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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を


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祈っても答えられないという経験は、クリスチャンなら誰にでもあることです。聞かれる祈り、聞かれない祈り、すぐに聞かれる祈り、長い時間をかけて聞かれる祈りなど、祈りに関しては様々な経験をさせられます。

しかし、よく考えてみると、祈りはすべて聞かれているとも言うこともできます。つまり、長いあいだ聞かれない祈りでも、それが「もっと祈りなさい」という答えであったり、「祈る心に問題があるよ」という答えであったり、「神の御心にかなわない祈りだ」という答えであったり、いずれにしても何らかの答えが示されている、そう考えることができます。ただ祈る人の願い通りになることが祈りが聞かれることではありません。それは神の御心を無視した自己中心の祈りです。なぜなら、主権は神にあるからです。

さて、祈りについて、聖書には多くの教えがありますが、その幾つかを取り上げてみますと、聞かれる祈りの条件は、まずそれが神の御心にかなう祈りであるということです。御心にかなう祈りというのは、御言葉に裏付けされた祈りです。一生のうち、5万回の祈りを聞かれたと言われるジョージ・ミューラーは、いつも祈るとき、その祈りを裏付ける御言葉を聖書の中から探し、その御言葉と共に祈りをささげたそうです。

次に、聞かれる祈りの条件は、悔い改めていない罪がない状態で祈ることです。罪は神と私たちとの間に垣根を作ってしまうので、悔い改めていない罪があれば、私たちの祈りは神のもとに届きません。悔い改めとは、ただ単に悔い改めの祈りをすればいいというのではありません。その罪に対する生き方の方向転換が伴わなければなりません。

また、聞かれる祈りの条件は、真剣に、また執拗なまでに神に迫る思いで祈ることです。主イエスは、あの不正な裁判官のたとえ話を通して、執拗なまでに真剣に求めることの大切さを教えておられます。真剣な祈りは人の本当の必要を明らかにし、神が働きやすい状況を整えるのです。

最後に、聞かれる祈りの条件は、御霊による祈りです。御霊によって祈るとは、聖霊の臨在に入って祈ることです。ですから、まず聖霊に臨んでいただくように祈り、それから聖霊の臨在の中で祈るのです。ぜひあなたも聞かれる祈りの生活を築き上げてみて下さい。

LVJCC牧師:鶴田健次


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2018.01.22 15:54 | キリスト教 Q & A

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 これは聖書を読んだことのある人なら誰もが抱く疑問ですね。特にその奇蹟が世の中の常識とかけ離れていればいるほど、そういう疑問を持つのは自然だと思います。しかし、そもそも奇蹟というのは、ある目的のために自然の法則を越えてなされた神の業ですから、それを考えれば奇蹟が常識とかけ離れているのは当然といえば当然です。

 

 聖書に記されている奇蹟は、すべて本当に起こった歴史上の出来事です。まず最初の奇蹟は、天地創造の奇蹟です。神は言葉だけで何もないところに地球を創り、宇宙とすべての天体、地上の植物と生き物を創られました。また神は地のちりから人間を創り、すべての被造物を支配するようにされました。

 

 また、出エジプト記を見ると、神がエジプトに下された十の災いの奇蹟が記されています。ナイル川の水を血に変える奇蹟から始まって、エジプト中の初子の死で終わる災いは、文字通り起こった歴史上の出来事です。その結果、絶対にイスラエルの民を手放そうとしないパロの頑なな心が変わり、イスラエルの民を奴隷状態から解放することになったわけで本当の事なのです。

 

 ですから、もしこれらの十の災いが実際の出来事でなければ、エジプト中の初子が死ぬこともなかったでしょうし、エジプトに住むすべてのイスラエルの民が子羊の血を家の鴨居に塗る理由もなかったでしょう。

 

 旧約聖書を代表する奇蹟として有名なのは、紅海の水が二つに分かれる出来事です。紅海とエジプトの軍隊に挟まれ、絶体絶命の危機にあったイスラエルの民のために、神は紅海の水を分け、彼らがそこを通って逃げられるようにし、その後を追ったエジプトの軍隊は、イスラエルの民が渡り終えた途端に海の水に飲まれて全滅してしまうのです。そして、その時にエジプトの軍隊が使った二輪の戦車が数多く紅海の海底で発見されていることを考えれば、その出来事が本当にあったことであることが分かります。しかも、この出来事がなければ、イスラエルの民の荒野の旅、カナン侵略、イスラエル王国の設立なども説明できなくなります。

 

 新約聖書にも、イエス様がなされた数々の奇蹟が記されています。たとえば、カナの結婚式で水をぶどう酒に変え、二匹の魚と五つのパンで五千人を養い、言葉だけで嵐を静め、海の上を歩き、盲人の目を開き、足なえを立たせ、死人を生き返らせることさえして、ご自分が神であることを証明されました。そして何よりも、十字架で死なれたイエス様の復活の奇蹟は、イエス様が神である何よりの証拠であり、臆病な弟子たちの劇的な変化を説明する唯一の論理的な根拠だと言えます。 

 

 つまり三位一体の神、父・子・聖霊は全能の神なのです。神にとって、このような奇蹟は全く難しいことではありません。神はまた私たちの人生にも生きて働いて下さり、私たちのために、必要であれば、どんな奇蹟も行うことがお出来になるのです。実際のところ、神は、罪のために永遠の裁きを余儀なくされていた私たちに、イエス様の十字架の御業を通して、罪の赦しと永遠の命の恵みを与えて下さいました。これもまた驚くべき奇蹟です。

 

 このように、生ける神を信じ、その奇蹟の御業を額面通りに信じることは、クリスチャン生活においてとても重要なことです。なぜなら、神に対するこのような信頼があれば、人生の如何なる苦難も乗り越えられるからです


LVJCC牧師:鶴田健次



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2017.12.26 01:11 | キリスト教 Q & A
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  神が不変であるというのは、神の性質は永遠に変わらないという教えです。神の人格、属性、存在は変わることがありません。神は常に愛であり、聖であり、義であり、全知・全能であり、また遍在される方です。これらは神の性質なので決して変わることはありません。では、私たちは"言の受肉"と神の不変性の教義をどのように調和させることができるでしょうか。その答えは、三位一体と受肉、そしてキリストの二性に関する教義を理解する必要があります。
  三位一体の教義は、唯一の神が父・子・聖霊という三つの人格において存在するというものです。子(イエス)は言が肉体となられた方です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・・・そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。・・・・・(ヨハネ1:1、14)」。 
  聖書はまた、イエスが二つの性質を持っておられることを教えています。つまりイエスは神であると同時に人であるということで、これは"位各的結合"の教義として知られています。イエスは、今なお神であり人でもあるということです。イエスは一人の人として二つの性質を持っておられ、一人の内に神性と人性が結び合わされているのです。この結びつきによっても神性は全く変わらないのです。
  そこで注意すべきことは、神性が人性と結合し、神人間とも言うべき新しい性質の存在になったというのではないのです。それはキリスト単性論(monophysitism)として知られるもので間違った考えです。この二つの性質は、互いに関わり合い、それぞれの属性が一人の方のものとされているのです。これはラテン語でcommunicatio idiomatumと呼ばれていますが、このラテン語の熟語は"特性の伝達"を意味する言葉で、言い換えれば、キリストのうちに神と人とのそれぞれの属性があるということです。
  たとえばその証拠として、ヨハネ17:5で、イエスは「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」と言っておられますが、人間イエスは、世が造られる前に父のそばで持っておられた先在と栄光を所有する権利を主張しておられるのです。これはイエスが神と人との二つの性質を持ち、神性の特質が一人の人キリストのうちにあるからです。
  言(ロゴス)は、他のものがその性質に加えられても変わりませんでした。受肉に関して言えば、それは神であるキリストの位格の中に人性が加えられることによって二つの異なる性質がイエスの内に同時に存在するようになったということです。
  ですからパウロは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており(コロサイ2:9)」と言っているわけです。ここでは神の不変性が問題となっていますが、言は人性と混合することによって新しい第三のものに変わらなければなりませんでした。これは、それがもはや"言"ではなくなったことを意味します。それは"言が人となった"性質であり、神であると同時に人間であるという、新しい第三のものです。
  さらに受肉の教義は"神の言"のいかなる変化も否定します。それは単に"言"が肉体となった(その性質が変わったという意味ではない)のであり、"言"が人性と共にキリストの位格の内に宿り、そのためにイエスは二つの異なる性質を持っておられるのです。
  したがって、私たちは神格がキリストの受肉を通して人間の属性にあずかったと結論付けることができます。しかし、神格は全く変わってはいないのです。

LVJCC牧師:鶴田健次


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2017.11.27 01:00 | キリスト教 Q & A

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