
ヤッファの丘の上からテルアビブの街を見た景色
エン・カレンで洗礼者ヨハネが生まれる前、まだ母エリザベツのお腹にいた頃、イエス様を身ごもったマリアがいとこのエリザベツに会いに行ったことを(ルカ1:39~)記念して建てられた教会が訪問教会・Church of the Visitationです。当時ここはザカリアの別荘だったそうです。
洗礼者ヨハネ教会から徒歩15分ぐらいでしょうか、坂道を登ったところにある眺めの良い教会です。
エリザベツとマリアの像の後ろにあるプレートは、マリアの賛歌(ルカ1:46-55)が各国語で書かれ、塀一面に掲げられていました。



教会内部の壁面上部にある、マリアとエリザベツが喜び合うシーン(ルカ1:39-45)。

下の写真は教会内部にあるザカリヤ家の井戸・マリアの泉です。ヘロデの命令によりローマ兵が赤子を殺しに来たとき、天使の導きでこの井戸にヨハネを隠し難を逃れたと言われている井戸です。

登ってきた坂道を降りると、町の公共の井戸・マリアの泉があります。実は訪問教会へ行く前にも通ったのですが、観光客で混雑していたため、立寄るのを後にしました。




泉は今でも枯れずに水が流れ続けていますが、現在は飲み水としては適さない為、手や腕を洗ったりして涼をとりました。
さて、私たちはエン・カレンを出発して夕食までの時間、ヤッファ・Jaffaの古い石畳の町を徒歩で巡り歩き、その魅力を十分に味わいました。まさに最終日にふさわしい締めくくりのプランだったと思います。
ヤッファのOld Cityは4000年の歴史を有する地中海に面した港町で、聖書にはヨッパという地名で数多く登場しています。古くはダン部族に与えられた地(ヨシュア記 19:40-46)、ソロモン神殿建設の時は、レバノンから切り出した杉をヨッパに送ったと歴代誌下2:16 にあります。
ヤッファのOld Cityの車道は道幅が狭くすぐに渋滞しますが、雰囲気の良い町です。


最初にバスが停まった所は、漫画チックにデフォルメされたヨナの鯨(ヨナ記 1:17)の像の前でした。


そこから、タイムスリップしたような古い石作りの街を歩き始めました。
ヤッファのOld Cityはイスラエル建国以来スラム街と化していた時期もあったそうですが、今は「アートの街」として人気が出ているようです。きれいなお店や、おしゃれなレストランなども見かけました。






私たちは「皮なめしのシモンの家」まで来ました。
ペテロはヨッパに滞在中、「皮なめしのシモンの家」にしばらく泊まっていたことが使徒行伝9:43 にあります。下の写真が「皮なめしシモンの家」の入り口です。いつも扉は閉まっていて、中を見たことは一度も無いとベテランガイドのアビさんが言ってましたが・・・

何と、住人の女性が外出から戻られて、入り口の扉を大きく開け、私たちに家の中を見せてくださいました。写真を撮っても良いと了解も得ました。何という大きなサプライズでしょう!

笑顔の素敵なご婦人でした。家の中は床も壁も天井も石造りでした。天井は平らではなくカマボコ状に見えました。電気の線はその設備がないためか部屋の上部の空中を繋いでいます。奥にある開いた扉からは、中庭か裏庭が見えています。壁にはいくつかの写真も見えました。皮なめしのシモンは、この土間で仕事をしていたのでしょうか。
シモンの家は平屋で、上は小塔がある屋上になっているようです。ペテロはこの屋上で、使徒行伝10章10-16節の体験をしたと書いてあります。天から四隅を吊るされた大きな布のような物が現れ、中には各種の生き物が入っており、それを主は「屠って食べなさい」と仰った、という有名な箇所です。この部分は、私たち異邦人伝道に繋がる、ペテロのターニングポイントでもある重要な場面だったと思います。
今、目の前にその屋上を見ています。何とも不思議なタイムトラベラー感覚でした。

皮なめしシモンの家を後にして、ヤッファの港に出ました。とても気持ちがいい午後です。




港から丘に向かって歩き、聖ペテロ教会・St. Peter's Churchへ行きました。
ペテロがヤッファを伝道の起点としたことを記念して、十字軍時代の要塞跡に建て、2回破壊され、19世紀末に再建し、20世紀初頭に改築された教会だそうです。


次はバスで、ラスト・ディナーの場所へと向かいました。今夜はガイドさんと運転手さんへの感謝の夕食会でした。


レストランを出発し空港に着き、お世話になったガイドのアビさんと運転手さんにお別れをしました。
イスラエルの空港は厳しい荷物チェックで時間がかかることで有名ですが、この日はあっけなく終わり、その分免税店での買い物の時間に充てる事ができました。



AA797 Philadelphia 行き23:30 発の便に乗りました。長い1日がこれで終わりました。旅行も終わります。
フライト中2回の食事をし、朝方フィラデルフィアに着き、LA行きに乗り継ぎ、到着後解散、となりました。







― イスラエル旅行が終わって―
思えば、この旅行の初日に「初めまして」、と挨拶した方々と10日間毎日一緒に旅行をしてきました。たった10日ですが、旅行中、朝から晩までいつも一緒にいた人たちです。そのうちに、全員がとても大事な人たちに変わっていきました。旅行が終わり、LAの空港に到着して荷物を受け取り、家族や友達が迎えに来て帰る人、バスやタクシーで帰る人、私はラスベガス行きの飛行機に乗って帰りました。それぞれが日常に戻ったのです。何となく、さみしくなったことを思い出しました。
旅行から5-6ヶ月経って、イスラエル旅行記を教会ブログに出す話が持ち上がり、希望の収穫ミニストリーの山本真美子先生にお手伝いいただいて皆さんに連絡をし、皆さんからブログに出す了解を得ました。
2016年3月23日に第1回目をLVJCC Blog に出しました。すると、一緒に旅行した姉妹達から励ましのメールが届いたり、電話で「期待してる」と伝えてくれた姉妹や、毎回の旅行記に欠かさず感想を送って下さる姉妹もいて、どんなに心強かったかわかりません。本当に感謝です。もちろん、イスラエルに詳しい山本真美子先生には幾度となく助けていただきました。心から感謝致します。
この20回連載の「イスラエル聖地旅行」は、希望の収穫の旅行に参加した方々全てが主役でした。主が集めてくださった方々と一緒だったからこそ出来上がったイスラエル聖地旅行シリーズだと思っています。
読者の方々、長期に渡り、本シリーズをお読みいただきまして誠にありがとうございました。
皆様の上に主の祝福が限りなくありますように。
(Mi)
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イスラエル旅行10日目最後の日は安息日でした。私たちは現地のメシアニック・ジューの教会で礼拝に出席させていただきました。
礼拝堂は大きな建物の2階にあり、一面ガラス張りになっているのでとても明るく開放的な空間でした。また礼拝も肩のこらない和やかなものでした。出席者はミドルエイジが中心の総勢60~70人ぐらいだったでしょうか。子供の部屋もあるようですが、この日は赤ちゃんからお年寄りまで全ての年齢層の人たちが一つの家族のように集い、私たちも居心地よく礼拝致しました。






礼拝は、私たちゲストのために英語の同時通訳をしてくださる方がおられ、レシーバーで聞きました。下がそのレシーバーと、列の一番奥でマイクを持っている方が通訳をしてくださいました。


メシアニック・ジューと異邦人クリスチャンは、歴史が物語る悲しい過去がありますが、こうして一堂に会して同じ主を礼拝していると、神様のご計画はやはり、両者をひとつの体として完成されようとしておられるのだな、と感じます。そして聖書予言にある千年王国へと繋がるのでしょう。。。
礼拝後、バスでエマオへ向かいました。
エマオと言えば、クレオパともう一人の弟子が旅をしていたときに、復活したイエス様が現れたあの光景が目に浮かびます(ルカ24章13-35節)。その場所はどこなのかなーと思いながら車窓を見ていましたが、場所が重要なのではないと気づきました。イエス様はどこでも、いつでも現れ、最も小さいものになって目の前に現れたりもしますから・・・
とにかく、私たちはエマオのレストランに着きました。民家のようなレストランで、庭もきれいでした。

最初に出てきた料理は、ポケットのようなパンの中に調理された野菜などを詰めて食べたのですが、とっても美味しかったので、食べかけですみませんが、写真を撮りましたのでお見せします。

次に大皿でシシカバブがテーブルに運ばれました。これもまたすごく美味しかったです。

シシカバブは串から外して皆で分け合うのが普通だそうです。シシカバブは中東地域で広く供される、肉・魚・野菜などをローストして調理する料理の総称と本に書いてありましたけれど、テーブルに来たものは種類の違う肉だけの串刺しでした。美味しくてちょっと食べ過ぎ・・・
食後バスに揺られ、ウトウトしているとエン・カレン・Ein Karemに着きました。
エン・カレンはエルサレムの郊外にある山里で、エルサレムから西へ約10km弱だそうです。常緑樹の山々に囲まれた美しい村です。エン・カレンという言葉、Ein=泉、Karem=ぶどう、つまり「葡萄園の泉」という意味なのだそうです。

その昔、エン・カレンにはザカリアと妻エリザベツと、その子供・洗礼者ヨハネが住んでいました。私たちはまず最初に、洗礼者ヨハネ教会・Church of St. John the Baptistを訪ねました。
教会は洗礼者ヨハネが生まれたとされる場所に1674年に建てられました。

庭の塀にはルカの福音書1章68-79節の、父ザカリヤが聖霊に満たされて語った聖句が各国の言葉で掲げられていました。日本語もあります。



こちらの絵は洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けている絵。

洗礼者ヨハネはイザヤ書で予言されていたとおり、主イエス・キリストの到来を告げ、その道を準備する役割を持って生まれてきた人です。その役割通り、ヨハネは罪が許されるための悔い改めのバプテスマを説き、大勢の人々に分け隔てなくその悔い改めの認証として洗礼を授けました。人々の悔い改めがあって初めて主を迎える準備が整えられるということなのでしょう。
このように、王様が通る道の石を取り除け穴を埋め平らにして準備をしたのが洗礼者ヨハネでした。そして「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。洗礼者ヨハネはそのような人、生涯に渡り世に妥協せず主の御心を我が道として歩んだ人なのでしょう。
「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と、イエス様に言わしめた所以がここにあるのかもしれません。
(Mi)
次回9/14の更新で最終回になります。
「エン・カレン(マリアの訪問教会、マリアの泉)、ヤッファのOld City」を予定しています。
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9日目の午後はイスラエル博物館に行きました。
イスラエル博物館は広いので、同博物館で代表的な「エルサレム第二神殿50分の1のジオラマ」と「死海文書館」と「考古学展示館」の3ヶ所にだけ行きました。
博物館の入り口を入ると、すぐにエルサレム第二神殿50分の1のジオラマが見えます。
イエス様は、ちょうどこの上の写真の景色をオリーブ山からご覧になったのだと思います。写真は神殿の正面・東側を写したところです。
ジオラマの外周も歩けますが、展望ルートもジオラマを一周できます。
下の写真は、西側から見た神殿の後ろ側と旧市街です。西壁・嘆きの壁が見えます。
正面突き当りの高い壁はジオラマを見下ろす展望ルートです。

下の写真、南の城壁から手前下に長く見えのがダビデの町です。右端下に少し見える谷はケデロンの谷。南城壁の門から、一般の人々は神殿の丘に入ったそうです。当時はダビデの町にあるシロアムの池から南城壁まで階段で通行できたようです。(現在は、発掘が終わり通行できるようになったようですが、行かれる方は現地でご確認ください。2016年8月) シロアムの池は、写真の左下にある四角で囲まれたところです。
南城壁の外壁周辺は、現在きれいに整えられ考古学公園になっています。

写真では左右が切れていますが、全体はこのような感じです。

下の写真は死海文書館です。ユニークな形をしていますが、実は死海写本がクムランの洞窟で壷に入って発見された時の「壷のふた」の形なのだそうです。噴水がかけられているのは、館内の温度を適温に保つための仕掛けだそうです。アート的にも人目を引き、見た目も涼しげで素敵です。
ここは死海写本専用の展示館で、入り口は地下にあります。撮影禁止でしたので、写真はありません。

死海文書館から広い庭を歩き、考古学展示館まで移動しました。
下の写真は入り口に展示してあったもので、人面の部分が蓋になっている埋葬石棺です。紀元前14世紀頃のものだそうです。

考古学館には貴重な資料がたくさんありましたが、あまりの展示物の多さに、足早に見て回りました。代表的なものを写真に撮りました。











何時間見学していたのでしょうか。ちょっと早めに集合場所に行って、館内のコーヒーショップで一休みしていたところへ全員が揃い、ホテルへ戻りました。
明日は旅行の最終日ですので、夕食後は各地で買い集めたお土産などを荷造りして、明日のチェックアウトに備えました。
9月12日イスラエル旅行最終日10日目の朝を迎えました。
三々五々レストランに集まって「今日で最後だねー」などと言い合って、最後の朝食をいただきました。
今日は長い1日になりそうです。何しろ夜中に出発する飛行機に乗るのですから。
下の写真は5泊滞在したCrown Plaza Hotelのロビーです。毎朝、ここに集合しました。

バスはホテルを出発して間もなく、ガイドのアビさんが田辺先生をモデルに、ユダヤ教の人々が祈りの時に肩に掛ける「タリート」と、聖句の入った「テフィリン」を付けた姿を皆さんに見せてくださいました。




「似合ってますよ、田辺先生~」と、観客(?)から声がかけられていました!
「タリート」は、白地にブルーのラインが入ったショールで、白は天国を表し、青い線は聖なる神の霊を表しています。民数記15:37-40に従って、四隅にふさ(ツィツィ)が付いていました。ふさには613個の結び目を作るのだそうです。613の意味は律法で定められた戒めの数です。
祈りに専念するとき、このショールをかぶります。それは外界から離れ、神の臨在に覆われ、神との交わりの空間を作るという意味があるそうです。
「テフィリン」は、左上腕と額に付ける(申命記6:8)黒い革の箱で、申命記6:4-5をヘブライ語で羊皮紙に書いたものを折りたたんで中に収めた聖句箱です。申命記6:4-5はユダヤ人の中心的信仰告白ということです。
ユダヤ人は食物に食物規定(コーシャ)があるように、身に付けるものも食物同様日常的に気を付けていているため、タリートもテフィリンもコーシャに準じているそうです。
私たちのバスは、メシアニック・ジュー(イェシュア=イエスをメシアと信るユダヤ人)の教会へ向かっている途中、ガイドのアビさんと運転手さんが気を利かせて、エルサレムが見渡せる景色の良い最後のポイントで止まってくれました。
角笛を吹き、聖書を読み、これまでの多くの感謝をもって主に祈りをささげました。



私たちは、ビルディングで覆われている現在のエルサレムを見ながら、紀元前から存在する遺跡をも丁寧に掘り起こし保存し、その伝えなければならない意味を、今日まで伝えているエルサレムの街とそこに住む人々の、真の神に対する意識の違いを見たような気がします。それは主が与えられた民族の働きを果たしているのでしょう。
また、聖書はこの世界が、これからどのような方向に向かうのかも示されています。私たちが見てきたイスラエルは、そのための警鐘を大きく鳴らしていることも強く感じました。
次回9/7の更新は、メシアニック・ジューの教会、エンカレンを予定しています。
(Mi)
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9日目の午前中はオリーブ山を散策しました。この写真は、オリーブ山から神殿の丘と旧市街を見たエルサレムの代表的な景色です。
下の写真はオリーブ山に広がる広大な墓地。エルサレムの東の城壁に面して、想像を絶する数のユダヤ人の墓があります。全て神殿の方向を向いているそうです。ユダヤ教ではメシヤ(救世主)が地上に現れた時、死者が復活すると言われています。メシヤが来られると、今は閉ざされている黄金門が開き、そこから第三神殿が建っている(であろう)城内へ入城する、といいます。新約聖書にも、第Ⅰテサロニケ4:16~17に一部書かれています。


話は変わって2000年前、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城する少し前の場面で、イエス様と弟子たちは、オリーブ山まで来た時、冒頭の写真のような光景を見ました。当時は、現在の岩のドームの場所に第二神殿が建っていて、弟子たちは神殿や都を見て喜んだのですが、イエス様はそれを見て「泣いた」と聖書に書いてあります。(ルカ19:41-44)その時のイエス様は、目の前の美しい光景に重ねて、この先起こるであろう壊滅的な惨事と、凄惨な状況をご覧になっていたのでしょう。事実、紀元70年、神殿はローマ軍によって跡形もないほど徹底的に破壊されました。(ルカ19:41~44)
こちら(下)がその時のイエス様の涙を形にした、「主の涙の教会・Dominus Flevit Church」です。


主の涙の教会から坂道を下って行く途中で、神殿の丘をバックに集合写真を撮りました。

次は、この坂道を下り、オリーブ山の麓辺りにある「ゲッセマネの園・Gethsemane」に行きました。
ここはイエス様のいつもの祈り場ですが、最後の晩餐の後も、イエス様はここで祈られました。そして、イスカリオテのユダに裏切られ捕らえられた場所です。
ゲッセマネにあるオリーブの木は、イエス様時代からある木が何本もあるそうです。
オリーブの木の特徴は、根元から新しい芽がどんどん出て来て、元木の幹とくっ付いて太くなり、中は空洞になるようです。
ゲッセマネの一角に凄い人ごみができ、1本の太い幹のオリーブの木を見ていました。この木は特別なのでしょうか・・・


ゲッセマネの園の片隅に、血の汗を流すほどの苦悩の祈りをされたイエス様の像がひっそりとありました。


すぐ隣はカソリックの「万国民教会・Church of All Nations」が建っていて、イエス様が祈られた岩が祭壇の前に大きく四角に囲まれてありました。




万国民教会の出口に立つと、ちょうど正面に黄金門が見えます。将来オリーブ山に再臨される主が入城される黄金門。万国民教会の横の庭に集まっている皆さんの後ろにも黄金門が見えます。(黄金門のある東の城壁に沿って墓がありますが、それはユダヤ人の墓ではなくアラブ人の墓です)


さて、次はバスで「園の墓・The Garden Tomb」へ移動しました。位置は、北城壁ダマスカス門から北へ400m位の距離です。
園の墓はプロテスタントの英国国教会が管理している、ゴルゴダの丘とイエスの墓があるとされる施設です。古代の石切り場の崖の一部がドクロ(ゴルゴダ)のように見えることから発掘調査をしたところ、聖書との整合性が数多く認められたといいます。


聖書ヨハネの福音書19-14に、「イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。」とあります。
更に、聖書で記されている特徴を認めることができるそうです。その特徴は、天然の洞窟ではなく、硬い岩を掘って造られていること。墓の入り口に大きい石を転がして封印できること(同墓は、石を転がすための溝が掘ってあった)。数人の哀悼者が墓の内部に入ることができる事、これらの条件を満たしているとされます。



園の墓は、古代の石切り場の一部で、ユダヤ人による石打ち刑、またローマ人による磔刑の場所として使われていたそうです。
同園には、約百万リットルを誇る貯水池があり、イエス様時代のオリーブ園、果樹園、ブドウ園などの労働園だった証拠を示しているのだそうです。1924年には、良好な保存状態のぶどう酒を作る酒舟が発掘され、ここがブドウ園であったことを示唆しているということです。下のひょうたん型にぶどうを入れ、足で踏んでぶどう汁を窪みに集めます。


園の墓はとても美しく手入れが行き届いたところです。花や木々の間に礼拝ができる涼しい場所が各所に設けられ、そこで田辺先生が聖餐式を行ってくださいました。ぶどう酒の器は、オリーブの木で作られた杯でした。


イエス様が十字架にかけられた場所と葬られた墓は、ここ「園の墓」と「聖墳墓教会」の2箇所の説がありますが、イエス様以降、2度に渡ってエルサレムの壊滅的崩壊を経験した地は、断定できる確固たる物理的証拠は既に消されています。そして、それを許されたのは主ご自身です。そのように考えるなら、そこから導きだされるものは、実際に起こった場所が大事なのではなく、主自ら進んで十字架にかかり、私たち人類に罪の赦しが与えられたという神の大いなるご愛とご計画にあったことを思います。
さてさて、ランチタイムとなりました。この日のランチは「園の墓」にも近い、「ノートルダムセンター・Notre Dame of Jerusalem Center」のレストランへ行きました。ここはキリスト教徒のために建てられたホテルで、礼拝堂もあります。ですが、キリスト教徒でなくても泊まれます。旧市街は目と鼻の先、新市街もすぐ近く、各地に向かうバスターミナルも近所にあるという便利なロケーションに建っていました。



次週8/24の更新は、イスラエル博物館を予定しています。
(Mi)
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次に向かったところは「The Temple Institute・神殿研究所」です。旧市街のユダヤ人地区にあります。
神殿研究所は、神殿の丘に聖なる第三神殿を再建することを目的としています。そのための研究や準備をしている団体です。(別名、神殿再建財団)
神殿研究所のディレクターであるラビのハイム・リッチマン氏はこのように語っています。「メシア思想とソロモン第三神殿の再建は、ユダヤ教で最も大事なことです。その再建はモリヤの山でなければなりません。これは神が定めたことであり、預言されたことですから、人間の考えによって変えることはできません。しかし、現在そこには岩のドームがあります。第三神殿再建のために我々は、暴力によって神殿を築こうとは思っていません。ただ、今準備できることをしているのです。」

ユダヤ人にとっての「神殿再建」とは、過去の歴史に二度存在したソロモン神殿のことです。
第三神殿(ソロモン神殿)の再建予想図は出来上がっています。それは旧約聖書やタルムードや聖書考古学などの正確な情報を入力し、コンピュータ・グラフィックを使って細部にわたって作り上げました。
また、来るべき日に用いられる祭司の服や神具なども忠実に製作し、すべて出来上がっています。
下の写真はメノラー(燭台)です。純金製で42キロあるそうです。

神殿に仕える祭司のための「祭司養成所」が設立され、レビ人の子孫約200人の生徒が学びました。そのうち、大祭司となるのは代々アロン家の血筋とされており、生徒の内15人が純粋なアロン家の子孫だということです。訓練は終わり、祭司、大祭司の準備も既に整いました。
また、民数紀19章1-10節にあるように、神殿の落成式に必要な「赤い雌牛」も備えられ、その灰も用意されています。
ラビ、ハイム・リッチマン氏は、「トーラーは、第三神殿建設を人類全体と神との霊的な和解を媒介するものとみなしています。現在、私達は第三神殿の時代に入っています。この時代はイザヤ書の中で、人類史上比類ない時代、神と和解しひとつになる時代です。多くの人が、平和を望んでいます。ならば、神が約束した唯一のチャンスを試してみてはどうでしょうか。預言者ハガイによると、神はこの場所に平和を築くと言いました。神殿が建つ時、それはユダヤ人だけのものではありません。」と語っています。

私達は神殿研究所を出た後、「西壁(嘆きの壁、Western Wall)」に向かいました。
モリヤの山である神殿の丘にBC 950年頃、ソロモン王は神殿を建設しました。BC 586年、エルサレム陥落と共にバビロンのネブカデネザルにより神殿が破壊され、BC 516年にバビロン捕囚から帰還したユダヤ人が第二神殿を再建しました。BC 20年にヘロデ大王が神殿を改修・拡張しました。これも第二神殿と呼ばれています。AD 70年、ローマ軍により神殿は再び破壊され焼き払われました。部分的に残った石垣が現在の西壁・嘆きの壁です。
西壁は、ブロック石の大きさが三段に分かれているのがご覧いただけますでしょうか。下部の大きいブロック石はヘロデ時代のものです。中間部分のブロックは正方形っぽい形が多く、ビザンチン時代の石垣です。上部の小さいブロック石はムスリム時代のものだそうです。地下には更に17段が埋もれています。

石壁の間に見える草はヒソプという植物で、花と葉に芳香があり、副食物や薬用にも使用されます。また、茎を束ねて清めの儀式に用いたりもします。
十字架上のイエスに、ローマ兵が酸いぶどう酒を海綿に含ませて口元に差し出した時に用いたのが、束ねたヒソプでした。




現在の西壁の高さは約19m、全長約60m、男女別に仕切られており、女性の祈祷所の方は狭かったです。
西壁は以前から行きたいと思っていて、実際に西壁と間近で対面した時には、少なからず感動しました。あのヘロデ式の石灰岩エルサレム・ストーンの壁に手を置き頬をつけ目をつぶると、石に吸い込まれるような感覚がとても心地良くて、忘れることができません。主に感謝の祈りをし、イスラエルの祝福とユダヤ人の救い、そして、これから起ころうとしている来るべき日のことなど、心に思い浮かんだあれこれを祈りました。最後に家族の救いを書いた紙片を石の間に挟んで、離れ難い思いで集合場所に戻りました。
これで8日目の予定が終わりました。バスでホテルに戻り、今日の出来事などをおしゃべりしながら皆で楽しい夕食のひと時を過ごしました。
次週8/17は、オリーブ山と園の墓を予定しています。
(Mi)
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