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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  マリア崇拝とは、聖母マリアを崇拝することですが、これは明らかに聖書の教えに反する行為で、カトリック教会でも禁じられていることです。ところが、多くのカトリック教徒の中にマリアを崇拝している現実があり、プロテスタント教会の人々にカトリック教会がマリア崇拝を教えている、という誤解を生んでいるようです。

  また、有名なフランスのノートルダム寺院も、その名前は「私たちの貴婦人」という意味で、聖母マリアを指し、これと同じ名前を持った教会がカトリックの世界には数多くあります。あるいは、たとえマリアの名前を冠していない教会でも、マリアの聖画を掲げ、マリアを崇拝対象としているように見える教会がむしろ一般的です。また、カトリック信者が日常的に唱えるロザリオの祈りなどはマリア追憶のようなものです。

  さらに、カトリック教会はマリアの永遠の処女性を主張しており、ヨセフとも結婚せず、子供も産まなかったとします。したがって、聖書にあるイエスの兄弟に関する記述は都合が悪いので、彼らは従兄弟であると説明します。また、‘マリアの被昇天’(マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという教義)や、‘マリアの無原罪’(マリアはその原罪を免れているとする教義)などは、結果として、マリアを神性を帯びた存在とする主張へと発展するのです。このマリアが神性を帯びた存在であるとする主張の根拠は、イエスが救い主キリストであるとの主張の延長線上に出てくるもので以下の論点に基づいています。

1.イエスは救い主キリスト=神の子
2.神の子を宿すものは神的な存在であるはず
3.その神の子を宿したのはマリア
4.したがってマリアは神的な存在とならなければならない

  この理念がマリアを‘テオトコス’(神を生んだもの)と呼ぶことに執着を持たせることになります。しかし、後にイエスの人性・神性を巡っての論争で、イエスは人として地上に来た神の子であるから、その人性を無視した‘テオトコス’という言い方は良くないのでキリストの母と呼ぶべきだという論争が起きました。ところが、結局‘テオトコス’派に負けて異端とされて迫害される始末となりました。こうしてマリアの女神的あり方はどんどん突き進められ、多くの信者たちに崇拝の対象として受け止められていったようです。

  したがってマリアは、聖書の記述とは関係なしに、永遠の処女でなければならず、さらにマリアの被昇天、ついにはマリアの無原罪へとその主張は発展していったのです。

  また、宗教改革以前、一般の人々は聖書を読むことを厳しく制限されていました。それによって、聖職者階級は一般大衆に対する権力を保持できたからです。彼らは,“自分たちの領域”に一般大衆が立ち入ることを望みませんでした。

  1199年、教皇インノケンティウス3世は、聖書をフランス語に翻訳して討論までしている「異端者」に関し、主イエスの「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません(マタイ7:6)」という言葉を引用し、「無学な平民が差し出がましくも、聖書の崇高さにかかわったり聖書から説教したりすべきではない」と主張しました。そして、教皇の命令に従わない人は、異端審問に掛けられて拷問を受け、信条を撤回しないなら生きたまま火あぶりにされました。

  教皇の勅令が出て間もなく、一般の人々が理解できる言語の聖書は焼却され始めます。そのような聖書の所有者が火あぶりにされることもありました。続く何世紀もの間、ヨーロッパのカトリック諸国の司教や支配者たちは、教皇インノケンティウス3世による禁令を確実に守らせるため、あらゆる手を尽くしました。

  カトリックの聖職者たちは、自分たちの教えの中に聖書にではなく教会の伝統に基づくものが多い、ということを知っていたはずです。信者たちに聖書を読ませないようにした理由の一つはそこにあります。そういう理由からも、多くのカトリック信者が自分たちの間違いに気づかず、聖書の教えでないことを信じて来たということも言えるのではないかと思います。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.05.22 06:38 | キリスト教 Q & A
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  「贖い」という言葉はクリスチャンがよく使う言葉ですが、意味の説明を求められるとクリスチャンの中にもちゃんと説明できない方が結構たくさんおられるようです。「贖い」というのは、もともとは「代価を払って買い戻すこと」を意味します。

  人間はアダムの堕落以来、サタンの支配下に陥り、罪の奴隷として罪に縛られながら生きる者となりました。そのために人間は初めから罪人として生まれ、その罪の性質を持っているがゆえに当然のように罪を犯してしまう存在なのです。またさらに、サタンがさまざまな誘惑と惑わしによって人間に罪を犯させようとするため、その誘惑に応じてしまうのが罪人である人間の実態なのです。

  そこで神はこの世に「律法」を与え、人間が神の御心に従って生きる規範を示されました。しかし、神がこの世に律法を与えられたのは、人間がそれを守るように意図されたからではありません。神は人間が律法を守れないことを最初からご存知でした。では何のために律法が与えられたのでしょう。それは、人間に、自分が律法を守ることのできない罪人であることを気づかせるためだったのです。

  人間は、自分で善をなそうとすればするほど、自分がそれをなし得ないことを意識し、葛藤を覚えます。この律法は人の罪を暴き、人の無力を知らしめ、人を絶望させるかのように感じられますが、実は人が自分の罪と無力さを知れば、神に救いを求めるように誘導する役割を持っていたのです。自力の救いから、神による他力の救いへと人を促す役割がもともと神の意図された律法の機能なのです。人が自分の努力において絶望に至るとき、実はそれは幸いな瞬間なのです。

  さて前置きが長くなりましたが、古代社会においては、奴隷が解放されるためには誰かがその人のために代価を払う必要がありました。それが「贖い」です。そして私たちが罪の奴隷から解放されるために、神は御子イエス・キリストの尊い命を代価として払って下さったのです。したがって、御子イエスを信じる者は、その代価によって神に買い戻され、サタンの奴隷という立場から、神に属する自由人としての新しい立場を与えられるのです。

  このようにサタンによる罪の支配から神の恵の支配へと移された私たちは、もはや自分で律法を守る努力は不要となります。律法を完全に守られたイエス様の義の衣を着せていただけるからです。これが人間を罪の奴隷状態に束縛する律法に対して、神が授けてくださる恵みの効力です。

  したがって、「贖い」とは、律法による罪の奴隷状態から、恵みによる自由へイエス・キリストの命という代価が支払われることによって移し変えられることです。そして、信じる者は死んでいた霊が生き返り、失われていた神との交わりが回復されます。また聖霊の働きによって、その魂が聖化の恵みにあずかり、そして最後にキリストの再臨とともに、永遠に朽ちない栄光の体が与えられるのです。

  クリスチャンの贖いは、①霊、②魂、③体という順番でなされていきますが、最後の「体の贖い」こそが神の贖いの計画の完成であり、私たちの栄光の望み(ローマ8:23)なのです。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.04.25 02:05 | キリスト教 Q & A
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  まず結論から言いますと、主イエスの十字架のためにユダの裏切りは”必要”ではありませんでした。多くの人は、ユダの裏切りがなければ、主イエスの十字架もなかったと誤解していますが、ユダの裏切りは、必ずしも”必要”なものではありませんでした。たとえユダの裏切りがなくても、主イエスは遅かれ早かれ、捕らえられたことでしょう。

  また、ユダの裏切りは、本来、神の意志ではなく、ユダ自身の意志でした。神は彼の意志を予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されたのです(ゼカリヤ11:11-12)。つまり、初めにユダの意志があり、次に神の予知があり、それから神の予定があるのです。これを予定論と言います。多くの人が誤解しているように、予定論というのは”神が予定をして予知される”ことではないのです。

  第一ペテロ1:2に、「父なる神の予知に従い・・・・選ばれた人々へ」という言葉があります。まず予知があり、その予知に従って選ばれ、救いに予定された人々がクリスチャンなのです。ユダの行動についても、まずあったのは、ユダ自身の意志であり、また神の予知です。神は、ユダが裏切ることを予知しておられたので、それを旧約聖書の預言の中に記されました。そしてその予知通りに、ユダは裏切ったのです。

  では、ユダの裏切りが予知されていたのなら、もはや彼に救われる機会はなかったのでしょうか。いいえ、他のすべての人と同様、彼にも救われる機会はありました。彼が主イエスの弟子として生きる機会は、裏切り後も変わらずありました。なぜなら、裏切りが彼を滅ぼすのではないからです。

  もし人が天国に入れないとすれば、それはその人が何かを「した」からではなく、むしろ、あることを「しなかった」からなのです。人は悔い改めるなら、どんな罪も赦されます。キリストを裏切った罪も赦されます。キリストの十字架の横でキリストを罵ったあの強盗も、悔い改めて信仰を表明すると、即座に天国を約束されたのです(ルカ23:43)。

  ですから、ユダには、裏切りという罪を犯したあとにも、救われる機会はありました。しかし、彼は悔い改めることをしなかったので、悲惨な最期を遂げてしまったのです。このように、ユダが裏切ることは神に予知されていたものの、それによって彼が滅びに定められていたわけではありません。彼を滅びに定めたのは、神の意志ではなく、ユダ自身の意志です。ユダに限らず、私たちすべての行動は、神によって予知されています。しかしその予知が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのではありません。私たちの意志が、私たちを救いに、あるいは滅びに定めるのです。

  ユダの出来事は、私たちすべての者に重要な警告を与えています。ユダは特に罪深い人間だったわけではありません。彼以上に罪深い人間は大勢います。しかし、誰であれ「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。もし人の人生が、滅びに終わるとすれば、その人は生きた価値があるでしょうか。いいえ、その人はむしろ「生まれなかったほうがよかった」と言わざるを得ません。なぜなら、滅びは、その人の人生を無価値にしてしまうからです。

  主イエスがこの言葉をユダに関して言われたとき、主はそれを「残酷な」宣言として言われたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この悲しい厳粛な事実を、ありのままに、ご自身の嘆きの言葉として言われたのです。

  歴史を支配しておられる神は、ユダの不信仰と裏切りすらも、ご自身の計画達成のためにお用いになるのです。こういう神を知ることは、歴史の変動期に生きている私たちにとっては、大きな慰めです。ヨハネの黙示録を学べばよく分かる事ですが、これから歴史は大きく変わります。しかし、聖書を通して、私たちはその対処の仕方を知ることができるのです。

  アメリカの著名な作家、フィリップ・ヤンシーはこの事に関して、次のように書いています。

「高校時代、私はチェスの腕前には自信があった。チェスクラブに入り、勝負ではほとんど負けたことはなかった。しかしその後の二十年は、チェスとは無縁の生活であった。ところがある時シカゴで、本当に強いチェス・プレーヤーに出会った。彼と数ゲームをした私は、名人と勝負するということがどんなものかを思い知らされることになった。こちらが古典的な攻撃法で迫ると、彼は古典的な防御で打ち返してきた。危険をおかして奇抜な手で仕掛けると、彼はそれをもうまく取り込んで自分の勝ちパターンにもっていってしまう。彼の腕にかかっては、私のもくろみは、全て彼に有利に働くだけだった。おそらく神も、ご自分の被造物である人類には、このように対処されるのだろう。神は私たちに、神が作られた計画に反抗する自由さえもお与えになった。しかし、私たちがいくら反抗を企てても、神はそれを、『人類救済計画』の実現のためにお用いになるのだ。」


LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.03.21 03:54 | キリスト教 Q & A

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