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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今回は、LVJCCユースのマイケル モーランド兄のお証です。幼いときから、教会に通い、晴れて洗礼の恵みに与るまでの歩み、そして将来の夢について、書いてもらいました。 とても新鮮なお証を、どうぞお楽しみください。

洗礼を受ける前の僕はどうだったのかなっと聞かれると、答えは、一言で、ワイルド!毎日、遊びに夢中になり、横っ腹が痛くなるまで走ってた。宿題も、帰ってすぐにはやらなかった。勉強も大してしてなかったのに、成績は良かった。でも、すべてが変わった出来事がある。それは、僕のおばあちゃんが教会に始めて僕とおねえちゃんを連れて来てくれた時のことだ。(少なくとも、覚えている限りでは)
教会に通うようになり、教会で聞く福音に心から耳を傾けだしたころに、少しずつ、落ち着きが出てきて、ビデオゲームや遊びに夢中になっている自分から、学校のことにもっとフォーカスするようになった自分に変えられていった。
“教会???” これが、初めて教会に向かうときに思った率直な思い。”教会”なんて、きっとまた、詰まんないとこだよ、と思っていた。僕は、小さいとき、教会ってところは、学校みたいに、退屈で詰まんないところだとばっかり思っていた。誤解のないように、僕は、学校で学ぶのは好きだけど、僕のクラスは、進みが遅いから、いつもつまらない。
初めて教会の門をくぐったときのことを微かにおぼえているのは、外国語で挨拶をされたこと。
”この人たちは、何を言っているのかなぁ?“と頭の中で何度も自分に問いかけていた。その日は、一日、この不思議な言語を聞き続けた。正直言って、とてもぎこちない感じがした。知らない人ばかりで、しかも、何を言っているのかがわからなかった。
それ
なのに、不思議と、そこにいることが幸せだと感じた。そう!ハッピーだった。何を言われているのかさっぱり見当も付かなかったけど、幸せだった。その日は、一日、風のように流れていった。もうひとつだけ、覚えていることといえば、初対面なのにとても親切な人たちに囲まれて、温かみを感じるところにいたということ。その日に、ひとつ、いや、ひとつだけ頭の中で、鳴り響いていたことが、”また,ここに、戻って来たい。“ということ。またここに戻ってきて、新しい人に会い、幸せを感じ続けたい。と思った。
時間が経つにつれて、このすばらしい神様についてもっともっと学ぶようになった。神の御言葉を学ぶだけではなく、周りの人たちは、洗礼の話しもしていた。
2010年3月23日が、洗礼という言葉を耳にした日だと思う。”今日、僕は洗礼を受ける。数週間前までは、洗礼とは、想像の中だけに存在するものだったが、今、自分が洗礼を受けようとしている。夢の中だけだったはずの洗礼が実現する。“
先生の問いに”Yes“と答えた後、水が、頭を滴り、地面に落ちていった。多くの拍手が聞こえ、”おめでとうございます!コングラッチュレーション、マイキー“という声が聞こえた。これが、僕が洗礼を受けた日だ。洗礼を受けたことが、古い自分と新しい自分の、紛れもない大きな違いだ。
古き自分は、消え去った、そして、その体の中に、新しい自分が入っている。二人は、まったく違う人たち。そのひとつをあげれば、新しい自分は、ひげが生えている。体の違いだけじゃなく、品性や霊的な面も見てみると、古い自分は、ワイルドで、やんちゃなところがあったけど、新しい自分は、すこしだけ、おだやかになり、落ち着いた感じがする。古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を着るってところだろう。

“将来、医者か宇宙飛行士に絶対なる!“古い自分はそう考えていた。真剣に医者になりたいと思っていた。でも、今は、なんだかその夢は、つまらなさそうな気がする。今の将来の夢は、ジャーナリストか、小説家になること。読んだり、書いたりすることが大好きだから、それが、情熱となった。ゴールにたどり着く一番の方法は、勉強も何もかもあきらめずにがんばること。でも、それ以上に大切なことは、神様に頼り、神の導きを常に伺うこと。そうすれば、僕たちは、本来進みべき道から決して迷うことはない。


(LVJCCユース:マイキー モーランド、訳:優子)

2012.01.03 23:00 | 洗礼
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子供たちによるクリスマス劇

2011年、今年のクリスマス礼拝は12月25日に行われました。神の御子イエスのご降誕を祝い、愛する神の家族と共に主を礼拝できたことを心から主に感謝します。クリスチャンにとってのクリスマスがどんなに大きな恵みであるかを覚えながらの賛美は、また一段と心に響くものがありました。教会堂に飾られたクリスマスツリーを前に主に捧げる礼拝は、聖霊の臨在の中で、実に感謝に満ち溢れる特別なものでありました。

礼拝後には、美味しいポットラックと共にクリスマスパーティーが持たれ、楽しいひとときを過ごすことができました。石原兄弟のお二人のご子息によるミニ・ギターコンサートと、面白クイズ(商品あり)、プレゼント交換などが盛りだくさんでした。
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ミニコンサート

そして、この記念すべきクリスマス礼拝にて、石原真一郎兄弟の洗礼式が執り行われ、新しい家族が加えられました。石原兄弟ご自身により、救いへの経緯を書いてくださいましたので、ここに掲載いたします。
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イエスキリストの御聖誕祭、クリスマスという素晴らしい日に、洗礼を受けさせて頂けるという恵みに、心より感謝申し上げます。

先日教会ブログに私の証を書くようにという連絡を頂き、その場では承諾したものの、失敗と不義理の連続、恥じ入ることだらけの自分の人生の事まで書かないといけないのかな。知っている人に読まれたらヤバいななど、思い迷いましたが、ここは主にお任せしようと思って書かせて頂きます。

私のキリスト教との初めての出会いは、小学校5年生の頃、ラジオで聞いた「ルーテルアワー」という番組でした。「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない」。聖パウロの言葉により
というアナウンスが印象的で、通信教育により子供向けの聖書講座を終了しました。教会に行ってみたいと思いつつ、鹿児島の田舎で近くに教会はなく、そのままになってしまいました。

高校3年の卒業間近のある日、路傍伝道している女性に出会い、待ってましたとばかり、その教会に通い始めました。その教えは讃美歌から始まり、聖書をもとに講義が進み、卒業後、そのまま東京にある教会の学生部に入り、12年間その教会で過ごしました。しかし私の個人的な劣等感、自己嫌悪などの悩みは解決されないまま、また私の素行の悪さのゆえに、半ば追い出されるように教会をやめ、その後、酒びたりの自堕落な生活に、のめり込みました。

あるきっかけで渡米し(15年前に)ラスベガスに移り住み、当然のごとくギャンブルにはまり、妻子を苦しめ、友人達にも迷惑をかけ通しの15年を過ごしました。また、仕事上、ルール無用のタクシードライバーとのけんか、紙面に書けないような酔態、さげすみ等々、精神面、経済面でのどん底の時に、ラスベガスアイズを手にし、最後のページの「すべて重荷を負うて苦労しているものはわたしのもとに来なさい」という聖句が目に飛び込み、胸にせまるものを感じました。しかし、以前にもっていた宗教のこともあり、なかなか敷居が高く、今年7月、やっとの思いで教会の戸をたたきました。

鶴田牧師のお話を聞き、教会メンバーの方々との交わりの中で今まで感じたことのない喜びと、自分は変われるかもしれないという手応えを感じました。ただこれを信じることは、以前に信じていた、あるいは今でも完全には否定しきれていない教義を捨てることを意味します。親友、恩人の方々との決別、もしくは対立の可能性も出てきます。なぜならその教義は、
① マリアの聖霊による懐胎
② イエスの十字架による完全なる救い
③ キリストの栄光のからだによる復活
のいずれも否定するものだからです。

これらの葛藤の中で、もう一度聖書を一句一句読み進み、入門コースの学びの中で、かつての教えはキリスト教を真っ向から否定する教理であることに気づかされました。私の理解では、十字架による救いとは、霊的救いのみであり、メシヤはもう一度、霊肉共の救いのために、女の腹から生まれなければならない。今がその時である。一度死んで腐敗した肉体は生き返ることはない。ゆえにキリストの復活は、霊によるものであるという考えです。

しかし、「あなたがわたしに行かせるためにお与えになったわざをわたしは成し遂げて地上であなたの栄光を現しました(ヨハネ17:4)」とイエスは言われ、まだやり残したことがあるとは言われておりません。

また、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわってよく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています(ルカ24:39)」と、パウロは、死者の蘇り、キリストの復活がなかったとすればクリスチャンは神に対する偽証人となってしまうと言っています。

私がかつて信じていたものはキリスト教、聖書とは根本的に異質なものであったと、自分なりに、結論を出しました。キリストを信じる者として、まだやっと入学式を迎えただけの私ですが、一方的な赦しの中で、自らの罪と闘いつつ、いつか卒業証書を頂ける日を望みつつ歩ませていただきたいと思います。これからも皆様のご指導をよろしくお願い致します。

「わたしを見て信じたのか。見ないで信じるものは幸いである。」ヨハネ21:29


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石原兄弟、お証しをありがとうございました。

兄弟をこの教会に与えてくださったことを心から主に感謝します。このお証を書くにあたり、葛藤があった中での主にゆだねようとなさったお心に感動いたしました!きっと神はそんな兄弟の心を最高にお喜びになっていることでしょう。

石原兄弟のこれからの信仰生活が神様への喜びで満たされ、神の栄光が輝きますように。アーメン

(ブログ制作チーム: Sao)


2011.12.28 12:49 | 洗礼
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2011年12月18日に、福富 英介兄弟が洗礼の恵みに与りました。ハレルヤ、主の御名を賛美します。

福富兄弟はラスベガスに来られる前カリフォルニアに住んでおられ、長い間旅行関係のお仕事をされていました。ある日友人に連れられ何気なく教会に行ったのですが、何とその友人は実は牧師さんだったのです。それ以来、日曜日は友人の牧師の教会へと足を運んでいましたが、それではそろそろ洗礼をという話が出た矢先、ラスベガスに転勤になり引っ越して来ました。

ラスベガスでは仕事に追われ忙しい日々が続いていたこともあり、教会からは遠のいていました。月日が経ち、福富兄弟の古い友人であった松村兄弟(現在は日本在住)と再会し、ラスベガス日本人教会(LVJCC)に足を運ばれるようになりました。

福富兄弟はお仕事をいくつか掛け持ちしておられ、その忙しい合間をぬっては日曜礼拝を守るという生活をされるようになりました。そんな中、鶴田牧師による入門者クラスの学びを経て、信仰告白へと導かれました。

カリフォルニアでは長い間教会に通っていた福富兄弟ですが、先日の洗礼式の後、「信仰が与えられ、その信仰をクリスチャンとして神と会衆の前で告白し、クリスチャン生活をスタートできた洗礼記念日はやはり今までとは違いますね」と、話す福富兄弟の笑顔がとても印象的でした。こうして、洗礼の恵みに与かられた福富兄弟を神の家族としてLVJCCにお迎えできたことを教会員一同、心から嬉しく思います。

人生はたくさんの選択の連続ですが、主イエス・キリストを信じるという決断は人生において最も重要で、価値のある、素晴らしい決断です。そして、これこそ私たちの主が命を賭けて備えて下さった人類救済の唯一の道なのです。

人生最良の選択をなさった福富兄弟の信仰生活が、主の愛と恵みに満ち溢れ、絶えず主の守りと導きの中でなされるように心からお祈りいたします。アーメン。

(ブログ制作チーム: Sao)

2011.12.21 06:44 | 洗礼

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