LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

midorisantop.jpg 

ブルガリアに住む老人、ドブリ・ドブレフ(Dobri Dobrev)さんをご存知でしょうか?
ドブリさんが生まれたのは100年以上前の1914年の夏。第2次世界大戦中の爆撃が原因で、以来耳が遠くなってしまいました。

ドブリさん、実は、世界中にファンがいます。それはドブリさんの行いに感動したり、心を動かされた人々です。彼は信仰心が篤く、貧しい暮らしの中でも誰よりも多くの献金を主に捧げ、主に栄光をお返している愛すべきキリスト者です。

ブリさんの住いはベイロボ(Baylovo)という村にあって、ベイロボの教会の隣の小さな部屋に住んでいます。その村は、ソフィアという街から東に約40キロ行ったところにあります。生活は年金でやり繰りして、部屋にはベッドとテーブルがあり、贅沢品などは何もありません。彼はブルガリア正教会の信徒で、神を愛し、今の静かな暮らしを好ましく思っている老人です。近くの親切な人が、ドブリさんにパンや食べ物を持ってきてくれたりもするそうです。

midorisan.jpg 

そんなドブリさんは毎日ソフィアへ行って、大聖堂の前や街頭などで人々にコップを差出し、施しを受け取ります。コップに小銭を入れてくれた人に、ドブリさんは持っているパンを、「どうぞ一口ちぎって食べて下さい、神様からの贈り物ですから」と言うのです。たぶん、ドブリさんの温かい感謝の心から出た、ご自分のできる祝福の分かち合いなのでしょう。本当に優しい方です。

白髪と白く長い髭、そしてすり切れた古いコートを着て街角でコップを差し出す姿から、心無い人たちはドブリさんを物乞いだと言いますが、ドブリさんは自分を物乞とは思っていません。「施し」だと言います。しかし、どう見られようとも、ドブリさんは気にすることも無く、20年以上も続けています。

一方、ドブリさんを支持する人たちは、ドブリさんを「聖人」と呼んでいます。
ドブリさんが集めたお金は、財政難の教会を助けたり、修道院の再建に用いられたり、孤児院の公共料金として支払われたりと、ドブリさんの献金が生きたお金となって動いています。ドブリさんがした一番多額な献金は、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂へ3万5700レバ(約250万円)を捧げました。他にも、小さな修道院や教会も口々に2500~1万ユーロを献金してもらったと言っています。EU最貧国と言われるブルガリアの平均月収がドル換算で$500位なので、ドブリさんの献金額がどれ程かわかります。
ドブリさんがこれまでに受けた施しは何万ユーロ相当にもなりますが、ドブリさんはそれを自分のためではなく、すべて他者のために寄付しました。

善行を続けられたドブリ・ドブレフさん、その名「ドブリ」とは、ブルガリア語で「善」を意味する言葉だそうです。なんと素晴らしい意味深い名前を付けてもらったのでしょうか。人にも神にも「善」であった人「ドブリさん」、主に祝福された方。この世の富より、主が下さる富を最も大事にされた方。「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)その御声に従った方。

ドブリさんの事を知ってから更に知りたいと思って調べると、出て来たものの8割程が2014年の記事でした。おそらくその頃に、ドブリさんが日本のメディアに紹介されたのかもしれません。ですのでここで紹介した写真や金額も当時のものと思って差し支えないと思います。
しかし、最後に見つけた一つの動画YouTubeは、2017年のものでした。そこで話されている言葉は、たぶんブルガリア語だと思いますが、ドブリさんが多くの信者や聖職者に囲まれて教会でお祝いの式典をしているところだと思われます。
ブルガリア語のタイトルを日本語翻訳機にかけると、「ドブリおじいちゃん(103歳)Kremikovtsi修道院で」と出てきました。
103歳のドブリさんは、もっと背中が丸くなっていて、弱くなっているようにも見えましたが、多くの人に愛されている事が感じ取れました。それは、ドブリさんが先に多くの人を愛したからなのかもしれません。イエス様のように。。。

            こちらがその動画です
            


(MU)

ブログランキングに参加しています。下記のアイコン「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただきますと幸いです。FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」と「シェア」のクリックもお願い致します。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨

2018.02.15 03:48 | その他
wereyouthere.jpg 

聖書クラスで何度か賛美したこの聖歌。
聖書クラスでは伴奏が無いこともあり 「鶴田先生の低音の歌声と共に、ゆっくり、しっかり心に入って来る聖歌」 という思い出がありました。

つい先日の朝、この楽譜が目に入りその日の賛美はこの曲にしました。

初めて一人でゆ~っくり、歌詞の風景、状況、背景等を思い浮かべながら歌い始めたのですが、歌詞の通り、心が震えました。

私は、洗礼を受けて今年の6月で5年になります。
この間、常に自分のイエス様に対する知識、イエス様の愛、御父の思いに関する理解等、どれをとっても、何かが足りない、欠けていると分かっていました。
イエス様がこの世に来てくださった事、十字架の贖い、神のご計画等、全て「知識」としては知っていて理解していて、勿論、全てを信じているのですが、それがどれほど大きな事なのか?分かりきっていないのです。。。

ですので、その欠けを強く感じる時には 「イエス様の事、イエス様の愛についてもっと私が知ることができますように!」 と祈ります。すると主もそれにこたえてくださり、少しずつ、少しずつですが、イエス様の事や愛を知り、感じられるようになってきていると思います。
まさに!生きて働いておられる主に感謝です。

実は、その日の朝も同様の祈りを捧げた所、この賛美が目に入り、私の心と霊に訴えたのです。

「イエス様が十字架につくとき、あなたもそこにいたの?」
「イエス様を十字架につけるために手と足に釘が打たれた(刺し通された)時のその音を聞いたの?」
「イエス様の血が流れるのを見たの?」
「十字架上のイエス様が御父の御手に霊をゆだねられた時、全地が暗くなったのを気がついていたの?」
「イエス様を葬るために墓にいったの?」

この賛美は私にこの様に話しかけてきました。
同じ歌詞でも、その時の状況で一番に心に訴えることは違うと思いますが、その日の私は

「イエス様。はい。私もそこにいました。そしてイエス様を十字架にかけたのは私です・・・」
「イエス様。あなたが、十字架で死んでくださったのは知っていましたが、この様に痛い、惨い事を麻酔もなく、しかも大きな釘を打たれていらっしゃった事を、想像する事を忘れていました。鞭打ちに加え、釘、そして釘だけに体重がかかる・・・その一つ一つがどんなに厳しい贖いであったか・・・想像もしていませんでしたし、理解もしておりませんでした・・・」

と。2番目の歌詞からしばらく離れることができませんでした。

公生涯中、愛をもって自分の事、御父、天の御国の事等を教えてくださったイエス様を十字架にかけてしまった私・・・
そんな私をも救おうと、嘲りや痛み、苦しみに耐えてまでも罪の贖いをしてくださったイエス様。
それなのに、その部分さえも本気でイエス様の気持ちや痛みを知ろうとすることもなく 「イエス様♡、いつもありがとうございまーす!♪」 と軽く言い放っている私・・・。

イエス様の苦しみと愛に少し気付くことができ、私自身に何が欠けていたのか? 少し分かることができたような気がします。

まだまだまだまだ、まだまだまだまだ。。。イエス様の深い深い愛を完全に知り、理解し、感謝できてはいない私ですが、約1か月半後のイースターまで、この賛美と共に、イエス様の十字架としっかり向き合いたいと思いました。


「きみもそこにいたのか」

きみもそこにいたのか  主が十字架に付くとき
ああ何だか心が 震える  震える  震える
きみもそこにいたのか

きみも聞いていたのか 釘を打ち込む音を
ああ何だか心が 震える  震える  震える
きみも聞いていたのか

きみも眺めてたのか 血潮が流れるのを
ああ何だか心が 震える  震える  震える
きみも眺めてたのか

きみも気がついたのか 突然日がかげるのを
ああ何だか心が 震える 震える 震える
きみも気がついたのか

きみも墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ何だか心が 震える  震える  震える
きみも墓に行ったのか
(聖歌 400番(新聖歌113番))


是非、歌詞と映像と共にご視聴ください。


(KS)
ブログランキングに参加しています。下記のアイコン「キリスト教」「人気ブログ・・・」をクリックで応援していただきますと幸いです。FBをお持ちの方は、よろしければ「いいね」と「シェア」のクリックもお願い致します。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨


2018.02.12 14:18 | その他
imashime.jpg 

皆さんこんにちは(*^^*) TKです。新しい年が始まり、もう1か月が経ちましたね!私はつい最近、ようやくですが学校生活へのエンジンがかかってきた気がします。(主に勉強に対して。。。)毎日、その日その日は神様に与えられていると自覚し、大切に過ごしていきたいですね。

さて、今日は「裁き」と「戒め」について考えてみませんか?

裁きについてみなさんがよく聞くのは、「人を裁いてはいけない」(ルカ6章37節)という部分ですね。そして皆さんが考えているのは、人を裁くというのは陰でその人の悪口を言うという事ではないでしょうか?私もそう考えていました。

気になったので、色々調べてみたところ、あるブログでは、裁くことと、戒めることは全く違うと書いてありました。引用を載せます。
「パウロは、『私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。』(Ⅰコリント5章3節)と語っています。ここでいうパウロがさばいたということは、聖書が戒めている『さばいてはならない』のさばきではなく、正しい姿に引き戻す、回復させる、ゆるしが約束されている悔い改めへと導くためのものです。パウロは教会に対して、『何をしてもいいよ、私はさばかないから』と罪を黙認したのではなく、むしろ愛によって『それは神の御心と福音に反する誤った行為であり、罪である』とペテロさえも 『さばいた』のです。」

続きは上のリンクから。
人を裁くことと、戒めることの違いについて、詳しく、わかりやすく書いてあります。
ぜひ読んでみてください!
このブログをすべて貼り付けたいところですが、盗作になってしまうのでやめておきます( `―´)ノ

しかし、本当の意味の「裁き」について、わかっていただけたでしょうか?パウロがしたように、愛によって、兄弟姉妹を戒めることにより罪を自覚させ、悔い改めと導くことが、本当の聖書的な「裁き」なのです。

またまた同じブログより。
「人をさばくことと、罪を戒めること (指摘すること) とは別のことです。人をさばいている時の人の心の根底には、その人を傷つけ、貶め、破壊することしか頭にありません。しかし罪過ちに対して戒めること、指摘してあげることの根底には、その人を悔い改めへと導き、建て上げ、回復させることが願いであり、目的となっています。そこには常にキリストの十字架とゆるしが存在しています。悔い改めに導くとは、その人を救う働きなのです。」

私はまだ、人を悔い改めへと導くような大それたことはしたことがありません。(むしろこれからもできるのかどうかもわかりません・・・!)しかし、このことを自分のことに適用するとしたら、私の6歳の甥に対する戒めです。彼が悪い事をした時、私は叔母という立場で、彼の行いを注意し、どうするべきなのか一緒に考えさせます。ですが、これはもちろん彼への愛と赦しを持って行っていることです。愛と赦しなしで注意したり、ただ単に叱ったりするのは、戒めではありません。

さて、皆さんは人を「裁き」「戒め」について今どう思われるでしょうか?私は、本当の意味を知った今、戒めることは聖書的愛の形だと思います。兄弟姉妹の罪について祈ることも大切なことです。しかし、それを戒めないで、そのままにしておくのは本当の神様の愛なのでしょうか?もちろん、戒める者も、愛と謙遜をもって行わなければなりません。皆さんが、戒めの中にある本当の愛とは何なのか、考えるきっかけになればと思います。



(TK)

2018.02.07 13:47 | その他

FC2Ad

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.