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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

  lent 7a

私がイエス様を、信じたのは、2013年のイースターの夜でした。
「Just believe me」とイエス様が言ってくださり、その決断を確かな物にしてくださいました。

私を選んでくださり、私の為に十字架で死んでくださり、死を打ち破り!
そして日々私と一緒に居てくださる。本当に幸いな事です。

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ最終回、5回目の今日は、レント第四十日目に送られたメッセージです。

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レント第四十日
今日はレント第四十日、マルコの福音書15章37−41節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。(マルコ15:37−41)

ローマの百人隊長は、イエスの味方でもなく、ユダヤの指導者たちの味方でもありませんでした。完全に中立の立場で、総督の命令どおりに職務を果たしただけでした。しかし、百人隊長は、いつまでもイエスに対して、中立の立場でいることはできませんでした。イエスの十字架に向かわれる態度、十字架から語られたひとつひとつの言葉は、彼の胸を揺さぶりました。そして、イエスが息を引き取られた時、ついに彼は「この方はまことに神の子であった」と叫んだのです。受難劇では、この時、百人隊長は、そのかぶとを脱ぎ、十字架の下に置くのですが、私たちも、私たちのかぶとを十字架の下に置きましょう。百人隊長が「イエスと向かい合って」いたように、イエスに向かい合う心をもって十字架の前に立ちましょう。

黙想: 私はイエスと向かい合います。十字架のもとに立ちます。


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イエス様の十字架を考えるときに、まず思うのは
 ・私が間違いなく、イエス様を十字架にかけてしまった。
 ・イエス様の十字架に対する思い、その奥義に関して、とても理解が浅い。
と言う事です。

洗礼を受けてこの数年間で、イエス様への愛、思い、感謝、イエス様を信じる心は強くなったとは言え、約2000年前のイエス様が実際に十字架にかかられた時であろうと、今私が生きているこの時にイエス様が十字架にかかられたであろうと、やはり私はイエス様を十字架にかけてしまった(しまう)であろう事は、残念ながら疑う余地がありません・・・。

また、イエス様の十字架の御業を思う時に、「イエス様は私の罪の為に十字架で死んでくださった」「大きな愛」等という事は理解できても、もっともっと深い、イエス様が十字架の死を通してして下さった事を自分の物(事)として理解できていない、いや、もしかしたら理解しようとしない自分が居るように思います。厚い厚い肉の「かぶと」で自分の罪と向かい合わない、向き合うのが怖い私が居るのかもしれません。 
私は本当のクリスチャンなのだろうか? 私は百人隊長と何ら変わらないのではないか? とも思います。
イエス様の十字架の御業で罪を赦していただいているのに・・・・。

イエス様、約2000年前、あなたを十字架にかけてしまったのは私です、それを改めて悔い改め、その事実から目を離さず、十字架を見上げ、その十字架を通してあなたがしてくださった事を、愛を、もっと深く知り、感謝する日々を送ることができますよう助けてください。

(KS)


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2016.03.20 23:01 | 受難節
lent 6a

イースターまで、13日。

朝早く起き、祈りから一日を始められるイエス様のこの時期の祈りはどのようなものだったのだろう?
ゲッセマネでペテロ、ヤコブ、ヨハネが眠りに落ちている間も祈り続けていらしたイエス様の祈りは?思いは?どのようなものだったのだろう? と思いをはせます。

深い父なる神への思い、私達への思い、これから起こる大きな出来事への思い。
私には計り知れない思いの中での祈りだったのだろうと思います。
私にも、イエス様の何億分、いや何兆分の一の祈りができる日が来るのでしょうか?

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ4回目の今日は、レント第二十九日に送られたメッセージです。

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レント第二十九日

今日はレント第二十九日、マルコの福音書14章51-52節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51-52)

この箇所は、キリスト受難の物語の中で、何か場違いな印象を与える箇所です。亜麻布だけをまとってイエスについて行った若者が、亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げ出したというのです。キリストの受難という、きわめて真剣な出来事の中で、この青年のしたことは、面白くもあり、また愚かでもありました。この若者は、おそらくその夜、眠りについていたのでしょう。夜中の騒がしい物音に目を覚ますと、なんとイエスが縄で縛られ、大祭司の官邸に向かって引かれて行っているではありませんか。この若者は、あとさきを考えることなく、亜麻布をまとって表に飛び出したわけです。

この物語は、単に、人間的な熱心だけではイエスに従うことはできないということを教えています。イエスに従うには、それにふさわしい備えが必要なのです。エペソ5:14-18には、信仰者の身支度が書かれており、そのうえで、「絶えず目を覚まして・・・・・祈りなさい」と教えられています。ゲッセマネの園でも主は、「目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」(マルコ14:38)と言われました。人間的な熱心は亜麻布一枚ほどのものでしかありません。しかし、信仰の祈りは、大盾のような重みを持っています。

黙想 : 祈って、従おう。


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私の信仰生活の中で、私自身が直面している大きな困難や、姉妹・兄弟が直面している困難に関しては、主に祈り、癒しや解決、導きを祈り求める生活ができるようになりました。
しかし、自分の中で「さほど大きな問題」と感じる問題や困難、選択しなければならない事柄に関しては、やはり自分の肉の思いで解決する割合が高いのが事実です。
さらに、瞬間的に起こった出来事に対する反応は、殆どの場合自分で行動しているのが事実かと思います。

ある姉妹達と話をしていた時に、「瞬時の判断はやっぱり自分でするでしょう」と言う意見と、「そんな状況下においても、やはり主に祈り求める習慣をつけて行けば、瞬時の判断も主によってすることができるようになる」という意見がありました。
その話をしていた時に、私は前者の意見に「そうだよね!」と疑うことなく思ったのですが、「どんな状況下でも祈り求める習慣をつける」と言う言葉が頭に残り、私も習慣づけるべきだと思い始めました。

その、思いも・・・常に私の心に留め、行えるまでにはなっていませんが、主のご計画が最善と知っている以上は、はやりどんな事も、どんな時も、主の御心を知るために祈り求め、御心を行いたいと思っています。

イエス様は、ゲッセマネで悶えながら神に祈り、十字架の死まで従われました。
私も、イエス様のように、自分の思いではなく神の思いを祈り求め、従える人間になれますように。聖霊様、信仰の浅い私をどうぞ強く導いてください!


(KS)


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2016.03.13 23:49 | 受難節
  lent 5a

今日もラスベガス日本人教会のブログを読んでいただきありがとうございます。
あっと言う間に 3月に入りましたね。

この時期のラスベガスは、昼間は30℃(85F)、夜は12℃(55F)程の日があるかと思えば、翌日は昼間18℃(64F)、夜は7℃(45F)という急激な気温の変化のある時期です。このように、数日の間に大きな気温の変化のある時には、大風が吹き、砂塵が舞います。

イエス様が歩かれた荒野の平均気温は日本とほぼ同じような気候のようで、昼夜の気温の差はラスベガスに近いようです。
ヨハネの福音書にも、ヨハネやペテロがアンナスの家の中庭の炭火で暖をとっていた、とあるように、3-4月のイスラエルの夜は寒かったのでしょうね。

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ3回目の今日は、レント第二十五日目に送られたメッセージです。

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レント第二十五日
今日はレント第二十五日、マルコの福音書14章27-31節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまづいても、私はつまづきません。」  イエスは彼に言われた。「まことにあなたがたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」  ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(マルコ14:27-31)

「力を込めて言い張った」とは、いかにもペテロらしいしぐさです。おそらくは、大きな声で、まるで主イエスにくってかからんばかりの勢いで「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったのでしょう。ペテロの心は純粋でした。他の弟子たちもそうでした。しかし、主イエスが捕えられた時、弟子たちはみなイエスを見捨て、ペテロも主イエスを否認したのです。純粋であれば、あるいは一所懸命であれば、罪人ではないということではありません。しかし、純粋な罪人、一所懸命な罪人、つまり自分をごまかさない人は、やがて悔い改めに導かれ、赦され、回復の道を歩むことができるのです。

黙想: 主よ、私を純粋な罪人にしてください。

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自他ともに認める「瞬間湯沸かし器」である私は「12弟子の誰に似ているか?」と言われれば、「ペテロ」であろうかと思います。
また、ペテロ同様、いや、それ以上に多くの罪を日々犯している自分を見ます。
一生懸命な中で知らずに犯してしまった罪、自分のエゴから出た罪、色々ありますが、エゴから出た罪の場合、自分で自分を弁解しようとするせいか?主に背を向けがちになり、その罪への解決が遅くなり、自分の生活が不安定になるような気がします。

一方、最近、ある大きな怒りの中である「思い」が与えられ、ある姉妹にその「思い」について話をしました。本来であればあまり話すべき内容ではなかったのですが、その時の私は「私が思う」正義感からその会話をしてしまいました。そして・・・残念ながらまだ怒りもありました。
そんな状況の中でも、その姉妹との会話の後、怒りが徐々に愛に変わっていきました。また、私の非・罪もハッキリと示されました。 
私に与えられたその「思い」が、主のご計画に有るのか? まだ分かりませんが、主がその「思い」と私を、日々整えて行ってくださっているのを感じることができます。

私は罪人です、これは自分では変える事が出来ませんが、鶴田牧師の最後の言葉にあるように、せめて、純粋な罪人でありたいと願います。

(KS)


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2016.03.08 00:12 | 受難節

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