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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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12月26日、今年最後の礼拝を守り、昼食をはさんだ後、年に一度の教会大掃除をしました。日語部の礼拝堂、英語部の礼拝堂、日曜学校の教室、キッチン、物置、トイレ等、割り当てられた担当部署に分かれて皆さんが働かれました。

今年も一年間、神様が与えてくださった教会堂で、共に祈り、主に賛美をささげ、メッセージに心を打たれ、涙し、笑い合い、多くの兄弟姉妹と共に主にある良き思い出を心に刻みました。1年間短いようでもいろいろなことがありました。2月には則子姉妹の結婚式を教会で執り行い、兄弟姉妹が大勢参列いたしました。メシアニックジューのRichard Hill 先生が来られて貴重なお話を聞かせていただきましたのも2月でした。サリー姉妹とテディー姉妹の喜寿のお祝いが3月に持たれ、主が豊かに祝福してくださいました。Duo Takase ご夫妻による特別賛美礼拝が7月に行われ、一味違う賛美礼拝に聖霊様が会堂一杯に満ち溢れるのを感じました。8月には教会設立8周年を全員でお祝いし、喜びの気持ちが既に10周年に向かい、主に栄光をお返ししたいという気持ちが会場の雰囲気から感じられました。この他にも教会で行われたことはまだまだたくさんありましたが書ききれません。

このように振り返ってみるとこの1年間の歩みの様々なことが思い出されます。主か与えてくださった私たちが集う教会堂を、感謝を込めてお掃除できることも本当に感謝なことです。

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また加えて感謝だったことは、教会メンバーのみならず私たちの教会に集ってくださっているノンクリスチャンの方々が、メンバーと共に大掃除に加わってくださったことです。中にはお掃除道具を持参して来られた方や、最後まで残ってがんばってくださったり、本当にありがたいことでした。

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毎日曜日はもちろんのこと、事あるごとにお掃除をしてはいるものの、やはり普段なかなか目の行き届かないところがあったり、処分しているつもりでもたくさんのごみが出たりと大掃除の時には毎回驚かされます。直前まで飾っていた大きなクリスマスツリーも来年のためにきれいに箱に入れたり梱包したりして片付けられました。池原長老から送られた「神は愛なり」の書も正しい位置に架け替えられました。

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お掃除後は教会中がさっぱりときれいに整理整頓され、新しい一年もキリストの福音を述べ伝えるのにふさわしく整えられた教会堂に喜びを覚え、「来年もどうぞ一人でも多くの人々を教会へとお送りください。」と神様に祈らずにはいられませんでした。

来年もどうか主がその恵みをもってこのラスベガス・ジャパニーズ・コミュニティー・チャーチを大いに祝福してくださり、大いに用いてくださいますことを心からお祈りいたします。

「またその恵みをもって年の冠とされる。 あなたの道にはあぶらがしたたる。」
(詩篇65:11)


(ブログ制作チーム: Sue)

2010.12.31 00:00 | 教会イベント
s-賢者はイエスを探す

今日は、どうすれば賢者になれるかを考えてみました。

世界で最初のクリスマスの出来事です。
聖書にこう書いてあります。

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。(マタイ2:1-2

もしあなたが賢者になりたければ、あの東から来た三人の博士たちがした事と同じ事をすればいいのです。

彼らは真理の探求者でした。
彼らは本当に真理を知りたいと願っていました。
彼らは、神に関する真理を知ることを後回しにしませんでした。

彼らは何と尋ねているでしょう。「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」と尋ねています。彼らはなぜこの真理に気付くことができたのでしょう。それは彼らが聖書を学んでいたからです。つまり旧約聖書にある救い主の誕生を星が知らせるというメシヤ預言を知っていたからです。

“賢者は今もなおイエスを探し求めている”という格言があります。あなたはイエス様を探し求めておられますか。賢者はイエス様を探し求めるのです。実際、真理に関して言えば、この世には、通常、二種類の人がいます。それは、真理について考えるだけの人と、真理を実際に探し求める人です。

考えるだけの人は、口では真理を知りたいと言いますが、それを学ぶための努力をしようとはしません。彼らは真理を探そうとはせず、代わりに、「私は神とはこういうものだと思う」というふうに、自分で神のイメージを作り上げてしまいます。

しかし、実際、彼らがどう考えるかは全く重要ではありません。彼らは神を、死んだ人間であったり、宇宙であったり、太陽であったり、自然であったり、動物であったり、と様々なイメージに想像します。ところが、本当に重要なのは、事実、神は誰なのかということです。真実こそが重要なのです。

それに対し、実際に探し求める人は、真理を見つけ出すために時間を使い、あらゆる努力を惜しみません。聖書は、もし私たちが心からイエス様を探し求めるなら必ず見出すことができると教えています。ですから、イエス様を見出すことに集中するならば、必ず見出すことができるのです。真剣にイエス様を探し求める者を、神は絶対に失敗させたりはなさいません。

三人の博士たちは、真理を見出すためなら、どこまでも探しに行く気持ちを持っていました。もしあなたがそれと同じようにされるなら、あなたはイエス様を見出す賢者になるでしょう。

今日の一言: 賢者はイエスを探す人


平安
鶴田牧師
2010.12.29 12:10 | 鶴田健次牧師より
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『クリスマスの恵み』 と題して、クリスマス礼拝のメセージが取次がれました。
イエス様御降誕の恵みの意味を解き明かし、クリスマスの本当の喜びとは何かを分かりやすく鶴田牧師が語られました。

メッセージは以下の三つのポイントで語られました。
1.クリスマスは神が人となられたこと 
2.神の子が飼葉桶に寝かされた理由 
3.クリスマスの恵みは、へりくだる者にもたらされる
 
イエス様が私たち罪人のために「神の子が人となられ」、「すべての人々の救いのために」この世に来られたこと。この救いの恵みを受け取るには、「自分が神から離れていたことを認め、イエス様を心に受け入れること」、これがイエス様がこの世に来られたクリスマスの意味です。私たちはこの事をしっかりと心に刻み、感謝の気持ちでクリスマスを迎えましょう、とメセージをされました。 ハレルヤ!

クリスマスは、この世に救い主が来られたお祝いの時です。私たちもイエス様に心から感謝しその栄光を称え、礼拝後、約70名の方々と共に主のご生誕を祝うクリスマス・パーティーを開催しました。

クリスマスパーティーはまず、皆さんで持ち寄ったポットラックランチから始まりました。今年もテーブルの上は乗せきれないほどたくさんの美味しいもので溢れていました。巻き寿司やちらし寿司から、揚げ物・煮物、サラダ各種にフルーツにスイ-ツ類・・・ 皆さんの顔が笑顔で輝いていました!

ステージの方は最初に、サンデースクールの生徒達とユースの生徒による、イエス様の御降誕を劇にした「日本語劇」が行われました。普段日本語を話さない子供達も中にはいますが、このときは覚えた日本語の台詞と共に真剣な表情で演じ、時折、客席から温かい拍手が沸きあがっていました。日本人の子供達もアメリカ人の子供達もみんな一生懸命に自分のパートをこなし、とても立派でした。マリヤになった子、ヨセフになった子、博士になった子たち、羊飼いになった子供達、羊になった子供達、みんな素晴らしい子供達です。先生方と生徒達が、長い時間をかけた練習の成果が現れた結果でした。

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子供劇の後、鶴田先生とノーマン長老から、子供たち一人一人に今回の日本語劇の表彰状が渡されました。ご褒美のプレゼントも受け取って、子供達は嬉しそうでした。

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この後は毎年恒例の“お楽しみクイズ”が、司会の私・松岡とイレイナ姉妹により、日英両語で始まりました。一般教養とキリスト教関連からの出題で、大人全員参加で行われました。イエス・ノー・クイズで、最後に3人が残り決勝を競いましたが、今年はケイ・バートラン姉妹が1位、2位鶴田先生、3位はたみこ姉妹が獲得されました。それぞれの方にはクリスマスにふさわしい豪華賞品が渡されました。

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そして、お待ちかねの“ギフト交換”。今年も大きなツリーの下にたくさんのプレゼントが置かれ、自分の持っているナンバーが呼ばれると、ツリーの前に行き好きなものを選んで持ち帰ります。皆さん童心に返ったように楽しんでいました。とても和やかで楽しいひと時でした。

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最後に、閉会の祈りが鶴田牧師によってなされ、残られた皆さんで記念写真を撮りました。

見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。(詩篇133篇1節)


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(ブログ制作チーム: 松岡)
2010.12.24 08:38 | 教会イベント
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今日は、“信仰”と“従順”との関係について考えてみました。
神は私たちの“信仰”を伸ばすために“従順”をお用いになります。

イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。(マタイ14:29)

イエス様がペテロに、舟から足を踏み出し、水の上を歩いてご自分のところに来るように言われたときのことを思い出して下さい。その呼び掛けは、荒波の上を歩く危険のために、舟の中にいる安全を自発的に放棄することを求めるものでした(マタイ14:22-31)。

それに対してペテロは、イエス様に対するひた向きな従順をもって第一歩を踏み出します。そして、彼の足が水の中に沈まなかった経験を通してイエス様に対する彼の信仰はさらに確かなものになったのです。

神は、私たちが信仰を伸ばせる立場に私たちを置くために、私たちの従順を用いられます。イエス様は、私たちが信仰の第一歩を踏み出すよう、私たちに呼び掛けられます。それから、私たちがそのステップを踏むことができたときにだけ、イエス様は次のステップを私たちに明らかにされます。

その意味で、もしあなたがイエス様の呼び掛けに反抗的であるなら、自分の信仰を伸ばすことができないばかりか、あなたの人生の次のステップも明らかにされません。あなたは、神には何でもできる、と知的には同意するかも知れませんが、もしあなたがこの最初のステップを踏み出せないなら、あなたは信仰がないのです。

事実、これはクリスチャンの多くが動けずにいるところです。私たちは、たとえイエス様が私たちにして欲しいことを知っていても、自分が次に何をしたいかを考えるために、イエス様に対する従順から距離を置こうとします。しかし、この従順以外に私たちの信仰を伸ばす方法はありません。

舟という安全な場所を離れることによってだけ、ペテロはイエス様の内にあるより大きな安全を見出すことができました。つまり、唯一の本当の安全はイエス様のうちにあるということです。ペテロは、この経験から直接、イエス様がすべての状況における主であることを学ぶことができました。

ペテロはまた、イエス様から離れたところで何を見ても、考えても、それは現実の反映ではないことを学びました。私たちが持ちやすい神話は、最も確かな安全は舟の中にあるというものです。しかし現実は、イエス様と共にいることが最も安全なのです。

今日の一言: 従順こそ信仰を伸ばす鍵

平安
鶴田牧師
2010.12.20 22:20 | 鶴田健次牧師より
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私たちの教会では毎週、礼拝後に、“愛餐会”の時が設けられています。それは週によって、軽食であったり、スナックであったり、ファンドレイズのスパゲティーやカレーライスであったり、持ち寄りの食事であったりと、多様性に富んでいます。しかし、どこの教会においても陥りやすいことかも知れませんが、この愛餐の時が、ただ食べるだけの時、ただ親しい者同士が交わるだけの場になってしまうことがないでしょうか。

そこで今回は、ご一緒に、本来の聖書的愛餐のあり方について考え、その本来のあり方を私たちの教会の愛餐会に取り入れたいと思います。

かつてイスラエルには十二の部族がありました。この十二の部族には部族ごとに領地が与えられ、そこで作物を収穫し、家畜を飼いながら生活していました。ところが、その十二部族の中で領地を持っていない部族が一つだけありました。それはレビ族という部族で、彼らは礼拝の務めをするのが仕事でした(民数記1:47-53)。

領地がないという事は、畑を耕す事も、家畜を飼うこともできません。そこで神様はイスラエルの十一部族に十分の一を献げよと言われたのです(民数記18:21)。しかしその十分の一はただレビ族の物となった訳ではなく、申命記14:26には「あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」とあり、また、町の中にいる寄留者や孤児や寡婦が食べて満ち足りるようにしなさい(29節)とあるように、一緒に生きるための十分の一なのです。

つまり、私たちの献げ物の意味は、「私たちが持ち寄った物で私もあなたも共に喜ぶ」というものです。献げ物は決して失うのではなく、持ち寄ってあなたも私も共に喜び祝うためのものなのです。神様は「あなたにあげた十分の一を私に返しなさい」と恩返しを求めておられるのではなく、「十分の一を持ち寄って喜び祝いなさい。持っていない人も招いて一緒に食べなさい」と言われているのです。それが神の教会での献げ物の心であり、愛餐のための持ち寄りの食事は、そういう理解でなされていくものなのです。

初代教会の時代、コリントの教会では、礼拝後、それぞれ持ち寄った食べ物で食事会をしていました。この食事は“愛餐”と呼ばれていましたが、ギリシャ語で“アガペー”と言いました。“アガペー”は、報いを求めないで与える愛、より高い愛、献身的で意志的な愛を意味しています。教会での食事会が“アガペー(愛餐)”と呼ばれたのは、その日の食べ物にも事欠くような貧しい人々のために、食べ物を与えるために行なわれたからでした。

食べ物が十分にある人が、食べ物のない人々のために、それを持ってきて、分け与えたのです。当時は貧富の差が大きかったのですが、教会では、貧富の差を越えて、みんなが食べ物を分け合い、ひとつになって、交わりを楽しんだのです。教会の愛餐会は、貧しい人を思いやる愛の実践の場であり、それは、とても麗しい習慣でした。

もちろん、今の時代は、貧しくて食べ物に事欠くような人はあまりいないかも知れません。しかし、愛餐会の心は今でも同じです。教会は、お互いが良きものを持ち寄って分かち与える場なのです。自分の益ではなく、まず他の人の益を求める場なのです。

ところが、そのコリント教会の愛餐会が、いつの間にか本来の目的が忘れられ、自分のことを第一に求めるような愛餐会、ただ飲み食いをするだけの愛餐会になってしまったのです。私たちの教会はいかがでしょう?皆さんはどんな心で愛餐会の時を持っておられるでしょう?いま一度、聖書の原点に戻り、弱い人、寂しい人、お年寄り、新しい人、そういう人たちが一番に顧みられる愛餐会、自分ではなく他の人が重んぜられるような愛餐会を作り上げていきませんか。


(LVJCC牧師: 鶴田健次)
2010.12.17 00:00 | 鶴田健次牧師より

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