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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、‘Win-Win’ということについて考えてみました。

人間関係は、いつの時代においても、豊かな人生を送るための大切な要因です。そして、さまざまな人間関係の中でもWin-Winの関係が最良の結果をもたらすものであることは周知の事実です。Win-Winの関係とは、自分も勝ち、相手も勝つこと。つまり双方が満足できる結果を得るというものです。しかし、そのためには、まず、「与える者は得る」という聖書の教えに基づいて、互いに相手の益を先に考える心が必要です。

ところが、現実の世界では、Win-Loseの関係(自分が勝ち、相手は負ける)が最も多く、その他に、Lose-Winの関係(自分が負けて相手が勝つ)、Lose-Loseの関係(相手が負けて、自分も負ける。相手に勝たせるくらいなら足を引っ張って共倒れしたほうがマシ)などがあります。

Win-Winの関係は、素晴らしい結果がもたらされるにも拘わらず、それを実行する人が少ないのは、そういう心を持つことの難しさが人間の中にあるからだと思います。それが生まれながらの自己中心の性質です。したがって、人は生まれたときからWin-Loseの考え方を植えつけられて育っていくのが悲しい現実です。

Win-Loseの考え方の危険なところは、価値判断の基準が常に相対的で、他人との比較や、周囲の期待に対する達成度でしか自分の存在意義を認められないことです。子ども時代からこういう好戦的な価値観を持ってしまうと、常に他人の顔色をうかがい、相手を出し抜くことで望む結果を手に入れようとするために、Win-Loseの考え方が身についてしまうのだと思います。

Win-Winなど綺麗事に過ぎない、と思う人もいるかも知れませんが、人生の目標は競争ではありません。私たちは、家族や同僚や上司、友達と、毎日、勝ち負けを競うために生きているわけではなく、むしろ協力し合うことによって、お互いが幸福になるために生きているのです。自分が幸福になるために他者を不幸にするWin-Loseの関係は、結局は自分を不幸にし、自分の人生を無価値なものにしてしまいます。

Win-Winとは、すべての人間関係において、お互いの益を求める精神のことで、お互いに満足できる合意や解決策を打ち出そうとする考え方です。人生を競争の舞台ではなく、皆で協力して完成させる舞台と見る考え方なのです。

Win-Winの人間関係のスタートは、「与える者は得る」という普遍的な真理に立ち、お互いに満足する答えが必ず存在するはずだと考えることであり、人の成功は他者を犠牲にしなくても実現できるのだと信じることです。

今日の一言: すべての人とWin-Winの関係を持とう

平安
鶴田健次

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2012.09.14 09:52 | 鶴田健次牧師より
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去る8月に当教会は教会設立10周年を迎えました。この時を記念して「ラスベガス日本人教会設立10周年記念証し集」が発行されました。この証し集には46名の方の証しを掲載しております。

24時間眠らない、華やかなラスベガス。アメリカの州で唯一カジノが合法の州ネバダに位置し、ネバダの中でもカジノ数がダントツに多い街。一晩で何億ものお金が動いてるその一方、サービス業界への客足が途絶えると一気に不況になる、そんな特殊な街でもあります。

その街で暮らす教会員ひとりひとりは、神様から導きを受け、ラスベガスの地へたどり着きました。それぞれの証しには、46の人生というドラマが書かれています。そして、人生のどこかの時点で神様に出会い、導かれ、救われました。この10周年記念誌は、さまざまな神様の御業を見せて頂ける証し集となりました。今回は証し集の中からケイ姉の証をしをご紹介させて頂きます。

「全く違う 新しい人生」

2000年4月ハワイからラスベガスへ引越して来ました。ラスベガスの生活は、お酒を飲んで酔っ払い、朝までクラブで踊ってることがよくありました。しかし、ラスベガスに来たといってもギャンブルには1年以上手をつけませんでしたが、まさか自分がギャンブルにはまるとは夢にも思っていませんでた。

ギャンブルを始めてからは、寝てもあけてもギャンブルずくめ、私はどんどんギャンブルにはまってしまい、負けも込みだし、どうしたらお金を取り戻すことができるのだろうと、そんな事ばかり1日中考えてるうちに鬱病にかかってしまいました。そして、医者に薬をもらって飲まなければ人とも話す事ができないくらいに鬱病がひどくなっていたのに、それでもギャンブルをやめることができずにいました。そんな時に出会ったのが今の主人です。お互いにギャンブルをやめようとがんばっていたのも束の間、すぐにまたギャンブルをやり始めて、負けた時に大きな喧嘩になりその回数がだんだんと増え始めました。

そんな時に私のクリスチャンの友人に教会に行こうと誘われました。どんな宗教に対しても興味がなく、私にと っては全く別世界でした。しかし、ある日、私の友人の話の内容に関心を持ち、そのような話をどこから聞き入れて来たのかと尋ねたとき、友人は教会で牧師が話してることを私に話している。それは聖書の話であるのだという事を言ってくださり、その話を私も聞きに行こうと初めて水曜日の祈祷会へと足を運んだのでした。

そのようなきっかけから教会に通い続けているうちに、ある日のこと、私は、どうして自分は神様を信じていないのだろうか?と考え始め、とても悩み苦しみ始め、どうすれば神様を信じることができるのかということをそのクリスチャンの友人に相談しました。お友達は目で見えるもの、太陽や水や木などすべて神様がお造りになったことを話してくださいました。私は、その時、その事を素直に信じることができ、この世にある全ての物を創造なされた神様を信じました。

それからは、不思議な事にもっと神様のことが知りたくなり、以前友人に礼拝のテープがあるから聞くように勧めれれていたことを思い出して、礼拝メッセージのテープを借り、家に持って帰って聞いてみました。その中で話されている事に私はびっくりしてしまいました。私には罪があり、その罪のために永遠の滅びが定められているという事。しかし、イエス・キリストが人間の姿をとってこの世に来てくださり、私たちが受けなくてはいけない罰を十字架上で受けてくださった事。このイエスを救い主と信じ受け入れた者に救いが与えられるという事。私が罪人であることも又そのため永遠の滅びに行く事も、イエス・キリストが神であった事も、今まで知らず、生まれて初めてこのような事を聞かされ、私はとてもショックで何とも言えない感動を覚え涙が止まりませんでした。しかし、私の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださった事を素直に信じる事ができ、イエス様を自分の救い主として信じて受け入れ、それから私は、2004年4月11日ラスベガス日本人クリスチャン教会にてイースター礼拝の日に受洗の恵にあずかりました。

神様を信じてから、私の人生は全く今までの人生と違うものとなりました。聖書を知れば知るほど、どれほど神様を信じて生きる人生が素晴らしいか!そして、そんな素晴らしい神様のことを人々に言わずにはいれなくなりました。それから、私の心の中に色々な思いが与えられました。その中の一つは、今の主人との結婚の決意でした。そして、もう一つは家族との和解でした。私は、ほとんど日本の家族と連絡を取り合っていませんでした。それではいけないという思いが心に沸いてきて、日本の家族に電話をしたり手紙を書いたりして、イエス様がどれほど素晴らしい神様であるかを宣べ伝え続けました。それと同時に7年間会っていなかった父との再会を果たす事ができました。 

そんなクリスチャンになりたての時でした。2004年の9月教会で早天祈祷会が始まり、私は欠かさずその早天祈祷会に出席し祈っていました。特に母親との関係回復の事を祈り、皆さんも私のために一生懸命祈ってくださいました。早天祈祷会が始まってから約3ヵ月後、母が私たちの結婚式のために日本からラスベガスに来てくれました。本当に短い滞在ではありましたが、母はイエス様を自分の罪のために十字架の上で死んでくださった救い主だと信じ洗礼を受けました。

私は思いました。神様は、人間の想像をはるかに超えた事をなさる素晴らしいお方であると。早天祈祷会で私が願っていたこと以上の事をなさるお方。その神様が、私たちの信じているイエス・キリストであります。神様に感謝し主の御名を褒め称えます。

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3
Kay Sorentino (2012年6月著)

※「ラスベガ日本人教会設立10周年証し集」は1冊$10でお求め頂けます。

(LVJCCブログ制作チーム:Sao)

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2012.09.11 20:05 | 証し
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当時、韓国・梨花女子大学に通っていたチソン姉は、将来教師になる夢をもつ、愛らしいクリスチャン女性でした。しかし、学校に迎えに来てくれた兄の運転する車に、飲酒運転の車が激突し、大事故となり、窓から放り出されたチソン姉は、給油口から流れ出たガソリンが引火し、大火傷を負います。通常、人間は全身の40%の皮膚が火傷をすると、命に関わるといわれていますが、チソン姉は55%の火傷を負ったにも関わらず、主が命を守り、生かしてくださいました。命は守られたチソン姉でしたが、医師からは元の美しい容姿には戻れない事を告げられます。

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       (大学生のチソン姉)

事故から7ヶ月の間、激痛を伴う治療と手術に耐えなければなりませんでした。治療も大変辛いものでしたが、チソン姉にとって、それ以上に辛かったことは、変貌した自分を受け入れる事でした。事故後、チソン姉は大好きなお兄さんにこう言います「お兄ちゃん、私を殺して!こんな姿で生きていけない」。絶望の底にいたチソン姉はクリスチャンのご両親、お兄さん、そして教会の人々に支えられ、苦難の時を乗り越えました。そして、鏡に映る自分に毎日、このように声をかけました。「こんにちは、チソン」「チソン愛してるわ」

チソン姉は数度にわたり皮膚移植の手術を受けましたが、皮膚が引きつってしまい、目、口は閉じる事ができず、首も曲げる事ができませんでした。また、皮膚の火傷だけではなく、両手の指先も失っていました。1年のリハビリ後、歩けるようになりますが、外出した先で心無い言葉を投げかけられ、人目を避け、夜に外出するようになった時期もありました。しかし、日本で新しい皮膚移植をしている医師との出会いによって、希望が与えられます。この皮膚移植は血管や脂肪を皮膚と一緒に移植する方法で、チソン姉も大手術後、目や口、首が動くようになりました。

事故から8年後、ボストン大学院の修士課程を卒業し、病院のカウンセラーや福祉団体活動に従事しておられます。大きな苦しみの中で、神様から生かされている事を見出したチソン姉は、他者の苦しみを助ける為に生きる道を神様に与えられました。そして、今もその使命を持って生きておられます。

燃える炎の中からチソン姉を助け出したお兄さんは、事故後、何度も自問しました。「チソンを助けた事は本当に良かったのか?」しかし、チソン姉はこう答えています。「何百回でも助け出して」。また、事故前の元の自分に戻りたいか?という問いには、「戻りたくない」と、はっきり答えています。

皆様は“今”を生きるチソン姉の笑顔からどんなメッセージを受け取りますか?

(LVJCCブログ制作チーム: 薫)

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2012.09.09 23:04 | 信仰者シリーズ
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今日は、‘失敗’について考えてみました。

皆さんは‘失敗’という言葉を聞いて何をイメージされますか?敗北、絶望、悲劇、後悔、反省、その類でしょうか?それとも、‘失敗’に対して、もっと積極的なイメージを描く方もおられるでしょうか?実際、失敗の捉え方は人によって様々です。人生において、上手くいく人、いかない人の違いがいくつかありますが、そのひとつが失敗の捉え方ではないでしょうか。

一万回の実験の失敗(?)の末に明るく寿命の長い白熱電球を完成させたトーマス・エジソンは、「私は失敗したことはない。ただ一万通りの上手くいかない方法を見つけただけだ」と言いました。つまり諦めない限り、失敗は存在しないのであり、諦めて、そこでやめてしまうときに初めて、その事が失敗になるのだということです。

幼い子供が立って歩こうとするとき、また自転車に初めて乗るとき、何度失敗しても諦めずに立ち上がろうとします。そして、失敗(?)を繰り返しながら、やがては上手に歩き、また自転車に乗れるようになっていきます。何度もチャレンジを続け、失敗(?)するたびに新しいことを学び、成長し、やがて成功を手にすることができるのです。

ところが、現実は、誰もが失敗を経験します。中には失敗の連続という人もいます。また失敗をしたという意識、つまり失敗感が、私たちを絶望の中に閉じ込めてしまうこともあります。また強い後悔の念を呼び寄せ、自分を責めるようになることもあります。そして、自分を責める度合いが強ければ強いほど、それがトラウマとなって私たちを束縛し、自信を失わせ、やがては失敗を恐れて何もしないことを選ぶ生き方をするようになる場合もあります。

こういう現実を思うときに、実際問題、何をどんな風に失敗したかよりも、私たちがどう自分を責めたかの方が心の痛みは大きくなるということに気づきます。失敗というのは、私たち自身がそう感じたときに生まれるものです。ですから、多くの偉大な事を成した人たちが、本当は失敗というものはないのだ、と断言する理由は、それを決めるのが自分自身だからです。

あなたが諦めたとき、その出来事は失敗となります。言い方を変えれば、周りの人が「それは失敗だろう」と思っていても、自分が諦めなければ失敗にはならないのです。逆に、エジソンのように、それを成功の踏み台にすることもできるのです。

事実、失敗という経験は、あなたへのメッセージであり、そこには多くの学びがあります。ですから、もし何かに失敗したと感じたなら、そこから何かを学ぼうとする姿勢が大切です。その失敗があなたに何を与えてくれたかを謙虚に受け取るのです。そこで何を受け取るかはあなた次第です。何が答えであるかも、あなた自身に決める権利があります。

昔の信仰者たちは、そういう体験を神の視点で見つめ、神との関わりの中で教訓を得ました。そして、それは彼らをして「苦しみに遭ったことは私に良い事でした。・・・・・」と言わしめるほどの特別な経験となったのです。

今日の一言: 本当は失敗というものはない

平安
鶴田健次

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2012.09.07 22:41 | 鶴田健次牧師より

僕は、マウントハーモンに行く前は、そんなに神様を信じて、神様により頼んでいませんでした。それどころか、自分だけで、孤立した人生を送っていました。マウントハーモンに行く直前は、喜びと心配の思いでいっぱいでした。しかし、マウントハーモンに行ってからは、人生、教会、そして神様に対する視点が、がらっと変わりました。

マウントハーモンに行けたことは、僕にとって本当に祝福であり、僕の人生に大きなインパクトを与えました。今は、もっともっと神様を信頼し、より頼む自分へと変えられました。今まで以上に神様に祈り、祈りが変わり、助けや慰めを神様に求めるようになりました。まりな姉が言っていた様に、神により頼み、全信頼を置くとき、人生がとてもシンプルなものになります。今までは、まるで、一人で生きてきたかのように思っていましたが、いまでは、神様が、常に僕と一緒にいると確信を持って言えます。

キャンプに行く前は、賛美の奉仕で前に出て歌を歌うとき、いつも、自分の声や歌い方を心配して、決して、神様のために歌ってはいませんでした。そして、そんなときは、いつもナーバスで、平安ではありませんでした。今では、神様を賛美すると言うことが、心から分かり、それを一心に歌うことができるようになりました。キャンプでは、賛美のときが多く持たれ、そのときに歌われた曲が、心に届き、迫られる思いを感じました。

キャンプで一番思い出に残っていることは、クワイエットタイム、静思のときです。この静思のときは、神様と時間を過ごし、交わり、霊の耳を開いて、神様の語り掛けに聞き入るときです。この静思のときが、僕の人生で一番平安を感じたときです。

このキャンプで、神様との関係が今まで以上に深まったように感じます。よくキャンプハイという言葉が使われ、キャンプの直後は、神様に満たされ、神様だけのために生きていくといいながら、1週間後には、キャンプに行く前と全く同じ状態に戻っているということがあるようですが、僕の場合は、このマウントハーモンが、僕の人生にもたらしたインパクトは、とても大きなもので、今でもそれは変わりません。

(LVJCCユース:マイケル兄)

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2012.09.06 21:54 | 証し

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