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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

最後の審判  *1

 最後の審判は、黙示録20:11-15において次のように記されています。この言葉はいい加減に聞くべきものではなく、ここで語られていることの真偽を誰もが一度は真剣になって考えなければならない重要なことです。

 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。・・・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11-15)

 この御言葉を読めば判るように、最後の審判を免れる者は誰一人としていません。おのおのすべての人が、そのしわざに応じて、さばきを受けることが定まっているのです。

 ヘブル人への手紙9章27節には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たち人間にとって、これ以上、確かなことはありません。人はみな例外なく百パーセント死にます。それと同時に、百パーセント確かなことは「最後の審判」を受けるということです。

 ここで重要なことは、ここでの審判は「救われているか、救われていないか」の審判ではありません。救いは人が死んだその時に決定されています。ですから、ここでの審判は人が生前行った行いを通して、さばきの程度を決定するためのさばきなのです。

 その審判についてヨハネが見たことを私たちも見てみたいと思います。12-15節にはどのような基準によってさばきがなされると言われているでしょうか。白い御座の前には幾つかの書物が開かれており、死者たちは一人一人その書物に記されているところに従って裁かれます。いのちの書に登録されていない者はみな火の池に投げ込まれます。

 いのちの書に記されている者はこの審判を免れます。御座の前に立つ者たちは、死とハデスから出されて来た人々です。彼らはそれぞれの行いに従い、書物に記された基準によって裁かれます。死者の牢獄となっていた「死とハデス」も火の池の中に投げ込まれます。そしていのちの書に記されていない者も火の池に投げ込まれます。この火の池に入ることを聖書は「第二の死」と呼んでいますが、人間の最後の敵である「死」はここにおいて完全に葬り去られるのです。

 この黙示録では、最後の審判がなされる神の座を「大きな白い御座」という言葉で表していますが、この審判の御座には「大きな御座」「白い御座」というイメージがあります。つまり、その御座はこれまでにあった如何なる御座よりも決定的に大きく、天地万物の創造者である神の絶対的権威に基づいてなされる裁きであるということです。そして、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。

 また「白い御座」のイメージは、他の如何なる裁きの座よりも聖く、一点の曇りもない全き正義の御座だということです。そして、この御座の裁判官は、王の王、主の主であられるイエス・キリストです。「数々の書物が開かれ」ると、そこにはすべての人の行い、また人の目には隠されていたこと、あるいは心の中で犯した罪の秘密までもが完全な形で記録されており、誰もこの裁判官を欺くことは出来ないのです。そして、それらの完全な証拠をもとに、すべての人の魂の運命を定める最終判決が下されるのです。

 LVJCC牧師:鶴田健次

*1 :John Martin - The Last Judgement - Google Art Projectより


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2018.04.23 15:34 | キリスト教 Q & A
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  基本的に、イエスが私たちの罪のために死ななければならなかった理由は、私たちの罪が赦されて主と共にいることができるようになるためでした。イエスは人となられた神であり、神だけが律法の要求を満たし、私たちを罪からきよめるための完全な犠牲となることができるからです。

 すべての人が神の前に罪を犯しました。しかし、神は無限に聖く義なる方なので。律法違反の罪人を罰しなければなりません。もし神がそうされないなら、罰のない法律は法律ではないのと同様に、罰のない神の律法は律法ではありません。神の律法を破ることに対する罰は死、つまり神との断絶(分離)です。したがって、私たち罪人は神の義の裁きから逃れる道が必要になるのです。

私たちは罪に汚れ、神の律法を守ることができませんが、それができる唯一の方が神ご自身です。そういうわけで、イエスは人間となられた神なのです。イエスは神と人間の両方の性質を持ち、律法のもとに生まれ、その二つの性質を完全に全うされました。したがって、私たちのために父なる神に捧げられたイエスの犠牲は無限の価値を持ち、すべての人の罪をきよめ、神に対する違反を取り消すのに十分なものなのです。

 以下の要点は、聖書と論理を用いながら、これを分類したものです。神がなぜ私たちの救い主であり、造られたものではないかを理解する助けになればと願います。また、皆さんが罪の赦しのためにはキリストだけを信頼しなければならず、救われるに値する事など何もできないことを理解する助けになればと思います。

1.神は存在する。(創世記1:1)

2.神は無限である。(詩篇90:2)

3.神は聖である。(イザヤ6:3)

4.神は義である。(ネヘミヤ9:32-33)

5.したがって神は無限にきよく正しい方である。

6.さらに神はご自身の性質に基づいて語られる。(マタイ12:34)

7.神は律法を語られた。(出エジプト20:1-17)

8.神は聖であり善なので、律法は神の心にあるものであり、神のご性質の反映である。(ローマ7:12)

9.さらに、私たちが破るのは神の律法なので、その律法を破ることは神に背くことである。また神が無限であるがゆえに、この罪は無限の背きである。

10.さらにまた、神が律法違反者を罰することは正しいことである。律法違反者(罪人)を罰しないことは神の聖さに背き、その聖さを無視することを許すことになる。(ローマ4:15)

11.神は罪を犯した者は死ななければならない(罰される)と言われる。罪の報酬は死である。(ローマ6:23)

12.罪人は神の義のさばきを逃れる必要がある。でなければ彼らは地獄に行くことになる。(マタイ25:46)

13.しかし、どんな罪人も、無限の背きの罪を消し去ることなどできない。神を喜ばせ、物事を正しくするためには、彼は神の義の性質の標準である律法を守らなければならない。(ガラテヤ2:16、2:21)

14.しかし罪人は肉において罪深いので律法を全うできない。(ローマ8:3)

15.罪人は律法を守れず、神を満足させることができないので、神だけができることに従わなければならない。

16.イエスは人となられた神である。(ヨハネ1:1、14)

17.イエスは律法の下にある人でもあった。(ガラテヤ4:4-5)

18.イエスは私たちのために罪とされ、十字架の上でご自分の身に私たちの罪を負われた。それによって律法の要求が満たされた。(2コリント5:21、1ペテロ2:24)

19.したがって、救いは恵みにより、信仰による。それは私たちが律法を守ることによってではなく、私たちに代わって律法を全うし、死んで下さった、人となられたイエス・キリストによるのである。(エペソ2:8-9)

 
 LVJCC牧師:鶴田健次

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2018.03.22 02:15 | キリスト教 Q & A
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 バプテスマは聖餐式と共にイエス様が教会に制定された大切な聖礼典です。イエス様はこの世を去って天に戻られる時、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを授け、またわたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われました。したがって、教会はイエス様を信じる者にバプテスマを授ける責任があるのです。

 まず、最初に理解すべきことは、神が契約に基づいて働かれるということです。新約聖書と旧約聖書は、新しい契約と古い契約ということで、聖書は契約の書であると言えます。ですから、もし契約のことが解からなければ、バプテスマは契約のしるしなので、このバプテスマの問題を十分に理解することはできません。

 へブル書13:20の「永遠の契約の血による羊の大牧者」という言葉からも、神が契約に基づいて働かれることが解かります。永遠の契約は、天地創造の前からある父なる神と子なる神の間における契約で、父が選ばれた者を子に与えるというものです。

 ですから、もし神が、契約に基づいて働かれること、またご自身の契約(虹、割礼、聖餐など)の顕現としてしるしを用いられるということを理解していなければ、バプテスマが、神の契約のシステムのどこに当てはまるかが解かりません。

 次に私たちは、バプテスマが何であるかを知る必要があります。それは内なる現実の外における表現です。たとえば、バプテスマはキリストの血によって魂が洗い清められた内なる現実を表します。そこで、この事が様々な異なる方法で表現されるのです。

 つまり、バプテスマは、人の死(ローマ6:3-5)、キリストと人との一体(ガラテヤ3:27)、罪のきよめ(使徒22:16)、イスラエルがモーセにつくバプテスマを受けた時のように誰かにつくという証し(Iコリント10:2)、また一つの教会に結ばれる(Iコリント12:13)という様々な象徴的意味があるのです。

 バプテスマは父、子、聖霊の御名によって行われます。人がキリストの体なる教会の交わりに加えられるのは、この聖礼典を通してです。またクリスチャンのバプテスマは、人がその信仰とキリストの弟子になることを公に告白する方法でもあります。さらに、バプテスマは、救いの後の、主に対する従順の行為です。バプテスマは救いと密接に関係していますが、救われるための条件ではありません。聖書は多くの箇所で、事の順番を示しています。①人が主イエスを信じる。②その人はバプテズマを受ける。この順序は使徒行伝2:41などに見られます。

 ですから、イエス・キリストを信じた人はできるだけ早いうちにバプテスマを受けたいと願うべきです(使徒行伝8:35-36)。またバプテスマは、信じる者がキリストの死と埋葬と復活と一つにされていることを描くもので、福音が伝えられるあらゆるところで、人々はバプテスマを受けるべきなのです。

LVJCC牧師:鶴田健次

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2018.02.26 14:46 | キリスト教 Q & A

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