
今日は、‘神への従順’ということについて考えてみました。
「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」(創世記6:22)
もし神があなたに巨大な船を造るように言われたら、あなたは質問や異議や条件を神に言われるかも知れませんね。しかし、どうでしょう。ノアはそういうものは何も言いませんでした。たとえ世界が大雨を経験したことがなくても、彼は無条件に神に従い、山の上で巨大な船を造ることをしたのです。
従順とは、神が言われることは何でも、無条件に、躊躇せず、行なうことを意味します。先延ばしをして、「祈って考えます」などと言わず、すぐにするのです。親であれば誰でも、‘あとでするから’という従順は不従順であることを知っていますね。
私たちは、しばしば神に対して、部分的に従順であろうとします。私たちは従うべき神の言葉を選り好みします。私たちは、不合理で、難しく、犠牲の伴う、世的に人気のない神の命令を無視しながら、自分の好きな神の言葉を掲げて、それに従おうとします。「私は教会には行きますが、十一献金はしません」、「私は聖書を読み、祈りますが、あの人を赦しません」、「私にも問題はありますが、あの人の問題は本当に問題です」などと考えたりします。しかし、そのように自分の都合に合わせた従順は、神に対しては不従順なのです。
本当の従順は、心から喜びを持って神の言葉を行なうことです。リビングバイブルの詩篇100篇2節を見ると、「喜びをもってお仕えしなさい」とあります。これはダビデの態度です。またリビングバイブルの詩篇119篇33節には、「神様、実際にどうしたらいいかを教えてください。そのとおりにしたいと思います。いのちある限り、心を尽くしてお従いします」とあります。
ヤコブはクリスチャンたちに、「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない(ヤコブ2:24)」と言いました。神の言葉は、人が自分の行いで救いを手に入れることはできないことを明らかにしています。救いは、確かに人の努力によるのではなく、ただ恵みによるのです。しかし、人は神への従順を通して神を喜ばせ、神に近づき、神の栄光を現わすことができるのです。
今日の一言: 自分の思いを乗り越えて神に従順であろう
平安
鶴田健次

5月22日(日)、ラスベガス教会にて今回二度目となるホセ田中・裕子ご夫妻の「ギターコンサート」が開かれました。
優しくユーモアのあるホセ兄弟と、気さくで明るい裕子姉妹は、神の愛をたっぷり受けたとても仲睦まじいご夫婦です。朗らかな雰囲気の中、お二人の笑顔で始まったコンサートは下記の順番で演奏されました。
1、シェ マ イスラエル
2、黄金のイスラエム
3、Encourage
4、ギターソロ
5、We pray for Jesus
6、この手を組んで
7、空
8、チロリン
9、ビアドロローサ
ホセ兄弟の素晴らしいギター演奏は、やはり神様が与えてくださった素晴らしい賜物なのでしょう。客席は静まり返って、ただただホセ兄弟の世界に引き込まれていました。また、裕子姉妹の透き通るような美しい声は、まるで天に溶けていくような心地良さでした。私は、『この手を組んで』という裕子姉妹の歌の中で、“小さきこの手が祈る・・・”という歌詞がとても心に響きました。
お二人は10月に予定されている日本での東日本大震災のチャリティーコンサートに出演予定ということをお聞きしましたが、出演を決めた時のお証しをコンサートの中で話してくださいました。
ホセ兄弟はその日、テレビに映る地震と津波の信じられない映像に強いショックを受け、『こんな大変な時に、なぜ自分はギターを弾いているのだろう!』という思いに駆られ、ギターを弾くことに戸惑いを覚えたそうです。そんな中、日本の被災者の若者達が、流されず、壊れていない楽器をかき集め、同じように被災した人々のためにコンサートを開いた、というニュースを耳にしたのです。『津波で家も身の回りの物も流され、何も無い中での希望、それは神様しか与えることができない。お金があっても心の代償は払えない。』との思いが湧き上がり、日本の地に神という大きな希望を植えに立上がろう、と決心されたのです。
主のご計画により、ラスベガスの地にお二人を送ってくださった事を主に感謝いたします。
これからのお二人の信仰生活、そして主にある音楽活動に主からの力強いお導きと祝福がありますよう、教会員一同お祈りしています。
『愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。』第一ヨハネの手紙4:11-12
(ブログ制作チーム: Sao)

今日は、‘聖霊の賜物’について考えてみました。
‘好きこそものの上手なれ’という言葉がありますが、一般的には、器用であること、稽古をすること、好きであることのうち、やはり好きであることが上達のもっとも近道であるという意味です。自分の好きなことは、誰から言われなくても、熱心に工夫しながら稽古をし、苦しい修行にも耐えて努力をするので、やがて必ず上手になるものです。
‘好きな道に苦労なし’、‘好きは上手のもと’、‘好きに身をやつす’という言葉もあります。好きだからこそ、一生懸命に勉強し、熱心に上を求めていきます。このように、強いられてではなく自分からすすんでやる勉強や研究や努力は実を結ぶのが早いものです。
聖書の中に‘聖霊の賜物’についての教えがありますが、これはクリスチャンとしての自分を最も輝かせるための奥義、あるいは神が計画して下さった信仰生涯を最良のかたちで生きるための大切な教えです。つまり、神はあなたの人生に素晴らしい計画を持っておられ、あなたが神の計画にしたがってその働きを全うできるようにと、その働きをなすための能力を与えておられるのです。その能力を‘聖霊の賜物’(Gift of the Holy Spirit)と言います。
通常、この神の奉仕をする能力(聖霊の賜物)は、教会全体の益のために(Iコリント12:7)用いられるものですが、その際、私たちは自分の賜物の分野での奉仕に特別な関心や興味を持ちやすいという特徴があります。つまり、特に気になる分野の働きに自分の賜物を発見する手がかりがあるということです。
また自分の賜物の分野の奉仕は、他の分野の奉仕よりも楽しく、喜んでできるので、自然と自発的にその奉仕に打ち込むようになります。また、この働きのために神から特別な能力(聖霊の賜物)が与えられているわけなので、その能力は使えば使うほどどんどん上達し、多くの人々に祝福をもたらすのです。要するに、‘好きこそ賜物のゆえなり’ということです。
あなたは、ご自分の聖霊の賜物をご存知ですか?まだそれを発見していない人はぜひ早く発見してください。そして、その聖霊の賜物を活用して、あなたが最も輝く人生を生きましょう。
今日の一言: 好きこそ賜物のゆえなり
平安
鶴田健次

今日はわが教会の折り鶴ミニストリーに関するブログの第2弾です。
前回の折り鶴ミニストリーのブログでこのミニストリーの成り立ちや現在の活動状況、またこの働きに多くの方々が参加している事などをご紹介いたしましたが、今回はこの働きに重荷を持って参加されているひとりの姉妹のお証しをご紹介いたします。
この姉妹はお名前を坂東美恵子姉妹と仰います。教会にはご主人の一郎兄弟、娘さんの一美姉妹、そして今年2歳になるお孫さんのエミリー・愛子ちゃんと親子三代で集っておられ、わが教会では唯一の親子三代の大変祝福されたご家族のお母さんです。いつも千羽の鶴を三週間ほどで折りあげ、教会へ届けてくださいます。
このミニストリーが教会の働きとして正式に発足したのは昨年でしたが、みえこ姉妹はそのずっと前から個人的に教会員やその家族、また教会と繋がっている方々に千羽鶴を折り続けてこられました。それは病気や怪我をわずらった方々に一日も早く完治してもらいたいという美恵子姉妹の心からの祈りが形となって表れたものでした。
実は美恵子姉妹は以前、病を患った方々をとてもつらい気持ちで見送られた経験があります。美恵子姉妹は日本で18年間、保母として働かれていました。その頃二人の教え子を病気のために失いました。一人は3年間教えた園児でしたが、ある時へんとう線の手術を受けた後、麻酔から目覚めることなく亡くなりました。「教え子のために何も出来なかったが、その子のために私にできることは何だろう」と考えられた姉妹は翌日のお葬式までに300羽の鶴を折り、亡き教え子に送りました。
それからしばらくして二人目の園児と出会います。この子は生まれてからずっと白血病を患い、病院暮らしをしていました。ある日両親は子供の主治医から、幼稚園にでも通わせるように、と告げられました。それは、子供の命がもうわずかである事を意味していたのです。両親はわが子を受け入れてくれる幼稚園を東京中探し全て断られ、ようやく美恵子姉妹が勤めていた幼稚園にたどり着きました。
「この園長先生はどういうわけだか他の幼稚園では絶対に受け入れない子でも受け入れる方だったのよ。そしてどういうわけだか、いつもその様な子供たちは私のクラスに来るの。」と時々遠くに視線を向けながら、また時々こちらをじっと見つめながら真剣にお話を続けられました。
この子供を受け持たれた頃、美恵子姉妹のクラスには他に自閉症の子が二人いたそうで、時に二人の自閉症児を両脇に抱えながら白血病の子供の世話をして・・・という具合でとても大変だったそうです。でもその子は本当に毎日喜んでいつも笑顔だったので、美恵子姉妹は心からの愛情を注いでその子の幼稚園生活を支えました。そしてその子は幼稚園での一年を何とか過ごし卒園しましが小学校の入学式から一週間後、亡くなりました。その子の病気の故に「もしかしたら・・・」という気持ちは在園中からあったので、姉妹は鶴を折り続けました。お葬式の日、その子のお棺には姉妹が折った千羽鶴が入れられていたそうです。
これらのことがきっかけで美恵子姉妹はその後千羽鶴を折って病の人々に送るようになりました。「何とか良くなってほしい」、ただその願いだけだったそうです。
そしてアメリカへ移住してこられ、この教会に集うようになられてからは10人以上の方々に千羽鶴を送られました。当時はひとりで折っていたので、紙の裏に御言葉やお祈りを書いて折りました。書くたびに、折るたびに「神様、何とか助けてあげてください。」と祈りながら毎日続けました。
そしてそんなある日、日本で闘病していたお兄さんが亡くなりました。お兄さんは大変な病を患った方で、糖尿病から始まって耳下腺がん、肝臓がん、肺がん、甲状腺がん、そして最後は脳腫瘍といった具合でした。 お兄さんのそばにいることが出来なかった姉妹は鶴に祈りと思いを込めてお兄さんに送りました。ちょうど肝臓がんを発症した頃でした。「もう危ない」という連絡を受けて日本へ向かっている途中の飛行機の中で、お兄さんは亡くなりました。
「死は嫌い」と姉妹は言います。実はお兄さんはクリスチャンではありませんでした。このことがさらに折り鶴の働きへと姉妹を導くことになりました。「とにかく病気の人々が癒されてほしい、人は皆死ぬけれど皆神様を信じて救われてほしい、折っているときはそう祈っています。だから一羽でも多く折って一人でも多くの人に届けたい。」これが姉妹の祈りです。
さらに姉妹は折っていると喜びが沸く、もっと時間がほしいと言いました。またご両親を亡くされた経験から、病に関係なくお年寄りの方々のためにもっと千羽鶴を折りたいと言っておられます。
折り鶴ミニストリーはこうした働き人ひとりひとりの祈りに支えられています。なぜなら主は祈りの一つ一つを聞かれ御旨にかなって聞き届けてくださるからです。一羽一羽の折り鶴に込められた祈りのなんと尊いことでしょう。美恵子姉妹に、またすべての働く方の奉仕に心から感謝して、ラスベガス日本人教会はこれからもこの働きに励んでいきます。主の豊かな祝福が折り鶴ミニストリーとすべての働き人の上にありますようお祈りいたします。
「主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳を留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。」(詩篇17:1)
(ブログ制作チーム: Sue)

今日は、‘自我からの解放’ということを考えてみました。
私たち人間は、自己中心性のゆえに、自分の都合に合わせて物事の良し悪しを判断しやすいものです。私たちの正義は実に主観的で、普遍的な真理に根ざしていない場合がなんと多いことでしょう。
絶対者なる神に土台を据えて生きていると思っていたつもりが、そうではなかった自分に気付かされることがあります。また、これでいいと思っていたことが、あるとき突然、そうではないことを示されることがあります。神とある一定の距離を保っていたときには分らなかった自分の肉の思いが、神に近づいたときに露(あらわ)にされることがあります。そんなとき、私たちは古い自分にしがみつくか、それとも主の前に悔い改めて自我から解放された新しい自分を生きるか、その二者択一を迫られるのです。
そんな事を考えていたら、マザー・テレサのこんな詩を目にしました。
主よ、私は思いこんでいました。
私の心が愛にみなぎっていると。
でも心に手を当ててみて、
本音に気づかされました。
私が愛していたのは、他人ではなく、
他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。
私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、
真実がわかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じ切っていました。
自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて、
本音に気づかされました。
実は思い上がりと妬みとの心に、
私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
自我から解放された世界はなんと自由な世界であることでしょう。
今日の一言: 自我から解放されよう
平安
鶴田健次