではありませんが、自分の存在を認めてもらえたら、人はそこにいたくなるものです。そして、時間(約束)を守ろうと思うようになるものです。神に愛されている、その人の計り知れない価値を認め、その人をあるがままで受け入れていくことを心がけたいものですね。
今日の一言: 時は金なり
平安
鶴田健次
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私は、今年初めてマウントハーモンに参加しました。参加に当たって、とても楽しみな思いとナーバスな思いがありました。始めて、お母さんも弟もいない経験だったので、少し戸惑いましたが、キャンプでは、キャピンリーダーやキャビンメートと、すぐに仲良くなることができました。
毎日、クワイエットタイム(静思のとき)が与えられ、神様との個人的な時間を過ごすことができました。毎日、神様は、講師を通して、神のために生きると言うことをお語りになられました。毎日の集会の後は、キャビンメートと一緒にスモールグループの時間がもたれ、集会での学びを共に振り返りました。
このキャンプで、私たちは、神の子であると言うことを再確認しました。神様は、私たちを愛しているが故に、御子イエス様によって、私たちを神様の養子としてくださいました。神様の愛が、私たちのうちに住まわれ、その愛が、この暗い世の中に、光となって輝いています。マウントハーモンでは、本当に恵み深い、すばらしいときを過ごすことができました。
(LVJCCユース:みちこ)
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私たちは、毎日習慣に生きる生き物である。会社勤めの私も、朝、ほぼ同じ時間に目覚め、同じ道を通って、出勤する。普段、習慣になっていることは、ほとんど考えることなく自動的に行っている場合も少なくない。
先週も、いつものように、出勤のため、通常混雑している215のフリーウェイに乗ろうとした。いつも通り、助走してフリーウェイのレーンに入ろうとしたちょうどその時、合流しようとするレーンの隣に走る車が、ちょうど私の後ろあたりで、かなりぶれた運転をしていることに気が付いた。もしかすると、私が入ってくるのとちょうど鉢合せで、私が原因で、コントロールを失いかけてるのかと思った。
その車は、コントロールを取り戻そうと必死にハンドルを右往左往握っている姿が横目でうかがえた。その瞬間、ハンドルを切りすぎて、車は、瞬く間に、自分のレーンを越え、私の目の前に回転しながら走ってきた。瞬間的なことであるはずなのに、私の脳裏には、完全なスローモーションで物事を見ている感じがした。まるで、スケートリンクの上で、走る車のように、滑るような様子だった。目の前で、180度回転しながら、フリーウェイの行き先と垂直に走る車は、どう考えても、大きな事故の原因にならないわけがない状態だ。私もとっさに、急ブレーキをかけて、接触を避けた。やってくる車を見た瞬間、私は、とっさに、“神様!!!私たちを守ってください!”と祈った。
そして、次に即座に見たのが、ミラー越しに見える後ろからやってくる車だ。驚くことに、普段なら朝7時ごろということもあり、多くの人が出勤するラッシュアワーの前兆で、車がいっぱい走っているはずなのに、このときは、私の記憶では、私たちの車2台以外、前後100メートル以上は、車が走ってなかった。全くありえないことだ。私の後ろも、フリーウェイに入ってくる車がこのときは、いなかったのだ。これも、ありえないことだ。行き先と垂直に止まってしまった車は、気を取り直し、方向を変えて、やってくる車に当てられることなく、一件落着。私も、前を見ながら、後ろを鏡越しに見て、状況を見守った。不思議と、この一部始終、何ともいえない平安が私から離れなかった。そして少し先で、私たちは、何事もなかったかのように、すれ違った。もし私が原因で、事故になりかけたのなら、車越しに、誤ろうと思い、よくある指を使ったジェスチャーをもらうのかと覚悟して、挨拶を交わそうとしたが、目を合わせることなく、走り去っていった。
“神様、私たちを守ってくださり、ありがとう!”の連発で、残りのドライブを神様と一緒に過ごすことができた。会社について、まだ、心拍数は下がることなく、でも、平安は離れることはなかった。落ち付いて、気を取り戻し、今度はものすごい感動に胸を打たれた。私は、今まで、神様が愛のお方であることは、聖書を通して説教を通して理解していた。私は、神に愛されている存在なのだと言うのも、疑いなく分かっていた。セルフイメージの回復も、神様によってなされたことも分かっている。私は、神の子であると言う自覚もあり、この特権に喜びを感じずにはいられない。
でも、このときは、今まで、思ったことのないことに気づきが与えられた。“あっそうだ!神様は、私のことが大好きなんだ”、何とも自分中心ではあるが、まるで、恋人に慕われているような思いがした。神様が、わたしのことをものすごく大好きでいてくださるが故に、御子イエス様を私のために送ってくださったのだ!“と今まで分かっていたことを、全く新しい角度から見ることができた。この出来事も、”事故に会わずに、神様に守られて良かった!“っと簡単に片付けてしまうこともできるが、私にとっては、”私“が主体の信仰生活から、少しだけ、”神様“が主語に変わる、神様主体の信仰生活に変えられるべく、信仰の大きなステップを踏むすばらしい経験となった。神様が、こんなに私のことを愛してくださるのだから、何とかその愛にお答えしたいと改めて真剣に思えるようになった。これこそが、私にとって、日常の中にあるミラクルであった。
(ブログチーム: 優子)