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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  まず結論から言いますと、主イエスの十字架のためにユダの裏切りは”必要”ではありませんでした。多くの人は、ユダの裏切りがなければ、主イエスの十字架もなかったと誤解していますが、ユダの裏切りは、必ずしも”必要”なものではありませんでした。たとえユダの裏切りがなくても、主イエスは遅かれ早かれ、捕らえられたことでしょう。

  また、ユダの裏切りは、本来、神の意志ではなく、ユダ自身の意志でした。神は彼の意志を予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されたのです(ゼカリヤ11:11-12)。つまり、初めにユダの意志があり、次に神の予知があり、それから神の予定があるのです。これを予定論と言います。多くの人が誤解しているように、予定論というのは”神が予定をして予知される”ことではないのです。

  第一ペテロ1:2に、「父なる神の予知に従い・・・・選ばれた人々へ」という言葉があります。まず予知があり、その予知に従って選ばれ、救いに予定された人々がクリスチャンなのです。ユダの行動についても、まずあったのは、ユダ自身の意志であり、また神の予知です。神は、ユダが裏切ることを予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されました。そしてその予知通りに、ユダは裏切ったのです。

  では、ユダの裏切りが予知されていたのなら、もはや彼に救われる機会はなかったのでしょうか。いいえ、他のすべての人と同様、彼にも救われる機会はありました。彼が主イエスの弟子として生きる機会は、裏切り後も変わらずありました。なぜなら、裏切りが彼を滅ぼすのではないからです。

  もし人が天国に入れないとすれば、それはその人が何かを「した」からではなく、むしろ、あることを「しなかった」からなのです。人は悔い改めるなら、どんな罪も赦されます。キリストを裏切った罪も赦されます。キリストの十字架の横でキリストを罵ったあの強盗も、悔い改めて信仰を表明すると、即座に天国を約束されたのです(ルカ23:43)。

  ですから、ユダには、裏切りという罪を犯したあとにも、救われる機会はありました。しかし、彼は悔い改めることをしなかったので、悲惨な最期を遂げてしまったのです。このように、ユダが裏切ることは神に予知されていたものの、それによって彼が滅びに定められていたわけではありません。彼を滅びに定めたのは、神の意志ではなく、ユダ自身の意志です。ユダに限らず、私たちすべての行動は、神によって予知されています。しかしその予知が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのではありません。私たちの意志が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのです。

  ユダの出来事は、私たちすべての者に重要な警告を与えています。ユダは特に罪深い人間だったわけではありません。彼以上に罪深い人間は大勢います。しかし、誰であれ「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。もし人の人生が、滅びに終わるとすれば、その人は生きた価値があるでしょうか。いいえ、その人はむしろ「生まれなかったほうがよかった」と言わざるを得ません。なぜなら、滅びは、その人の人生を無価値にしてしまうからです。

  主イエスがこの言葉をユダに関して言われたとき、主はそれを「残酷な」宣言として言われたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この悲しい厳粛な事実を、ありのままに、ご自身の嘆きの言葉として言われたのです。

  歴史を支配しておられる神は、ユダの不信仰と裏切りすらも、ご自身の計画達成のためにお用いになるのです。こういう神を知ることは、歴史の変動期に生きている私たちにとっては、大きな慰めです。ヨハネの黙示録を学べばよく分かる事ですが、これから歴史は大きく変わります。しかし、聖書を通して、私たちはその対処の仕方を知ることができるのです。

  アメリカの著名な作家、フィリップ・ヤンシーはこの事に関して、次のように書いています。

「高校時代、私はチェスの腕前には自信があった。チェスクラブに入り、勝負ではほとんど負けたことはなかった。しかしその後の二十年は、チェスとは無縁の生活であった。ところがある時シカゴで、本当に強いチェス・プレーヤーに出会った。彼と数ゲームをした私は、名人と勝負するということがどんなものかを思い知らされることになった。こちらが古典的な攻撃法で迫ると、彼は古典的な防御で打ち返してきた。危険をおかして奇抜な手で仕掛けると、彼はそれをもうまく取り込んで自分の勝ちパターンにもっていってしまう。彼の腕にかかっては、私のもくろみは、全て彼に有利に働くだけだった。おそらく神も、ご自分の被造物である人類には、このように対処されるのだろう。神は私たちに、神が作られた計画に反抗する自由さえもお与えになった。しかし、私たちがいくら反抗を企てても、神はそれを、『人類救済計画』の実現のためにお用いになるのだ。」


LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.03.21 03:54 | キリスト教 Q & A
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  私たちは、地獄の話を、火の池、または終わりのない苦しみの場所として聞きます。 これまでに、実に多くの作家たちがその事について書いています。例えば、ダンテのInfernoなどがそうです。日本と比べ、西洋の文化では、その概念に非常に身近で、映画にも、それを対象にした作品がたくさんあります。地獄の存在は、聖書の中で教えられてる確かなものです。
 
  地獄に関連する言葉として、聖書には、Gehenna(ゲヘナ)、Hades(ハデス)、Sheol(シェオル)という言葉が出てきます。ゲへナとは、アラム語のベン・ ヒノム(ヒノムの谷)からきたギリシャ語で、地獄の同義語として使われ、新約聖書に12回でてきます。また、ハデスは、新約聖書に10回でてきますが、「最後の審判まで死者が留まっている場所」で、そこは天国に通じるアブラハムの懐と、地獄に通じるゲヘナに別れています。
 
それから、シェオルは、一般的に死者が置かれる場所として旧約聖書の中に数多く見られます。ギリシャ語訳の旧約聖書ができたとき、へブル語のシェオルはハデスと訳されました。この二つの言葉は、基本的には同じ意味で、日本語では黄泉と訳されています。
 
  さて、地獄は永遠に意識のある苦しみなのか? この疑問に対する一般的な異論は、愛の神は決して永遠の苦しみの中で人々を罰することはないという考えです。しかし、私たちは神が愛であることに同意しますが、神はまた義であり、永遠です。神は悪を行なう者を罰し、その罰は永遠なのです。
 
  次に、死者は死後において意識があるのか? この疑問に対し、聖書は多くの箇所で、地獄が意識のある世界であることを明らかにしています。たとえば、民数記16:30、33などにおいては、「邪悪な者は生きて陰府に下る」とあります。マタイ8:12などでは、「泣き叫び、歯がみをしながら外の暗闇に追い出される」とあります。また、マタイ13:41-42や50では、「炎の中に投げ込まれた者は意識をもって苦しむ」ことが書かれています。さらに、黙示録14:9-11、21:8などでは、不信仰な者が「苦しみの炎の中に投げ込まれる」とあるので、これは明らかに意識のある世界なのです。
 
  それから、地獄は永遠の炎と罰の場所であると聖書は言います。マタイ3:12には、消えない炎という表現があります。マタイ5:22、29、30、18:8、9では、炎の地獄と言われています。マタイ25:41では、永遠の炎、マタイ25:46では、永遠の刑罰と言われ、黙示録20:15では、火の池と言われています。
 
  そのように、「永遠」という言葉は”aionios”というギリシャ語で、その意味は、これまでも、またこれからも、初めも終わりもないということです。また「刑罰」という言葉は”kolasis”というギリシャ語で、その意味は、厳しい苦しみの伴う罰で罰するということです。
 
  結論として、地獄は本当の場所です。それは単なる無意識の世界ではありません。それは一時的な状態でもありません。それは永遠の苦しみです。おそらく、イエス様が天国に関する話よりももっと多くの地獄に関する話をされたのは、絶対にそこに行かないようにするための警告だったのでしょう。
 
  もし、死ねばその人の存在がなくなるのであれば、なぜ人々に警告などをする必要があるでしょう。しかし、もし地獄が本当に存在し、永遠で、意識のある所なら、その警告は非常に重要な意味を持つのです。
 

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.02.23 03:33 | キリスト教 Q & A
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クリスチャンの中には救いの確信のない方がおられますが、キリストを信じる信仰によって自分が救われたという確信は、豊かな信仰生活をするためには不可欠なものです。
救いの確信は体験できる物であり、現在の救いに確信を持って生きることは、健全な信仰生活を送るうえで、重要な事です。救いの確信は、次の三つの事を通して得ることができます。

1.救いの本質を明確に理解することで

救いの確信を持つために欠くことができないのは、イエス・キリストの十字架上の死を通して神がなされた救いの御業に対する明確な理解です。

救いとは、人間に対する神の御業であり、人間の側の功績に関係なく、神の賜物であり、ただ神の恵みによるものなのです。

ですから、キリストが自分のために死んでくださり、キリストを信じるすべての者に提供される完全な救いが与えられていることを理解するなら、キリストを救い主として信じるという条件を満たすことによって直ちに救いの確信をもつことができるのです。

2.クリスチャンとしての経験によって

キリストが内在されているという事実に基づいて、クリスチャンは自分が信仰に立っているかどうかを自分で判断するよう命じられています。(2コリント13:5)
信仰によって救われた結果としてのキリストにある新しいいのちは、いくつかの点において現れます。
A)  神が私たちの天の父であるという知識はクリスチャンが持つ貴重な体験です。
B)  祈りが新鮮な現実となることは、確信へ導くもう一つの確かな経験である
     (ローマ 8:15-16)。
C)  聖書を理解する新しい能力は、救いに関連するもう一つの重要な経験である
     (ヨハネ16:12-15、1ヨハネ2:27)
D)  罪の深さを新しく認識することは、救われた者の正常な経験である
    (詩篇110-11)。
E)  救われていない人に対する新しい愛が生まれる
     (2コリント5:14-15、ローマ10:1)。
F)  救われた人々との間において新しい愛が経験される(1ヨハネ3:14)。
G)  救いの最高の根拠はクリスチャンの内にキリストの性格が現わされることで
      ある(ガラテヤ5:22-23、ピリピ2:5)。
H)  クリスチャン生活のさまざまな経験が積み重ねられ、キリストへの信仰を通して
      救いの自覚がもたらされる。

3.聖書の約束の確かさを受け入れることで

A)   聖書が真実であり、その救いの悪側芽確かに成就されるという信頼は、
       救いの確信にとって不可欠なことである。
B)   自分自身をキリストへの信仰と、神の約束に任せたことを疑わない。
C)   神の真実を疑わない。

したがって、確信はキリストを信じる者のための神の完全な救いの本質を理解することにかかっています。また、救いの確信は神の約束の確実性と、それらの約束に従い信仰によってキリストに自分を委ねたことの確かさにかかっています。

このように自分を委ねた者は、神の真実により頼むことができます。

神は約束を必ず守られ、決して偽りを言うお方ではないからです。


LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.01.20 07:36 | キリスト教 Q & A

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