
去る2月26日の礼拝後、豊子姉、ジュディー姉の喜寿(77歳)のお祝いの時が持たれました。
当教会では、今までに6人の兄弟姉妹方の喜寿をお祝いさせて頂きましたが、この日のお二人を合わせると8人になります。本当に感謝です。
お祝い会は礼拝後、おいしいポットラックを食べながら、交わり委員会の進行のもと、進められました。聖書クイズ、有志の姉妹達による日本舞踊とお祝いの言葉、先生からの記念品贈呈、同じスモールグループの姉妹達によるお祝いの言葉、そして最後に豊子姉とジュディー姉からの感謝と感想の言葉が述べられました。

喜寿をお迎えにならたお二人にブログ用に感想を頂きましたので、掲載させていただきます。
豊子姉: 私はお婆さんの肩をもんだり、腰をたたいてほしいと言われた時に、絶対に歳をとらないと決めましたが、時の流れには逆らえず、こうして77歳を迎えました。今まで色々とありましたが、結果的には幸せでした。これからも主にあってどうぞ皆様よろしくお願いいたします。
Judy姉: 神様に導かれて幸せです。皆様の愛と祈りのお陰でこうして元気でいられます。これからも皆様に支えられながら、お祈りと愛をもって、いつまでもがんばらせてください。

喜寿のお祝いの中、豊子姉もジュディー姉も神様のお守りの中で、今まで生きてこられたことが分かりました。お二人が並んでおらるお姿を拝見し、本当に姉妹のように感じます。
喜寿を迎えるまでの道のりも山あり谷ありの歩みであったことでしょうし、振り返ればあっという間の77年であったかも知れませんが、これから先、さらに健康が祝され、米寿、卒寿、白寿を元気に迎えていただきたいと心から願います。
長寿は神様からの祝福です。
主が更にお二人を祝福し、主の栄光のために尊く用いて下さいますように。
しらがは栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる。(箴言16:31)
(ブログ制作チーム: 薫)

今日は、‘人生は選択である’ということについて考えてみました。
あなたは、ご自分の目の前の生活と環境は、あなたが自分で選んできたものであることにお気づきですか。たとえ、目の前のものが、あなたが望んでいたものと違うものであっても、それはあなたが自分で選んできたものであるという事実を認めることは、豊かな人生を送るうえで非常に重要なことです。
人生は選択の結果である、と言われます。それは朝起きる時間を選ぶことから始まって、夜寝る時間を選ぶことに至るまで、毎日の行動はすべて選択の結果であり、毎日の連続が人生であることを考えれば、人生は選択の結果であると言えるわけです。また選択は、その人の物の考え方によって決定されるとすれば、人生は物の考え方の結果である、とも言うことができます。
ですから、もしあなたが今までと同じ考え方をこれからもしていくなら、あなたは今までと同じ事をこれからもしていくことになり、もしあなたが今までと同じ事をこれからもしていくなら、あなたは今までと同じものをこれからも得ていくことになるのです。
そう考えれば、もしあなたが目の前の生活と環境に全く満足しておられるなら、それはあなたの物の考え方がもたらしたものですから、あなたは今までの考え方を何も変える必要はないでしょう。ところが、もしあなたが目の前の生活と環境に不満をお持ちなら、あなたは今までのものと違う考え方を取り入れなければ、目の前の生活と環境を改善することはできないでしょう。
人は何か問題があるとすぐに周りのせいにしがちです。大学に行けなかったのは親のせい。幸せでないのは夫(妻)のせい。就職できないのは不景気のせい。そうやって、思い通りにならないことがあると、すぐにそれを周りのせいにし、いつの間にか、周りに左右される人生を生きるようになってしまうのです。
いつも問題を周りのせいにする人は成長しません。大切なことは、自分に責任を持つことであり、すべての出来事は自分の責任であることを認めたとき、人は大きく成長するのです。聖書が、“人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる”と言っているように、出来事には原因があり、結果には原因があるのです。ですから、人は自分の責任を認めたとき、これから先の人生を作り上げる動機付けが与えられ、新しい結果のための原因を作り出す歩みを始めるのです。
自分の人生を作ってきたのは自分です。だからこそ、これからの人生を作り上げるのも自分の責任です。それを認めたとき、自分の人生は自分が自由に選び、決めることができるという素晴らしい世界が広がるのです。
神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ書2:13)
今日の一言: 豊かな人生のための選択をしよう
平安
鶴田健次
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主の訓練とくすしき御恵みに心より感謝申し上げます。
先日、けい姉に賛美チームのオーディションを受けてみませんかと言われ、かなり気軽に承諾致しました。今から思えば身の程知らずと言えると思います。
学生の頃、当時はやっていたゴスペルフォ-クを伝道集会で数人の友達と歌っていたこともあったので、練習すれば何とかなるかなと思いました。家で英語の聖歌を練習しているのを聴いていた妻は、「まるで演歌だね」、長男はまじな表情で「お父さん、やめたほうがいいよ」、など家族の冷ややかな反応にもめげず、賛美に参加させて頂きました。
ところが礼拝での賛美のビデオを見て、文字通り愕然と致しました。さおり姉の聖霊様と若さにあふれ輝いている姿にくらべ、霊的にも外見的にもあまりにも薄汚れくすんでしまっている自分の姿に、消えてなくなってしまいたいような、元の世界のほうが自分にはしっくりくるんじゃないか。神を賛美するというよりもカラオケを歌っているような自分を目の当たりにし、聖なる聖なる礼拝にはこんな自分はふさわしくない、と信仰的にも落ち込んでしまいました。
主と皆様の愛と寛容のおかげで続けさせて頂いておりますが、神様は罪の自覚の足りない私にこういう形で、穢れた自分の姿を直視させる事によって自覚を促そうとされていることを痛感しております。
前回の礼拝での賛美の準備で前に立っている時に、何故か鳥肌が立ってまいりました。風邪も治ったし賛美も3回目で緊張もしてないと思うのですが、これはどうしたのだろうと思っていたところ、礼拝後ケイ姉が御霊の臨在があったことを言われたので、あーそうだったんだ、と初めてのことに感激し家に帰りさっそく証しいたしました。主の霊により礼拝し、賛美を捧げさせて頂いているのだという事を実感いたしました。
「我が持てるものは主よ汝がもの。聖き御いくさに用い給え。」(聖歌 神の御子にます)
金も地位も人脈も何も持てるものはありませんが、あるのはこの身体と時間と信仰だけ。主に委ね頑張ります。感謝
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」 詩篇19:14
(賛美チーム: 石原)
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年配者を対象としたシニア聖書勉強会は2010年8月から始まり、現在も多くの参加者が与えられ学びが継続されています。シニア勉強会という名前で開催されていますが、実は誰にでも開かれた勉強会て、参加者は年齢のわくを超え、時には20代30代の若者が加わったりすることもあります。
共に学ぶ事により「より深い主にある交わり」が楽しめ、これからの「信仰人生」と「地上人生」が、より素晴らしい満たされた時になることを確信しています。また、現在各スモールグループで行われている聖書勉強、御言葉を深く味わい、生きた言葉としての学びと平行し、両方の学びが相乗効果によって信仰生活の大きな糧となるよう心がけています。
学びは、創世記からヨハネの黙示録まで順番に進め、全体的・体系的・聖書的な視点からの学びをしっかりと身に付けられるよう計画しております。主の贖いのパートでは、「なぜ」「誰のために」「誰によって」「いつ」「どこで」「どのように」なされ、その結果はなんであったのかを丁寧にじっくりと学ぶ予定です。
テキストは視覚からも記憶に留められるよう図解を多く用い、アブラハムからイエス様への系図、イスラエル12部族の関係図、さらには、十二使徒のイラスト・イメージ画等も使っています。また、ノアの箱船造りや、大洪水の図、モーセの奇跡や、ダニエルがライオンの洞窟に投げ込まれ主によって救い出される絵などふんだんに用い楽しみながら理解できる内容となっています。
聖書にある出来事がすべて神の摂理の中で進んで来たことが事実であること。一つ一つの出来事が、関連ある有機的なつながりを成し、十字架と復活へと集約され昇華されたことをわかり易く説明し学びます。
現在進めている聖書の学びは、黙示録22章21節まで終るのに約2年間を予定しています。あせる事なく主に導かれ、一つ一つの御言葉を大切に味わい歩んで行こうと思います。まだ、信仰告白をされてない参加者もおられますので、学びを通して主の御手がその方に触れ、救いの恵みに与ることができますよう神の時を心待ちにしています。
『書きしるせ。「今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである」。』御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。」黙示録14-13
(シニア聖書勉強会: 松岡)

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今日は、‘エキストラマイルを歩く生き方‘について考えてみました。
世界的な経済危機の中で、今までになく多くの人が仕事を失い、就職活動に困難を覚えておられるようです。ここラスベガスは、アメリカでも最も失業率の高い所のひとつに数えられています。
ところが、どんな不景気な世の中であっても、どこの会社からも引っ張り凧という人材がいるものです。私も小さいながら20年間の会社経営をした経験がありますが、こういう人ならいつでも自分の会社で働いてもらいたい、或いは、こういう人ならいつまでも会社を辞めて欲しくない、という‘人材’がいることを知っています。また反対に、こういう人はできるだけ採用したくない、或いは、こういう人にはできれば辞めてもらいたい、という‘人罪’がいることも事実です。
私自身、振り返ってみて、経営者として多くの反省すべき点があったことを認めざるを得ませんが、さまざまな失敗を通して思うことのひとつは、聖書の教えにあるように、エキストラマイルを歩くという姿勢が如何に大切であるかということです。
世の中には、報酬以上の仕事をしてきた人は報酬以下の仕事しかしていない人よりも高い地位につき、高い報酬を得ているという現実があります。もし、雇われている身であれば、昇進と昇給は、この原則を習慣づける以外にはないと断言できます。また、この原則は雇われている人だけでなく、独立している人にも通用することができ、原則を守る人は、原則に従わない人よりは多くの報酬を得るとともに、幸福と満足感という収入以外の報酬を得ることができます。
報酬以上の仕事をすることは、エキストラマイルを歩く習慣が身に付いている人たちによって実行されます。それでは、ある一つのエピソードをご紹介しましょう。
キャロル・ダウンズは自動車製造業者のウィリアム・C・デュラントのもとで働いていました。デュラントは、のちにキャデラック社やシボレー社などを買収し、GMの社長になった人物で、米国自動車産業界の先駆者のひとりです。
ダウンズは働くうちにあることに気づきました。それは社員たちがみんな退社した後でも、デュラントだけが遅くまで会社に残り、「誰か手紙のファイルを持ってきてくれないか」とか「ちょっと誰か手伝ってくれ」と言って、辺りを見回している姿でした。ダウンズは誰かがデュラントの手伝いをしなければならないと考えました。そして、いつの間にか、ダウンズがその"誰か"の役割を果たしていたのです。
やがてデュラントはダウンズの名前を呼ぶ習慣が身についてしまいました。なぜダウンズを呼ぶ習慣が身についてしまったのでしょう。それはデュラントが「誰か」を呼ぼうとしたとき、いつもそこにダウンズが居たからです。しかも、ただ居たのではなく、役に立とうという心構えでそこに居たのです。
やがてダウンズはデュラントの右腕として、系列会社の社長を務めるようになりました。この地位は報酬以上の働きをすることによって、つまりエキストラマイルを歩くことによって得たものなのです。
今日の一言: エキストラマイルを歩こう
平安
鶴田健次
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