
12月28日は今年最後の水曜日でしたが、ラスベガス日本人教会では恒例の望年祈祷会が持たれました。
望年祈祷会は、一年の数々の恵みを主に感謝し、来る新しい年に望む思いを主に祈り求めるための集会です。また、今年も神様から与えて頂いた沢山の恵みと様々な事に思いを馳せながら全員で分かち合いの時を持ちました。
今年は約20名の方が集まりましたが、その中に2名の求道者の方がおられ、私たち教会員にとって大きな喜びでした。また通常祈祷会に集うことが難しい教会員の方々も、一年の最後の祈祷会ということで参加された方がおられ感謝でした。
毎年、まず初めに、皆で年越しそばを頂きますが、ソバの材料は教会員で持ち寄り、皆で食べるので、とても美味しい年越しそばになります。

食事と交わりの後に、一人一人順番に一年を振り返り、それぞれ数分間の分かち合いがなされました。皆さんが特に心に残ったお証をして下さいましたが、神様の恵みは多過ぎて、なかなか数分間で語れるものではなく、それでも皆さんの貴重なお証の一部を聞かせていただけたことは本当に感謝なことでした。そして、お証の最後に、来年への望みを抱きつつ、5名の兄弟姉妹による祈りが捧げられ、最後に鶴田先生の祈り、そして主の祈りをもって今年の望年祈祷会を終えることができました。


生きていく中で様々な出来事が起こりますが、常に真実なる主が、私たち主を信じる者と共にいてくださり、主を呼び求める時に、守りと導きの御手を置いてくださることに改めて感謝をいたしました。
2012年へのカウントダウンが始まっていますが、来年も主の導きを求め、主に従う一年となりますように、お祈りいたします。主に栄光がありますように。
(ブログ制作チーム:薫)

子供たちによるクリスマス劇
2011年、今年のクリスマス礼拝は12月25日に行われました。神の御子イエスのご降誕を祝い、愛する神の家族と共に主を礼拝できたことを心から主に感謝します。クリスチャンにとってのクリスマスがどんなに大きな恵みであるかを覚えながらの賛美は、また一段と心に響くものがありました。教会堂に飾られたクリスマスツリーを前に主に捧げる礼拝は、聖霊の臨在の中で、実に感謝に満ち溢れる特別なものでありました。
礼拝後には、美味しいポットラックと共にクリスマスパーティーが持たれ、楽しいひとときを過ごすことができました。石原兄弟のお二人のご子息によるミニ・ギターコンサートと、面白クイズ(商品あり)、プレゼント交換などが盛りだくさんでした。

ミニコンサート
そして、この記念すべきクリスマス礼拝にて、石原真一郎兄弟の洗礼式が執り行われ、新しい家族が加えられました。石原兄弟ご自身により、救いへの経緯を書いてくださいましたので、ここに掲載いたします。

イエスキリストの御聖誕祭、クリスマスという素晴らしい日に、洗礼を受けさせて頂けるという恵みに、心より感謝申し上げます。
先日教会ブログに私の証を書くようにという連絡を頂き、その場では承諾したものの、失敗と不義理の連続、恥じ入ることだらけの自分の人生の事まで書かないといけないのかな。知っている人に読まれたらヤバいななど、思い迷いましたが、ここは主にお任せしようと思って書かせて頂きます。
私のキリスト教との初めての出会いは、小学校5年生の頃、ラジオで聞いた「ルーテルアワー」という番組でした。「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない」。聖パウロの言葉により
というアナウンスが印象的で、通信教育により子供向けの聖書講座を終了しました。教会に行ってみたいと思いつつ、鹿児島の田舎で近くに教会はなく、そのままになってしまいました。
高校3年の卒業間近のある日、路傍伝道している女性に出会い、待ってましたとばかり、その教会に通い始めました。その教えは讃美歌から始まり、聖書をもとに講義が進み、卒業後、そのまま東京にある教会の学生部に入り、12年間その教会で過ごしました。しかし私の個人的な劣等感、自己嫌悪などの悩みは解決されないまま、また私の素行の悪さのゆえに、半ば追い出されるように教会をやめ、その後、酒びたりの自堕落な生活に、のめり込みました。
あるきっかけで渡米し(15年前に)ラスベガスに移り住み、当然のごとくギャンブルにはまり、妻子を苦しめ、友人達にも迷惑をかけ通しの15年を過ごしました。また、仕事上、ルール無用のタクシードライバーとのけんか、紙面に書けないような酔態、さげすみ等々、精神面、経済面でのどん底の時に、ラスベガスアイズを手にし、最後のページの「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい」という聖句が目に飛び込み、胸にせまるものを感じました。しかし、以前にもっていた宗教のこともあり、なかなか敷居が高く、今年7月、やっとの思いで教会の戸をたたきました。
鶴田牧師のお話を聞き、教会メンバーの方々との交わりの中で今まで感じたことのない喜びと、自分は変われるかもしれないという手応えを感じました。ただこれを信じることは、以前に信じていた、あるいは今でも完全には否定しきれていない教義を捨てることを意味します。親友、恩人の方々との決別、もしくは対立の可能性も出てきます。なぜならその教義は、
① マリアの聖霊による懐胎
② イエスの十字架による完全なる救い
③ キリストの栄光のからだによる復活
のいずれも否定するものだからです。
これらの葛藤の中で、もう一度聖書を一句一句読み進み、入門コースの学びの中で、かつての教えはキリスト教を真っ向から否定する教理であることに気づかされました。私の理解では、十字架による救いとは、霊的救いのみであり、メシヤはもう一度、霊肉共の救いのために、女の腹から生まれなければならない。今がその時である。一度死んで腐敗した肉体は生き返ることはない。ゆえにキリストの復活は、霊によるものであるという考えです。
しかし、「あなたがわたしに行かせるためにお与えになったわざをわたしは成し遂げて地上であなたの栄光を現しました(ヨハネ17:4)」とイエスは言われ、まだやり残したことがあるとは言われておりません。
また、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわってよく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています(ルカ24:39)」と、パウロは、死者の蘇り、キリストの復活がなかったとすればクリスチャンは神に対する偽証人となってしまうと言っています。
私がかつて信じていたものはキリスト教、聖書とは根本的に異質なものであったと、自分なりに、結論を出しました。キリストを信じる者として、まだやっと入学式を迎えただけの私ですが、一方的な赦しの中で、自らの罪と闘いつつ、いつか卒業証書を頂ける日を望みつつ歩ませていただきたいと思います。これからも皆様のご指導をよろしくお願い致します。
「わたしを見て信じたのか。見ないで信じるものは幸いである。」ヨハネ21:29


石原兄弟、お証しをありがとうございました。
兄弟をこの教会に与えてくださったことを心から主に感謝します。このお証を書くにあたり、葛藤があった中での主にゆだねようとなさったお心に感動いたしました!きっと神はそんな兄弟の心を最高にお喜びになっていることでしょう。
石原兄弟のこれからの信仰生活が神様への喜びで満たされ、神の栄光が輝きますように。アーメン
(ブログ制作チーム: Sao)

今日は今年最後の‘牧師室より’のメッセージです。一年を振り返り、またこれまでの58年の人生を振り返りながら、しばらく考えてきたことを皆さんにお分かちしたいと思います。
①敬老ホームのこと
敬老ホームを作ることは、ラスベガスの教会開拓を始めたときからの夢であり目標であり、祈り続けてきたことでした。その理由は、ラスベガスには引退した日本人が多く、死をすべてのものの終わりと考えて不安と恐れと諦めと孤独の中で寂しく生きておられ、この方々にそうではない世界に目を向けていただくには、それを伝えるにふさわしい環境を作り、そこで実体験の伴う導きが必要だと考えたからです。
聖書が教える世界観に基づけば、死は地上の人生の終わりであるとともに、罪が贖われた者にとっては天上における永遠の人生の始まりです。つまり、その世界を自分のものにできれば、年老いていくということは、すべてのものの終わりに近づくことではなく、新しい終わりのない本物の世界の始まりに近づくことであり、また自分では諦める以外にどうにもならない死の不安と恐れを感じながら生きる時ではなく、永遠に続く至福の世界を希望と期待をもって待ち望む時なのです。
ですから、本当は、お年寄りは一番天国に近い人たちです。これは一番死に近いという意味ではなく、永遠に一番近いところにいる人たちということです。しかし、すべての人間にとって、その世界が自分のものになるには罪の贖いが絶対必要条件ですから、それを教え、導きながら、老いていくことの本当の意味を知り、それを実感し、その約束された至福の世界に近づく日々を胸をときめかせながら過ごす、そういう敬老ホームを実現させようと思うのです。
②教会堂建設
教会堂の建設も、開拓を始めたときからの夢です。もちろん、これは教会員全員の夢でもあります。そして、神からいただいた夢は必ず成るのです(ピリピ2:13)。将来の働きを考慮した、それにふさわしい教会堂。考えるだけで胸がわくわくします。そのために必要な財政が整っているわけではありませんが、千の丘の家畜を所有しておられる神(詩篇50:10)がすべての必要を備えて下さるので心配ありません。
③将来の働き
将来、私は神が私を必要としておられるところに身を置こうと思います。それがどこであるかは分かりません。それは時が来れば必ず神が示して下さるでしょう。神はいつも最善の時に最善の事を導かれますから、その導きに従うことが一番重要なことだと思っています。
ですから、来年は少し教会に改革が必要だと思います。その改革とは、もっと聖書の教えに忠実になろうという意味での改革です。そして、すべての働きを見直す必要があります。この超多忙な社会に生きる私たちは、時間の管理を上手にし、必要なものと不必要なものを明らかにし、スリムになって、一番大事なことに力を集中しなければと思います。その意味では、私も今の働きの半分以上を手放す必要があることを実感しています。そして、それによって与えられる時間をある事のために集中的に使い、ひとつの事を具体化し、実現させようと思っています。
当面、私はラスベガス教会の霊的リーダーとして、以下の4点を念頭に置きながら、神と皆さんのお役に立てればと願っています。
① 引き続き信徒訓練に力を入れる
② 教会のビジョンをもっと明確にし、そのビジョンを教会員全員と共有する
③ 教会の働きをもっとスリムにして、集中力を生み出す
④ 牧師主体ではなく、教会員主体の教会をめざす
以上、思いつくままに書いてみました。実際には、もっと色んな事を考えていますが、まとめるとこうなります。来年は、今年以上に皆さんの働きが大きく用いられることを祈っています。
今日の一言: もっとスリムになろう
平安
鶴田健次

12月23日(金)の夕方に、LVJCC子どもミニストリーによるクリスマスキャロリングが行われました。
今回は、鶴田牧師宅とノーマン長老宅の2件をお邪魔させていただきました。
キャロリングに向かう途中の住宅街は、クリスマスのイルミネーションが輝き、初めてのキャロリングを演出してくれました。
サンタ帽をかぶった子どもたちは、寒さにも負けず、元気いっぱいに4曲のクリスマスソングをノーマン長老御夫妻の前でお披露目しました。
一行をドアで温かく迎えてくださったお二人は、子どもたちが歌っている姿を、満面の笑顔で見守ってくださり、歌う私達も、心温まるすばらしいひと時でした。

We wish a merry Christmasを歌い終えて、皆で祝福を祈った後、御夫妻が用意してくださったホットココアとクッキーを御呼ばれして、子どもたちも笑顔でいっぱいに満たされました。

心も体も温かくなったころに、ノーマン長老宅を後にし、今度は、牧師宅に向かいました。
到着すると、ドアベルを鳴らす前に、最終のリハーサルを小声でしました。ドアの前に、張り付くように、先生御夫妻を待つ子どもたちのかわいらしい姿が、とても印象的でした。

”Merry Christmas to Pastor and Mrs Tsuruta!”の挨拶に始まり、5曲の歌を先生御夫妻の前で、お披露目しました。いつも、主のために、また教会のために、絶えず働かれておられる先生御夫妻のために、子どもたちも感謝を込めて、歌をささげました。歌っている最中ずっと、先生御夫妻も、笑顔で見守ってくださり、歌う皆も励まされました。


スティンソン美夏姉とコールマン善兄による日本語での賛美もあり、皆が、練習の成果を発揮しました。
牧師御夫妻も、子どもたちのために、とても素敵な手作りのクリスマスオーナメントクッキーと引率者にもそれぞれにお土産を御用意していてくださいました。


キャロリングが終わると、教会に戻り、用意してあったピザと手作りクーキー、そして、クリスマスパーティーのためにまりな姉とみちこ姉が準備してくれたカップケーキを堪能させていただきました。主への奉仕をささげた後、みんなで頂いたお食事は、いつもに増して、おいしかったような気がします。



この季節は、忙しさに追われたり、この世的なことに心が奪われ、本当のクリスマスの意味を忘れがちですが、このキャロリングの経験を通して、クリスマスの最高のプレゼントである御子イエス様を思う思いが、増し加わり、賛美の中におられる神様を体験する すばらしいひと時でした。

季節を感じさせる主の御降誕デコレーション

食べるのには、もったいないほどかわいい潤子夫妻作のオーナメントクッキー
子どもたちを温かく迎え、もてなしてくださった鶴田牧師ご夫妻とノーマン長老ご夫妻に心から感謝いたします。そして、このキャロリングを企画してくださった子どもミニストリー担当の、和美姉、保護者の方々にも、心から感謝いたします。
子どもたちにとって、忘れられない思い出のひとつとなったこのキャロリング、今後も、続けて行っていけることを願っております。

(子どもミニストリー:優子)

12月21日(水)18:30pmより、毎年恒例の「キャンドルライトサービス」が当教会で持たれました。「キャンドルライトサービス」は、救い主イエス・キリストのご降誕を祝い、主に感謝をお捧げするものです。
まずは開会の祈りから始まり、キリストのご降誕にまつわる聖書の御言葉が朗読されます。聖書朗読は日本語と英語でなされ、その間に賛美が入ります。今年は三つの賛美グループによって会衆賛美が導かれました。
また、聖書朗読、賛美の間に5つのキャンドルに火がともされていきます。キャンドルには一つ一つ意味があります。
第1のキャンドルは“Hope”(希望)を意味します。
第2のキャンドルは“Peace”(平和)を意味します。
第3のキャンドルは“Joy”(喜び)を意味します。
第4のキャンドルは“Love”(愛)を意味します。
第5のキャンドルは“キリストの灯り”を意味します。
「キリストのキャンドル」が点火されると、そのキャンドルから会衆のキャンドルへ生命の灯りが次々に灯されていき、暗闇の会堂いっぱいに、キリストの生命の灯りが輝きました。


最後は、降誕聖歌「きよしこの夜」を皆で心合わせ賛美しました。暗闇の世界に灯りとなるために生まれてくださった神の子イエス・キリスト。この方の誕生と死と復活なしに私達人類の救いはありませんでした。クリスマスの喜びは、神様が大きな犠牲を払って、私達に与えてくださったものです。
今年の「キャンドルライトサービス」も、主イエス・キリスト様のご降誕を心から祝い、感謝をもって私達自身を主にお捧げした夜となりました。
(ブログ制作チーム:薫)