




「For God so loved the world」
これは、ヨハネの福音書3:16英語訳の出だしです。
この有名なヨハネの福音書の1節の日本語は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
英語訳(NKJV)は「 For God so loved the world that He gave His only
begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have
everlasting life.」です。
この英語の出だしからは、また違うインパクトを受けるのではないでしょうか?
神は世(私達)をSO LOVEDなのです。
私たちを愛してくださっている神は、イエス様をこの世に遣わされる事を、イエス様ご降誕の約700年以上も前にイザヤに示されました。イザヤはそのメッセージを「イエス様の受難の預言」として知られる、イザヤ書53章に書いています。
そして、実際イザヤの預言通り、イエス様は「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」という一つの理由のために、十字架にかかり私たちの罪の贖いをしてくださいました。
それが約2020年前の受難日(今年は3/30の金曜日)です。
約2020年前の受難日の約10日前頃(今日の今頃)、イエス様は、御父から託された大きな大きな任務に向け、エルサレムに向けて進みながら、弟子たちを教えていらっしゃる頃でしょうか?
福音書で言うと
マタイ20:17~、マルコ10:32、ルカ19章、ヨハネ12章あたりのように、神の国のこと、救いのこと等を弟子たちに話されていることでしょう。
愛する弟子たちのこと、十字架の贖いのこと、罪だらけの私たちのこと等、イエス様は多くの重荷を背負いながら、御父がイザヤを通して語られた「この地の基が創られる前からあったご計画」を行うために、全てをご存知の上で、エルサレムに向かっていらっしゃる頃かと思います。
毎年この様に、神の救いの恵みの中に招いていただいた幸いを覚え、イースターを祝うことができる恵みを感謝いたします。
強く。正しく。愛に満ちあふれたイエス様に出会えたこと、イエス様にあって罪を赦して頂き、神の子としていただけたことを心から感謝いたします。
イエス様受難の預言 (イザヤ書53章)
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
(KS)
