
7月24日は北九州市シオン教会より力丸嗣夫牧師をお招きし、礼拝の日の恵みを与えて頂きました。
メッセージに入る前に、先生はご両親から受け継いだ信仰の喜びを、聖歌の独唱を持って、お証してくださいました。また、メッセージはローマ8章26―30節から「神の御計画」と題して、ご自身の上に神様が現してくださった御業をお分かちして下さいました。
先生は生死を分ける重病を幾度も乗り越え、また、車椅子の生活からは癒され立って歩く事ができるようになりましたが、その神の癒しをご経験された中で、先生は「クリスチャン生活の一番の鍵は「平安」」です。と語られました。この平安はキリストの血潮によって、罪ゆるされた者に与えられられる事であり、平安はどんな時にも失う事がないものであると語られました。
また、苦しみ、試練、殉教、喜びと平安はすべて同居できるものであり、その中でいつもトップに立っているのが平安であるので、この平安のもとに病を受け、試練を受け、また喜びの頂点に立つ。このようなクリスチャンであればどのような事がきても恐れる事はない。また、神様は特定のクリスチャンにだけ、神の御業を現しているのではなく、振り返ればすべての人の上に主は御手をのべて、導いておられる。その事に気がつく事、それが「信仰に目覚める事」であると述べられました。
先生が語ってくださった、神様のお証は沢山ありましたが、7/19のブログで紹介したお証の続きを今回のブログでご紹介いたします。
今から40年ほど前に山奥に伝道に行かれ、1時間半かけてたどり着いた家に住んでいた老夫婦への伝道を終え、家の離れの牢座敷のような所に住まれる息子の「ウォーウォー」という声のするほうに近づく先生に、老夫婦は涙ながらに「この子はもう50になるが生まれた時から耳も聞こえない、話せない、目もほとんど見えない子なんです。」と言われたのです。老夫婦は先生がその隠れ場所に近寄る事を恐れていました。
先生がその息子さんのいる部屋に入ってみると、そこには髪もひげも伸び放題、目は落ち窪んでいる青年の姿を見たのです。部屋は悪臭で満ちていました。青年は格子の中に入れられ、1歩も外に出られない状態の生活でした。先生は神様に「神様、この兄弟をどうしたらいいでしょうか」と祈り、その時を神様に委ね、神様の導きを求めました。青年は見えない目で、しかし、しっかりと先生をじっと見ていました。先生が「いらっしゃい。神様が今日、会いにきたんだよ」と言って、柵の間から、延ばせるだけ自分の手を青年に向かって、伸ばしました。
青年は最初、部屋の後ろに後ずさっていましたが、次第に、先生に近寄りはじめ、そっと先生の手に触ってきたのです。青年は恐れながらも、次第に先生の顔まで手を伸ばしました。その時、先生は青年への愛の心で満たされ、目からは涙があふれていました。青年はその涙を自分の指先でそっとぬぐったのです。その瞬間、先生はこの何も教えてもらっていない、何も与えられてこなかった青年にも明らかに心がある、思いやりの心がある。と、歓喜されました。そして、先生も青年のほほに触れると、青年の目から涙があふれていました。先生が目から涙を拭うと、顔は垢でどろどろでした。
その時、「兄弟、今日イエス様が触れてくださった。今日まで辛かっただろうね、悲しかっただろうね。でも、今日からはイエス様がずっと一緒だからね」と語りかけ続けました。耳も聞こえず、目も聞こえず青年に語りかけ続けたのは、お互いの身体の接触によって、いたわりの言葉を伝える事ができたからでした。
先生は側で見ていたお母さんに息子さんの顔をぬれたタオルで拭いてあげてくださいとお願いしました。お母さんは「ごめんね、○○ちゃん」と言って、泣きながら息子の顔を拭き、息子はお母さんの手をしっかりと握っていました。
別れ際、先生は自分に近づいてきた青年を格子越しにしっかりと抱きしめ「イエス様、あなたにこの兄弟をお委ねします。いつも彼の心にあなたを思う心を与えてください。」とお祈りし、その場で泣き崩れていた老夫婦に「神様はいらっしゃるんですよ。今日は彼の人生の喜びの頂点の日です。この喜びは死んで天国に行くまで永遠に持ち続ける事ができるんです」とお話され、先生はその後、山を後にしました。その後の事を先生は知りませんが、知らなくていいとお話されました。それは、彼らの事を主に委ねられたからです。
先生のメッセージの最後のお言葉は、伝道スピリットにあふれるものでした。
「イエス様は本当に必要な時に遣わせてくださる。でも、こんな劇的な事があるとは限らない。ほんのちょっとした事かもしれない。しかし、その時にあなたがいつも祈ってるなら、神様は言葉を与えてくださるので、躊躇しないで優しく祈ってあげてください。
いくらでも伝道できます。あなたのうちに主がいてくださるという信仰を持って、主と共に遣わされてください。どんな事でも働いて主は益としてくださいます。そして、ご自身の栄光をあらわしてくださるのです。
ただただ奇跡がおこったとかそういう話ではなく、主が私と共に歩んでくださった今日までの人生であるという事です。これからまだ20年、30年、主のために働いていきたいと願いますが、わかりません。長く生きるも、明日召されるのも主の御心のまま。」

(ブログ制作チーム:薫)

今日は‘習慣は品性を作る’ということについて考えてみました。
「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい」(1テモテ4:15)
私たちは、救われた瞬間に全く新しい霊的な生まれ変わりを経験しますが、依然として、取り除かれ、取り替えられなければならない古い習慣や行動パターンがあります。私たちは、自分の現実の姿を謙遜になって直視することを恐れます。真理は私たちを自由にしますが、最初は、私たちを惨めにします。
自分の性格の欠陥を正直に直視することへの恐れは、私たちを、いつまでも自分はそういう者ではないという“否定の獄”に閉じ込めてしまいます。しかし、もしそれを否定し続けるなら、その欠陥の周りに自分自身を築き上げていくことになるのです。私たちには、もし自分の中のものを手放せば自分を失うのではないかという無意識の恐れがあります。この恐れは確実に私たちの成長を遅くします。
私たちが自分の欠点や失敗や怠惰さに対して神の真理の光を当てることを受け入れるときにだけ、私たちはその事と取り組むことができます。謙遜で教えられやすい態度なしでは人間は成長できません。
良い習慣は育てるのに時間がかかる: あなたの品性はあなたの習慣がもたらしたものであることを理解できますか。もしあなたが習慣的に親切でないなら、あなたは親切な人とは言えません。もしあなたが習慣的に正直でないなら、あなたは誠実な人とは言えません。品性を育てるには、それに必要な習慣を身に付けることが大切です。
習慣は品性を作る: キリストのような品性を発達させる唯一の方法は、時間をかけて訓練をすることです。どんな事でも習慣化することに近道などありません。パウロは弟子のテモテに、「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい(1テモテ4:15)」と勧めました。
もし時間をかけて何かを実践し続けるなら、誰でもそれが上手になります。‘繰り返し’は品性と技量を育てる黄金律です。良い品性を作るには、良い習慣を選び、繰り返すことが必要です。それは、しばしば‘霊的な訓練‘と呼ばれますが、祈りと聖書の学びの中で、主の言葉に従いながら、良い習慣を続けてみて下さい。
今日の一言: 良い習慣は良い品性をつくる
平安
鶴田健次

(鶴田牧師とノーマン長老)
2011年7月17日、 教会総会が、主の祝福と導きの中で開催されました。
今年の教会標語“キリストの再臨に備える” を教会員ひとりひとりが期待し、いつ再臨があってもいいように目を覚ましてきました。これからも、いつキリストが来られてもいいように、目を覚まし準備をしていきたいと思います。
無駄な事に時間を浪費せず、祈りの生活を大事にし、御言葉を学び、信徒が互いに愛し合い、福音を述べ伝えることが大事です。これからの一年間も、これらの事を実行し、キリストの再臨に備える教会をめざして行きたいと願っています。
会衆による賛美の後、ノーマン長老の開会の祈りに続き、鶴田牧師が「開会の言葉」を述べられました。

(ノーマン長老の祈り)
議長による書記指名をうけ、人員点呼が行われ、総会成立規定人数が満たされていることを確認し、議長によって総会成立が宣言されました。
直ちに「議事」に入り、新年度役員の紹介がされました。前年度役員の香織姉が退任され、後任役員に末広和美姉が選出されました。今までの香織姉の献身的な奉仕に心から感謝いたします。
続いて年間ハイライト、教勢、財務報告がなされ、さらに10の委員会より活動報告と活動計画が発表されました。

(新役員)
教会にある四つのスモールグループから、これまでの一年間の歩みと、これからの計画が報告されました。各グループが聖霊の助けによって毎週休む事なく集会を守られました。心から感謝いたします。これからの一年間も主の守りと導きがありますように祈りをもって支え合いたいと思います。
新年度予算(案)を審議し満場一致で承認されました。
最後に、松岡幸夫兄が役員議長に任命され、三年の任期で教会員の代表として主の教会に仕えて下さることになりました。
この後は賛美と閉会の祈りで、教会総会は終了しました。
教会はキリストの体であり、私たちはその肢体です。また教会はキリストの尊い血によって買い取られたものですから、主のものです。ですから、主の教会は私たちの思い通りにではなく、主の思い通りに建て上げられていかなければなりません。
主は、私たちが互いに愛し合うことを切に願っておられます。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯(コロサイ3:14)」です。何をするにも愛を動機とし、愛によって互いに結び合わされ、愛のうちに育てられていく、そんな教会をこれからも目指していきたいと思います。
(ブログ制作チーム)

神の奇跡的な癒しを受け、車椅子から立ち上がった。
力丸嗣夫先生は生死を分ける重篤な病(死亡率50%)を患われ、劇症で40度の高熱が続き、呼吸困難、両眼の一時的失明、腎機能の完全停止、炎症による多臓器不全に陥るという死線をさまよう試練に遭われたが、6ヶ月の治療で完全な癒しを経験された。
ところが、それから間もなくして両下肢の状態が不安定となり、歩くのに力が入らず、転倒することが多くなり、検査の結果、脊椎神経のどこかで脳からの指令伝達不良が起こっているとの診断で、身体障害者手帳が交付され、車椅子が貸与されるようになった。そして、日に日に歩くことができなくなり、ついに車椅子生活が始まったのである。
その後、半年間に渡ってリハビリをされたが、改善の気配は全くなく、二本の杖なしには立つことさえできなくなられた。そんな中、やがていつかもう一度歩けるようになりたいという思いでその可能性を尋ねた力丸師に対する主治医の答えは、「力丸さん、そんな甘い夢に酔ってはいけません。医学的にはあり得ません」というものであった。
しかし力丸師は、以前から「自分の身体に健康上の問題が起きても、伝道の働きには決して手心は加えない」という信念を持っておられたので、毎年、車椅子を使いながらも台湾の原住民伝道に出かけられ、入院中も、外泊許可を得て、毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを続けられた。そんな献身的な歩みの中、ある年の台湾伝道の際に、突然、神の癒しの御手が伸ばされ、気がついたら二本の足で台北の町を歩いておられた。そして翌日には、山の斜面にある教会まで1500mの急な坂道を歩いて訪問されたのである。
時代は遡って40年ほど前、日本の僻地伝道に出掛けられた若き力丸師は、ある日のこと、一組の老夫婦の住む山奥の家を訪ねて行かれた。一時間半ほど、崖をよじ登り、険しい山道を祈りながらの訪問であった。家に着き、出された野蜜を飲みながら世間話をし、福音を語れる雰囲気になったことを確認した力丸師は、お日様とお月様、そして天照大神を拝んでいる老夫婦に熱い思いで福音を語られた。
素直な心で福音を受け入れられた老夫婦は、その人生の終わりまで創造主なる神に祈り続けると約束された。そして帰ろうとしたとき、納屋の方から「ウォー、ウォー」という唸り声が聞こえてきた。それは病気で座敷牢のような所に入れられたままの48歳になる息子だった…。
老夫婦は、力丸師がその声のする方に気を向けたことで何かとても慌てておられた。「何でもないんです。もう、お帰りください」と、懇願するような顔で前に立ちはだかる二人の様子にただならぬ気配を感じた力丸師は、(主よ、こんなとき、どうすればいいのですか?)と天を仰がれた。するとまた、「ウォー、ウォー」という声が聞こえてきた。
「誰かおられるのですね」と思いきって尋ね、「私をここに導かれたイエス様が、その方に会わせて下さろうとしているのです。どうか案内してください」と言われた。するとおばあさんが、とても悲しそうな顔をしながら、先に立って離れの方に歩き始め、「お恥ずかしいことですが、私たちの息子です。何も分からず、ただ生きているだけなのです…」と言って、おばあさんは手で涙を拭われた。
…このあと、大変感動的なストーリーが続きますが、この続きは礼拝メッセージの中で…
(ブログ制作チーム)
* このお話は鶴田先生にお願いして書いていただきました。7月24日の聖日礼拝には万難を排しておいで下さい。また友人・知人をお誘い下さい。乞う御期待!

今日は、‘一つのドアが閉ざされても、もう一つのドアが開かれる’ということを考えてみました。
かつてモーセが数百万人のイスラエルの民を約束の地に導くためにエジプトから連れ出したとき、エジプトの王パロは軍隊を率いて彼らの後を追いました。逃げるイスラエルは行く手を紅海に阻まれ、後方からはエジプトの軍隊に囲まれました。ところが、八方塞の状態に置かれたイスラエルのために、神は紅海の水を二つに分けて海底に道を設け、彼らはまるで乾いた地を渡るようにして難を逃れることができたのです。
神は驚くべき力を持っておられます。天地万物を創造された神は、海を二つに分け、天からマナを降らせ、手も触れずに難攻不落の城壁を壊してしまわれます。また死人を生き返らせ、太陽を天空に止めさせ、日時計を戻すことさえなさるのです。
さらに、創造者なる神の知られざる力は、私たちの人生における‘躓きの石’を‘踏み石’に変える能力です。つまり一つの可能性のドアが閉ざされても、神はもう一つのドアを私たちのために開かれるのです。また、ひとつの失敗が不思議な方法で成功の鍵となり、苦い経験が新しい段階に進む決断の時となるのです。これらはすべて聖書のこの約束の言葉に根ざしています。
‘神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる’(ローマ書8:28)
神は必ず万事を益として下さいます。それは決して私たちの上に降りかかるすべての事が良いという意味ではなく、神は私たちの人生に降りかかるどんな醜いことでも、それを美しくすることができるということです。神は私たちの人生の最悪の経験を通して、私たちを強め、正しくし、謙遜で誠意ある者に作り変え、最良の結果をもたらして下さるのです。
あなたは今、一つのドアが閉ざされた経験をしておられませんか?
しかし心配は無用です。なぜなら、神はあなたのためにもう一つのドアを用意しておられるからです。
今日の一言: 一つのドアが閉ざされても、もう一つのドアが開かれる
平安
鶴田健次