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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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「私は平身低頭、赦されてはいけない罪人です。だからこそ、主に赦されたことを無駄にしないように、シャブ中の人を助ける生き方をしています。これは赦されるためにしているのではなく、赦されたからやれることです。ですから、何も出来ませんが人生をかけてゆるしてもらうしかありません。」と、進藤牧師はブログの中で書いています。

 

今回は、罪人の友・主イエス・キリスト教会(埼玉県川口市)の進藤龍也牧師が代表をしている刑務所伝道ミニストリーにスポットを当て、主の御業の数々を追って行きたいと思います。

 

進藤龍也牧師のプロフィール(進藤龍也牧師のヤクザな日記、プロフィールから)

197012月、23日、埼玉県蕨市生まれ。

1986年 高校入学。ケンカにより12学期で退学。

1987年 スカウトされヤクザになる。その後、広域指定暴力団S会系の組員になる。

1998年 少年鑑別所収監。

2000S会系K組の組長代行の時、覚醒剤使用で3回の収監。差し入れられた聖書を読み、塀の中で回心する。

2003年 出所後、正式にヤクザから足を洗い、シロアムキリスト教会で洗礼を受ける。

2004JTJ宣教神学校入学。

2005年 神学校2年の時から開拓伝道を開始。当時「罪人の友・主イエス・キリスト教会」の礼拝は、母親が経営するカラオケスナックで行われた。

201111月、2つ目の教会「罪人の友・ザアカイの家」を開設。御茶ノ水クリスチャンセンターで開拓伝道を開始。毎週木曜日夜7時からの礼拝を導く。

 

神様のご計画は、獄中にいた進藤牧師を、御言葉・エゼキエル書3311節を持って奮い立たせました。

彼らにこう言え。

『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――

わたしは決して悪者の死を喜ばない。

かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。

悔い改めよ。

悪の道から立ち返れ。

イスラエルの家よ。

なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

 

刑務所を出所して神学校へ入学し約2年が経った頃、開拓伝道を開始し、母親の経営するカラオケ・スナックを借りて礼拝を始めましたが、当初は夜スナックになる薄暗い店内で行われていた礼拝に、なかなか人は集まりませんでした。進藤牧師は、「10年後には、ここにたくさんの人が集まって、主を賛美し、多くの人を救いに導きたいと祈っていた」そうです。

 

そして、10周年の記念礼拝を迎えた2015年、既に改装がされて明るくなった礼拝堂は、入りきれない程たくさんの礼拝者で埋まり、熱気と聖霊で満たされていました。そんな中、10年間の歩みの様子がスクリーンに映し出されました。進藤牧師の10年前の祈りは聞かれ、溢れるばかりの主の恵みに涙したそうです。

 

罪人の友・主イエス・キリスト教会には、育児中のお母さん達もいらっしゃいますが、元受刑者、人生に行き詰った人、やり直しをしたい人、助けが必要な人達が多いといいます。

進藤牧師はその人達の友となり、住む所に不自由している人には教会に住み込んでやり直しまでの伴走をするのだそうです。正に、“善きサマリア人”です。

 

刑務所伝道は進藤牧師が神学校に通っている頃、ヤクザ時代の兄弟分に福音を伝えた時から始まりました。

現在日本では訪問できる刑務所は限られているそうで、教誨師(きょうかいし)として奉仕することも許可されていないということです。

なので、各地の刑務所、服役中の受刑者へのほとんどの場合、郵便で文通するという方法をとっています。教会員が宛名書き等を手伝い、郵送費は献金に頼っているそうです。

 

一通の手紙、1本の電話がきっかけで、聖書に興味を持ち、教会に繋がった人々は数え切れないと言い、すべては主の憐れみだと感謝されることがよくあるそうです。

 

しかし、刑務所に入った人の再犯率は非常に高く、刑務所への往復を生涯繰り返す人が約半数もいるそうです。

進藤牧師はそのことに憂いを感じ、この刑務所伝道は神様からの使命だと思い、今日まで続けて来られました。

 

また、米国での刑務所伝道をも、長年祈り求めていました。

前科ある人の米国入国は多くのハードルがあって、それをクリアーしなければならなかったそうです。進藤牧師は何度も米国大使館に行き、2003年以降は牧師となり、犯罪は犯していないこと等を証明しました。

そして、とうとう米国への入国許可が下りました!

マタイの福音書77節に「求めなさい。そうすれば与えられます」と、あります。

主よ、感謝します。

 

201611月、進藤牧師は親族や友人の住むハワイの地に降り立ち、仮釈放になった受刑者を収容する「パロール」という施設で、10日間の滞在中9回の説教をしました。

最初は「なんだ、あの日本人は?」という目で見ていた受刑者達は、進藤牧師自らの過去を話し証を始めると反応が変わって来て、最後は大きな拍手で大歓迎されたといいます。礼拝後は長い列を作って、進藤牧師と直接話す順番を待つ人が後を絶たなかったそうです

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」というルカの福音書1248節を思い出しました。

 

今年の1月には、カリフォルニアのサンロレンゾにある日本人教会での聖会奉仕をされ、約200人の日本人信徒に刑務所伝道の実態を話しました。出席者の中には何百キロもの遠方から来た方もいたといいます。

 

進藤牧師は、「全てはイエス様のため。自分のような過去を持っている者でさえ、益としてくださる。」と、仰いました。

栄光在主!

 

MU

 

進藤龍也牧師の著書

20101月「人はかならず、やり直せる」 

20104月「極道牧師の辻説法」

20116月「未来はだれでも変えられる」

20123月「立ち上がる力」

20146月「あなたにもある逆転人生」

 

参考:

Christian Today 刑務所シリーズ http://www.christiantoday.co.jp/topics/prison-ministry-series

・進藤龍也牧師のヤクザな日記 http://ameblo.jp/1st-geocities-churchl/theme2-10019528395.html

 

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2017.02.09 02:01 | 信仰者シリーズ
前編に続き、今回は森永製菓の土台を作った2人のクリスチャン、森永太一郎と松崎半三郎をご紹介します。

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1899年(明治32年)、森永太一郎が創業した「森永西洋菓子製造所」は、開業して3年後には東京の菓子屋で森永太一郎の名を知らない人はいない!と言う程に成長しました。
しかし、知名度こそある程度ついたとはいえ、個人商店の域は出ておらず、製菓業を近代的な産業にするという壮大な夢を実現するには自分一人では限界があり、助け人がいなければこれ以上の発展は望めないと、人材を探しはじめました。

そこで、太一郎が目を付けたのが、約2年前に知り合った松崎半三郎です。

松崎は、立教学院(立教大学の前身)を卒業後、貿易会社勤務を経、オルガンやピアノの部品、洋菓子の原料などの輸入する貿易商社を経営しており、森永西洋菓子製造所へも西洋菓子の原材料を納入していました。
太一郎は、取引を通じて彼の能力、特に営業面を高く評価していました。
何よりも松崎も熱心なクリスチャンであったことから強い親近感を覚え、松崎が資金繰りに困っている時は、無利子無証人で5千円という大金を融通したこともあったそうです。松崎も、その信用に応え、必ず期限までに完済したそうです。
その様な松崎を「あの男なら間違いはない。」と信じた太一郎の説得が始まりました。

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早速、松崎を料理屋に誘い、「松崎さんに是非森永西洋菓子製造所に来てほしい!」と率直に話をし、「西洋菓子製造には絶対の自信を持っているが、営業がなかなかうまくいかない」「栄養の富む菓子を安い値段で日本人に提供したい。そして海外に輸出したい。」と太一郎が面している問題と自分の夢・思いを打ち明けたそうです。
それに対し、「森永さんの夢はよく分かりました。でも私は貿易商で身を立てたいのです。せっかくの申し出ですが断らせていただきます。悪く思わないでください」と松崎は丁重に断ったのですが、「悪く思うなんて、とんでもない。どうかゆっくり検討されて、その気になったら、よろしく頼みます。私の方は、いつでも大歓迎です」と将来の可能性を信じ別れたそうです。

その後、約2年間、太一郎の懇請は続きました。
折に触れ幾度も松崎を誘ってみるも、その度に丁重に断られ続け、迎えた1905年(明治38年)の1月1日。
「今年こそは松崎を招き入れよう!」と心に決めた太一郎は、夜明けを待たず、早朝4時、紋付羽織袴姿で築地にある松崎家へ人力車を走らせ、松崎の家のドアを叩きました。
新年の早朝にも関わらず、松崎は太一郎を玄関脇の応接間に通し二人は対面しました。
約2年前と変わらぬ、いやそれ以上の夢と情熱をもって説得する太一郎に、さすがの松崎も遂に「これほど熱心にお誘いいただいて、光栄に思います。しかしこのことは人生の一大事なので、妻とも相談しなければなりません。今夜まで考えさせてください」と返答し、約束通りその夜7時に太一郎の自宅を訪れました。
待ちに待っていた太一郎が「今朝ほどの件はどうでしょう」と単刀直入に聞くと、松崎は「私の出す3つの条件を受け入れてくだされば、喜んで働かせていただきます。『第一に森永さんは製造に専念し、私は営業を担当する。』『第二に現在のような個人商店では、発展に限度があるので、なるべく早く株式組織にする。』『第三に必要な人は縁故にとらわれず人物本位で採用する。』森永さんの夢を実現させるためには、この3つが絶対に必要という結論に至りましたのであえて条件にさせていただきました」と答えたそうです。無論これらの条件に全く異論のなかった太一郎は、松崎の3つの条件を全て受け入れ、固い握手を交わしたそうです。

創業から6年目の1905年(明治38年)。森永太一郎と松崎半三郎のクリスチャンコンビの誕生です!

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更に同年、天使がTとMの字を手で抱えている、あの有名なエンゼルマークが生まれ、トレードマーク(商標)登録されました。

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条件通り、太一郎は製造、松崎は営業と経理を担当し、太一郎がしたくても出来なかっこと、不得手なことは全て松崎が実現していきました。
更に、松崎は支配人として営業と経理を担当する傍ら、時間を見つけては製品の荷造りや発送の仕事にも加わり、業務の全てに通じるために現場で汗を流し、店員との人間関係にも気を配りました。
原材料のアメリカ直輸入(製品コスト削減)、そのための信用状の開設。
芝―田町の新工場ベルトコンベア化のための、最新鋭の機械、キャラメルの伸展機、切断機、乾燥物のデポジター、プリンターなどのカタログの取り寄せ、機種案の提案など、太一郎の思っていることを松崎はどんどん形にしていきました。
更に、消費者にうったえる広告の展開、融資の手配など、経営者同等の視点でその働きをしていました。

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そして、1910年(明治43年)、「株式会社森永商店」として太一郎の夢であり、松崎の3つの条件の内の1つであった「株式会社への組織変更」が実現。同時に、もう1つの条件「人物本位」の採用も積極的に行なうようになりました。
1915年(大正4年)には海外へビスケットを輸出する等、夢が現実となりました。

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その間もその後も、資金を預けていた銀行の預金封鎖や商品の品質問題、工場建設用地買収に関する反対、火事等、様々な困難も、もちろんあったようですが、2人は落ち込むのではなく、災難は神が与える試練と信じ、新しいチャレンジへの布石としたのです。

太一郎が始めた森永西洋菓子製造所は、菓子の製造以外にも、1904(明治37)年に従業員の制服制帽採用、1919(大正8)年には、業界に先駆けて8時間労働制を導入、戦後も、早くから健康保険組合や厚生年金基金の設立を行うなど、職場環境整備の面でも先駆者として歩んでいます。

後に人々は「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」と言ったそうです。
西洋菓子の会社をここまで大きく、現代も愛される会社を育てたこの2人は、常に主を真ん中に、お互いに尊敬しあい、夫々が与えられた賜物をもちいた、主にある1つの家族だったのだと思います。
商標にエンジェルを使うほど主を愛し、人々にイエス様を伝えようとした信仰の先輩に続く者でありたいと思います。

(KS)


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2016.10.12 01:04 | 信仰者シリーズ
おそらく、多くの方々が一度は食べたことがあるであろう、ミルクキャラメルとエンゼルマークでお馴染みの森永製菓。誕生は1899年(明治32年)、100年以上も前になります。
この森永製菓の創業者である、森永太一郎とその発展に努めた松崎半三郎と言う2人のクリスチャンについて、2回に分けてご紹介したいと思います。

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現・森永製菓の創業者である森永太一郎は、1865年、佐賀県の伊万里で一番栄えた陶器問屋で、伊万里湾の漁業権をも握る網元の家に生まれました。
しかし父の代に家勢も衰え、太一郎が6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚、太一郎は親類の家を転々とする幼少時代を過ごしたそうです。
11歳で叔父の山崎門左衛門が営む陶器問屋で仕事を手伝い始め、19歳頃で関東の陶器問屋で働き商いを学んだ一太郎は、アメリカでの陶器販売を夢見て1888年23歳の時に渡米しました。
 
しかし、陶器販売がうまくいかなかった為、借金を抱え深い挫折感と鬱積した思いで自殺をしようかと考えながら公園のベンチに座っていました。そこへ、太一郎の横に腰かけた一人の老婦人がいました。その婦人は、一粒のキャンディ(キャラメル)を取り出すと、太一郎に差出したのです。初めて食べたそのキャンディ(キャラメル)の味は、何と自殺をも忘れさせるほど美味しかったのです!太一郎は、「西洋菓子職人になりたい!」という思いが湧き上がりました。
しかし、菓子工場の仕事を探しましたが、人種差別の強い時代だったこともあり、望む仕事は与えられなかったそうです。

そんなときに家事手伝いの仕事をするため、ある家に訪れました。なんと、その家の婦人が太一郎にキャンディを渡したブルーニング夫人だったそうです。熱心なクリスチャンのブルーニング夫妻の愛に触れ、様々な葛藤の後、26歳で洗礼を受けキリスト教徒となったそうです。

その直後、1890年に一度日本へ帰国し、故郷の伊万里で福音伝道を試みたのですが、親戚に「一生涯勘当する、国賊同然の者になったからには日本に帰ってはならぬ」と言われるほどの扱いをうけたそうです。

日本に3か月滞在した後、再度 西洋菓子製法の習得を目指して渡米し、アラメダのジョンソン・ホームベーカリーを経て31歳になった1895年、オークランドのキャンディ工場&キャンディストア「ブルーニング社」へ入社することができました。
ここでも多くの人種差別と苦難に会いながらも様々な西洋菓子の製法を身に着け、1899年、日本で西洋菓子を普及させるべく帰国しまた。

「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む。自分も2坪ほどの小さな家で菓子を作り、そこで寝泊りをして商売を始めた」、とのブルーニング社の夫妻からの助言と共に帰国し、東京赤坂溜池に作業所兼店舗として2坪の場所を得、森永西洋菓子製造所(現・森永製菓)を創業しました。

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行商の為のリヤカーには「キリスト・イエス、罪びとを救わんために世にきたりたまえり(第一テモテ1章15節)」「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ(箴言14章34節)」の御言葉を書いた看板を掲げていました。

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町の人は「ヤソのお菓子屋さん」と呼ぶようになったそうです。当初は、事業も順中満帆ではなく、「日本人の口に合わない」等と色々言われたようですが、「遅かれ早かれ必ず自分の洋菓子が日本人から歓迎される時が来る!」と言う信念は揺らがなかったそうです。

帰国1年半頃から宮内省御用達になったり、お屋敷に住むご婦人たちに好まれ始め森永西洋菓子の名前もキャラメルも世の中に受け入れられるようになり、営業方針や製品に対する態度などが信頼されるなど、開業3年目には、森永西洋菓子の名前は広く知れ渡ったようです。
商売の成功と同時に、信仰は一時停滞した時があったようですが、奥様の死を契機に川のほとりで泣きながら再献身を誓ったそうです。

その後、1923年9月1日。関東大震災が発生し、首都圏は破滅的状況に陥りました。森永製菓の被害は軽微で、千数百人の従業員は全員無事との連絡が入ったため、太一郎は「当社は、全力で被災者を救済する」と通達を出し、手持ちのビスケット、コンデンスミルク等を被害者に寄付したそうです。
集められた従業員は、ビスケットとキャンディの袋詰め6万個を作り、ミルクキャラメル10万箱をトラック8台に積んで、被害者に配ったり、工場前では、コンデンスミルクを井戸水で溶かして通行人に配ったそうです。
更に、新聞に「乳飲み子または病人でお困りの方へ 森永ミルクをさしあげますから、ご遠慮なくおいいでください」と掲載するなど全力で救済にあたりました。反対した幹部たちには「これは神様とお客様へのお返しだ」と告げ、配り続けたそうです。
また9月3日には、「5万円を寄付しますので、その分だけ政府のコメを出してください。私たちの方で被災者に配りますので」と申し入れ、承諾を得た後、被災者に配ったそうです。

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それから約14年後、70歳の古稀を迎えた太一郎は「神の僕としての余生を送りたい」と社長を退き、伝道師としての人生の最終章に自ら入り、体調を気遣う人々には「伝道のために倒れるならば本望だ」と72歳の昇天まで全国各地で神の愛を説いたそうです。


アメリカに渡り自殺をも考えた太一郎が、ブルーニング夫妻の「愛」に触れ、イエス様に出会えたことは、アメリカで働かせてもらえなかった時、日本で洋菓子が売れなかった時、関東大震災で商品の配給に際して反対された時、社長を退き伝道師としての人生を歩むと決めた時、目の前にある状況を見るのではなく、主を信頼し、頼り、主を見上げて進んでいたのではないか?と思います。

次回お送りする、松崎半三郎を森永製菓に招く時も、太一郎らしい行動をとっています。
次回は、森永太一郎と松崎半三郎 2人のクリスチャンの主を真ん中に置いた関係をお伝えします。

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「キリスト・イエス、罪びとを救わんために世にきたりたまえり(第一テモテ1章15節)」

(SK)


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2016.10.03 11:07 | 信仰者シリーズ

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