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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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去る礼拝メッセージは「絶対希望の幸福」ピリピ人への手紙3章10節―12節でした。
メッセージの中の「復活信仰に生きる者の生き方」という箇所で例話として登場されたリー・ソンボン牧師を今日のブログでご紹介させて頂きます。

「韓国のムーディ」と呼ばれる‘リー・ソンボン’牧師先生は、1950年6月25日の韓国戦争の時、木浦(モクポ)で避難生活をしました。食べ物がないので、やっとお粥をお匙3杯で辛抱しながらも、共産党の治下で熱心に福音を伝えましたが、遂に捕えられて共産党の内務署(察署)に拘引されて審問を受けました。北朝鮮のパルチザン(遊撃隊)によって恐ろしい拷問を受けながら、‘リー・ソンボン’牧師先生は取調べを受けました。

その時、共産軍の指揮官が拷問の現場に入って来て居丈高に取調べを始めました。「おめぇはイエスを信じる者だそうだが、天国を見たか?天国がどこにあるんだ…?」リー牧師先生は、答えました。「天国は、『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。天国は、私の心の中にあります。」するとその指揮官は息も継がさずに追求してきました。「天国が、おめぇの心の中にあることをどうして分かる?証明して見い。見せてくれ。どれ、おめぇの心の中に本当に天国があるのか…?」‘リー・ソンボン’牧師先生は、静かに答えました。「私は既に、天国に入って来ているので、あなたたちが憎くありません。また、私は天国に入って来ているので死ぬとしても怖くなく、心配もありません。これが、天国が私の中に入って来ていると言う証拠です。罪もない私を捕えて取調べをし、拷問するあなたたちを憎みもせず、あなたたちが殺してやると脅迫しているのにも怖くなく、私の心は平安です。これがまさに、天国が私の中に入って来ている証拠なのです。」
すると、その指揮官はいかにも感心したという表情で、「イエスを信じるという奴たちは口が達者であると聞いたが、まさにその通りだ…。」と呟きながら、意外にも牧師先生を釈放してくれました。それで、‘リー・ソンボン’牧師先生は殉教することなく世の中に出られて、韓国戦争終戦後にも熱心に全国を駆け回りながら福音を伝えました。


リー先生が拷問にあっている最中に、拷問している相手に向かい「あなたたちが憎くありません」と言われた信仰は絶対希望に生きる者の「生きた信仰」です。それが、先生がおっしゃられた「天国は私の心の中にあります」と言われた事の証拠でした。

信仰の証しとは・・自分の生活の中に生かされて、初めて証しとならん事を学ばせて頂きました。神様を礼拝し、賛美し、聖書を学び、祈りをお捧げしたとしても、「生きた信仰」がなければ、主の証しを立てているとは言いがたい事を思います。

リー先生も私達も主から同じ恵みを頂いております。それは「天国」です。しかし、「天国は私の心の中にあります」と言うことができているか、もう一度主の御前に静まり、心を探って頂きたいと願います。

(LVJCCブログ制作チーム: 薫)

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2012.05.30 21:38 | 牧師室より

今日は、‘苦しみの効用’について考えてみました。

“困らせてくれてありがとう”という本の中に、著者が高校時代にテニスの練習を始めたときの経験が記されていました。彼はフォアハンドといって、普通にボールを打つことが得意でした。逆にバックハンドといって反対からボールを打つのは苦手でした。そして、初めに彼の相手をしてくれた友人は彼がフォアハンドで気持ちよく打つことができるようなコースにボールを返してくれました。ですから、彼はテニスが楽しくて仕方がありませんでした。

ところが、ある時、別の相手が彼のバックハンドの弱点を見抜き、彼とテニスをする時にはいつも、バックハンドで打たなければならないコースにばかり打ってきたのです。当然のことながら、彼はボールを相手に返すことができず、テニスをすることが少しずつつまらなくなってきました。しかし、彼はテニスを続けたかったので、それからはバックハンドを集中的に練習するようになり、やがてバックハンドも、フォアハンドと同じように得意になりました。

それからしばらく経って、仲間の一人が今度は、彼がライン際のボールに対する処理の仕方が悪いことを見抜きました。それ以来、その仲間は彼とテニスをする時にはいつも、ライン際ばかりにボールを集めるので、彼はボールを返せなくなりました。そして、前の時と同じように、テニスが嫌いになりかけました。しかし、やはりテニスを続けたかった彼は、それからはライン際のボールの処理の練習ばかりをするようになりました。そうこうしている内に、ライン際のボールも上手に打ち返せるようになったのです。こうして、気がついたときには彼は優秀なテニスプレーヤーになっていました。まさに、彼の場合、仲間たちが困らせてくれたおかげで、そのような一流選手になることができたのです。

人生には様々な試練や苦しみがあります。しかし、上記の事からも分かるように、豊かな人生を生きるための重要な要素は、試練や苦しみから逃れることではなく、それを乗り越えていくためにどういう態度でその試練に臨むかということではないでしょうか。あなたも、そんな心の姿勢で豊かな人生を生きてみませんか。

今日の一言: 苦しみに会ったことは良いことであった

平安
鶴田健次

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2012.05.28 17:03 | 牧師室より
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今回は、たびたび当ブログにも登場する母の日礼拝後のメッセージを聞いたSao姉妹が経験されたお証を紹介します。

母の日―それは、あなたにとってどんな日ですか?私にとっては、私に“生命” と “母” を与えてくださった神様に感謝する日であり、そして私を生んでくれた母に感謝する日であり、それでいて私のもとに3人いる子供たちに感謝される日です。

母になると言うことは、同時に子育てをするということでもあります。こうして毎日経験してみて、人ひとり責任を持って育てるということは、とてつもなく容易なことではないことだと思います。しかし、なぜ罪を持っている私達人間に子供を授け、育てる権利を神は与えてくださるのでしょうか?罪のある不十分な人間なのであれば、立派な人間なんて育てられるわけがないと、一見すごく矛盾しているようであり、不可能な感じがします。

私は、9歳の長女と5歳になった双子の3人の子供がいますが、仕事ももっています。そんな中で、子育てに悩むことは日常にあります。日常生活が送れる動作を取得する生後1年未満の赤ちゃん、よちよち期。行動の幅がずっと広がり興味津々の2歳児未満。やだやだ期が始まる2歳から4歳児。物事に対する理解がずっと広がる5歳児。物事を学ぶことに貪欲な小学校低学年。聖書と世の中のギャップを知る小学校中学年。そして、ティーンネイジャーに差し掛かります。

3人3様。性格も違うものであれば個性もばらばら。聖書に沿って話しをする時に、3人が理解できる方法もそれぞれ違うので、違った対応の仕方が求められます。頑固な子もいれば、素直な子もいる。頑固といっても実はそれは、自分が同意していないものに他人の言ったことが安易にYES と言えない誠意からきている事もある。そんなうそがつけないでいつも怒られてしまいがちな子もいれば、うそがうまい子もいる。返事は良いので、それに関してはいつも褒められるが、いつまで経っても同じ間違えを起こす子もいる。私は、迷っていた。

ある日、子供たちのある行動に目が留まった。日曜礼拝の最中に、子供たちが本を読んだり、話したりしていた。私は、毎週賛美リードをしているのでどうしても彼らのそばについてあげることが出来ない。

ある日、その行動がどうしても目にあまるので、私の心の内を話した。“私達は、神さまだけを考えその時間を教会堂にいるおねえさんやおにいさんと同じ気持ちになって一緒に神様だけを見ています、愛していますと愛を届ける時間。自分ひとりがなんでも好きなことをしているのであれば、それは自分自身に時間を捧げていることと何も変わらない。神様だけを見つめて一緒に賛美しよう。” と。

洗礼をもう既に受けた長女は、少し黙って『わかった。ママごめんなさい。』と答えた。それ以来、長女は生活態度が変わった。下の妹弟たちに対してとても優しくなり、会話の中に神様が更に出てくるようになった。これを通して、私は関心した。子供たちの神を礼拝する姿勢が変われば、人生の中で生活態度がかなり改善されることを。そんな時、母の日礼拝で『父と母を敬え』のメッセージを聞き、心に響いた。

礼拝中、子供がうるさくして注意をする人される人、これまでもこの先もたくさんいるかもしれない。でも、子供が悪いのではなく、子供を導く親であり周りの大人の正しい誘導があれば、子は自然と正しくされるのだとつくづく思う。つまり、私達大人一人ひとりの神への真摯な態度と信仰が必須なのだ。子供たちを導く私達の神への信仰姿勢は真剣勝負だ。

子は、神様からの賜物。子供は神のものであるのだから、神がどのように育てたいかと考えた時、子供たちを導く側の心の姿勢が重要な鍵だと気づき、私はとても大切なものに目が覚めた。

ハレルヤ!主に感謝。


『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。』エペソ人への手紙6:1-4

(ブログ制作チーム: Sao)

2012.05.25 04:10 | 証し

現在、私達の教会には5つのスモールグループ(セルグループ)があり、各グループが毎週家庭集会の時を持っています。また第3日曜礼拝の後は、リーダー訓練会があり、各グループのリーダー、サブリーダーまたそれらの働きに興味がある兄弟姉妹が参加をしております。

そのような中で、今後はスモールグループの働きに更に重きをおき、教会・信徒が成長し、救われる魂の為に主に用いて頂く中心的な器官として、教会の働きを進めていくことになりました。

これまでの各スモーグループの活動の中身は聖書の学びが中心となっておりましたが、ここで改めてスモールグループの目的・活動内容を鶴田先生のもと、みんなで確認し合いましたのでお分かちいたします。

《スモールグループ・ミニストリーの新体制》

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に行為を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった
(使途行伝2:46-47)

スモールグループは、使途行伝2:46-47に記されている教会のオリジナルな姿を現実に実現しようとするものです。日曜日には皆が教会に集まり礼拝をしますが、週日の間はスモールグループの交わりの中で、メンバー同士が互いに牧会し合いながら、神の家族としての生きた交わりを育てます。従来の牧師中心・プログラム中心であった教会の在り方を考え直し、スモールグループをミニチャーチと考えて、各地域にその輪を広げます。

1.スモールグループの主な目的
・神様の家族としての生きた共同体をつくる。
・全員が神の子として霊的に人間的に成長する。
・地域の人々に効果的に神様の祝福を証しする。

2.スモールグループの構成
・各スモールグル-プの人数は5~6人で、二倍になった時点で細胞増殖をする。

3.スモールグループの活動
神の家族としての生きた交わりは、最低週に一度、メンバーの家庭に集まって持たれる集いと、必要に応じた個人的な関わりの中で深められていきます。

4.スモールグループの集いの内容
・交わり:楽しい場を作り上げる。(軽食やスナックなどがあれば効果増大)
・礼拝:神の臨在に触れながら神を賛美する。
・御言葉:聖書の言葉を学び、できるだけ具体的な生活に適応させ、お互いの苦しみ、  
 悲しみ、喜びを分かち合い、互いに慰め、励まし、助け合う。
・ビジョン:オイコスの方がたに関する具体手品対策を話し合う。
・祈り:心を合わせて祈る。


これらの事を去るリーダー会で学びました。今後、私達ひとりびとりがスモールグループの活動において、これらの事を実践していきますが、どうか主のお導きが豊かにありますようお祈りください。

また、6月からのリーダー会は、第一日曜日と第三日曜日の礼拝後に持たれ、リーダーの訓練が持たれていきます。主の働き人として、主が私達を養い育てて下さる事を信じ、感謝をもって従っていきたいと願います。

(LVJCCブログ制作チーム: 薫)

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2012.05.23 22:01 | 牧師室より
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今日は、‘I’m OK’(私は私で良い)ということについて考えてみました。

豊かな人生を送るうえで大切なことは、人を愛し、受け入れ、赦すということにおいて積極的であることです。そのためには、自分が自分を愛し、受け入れ、赦すことができていなければなりません。

私たちは誰でも、程度と割合の差こそあれ、光と影、長所と短所、得意と不得意な面を持っています。しかし、神はそういう私たちを丸ごと愛し、赦し、受け入れていて下さるのです。ですから、私たちも安心して、そのような自分自身を受け入れれば良いのです。

以前に、ある身体障害者の方が、ご自分について、「これは障害ではなく、私の特長なのです」と言われたことがありますが、とても素晴らしい自己認識だと感動したことがあります。私たちは生まれてからずっと、この世の価値基準をもとに「良い」「悪い」「OK」「OKでない」ということを言われ続けてきて、「良い」と言われた自分には自信を持ち、「悪い」と言われた自分には劣等感を持つようになると共に、「良い」と言われた自分は好きでも、「悪い」と言われた自分は嫌いになるのです。

しかし、自分で嫌いな自分の性格や能力や容貌なども、実は自分自身であり、それは自分の特長なのだと見方を変えてみれば、また違う世界が広がるかも知れません。長所も短所も、得意も不得意も、そのすべてが世界でただ一人の自分という尊い存在の一面であり、短所や不得意と思われていた面も、実は、使い方次第では素晴らしい自分を表す性質として無くてはならないものかも知れません。またそれとは反対に、長所や得意と思われていた面も、その人の心次第では、傲慢で利己的なものを生み出す結果になり得るのです。

そう考えれば、長所には短所、強さには弱さ、美しさには醜さが潜んでいるという現実がありそうです。その事を理解できれば、人の違う側面をも知ることができ、人としての円熟さが与えられるのではないでしょうか。

私たちには、まず ‘I’m OK’(私は私で良い)と言うことができる必要があります。それを心の底から自然に受け取れるようになると、コップに注いだ水がいっぱいになって自然に外に溢れてくるように、他の人に対しても優しい心で、愛し、受け入れることができるようになるものです。 

この ‘I’m OK’(私は私で良い)が出来ていない人は、どんなに自分を打ち叩いて努力しても、人を愛せませんし、人に優しくなれません。確かに、見せかけの愛や優しさを示せても、すぐにメッキが剥げてしまいます。

自分の愛や優しさが見せ掛けやメッキであることに気づく簡単な方法があります。それは、あなたが他の人のために何かをしてあげて、相手から感謝をされないとき、そのことで腹を立てているならば、あなたの愛や優しさは残念ながらメッキであったということです。

今日の一言: I’m OK(私は私で良い)と言えるようになろう

平安
鶴田健次


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2012.05.21 16:04 | 牧師室より

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