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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  私はノンクリスチャンの方から時々この質問をされることがあります。そのとき、私はその方に、「たとえば聖書のどの部分ですか?」と尋ねます。するとほとんどの方が、「具体的には思い出せませんが・・・」と言われます。人は神を信じたくないとき、誰かから聞いた不確かな情報すらも、その理由として用いるものです。

  実際、聖書の中には、矛盾や食い違いと思えるような記述がないわけではありません。しかし、だからと言って、それが間違いであると証明された例はひとつもありません。もし、本当に聖書の中に間違いがあるのであれば、もはや聖書を神の言葉とすることはできなくなるでしょう。ところが、矛盾と感じることろでも、それを矛盾として簡単に片付けないで、もう少しよく調べてみると矛盾ではないということが分かるのです。

  聖書の矛盾を主張する際に大切なことの一つは公平性ということです。私たちは自分の好みで判断の物差しを違えてはなりません。聖書を測る物差しは他の文献に対しても適応させなければなりません。もし聖書に対してだけ厳しいルールを適応するとしたら、そこから生まれる結論には問題があります。

  そもそも矛盾という言葉は、いかなる盾(たて)をも突き通す矛(ほこ)と、いかなる矛をも防ぐことができる盾が同時に存在することはありえない、という中国の故事から発しています。つまり、あることを一方では肯定し、同時に他方では否定する、というふうに論理の辻褄(つじつま)が合わないことです。

  したがって、もし誰かが聖書の中から矛盾を見出すなら、その時、聖書の真理性は崩れてしまうのです。例えば、聖書の中に、イエスがベツレヘムで生まれたという記述とエルサレムで生まれたという記述があれば、それは明らかに矛盾だと言えるかも知れません。しかし、矛盾のように見えても、矛盾せずに二つの内容が異なるという可能性は存在するのです。それを明らかにするのが組織神学です。

  組織神学というのは、一見、矛盾したり無関係のように見える個々の霊的真理を一つの調和したもの、また体系化されたものとして理解しようとする学問です。

  たとえば、神は愛であり、どんな罪も赦して下さいます。また同時に、神は義であり、どんな罪も裁かれます。そのように、聖書が、神は罪を赦す方であると言いながら、神は罪を裁く方であると言うなら、それは矛盾です。しかし、その一見矛盾しているかのように見えることを、矛盾ではなく、どのように調和して説明できるか、また理解できるか、それを明らかにしようとするのが組織神学です。

  他の例を挙げれば、聖書には、イエスが十字架に架けられたという記述と、木に架けられたという記述があります。そこで、ある人は、これを聖書の矛盾だと言います。またある異端は、イエスは十字架に架けられたのではなく木に架けられたのだと主張します。しかし、冷静に考えれば、十字架と木は矛盾ではなく、木は十字架の材質を言っているに過ぎないのです。

  あるいは、エリコの盲人の場合もそうです。マタイの福音書は二人の盲人がイエスに出会ったと言い、マルコとルカの福音書では一人しか記されていません。これは矛盾でしょうか。そうではありません。マルコとルカは、二人のうちの一人の癒しを記しただけなのです。

  多くの人々が聖書に間違いがあると言いますが、実のところ、その人は聖書を正しく読んでいないのです。

LVJCC牧師:鶴田健次



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2017.07.04 05:59 | キリスト教 Q & A
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  マリア崇拝とは、聖母マリアを崇拝することですが、これは明らかに聖書の教えに反する行為で、カトリック教会でも禁じられていることです。ところが、多くのカトリック教徒の中にマリアを崇拝している現実があり、プロテスタント教会の人々にカトリック教会がマリア崇拝を教えている、という誤解を生んでいるようです。

  また、有名なフランスのノートルダム寺院も、その名前は「私たちの貴婦人」という意味で、聖母マリアを指し、これと同じ名前を持った教会がカトリックの世界には数多くあります。あるいは、たとえマリアの名前を冠していない教会でも、マリアの聖画を掲げ、マリアを崇拝対象としているように見える教会がむしろ一般的です。また、カトリック信者が日常的に唱えるロザリオの祈りなどはマリア追憶のようなものです。

  さらに、カトリック教会はマリアの永遠の処女性を主張しており、ヨセフとも結婚せず、子供も産まなかったとします。したがって、聖書にあるイエスの兄弟に関する記述は都合が悪いので、彼らは従兄弟であると説明します。また、‘マリアの被昇天’(マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという教義)や、‘マリアの無原罪’(マリアはその原罪を免れているとする教義)などは、結果として、マリアを神性を帯びた存在とする主張へと発展するのです。このマリアが神性を帯びた存在であるとする主張の根拠は、イエスが救い主キリストであるとの主張の延長線上に出てくるもので以下の論点に基づいています。

1.イエスは救い主キリスト=神の子
2.神の子を宿すものは神的な存在であるはず
3.その神の子を宿したのはマリア
4.したがってマリアは神的な存在とならなければならない

  この理念がマリアを‘テオトコス’(神を生んだもの)と呼ぶことに執着を持たせることになります。しかし、後にイエスの人性・神性を巡っての論争で、イエスは人として地上に来た神の子であるから、その人性を無視した‘テオトコス’という言い方は良くないのでキリストの母と呼ぶべきだという論争が起きました。ところが、結局‘テオトコス’派に負けて異端とされて迫害される始末となりました。こうしてマリアの女神的あり方はどんどん突き進められ、多くの信者たちに崇拝の対象として受け止められていったようです。

  したがってマリアは、聖書の記述とは関係なしに、永遠の処女でなければならず、さらにマリアの被昇天、ついにはマリアの無原罪へとその主張は発展していったのです。

  また、宗教改革以前、一般の人々は聖書を読むことを厳しく制限されていました。それによって、聖職者階級は一般大衆に対する権力を保持できたからです。彼らは,“自分たちの領域”に一般大衆が立ち入ることを望みませんでした。

  1199年、教皇インノケンティウス3世は、聖書をフランス語に翻訳して討論までしている「異端者」に関し、主イエスの「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません(マタイ7:6)」という言葉を引用し、「無学な平民が差し出がましくも、聖書の崇高さにかかわったり聖書から説教したりすべきではない」と主張しました。そして、教皇の命令に従わない人は、異端審問に掛けられて拷問を受け、信条を撤回しないなら生きたまま火あぶりにされました。

  教皇の勅令が出て間もなく、一般の人々が理解できる言語の聖書は焼却され始めます。そのような聖書の所有者が火あぶりにされることもありました。続く何世紀もの間、ヨーロッパのカトリック諸国の司教や支配者たちは、教皇インノケンティウス3世による禁令を確実に守らせるため、あらゆる手を尽くしました。

  カトリックの聖職者たちは、自分たちの教えの中に聖書にではなく教会の伝統に基づくものが多い、ということを知っていたはずです。信者たちに聖書を読ませないようにした理由の一つはそこにあります。そういう理由からも、多くのカトリック信者が自分たちの間違いに気づかず、聖書の教えでないことを信じて来たということも言えるのではないかと思います。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.05.22 06:38 | キリスト教 Q & A
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  「贖い」という言葉はクリスチャンがよく使う言葉ですが、意味の説明を求められるとクリスチャンの中にもちゃんと説明できない方が結構たくさんおられるようです。「贖い」というのは、もともとは「代価を払って買い戻すこと」を意味します。

  人間はアダムの堕落以来、サタンの支配下に陥り、罪の奴隷として罪に縛られながら生きる者となりました。そのために人間は初めから罪人として生まれ、その罪の性質を持っているがゆえに当然のように罪を犯してしまう存在なのです。またさらに、サタンがさまざまな誘惑と惑わしによって人間に罪を犯させようとするため、その誘惑に応じてしまうのが罪人である人間の実態なのです。

  そこで神はこの世に「律法」を与え、人間が神の御心に従って生きる規範を示されました。しかし、神がこの世に律法を与えられたのは、人間がそれを守るように意図されたからではありません。神は人間が律法を守れないことを最初からご存知でした。では何のために律法が与えられたのでしょう。それは、人間に、自分が律法を守ることのできない罪人であることを気づかせるためだったのです。

  人間は、自分で善をなそうとすればするほど、自分がそれをなし得ないことを意識し、葛藤を覚えます。この律法は人の罪を暴き、人の無力を知らしめ、人を絶望させるかのように感じられますが、実は人が自分の罪と無力さを知れば、神に救いを求めるように誘導する役割を持っていたのです。自力の救いから、神による他力の救いへと人を促す役割がもともと神の意図された律法の機能なのです。人が自分の努力において絶望に至るとき、実はそれは幸いな瞬間なのです。

  さて前置きが長くなりましたが、古代社会においては、奴隷が解放されるためには誰かがその人のために代価を払う必要がありました。それが「贖い」です。そして私たちが罪の奴隷から解放されるために、神は御子イエス・キリストの尊い命を代価として払って下さったのです。したがって、御子イエスを信じる者は、その代価によって神に買い戻され、サタンの奴隷という立場から、神に属する自由人としての新しい立場を与えられるのです。

  このようにサタンによる罪の支配から神の恵の支配へと移された私たちは、もはや自分で律法を守る努力は不要となります。律法を完全に守られたイエス様の義の衣を着せていただけるからです。これが人間を罪の奴隷状態に束縛する律法に対して、神が授けてくださる恵みの効力です。

  したがって、「贖い」とは、律法による罪の奴隷状態から、恵みによる自由へイエス・キリストの命という代価が支払われることによって移し変えられることです。そして、信じる者は死んでいた霊が生き返り、失われていた神との交わりが回復されます。また聖霊の働きによって、その魂が聖化の恵みにあずかり、そして最後にキリストの再臨とともに、永遠に朽ちない栄光の体が与えられるのです。

  クリスチャンの贖いは、①霊、②魂、③体という順番でなされていきますが、最後の「体の贖い」こそが神の贖いの計画の完成であり、私たちの栄光の望み(ローマ8:23)なのです。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.04.25 02:05 | キリスト教 Q & A

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