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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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受難週を迎え、今日は水曜日です。

聖書、マルコの福音書143節には、イエスが十字架につけられる週の水曜日のことがこのように書かれています。

「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」

すると人々は、「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」と、口々に言ってとがめました。

しかしイエスはその人たちに、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」と言われました。

 

イエス様は、ご自身が十字架で死なれた時の香油のことを言ったのですが、この時点で人々は、その意味を理解していませんでした。しかし人の心がお分かりになるイエス様が仰るように、香油を注いだ女性は、イエス様の葬りの予感があったのでしょう。そしてイエス様は、「りっぱなことをしてくれたのです」と言って、その女性をお褒めになりました。


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ユダヤの習慣では通常、葬りの準備として、墓に埋葬する前に体に香油を塗ります。

マルコの福音書では、埋葬の時に香油を塗ったという記述はありませんが、ヨハネの福音書1931-40節には、ニコデモが没薬(もつやく)とアロエを混ぜたもの30キロを持って来てそれを香料といっしょに混ぜて亜麻布でイエスの体を包んだ、と記しています。

 

没薬は、イエス様が誕生された時に、東方の博士達が黄金、乳香、没薬を幼子への贈り物としてささげられた品の一つでした。黄金は王に贈る物,乳香は神に贈る物,没薬は死者に贈る物とされていたようです。また、没薬は、防腐剤として死者に塗るものとして用いられていました。

いづれも貴重なものですが、イエス様は誕生の時から死の予告がされているようなスタートだったのだなと考えさせられました。

 

更に、幼子イエスが布にくるまれ寝かされた飼い葉おけは、当時は石をくりぬいたもので、十字架で息を引き取ったイエス様が葬られた墓は、石をくりぬいた墓というのも象徴的だと捉える人もいます。

 

しかし、その死は、世の罪を購い、死を通り過ぎて与えられる復活の光を人類にもたらしました。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:24-25) そして私たちイエス・キリストを信じる者たちを、その後に続くものとしてくださったのです。ハレルヤ!

 

MU

 

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2017.04.13 07:19 | 受難節
いつもラスベガス日本人教会のBlogを読んでいただきありがとうございます。
早いもので、2017年も3カ月が過ぎました。日本は桜が美しい季節ですね。 砂漠の街、ラスベガスにも春が訪れ、木々の緑、花々が美しい季節となりました。

そして、私たちクリスチャンにとっては、人類の罪を贖うために十字架への道を歩まれ、3日後によみがえられたイエス様の復活を祝い、感謝するとても大切な時期です。
 
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今年は4月16日(日)がイエス様の復活祭、イースターとなりますので、
4月9日(日)がイエス様がエルサレムに入場された棕櫚の主日、その日から15日(土)までがイエス様がエルサレムで受けられた苦難を覚える受難週となります。

何度イエス様の十字架の御業、復活の事実を考えても考えても、御父そしてイエス様の私たちに対する愛を完全に知るには至らないかもしれません。ですが、今一度この恵みに感謝しつつ、この期間を過ごすことはとても意味があり、大切なことだと思います。

皆様 お忙しい日々かと思いますが、この時期更に特別なイエス様との時間を過ごしませんか?

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イザヤ書 53章
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

(KS)

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2017.04.03 21:18 | 受難節
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私がイエス様を、信じたのは、2013年のイースターの夜でした。
「Just believe me」とイエス様が言ってくださり、その決断を確かな物にしてくださいました。

私を選んでくださり、私の為に十字架で死んでくださり、死を打ち破り!
そして日々私と一緒に居てくださる。本当に幸いな事です。

さて、「あの日まで 40日間の旅」シリーズ最終回、5回目の今日は、レント第四十日目に送られたメッセージです。

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レント第四十日
今日はレント第四十日、マルコの福音書15章37−41節の御言葉を読んで瞑想してみてください。

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。(マルコ15:37−41)

ローマの百人隊長は、イエスの味方でもなく、ユダヤの指導者たちの味方でもありませんでした。完全に中立の立場で、総督の命令どおりに職務を果たしただけでした。しかし、百人隊長は、いつまでもイエスに対して、中立の立場でいることはできませんでした。イエスの十字架に向かわれる態度、十字架から語られたひとつひとつの言葉は、彼の胸を揺さぶりました。そして、イエスが息を引き取られた時、ついに彼は「この方はまことに神の子であった」と叫んだのです。受難劇では、この時、百人隊長は、そのかぶとを脱ぎ、十字架の下に置くのですが、私たちも、私たちのかぶとを十字架の下に置きましょう。百人隊長が「イエスと向かい合って」いたように、イエスに向かい合う心をもって十字架の前に立ちましょう。

黙想: 私はイエスと向かい合います。十字架のもとに立ちます。


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イエス様の十字架を考えるときに、まず思うのは
 ・私が間違いなく、イエス様を十字架にかけてしまった。
 ・イエス様の十字架に対する思い、その奥義に関して、とても理解が浅い。
と言う事です。

洗礼を受けてこの数年間で、イエス様への愛、思い、感謝、イエス様を信じる心は強くなったとは言え、約2000年前のイエス様が実際に十字架にかかられた時であろうと、今私が生きているこの時にイエス様が十字架にかかられたであろうと、やはり私はイエス様を十字架にかけてしまった(しまう)であろう事は、残念ながら疑う余地がありません・・・。

また、イエス様の十字架の御業を思う時に、「イエス様は私の罪の為に十字架で死んでくださった」「大きな愛」等という事は理解できても、もっともっと深い、イエス様が十字架の死を通してして下さった事を自分の物(事)として理解できていない、いや、もしかしたら理解しようとしない自分が居るように思います。厚い厚い肉の「かぶと」で自分の罪と向かい合わない、向き合うのが怖い私が居るのかもしれません。 
私は本当のクリスチャンなのだろうか? 私は百人隊長と何ら変わらないのではないか? とも思います。
イエス様の十字架の御業で罪を赦していただいているのに・・・・。

イエス様、約2000年前、あなたを十字架にかけてしまったのは私です、それを改めて悔い改め、その事実から目を離さず、十字架を見上げ、その十字架を通してあなたがしてくださった事を、愛を、もっと深く知り、感謝する日々を送ることができますよう助けてください。

(KS)


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2016.03.20 23:01 | 受難節

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