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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を


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こんにちは、MUです。
いよいよイースターも近づいて来て、当時のイエス様の御心境はいかばかりかと思われます。

イエス様はあのゲッセマネの園で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。「ここの杯」とは、十字架で死ぬことです。この部分は、“そうさせないで下さい” と言っているように聞こえるので、オヤっと思いました。イエス様は神の御子で、十字架につくことはこの世にお生まれになる前から分かっておられることでしたのに、今さらいったいなぜこのような祈りをしたのでしょう。2回目の祈りは、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」と、血の汗をしたたらせながらも、杯を回避したい旨を現しています。やはりイエス様は、人間に生まれて来たので人間としての反応をしているのかな、という思いにもなりました。
 
実は、ここには大きな意味が隠されていることが後で分かりました。イエス様は死ぬほど悲しかったのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」という言葉を弟子たちに言っていますが、その悲しみの訳は死ぬ恐怖ではなく、敵の手に渡され死のうとしている今、神から見捨てられてしまうのではないかという思いで、もだえ悲しんでいるのでした。本当に父の御心なのですか? 十字架で殺されることを望んでおられるのですか? と苦しみの中で祈り問うているのです。そして、それが父なる神の御心と知ったならば、死んでも父は必ず救ってくださる、見捨てることは決して無いと確信できるため、安心して死ぬことができると思ったのでしょう。
・・・しかし、父なる神は沈黙しておられました。

十字架につけられてから息を引き取るまで、肉体の苦痛と精神的な辛さで、イエスは心底悲しく惨めだったに違いありません。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉、それは父なる神から切り離されてしまうという絶望の叫びだったのでしょう。イエスにとって死とは神と離れる事であり、それが死ぬほど悲し、くたまらなく恐ろしいことだったのです。誰がそのようなイエスの心の中を知り得たでしょう。

ルカの福音書23章44節から46節に、こう書いてあります。「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。』こう言ってついに息を引きとられた。

このことから、沈黙していた父なる神は、イエスの極限までの悲しみ、辛さをご存知だったことがうかがい知れます。「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた」、という節がそれです。これは日食ではありません。イエスが十字架につかれたのは過ぎ越しの祭りの14日で、ユダヤの宗教的な暦が月齢に基づくため、月の初めが新月なら十四日の夜は満月となり日食にはならないのです。日食が起こり得るのは新月の時だからです。とするなら、説明のつかないこの怪現象は、ひとり子イエスを愛してやまない父なる神の御心の現れとみて良いのではないでしょうか。創造主の他、誰が気象を変えられましょう。

こうして御子なるイエスは、愛の神・父の御旨を知り、安心して死の谷をも行ける安堵感を得たに違いありません。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との言葉を発した時には、恐れ悲しむ姿は微塵も無く、全信頼を父なる神に置き、堂々と前進されたことでしょう。

そして葬られたのち、預言通り3日目に墓からよみがえりました。そのよみがえりは、罪深い私たち人類全ての罪を清算し、死を征服された証しとなりました。そしてイエス・キリストを信じる私たちは、その信仰により罪が赦され、神と共に永遠に生きる希望が与えられ、私たちもまた、よみがえることが証明されたのです。

私たちが信じる神は父と子と聖霊の三位一体の神、その神は宇宙を創造され命を創造され、全てを支配しておられる神です。無から有を創り出す事ができるお方、その方は愛と正義の神。その神は、全ての人をイエス・キリストを通して永遠の命へと導きたいと願っておられます。それは愛のゆえにです。

(MU)


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2018.03.27 09:28 | 受難節
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受難週を迎え、今日は水曜日です。

聖書、マルコの福音書143節には、イエスが十字架につけられる週の水曜日のことがこのように書かれています。

「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」

すると人々は、「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」と、口々に言ってとがめました。

しかしイエスはその人たちに、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」と言われました。

 

イエス様は、ご自身が十字架で死なれた時の香油のことを言ったのですが、この時点で人々は、その意味を理解していませんでした。しかし人の心がお分かりになるイエス様が仰るように、香油を注いだ女性は、イエス様の葬りの予感があったのでしょう。そしてイエス様は、「りっぱなことをしてくれたのです」と言って、その女性をお褒めになりました。


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ユダヤの習慣では通常、葬りの準備として、墓に埋葬する前に体に香油を塗ります。

マルコの福音書では、埋葬の時に香油を塗ったという記述はありませんが、ヨハネの福音書1931-40節には、ニコデモが没薬(もつやく)とアロエを混ぜたもの30キロを持って来てそれを香料といっしょに混ぜて亜麻布でイエスの体を包んだ、と記しています。

 

没薬は、イエス様が誕生された時に、東方の博士達が黄金、乳香、没薬を幼子への贈り物としてささげられた品の一つでした。黄金は王に贈る物,乳香は神に贈る物,没薬は死者に贈る物とされていたようです。また、没薬は、防腐剤として死者に塗るものとして用いられていました。

いづれも貴重なものですが、イエス様は誕生の時から死の予告がされているようなスタートだったのだなと考えさせられました。

 

更に、幼子イエスが布にくるまれ寝かされた飼い葉おけは、当時は石をくりぬいたもので、十字架で息を引き取ったイエス様が葬られた墓は、石をくりぬいた墓というのも象徴的だと捉える人もいます。

 

しかし、その死は、世の罪を購い、死を通り過ぎて与えられる復活の光を人類にもたらしました。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:24-25) そして私たちイエス・キリストを信じる者たちを、その後に続くものとしてくださったのです。ハレルヤ!

 

MU

 

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2017.04.13 07:19 | 受難節
いつもラスベガス日本人教会のBlogを読んでいただきありがとうございます。
早いもので、2017年も3カ月が過ぎました。日本は桜が美しい季節ですね。 砂漠の街、ラスベガスにも春が訪れ、木々の緑、花々が美しい季節となりました。

そして、私たちクリスチャンにとっては、人類の罪を贖うために十字架への道を歩まれ、3日後によみがえられたイエス様の復活を祝い、感謝するとても大切な時期です。
 
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今年は4月16日(日)がイエス様の復活祭、イースターとなりますので、
4月9日(日)がイエス様がエルサレムに入場された棕櫚の主日、その日から15日(土)までがイエス様がエルサレムで受けられた苦難を覚える受難週となります。

何度イエス様の十字架の御業、復活の事実を考えても考えても、御父そしてイエス様の私たちに対する愛を完全に知るには至らないかもしれません。ですが、今一度この恵みに感謝しつつ、この期間を過ごすことはとても意味があり、大切なことだと思います。

皆様 お忙しい日々かと思いますが、この時期更に特別なイエス様との時間を過ごしませんか?

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イザヤ書 53章
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

(KS)

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2017.04.03 21:18 | 受難節
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私がイエス様を、信じたのは、2013年のイースターの夜でした。
「Just believe me」とイエス様が言ってくださり、その決断を確かな物にしてくださいました。

私を選んでくださり、私の為に十字架で死んでくださり、死を打ち破り!
そして日々私と一緒に居てくださる。本当に幸いな事です。

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ最終回、5回目の今日は、レント第四十日目に送られたメッセージです。

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レント第四十日
今日はレント第四十日、マルコの福音書15章37−41節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。(マルコ15:37−41)

ローマの百人隊長は、イエスの味方でもなく、ユダヤの指導者たちの味方でもありませんでした。完全に中立の立場で、総督の命令どおりに職務を果たしただけでした。しかし、百人隊長は、いつまでもイエスに対して、中立の立場でいることはできませんでした。イエスの十字架に向かわれる態度、十字架から語られたひとつひとつの言葉は、彼の胸を揺さぶりました。そして、イエスが息を引き取られた時、ついに彼は「この方はまことに神の子であった」と叫んだのです。受難劇では、この時、百人隊長は、そのかぶとを脱ぎ、十字架の下に置くのですが、私たちも、私たちのかぶとを十字架の下に置きましょう。百人隊長が「イエスと向かい合って」いたように、イエスに向かい合う心をもって十字架の前に立ちましょう。

黙想: 私はイエスと向かい合います。十字架のもとに立ちます。


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イエス様の十字架を考えるときに、まず思うのは
 ・私が間違いなく、イエス様を十字架にかけてしまった。
 ・イエス様の十字架に対する思い、その奥義に関して、とても理解が浅い。
と言う事です。

洗礼を受けてこの数年間で、イエス様への愛、思い、感謝、イエス様を信じる心は強くなったとは言え、約2000年前のイエス様が実際に十字架にかかられた時であろうと、今私が生きているこの時にイエス様が十字架にかかられたであろうと、やはり私はイエス様を十字架にかけてしまった(しまう)であろう事は、残念ながら疑う余地がありません・・・。

また、イエス様の十字架の御業を思う時に、「イエス様は私の罪の為に十字架で死んでくださった」「大きな愛」等という事は理解できても、もっともっと深い、イエス様が十字架の死を通してして下さった事を自分の物(事)として理解できていない、いや、もしかしたら理解しようとしない自分が居るように思います。厚い厚い肉の「かぶと」で自分の罪と向かい合わない、向き合うのが怖い私が居るのかもしれません。 
私は本当のクリスチャンなのだろうか? 私は百人隊長と何ら変わらないのではないか? とも思います。
イエス様の十字架の御業で罪を赦していただいているのに・・・・。

イエス様、約2000年前、あなたを十字架にかけてしまったのは私です、それを改めて悔い改め、その事実から目を離さず、十字架を見上げ、その十字架を通してあなたがしてくださった事を、愛を、もっと深く知り、感謝する日々を送ることができますよう助けてください。

(KS)


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2016.03.20 23:01 | 受難節
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イースターまで、13日。

朝早く起き、祈りから一日を始められるイエス様のこの時期の祈りはどのようなものだったのだろう?
ゲッセマネでペテロ、ヤコブ、ヨハネが眠りに落ちている間も祈り続けていらしたイエス様の祈りは?思いは?どのようなものだったのだろう? と思いをはせます。

深い父なる神への思い、私達への思い、これから起こる大きな出来事への思い。
私には計り知れない思いの中での祈りだったのだろうと思います。
私にも、イエス様の何億分、いや何兆分の一の祈りができる日が来るのでしょうか?

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ4回目の今日は、レント第二十九日に送られたメッセージです。

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レント第二十九日

今日はレント第二十九日、マルコの福音書14章51-52節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51-52)

この箇所は、キリスト受難の物語の中で、何か場違いな印象を与える箇所です。亜麻布だけをまとってイエスについて行った若者が、亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げ出したというのです。キリストの受難という、きわめて真剣な出来事の中で、この青年のしたことは、面白くもあり、また愚かでもありました。この若者は、おそらくその夜、眠りについていたのでしょう。夜中の騒がしい物音に目を覚ますと、なんとイエスが縄で縛られ、大祭司の官邸に向かって引かれて行っているではありませんか。この若者は、あとさきを考えることなく、亜麻布をまとって表に飛び出したわけです。

この物語は、単に、人間的な熱心だけではイエスに従うことはできないということを教えています。イエスに従うには、それにふさわしい備えが必要なのです。エペソ5:14-18には、信仰者の身支度が書かれており、そのうえで、「絶えず目を覚まして・・・・・祈りなさい」と教えられています。ゲッセマネの園でも主は、「目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」(マルコ14:38)と言われました。人間的な熱心は亜麻布一枚ほどのものでしかありません。しかし、信仰の祈りは、大盾のような重みを持っています。

黙想 : 祈って、従おう。


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私の信仰生活の中で、私自身が直面している大きな困難や、姉妹・兄弟が直面している困難に関しては、主に祈り、癒しや解決、導きを祈り求める生活ができるようになりました。
しかし、自分の中で「さほど大きな問題」と感じる問題や困難、選択しなければならない事柄に関しては、やはり自分の肉の思いで解決する割合が高いのが事実です。
さらに、瞬間的に起こった出来事に対する反応は、殆どの場合自分で行動しているのが事実かと思います。

ある姉妹達と話をしていた時に、「瞬時の判断はやっぱり自分でするでしょう」と言う意見と、「そんな状況下においても、やはり主に祈り求める習慣をつけて行けば、瞬時の判断も主によってすることができるようになる」という意見がありました。
その話をしていた時に、私は前者の意見に「そうだよね!」と疑うことなく思ったのですが、「どんな状況下でも祈り求める習慣をつける」と言う言葉が頭に残り、私も習慣づけるべきだと思い始めました。

その、思いも・・・常に私の心に留め、行えるまでにはなっていませんが、主のご計画が最善と知っている以上は、はやりどんな事も、どんな時も、主の御心を知るために祈り求め、御心を行いたいと思っています。

イエス様は、ゲッセマネで悶えながら神に祈り、十字架の死まで従われました。
私も、イエス様のように、自分の思いではなく神の思いを祈り求め、従える人間になれますように。聖霊様、信仰の浅い私をどうぞ強く導いてください!


(KS)


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2016.03.13 23:49 | 受難節

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